2018年10月01日に初出の投稿

Last modified: 2018-10-01

僕は、そういう記事を書いている人たちはみんな「こういうのは自分の言葉じゃないし、面白くないのは百も承知だけど、Google様が優遇してくれて検索上位に表示され、お金になるからしょうがないよね」と割り切っているのだろうな、と思っていました。

でも、そうじゃなかった。

本人は、それを「いい記事」「自分の記事」だと自画自賛しているのです。

ああ、あれを自分自身では「良記事」だと本気で思っているのか……

「最近のネット検索では、欲しい情報が手に入らなくなっている」理由について

無知な人間というのは先進国でも一定の割合でいるし、その事情と言っても、必ずしも本人がバカだからでもなければ、親がドキュソだからとも限らない。何らかの不幸な脈絡で勘違いしてしまったまま、周りに正してくれる人もいなかったという条件が重なって、「著作権」どころか遵法意識すらまともに育たないまま人の親になる者もいる。そして、もちろんそういう人間に育てられたからといって全員が羽曳野警察署から逃走するような人間に育つわけでもない。(しかし、やはり一定の割合でそういう人間に育つと見做して差別をするのが、社会防衛の知恵というものだったのだろう。そういう差別は不合理であり、不当であり、不平等であり、不誠実だが、凡人にそれを自覚させ反省させて自浄の手段を期待するのは、社会科学の歴史の全体を眺めてみても難しいのが分かる。)

よって、他人が書いて制作したコンテンツを華麗にコピペして「わたしのホームページ」で堂々と公開するようなバカには、たいてい邪気がなく、それゆえ社会科学としての「改善」は難しいのである。なぜなら、悪意がある人間はそれが「悪い」と知っており、そういう意味では自分のやっていることを正しく理解しているのに比べて、悪意のない、無頓着で無邪気な人間の方が、片手の携帯で美少女ゲームでもやりながら反対の手で平気で人殺しをしかねないからだ。無邪気で無知な人間こそ、われわれ哲学者の最大の相手なのである。

しかし、凡人というのは他の生物個体と同じく没価値的で矮小な人生を送っているので、たいていは目くじらたてて敵対するような存在ではない。そして、そういう些細な判断や行動に少しずつ蓄積していった総体こそが愚かな数々の争いや犯罪なのである。したがって、そういう軽微なことがらの蓄積をいちいち見張ったり事細かに軌道修正するなどということは、とりわけ他人に対してできるものではなく、やはり家族が家庭生活でどうにかするのが最も効率のよい対策であり、昔から多くの民族や社会が実行してきた対策なのである。そういう対策がなくても、もちろん自分が置かれた境遇のリスクを感知する子供はいるので、可能な限り親と離れた場面で親の価値観から相対化するサポートも必要だろう。従来の狭い集落では、親の価値観から相対化できても集落の価値観の中に止まるという別の制約もあった。しかし現代は、子供に適切な仕方でネットを利用させることによって、そのような相対化を最大のスケールに拡大できる。

しかし、そうは言っても、メディアリテラシーや情報の活用という目標にとっては、クリアしないといけない課題が山積している。まずメタレベルの議論として、「全てを知ったからといって公正な判断ができるとは限らない」という問題がある。しばしば全知の象徴として宇宙の全ての現象を知っているラプラスの悪魔というモデルを使う人たちがいるけれども、物理的な事実を全て知っていたとしても、物事の良し悪しという価値観が物理的な特性として説明できるという保証は無いのである。この宇宙で起きる全ての現象を知りうるとしても、この宇宙そのものが存在する「べき」だったのかどうかという問いについて、ラプラスの悪魔は(そういう物理的な事実を知っているという前提だけでは)決して答えられないだろう。なぜなら、それについて答えるための基準は物理的な事実の中にはないからだ。これと同じく、ネットを活用して古典的な左翼からネトウヨまで色々なイデオロギーや偏見を知り尽くしたとしても、それだけでは物事の良し悪しを判断するには不十分なのである。(このていどの見識をもたずに社会科学をやっているような大学教員には、真顔で「無能」という烙印を押しても構わない。)

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