ニクラス・ルーマン講演会「エコロジーのコミュニケーション」(抜粋)
First published at MarkupDancing: 2009-12-26 17:33:00 from a lecture given in 1987,
Last modified: 2014-02-04 19:05:00.
20年ほど前に東京で雑誌の編集者をしていたときに、ちょうどニクラス・ルーマンが来日して講演会があった。さきごろテープから起こした記録が見つかったので、可能な範囲で抜粋しておくことにした。
以下の内容は、1987年9月7日(18:30~20:45)に朝日新聞社本社(東京都中央区築地)の「朝日ホール」で行われた講演会の記録テープから起こしたものである。講演はニクラス・ルーマン教授(当時、西ドイツのビーレフェルト大学)、通訳は土方昭教授(当時、高崎経済大学)である。抜粋するにあたっては、正当な範囲の抜粋にとどめたいので、講演の記録から半分ていどを割愛した(割愛していることを表すために、「● ● ●」という区切りを入れている)。また、通訳の記録テープをそのまま文字に起こしているため、無用な繰り返しや紋切型の訳語などを調整していない。ただし、どの言葉を漢字で表すかとか読点の挿入は、私が適宜選択した。当時のテープがどこにあるのか分からないので、ルーマン教授自身の発言から訳語をチェックできていないため、翻訳の正確さについても判断できないので、ご容赦いただきたい。
なお、この講演会はドイツ社会学研究会が主催し、朝日新聞社が後援、日本社会学会と旧制高等学校懇話会が協賛した。
そして、この講演会の元になった Okologische Kommunikation (1986) については、『エコロジーのコミュニケーション―現代社会はエコロジーの危機に対応できるか?』(庄司信/訳, 新泉社, 2007)という翻訳が出ているので、正確な論旨は著作に当たる方がよい。ちなみに『エコロジーの社会理論―現代社会はエコロジーの危機に対応できるか?』(土方昭/訳, 新泉社, 1987)という旧訳があって、ルーマン教授の講演記録に「『エコロジーのコミュニケーション』の日本語訳は既にここに出版されています」という発言があるのだが、それはこの土方教授による旧訳を指している。
エコロジーの問題は、ほぼこの20年前から初めて大きな問題として世間で論議されるようになりました。確かに人間によって引き起こされた環境の被害は、既に農業経済というものがあって、人間が森林を伐採して掘り起こすというような事によって起きていました。そして修復不可能な被害というものは何ら新しい現象ではなかったのです。多くの領域、例えば地中海の周辺の領域においては、こうした仕方によって何千年も前から修復できないかたちで変化が与えられていたのです。この変化はけれども、人間の社会の生活空間およびその生活の可能性というものを本質的に制約するものではなかったのです。この変化を引き起こした者たちにとって、この変化は何ら自覚されることが無かったのです。だから、この変化は、長い間の世代を経て拡張してきたのです。そして、今日の技術において初めてこの問題が、いままで知ることができなかった広がりを持ち始めたのです。
この点に関しては、少なくとも次に述べる三つの点が挙げられます。一番目は、自然の資源というものを掘り尽くしてしまうという事、例えば化石化した燃料の資源。二番目は、環境世界の汚染の問題、三番目として特に地球の上に生きている人間の途方もない人口の増大です。このことの三つの次元を総合してみるならば、まさにそのことは新しい開発の出現であります。したがって、いま生きている人々のあいだに、恐ろしい反作用が予想されるのです。
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まず最初に、このエコロジーのコミュニケーションのテーマとかたちに関する理念の包括をここに差し出さなければなりません。
ここには特に目につくことは三つの状態であります。つまり、問題の激しい揺れ動きというものがマス・メディアの特性によって常に条件づけられているということであります。つまりマス・メディアによって操作されているということであります。そして二番目に、将来に対する終始一貫とした不安ということであります。三番目は、攻撃的なモラルということが根本特徴であります。
特に、その都度その都度、正面に置かれているという問題は、この日々の出来事に従っているのです。そのテーマというものは、特に目立った知見とともに表に現れてくるのであります。例えば、ハリスブルクの災害であるとか、チェルノブイリのカタストロフィーであります。そしてすぐに、また再び消えてしまうのであります。いわゆる反体制側の新聞ですら、続けてチェルノブイリのカタストロフィーというようなものを公告するようなことはないのです。時に森林の汚染であり、また再び小さな食料品添加物を示唆する問題を取り上げているのであります。なぜならば、それは住民を特に不安がらせるからであります。一貫してこの問題性というものは否定的であり、そして批判的である論調であります。今日、食料品添加物の物質がかなり注意深く調剤され、そして50年前よりも遙かに洗練された資材を利用していることを、引き続いては何ら報告しようとしないのです。そして更に、人間が紛い物の食料品で、あるいはタバコを吸うことで死ぬ方が、食料品添加物の影響よりも更に多いというようなことを報告しようともしないのであります。
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未来に対する不安というものには支配的な背後の理由というものがあるということは、確かに他に原因があるのです。現在の世界意識は、伝統的な社会の世界意識とは全く異なって組織されています。一方、以前には人々は全体の関係というものがあるがままの形でもって求まると思い、そして事物の本質というものは常に一定のままである、そしてただ出来事だけが交替するという、そうした考え方から出発してきたのです。丁度それは古典的なヨーロッパの哲学がそうであったようにです。しかし今日、我々はそんなに遠くない時代ですら、全ては全く変えられるであろう、そして法律においての技術的な可能性においても、支配的な政治の方法においても、イデオロギーにおいても、更に技術の繁栄においてもそうであろうというような事を考えているのです。何が変化し、そしていつどのような方法で変化が起こるかというような事は分かりませんし、分からないがゆえに、また人々は学問的な診断を、殆ど星占いを信用することができないように、やはり信用していないがゆえに、未来に関しては不安の感情とおぼつかなさの感情がそこに成立するのです。もちろん、全ての人が実際に将来に対して不安をもっていることはないのですが、しかし大方はもっているのでしょう。だが不安は、コミュニケーションされるならば、この状態が最も説得力のあるものとなるのです。人はそれを理解し、そしてまたそれを否定することはないのです。古い世界の形式、古い社会の諸形式とは異なって、我々は不安をもち、そして不安を示すということに同意できる社会に生きており、はっきりした不安のある世界に生活しているのです。そればかりか、更にモラルを挑発するということが要求されるわけであります。不安がモラルを挑発するということが要求されるのであります。或る人が学生に向かって、「私は将来について何も不安をもってはいないし、新しい技術の問題解決の可能性に期待しています」というようなことを言うならば、その人はよほど愚鈍であり、どうしようもない軽薄な人間であり、あるいは恐らく下らない人間でありましょう。
それにもかかわらず、以上のような立場では、一つの特別に現代的な判断様式というものに固執しているというようなことは極めて珍しいのです。つまり人々は今までとは異なって、そして更によく行うことができるという考えであります。現代的な未来に対して不安をもつということは、私のみるところによると、現代の時間意識の構造と連関しあっているのであります。将来というものが過去とは異なって起こり得るならば、それだけいっそう人々は現在というものに深く関係することを考えるのです。未来が極めて速やかに変わってしまうようならば、<現在>の時間というもののあり方は収縮してしまいます。つまり人々がそこでポイントを切り替えるという、その<現在>の時間帯は、収縮してしまうのであります。そのことについて、既に明日では遅すぎるでしょう。<現在>は短いのです。逆説的な表現で申し訳ありませんが、長い時間帯のパースペクティヴが、短い時間帯の中で要求されているのであります。現在は地球存亡の時であり、だからこそ、こうしたことの全てが批判されるのであります。なぜならば、不安定な未来に関し安全保障を作り出すというようなことの要求には、役に立つものは何もないからであります。そうは言っても、批判というものはそれ自身、何か他のものが可能であり、他のものが作り出されるであろうということを前提とせざるを得ないのであります。例えば、核エネルギーも無く、核廃棄物も無く、気候のエネルギーの変換も無くて、うまくやっていけるというようなことであります。しかし、この前提というものは、進歩を信頼するということとしては役に立たないのです。なぜならば、将来はうまくいき、そして何ら破壊的な否定的な結果が作り出されないというようなことを知っている者は誰もいないからであります。可能であろうというようなことの前提には、ただ批判を可能にする機能があるだけに過ぎないからであります。
不安の中における確実さ、長い期間の中における身近な奇禍、そして人々がすることに対する全ての反対原理が可能であるという、こうしたパラドクス。このパラドクスは開会し、そして私が攻撃的なモラルと呼んだところのことの中に落ち着くでありましょう。私はまずもってモラルということで考えていることは、モラルとは人間の尊敬と、あるいは尊敬しないということを、一定の条件に浮上させるということであります。そこでは何ら哲学的な原理も根本原理も、あるいは最高級なものをも問題にはならないのであります。この全ての定式化はモラルという闘いの道具にすぎないのです。人々は他人を挑発するためにモラルに関係しているのです。人々は前もって誰が反対者であるかということを知っていて、そしてその人間をモラルでもって引きつけるということを試みようとしているのです。人々が核エネルギーの会合に欠席したときに、これからのエネルギーの供給という問題についての問題を提起して、そしてこれからは太陽や風や水が十分であるかどうかという疑いを提起したとするならば、その人間は恐らく、人間存在の最高の価値というようなものを軽蔑した人間であるというふうに攻撃されるでありましょう。
確かに、この自信過剰なレベルには、一つの新しい、殆ど絶望的な人間面に対する追求が生ずるのです。それは倫理委員会の中に設置され、例えば生物科学の技術、あるいは生化学の生産物に対する問題に対して、あるいは技術化された医薬品、あるいは実験に使われる動物というようなことに関する問題であります。確かにアカデミーの世界においては、再び倫理学がいまや問題となっているのです。
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今日のドイツの知的状況において、私は、倫理学というようなものを、問題解決のかたちでは疑っているのであり、またモラルの支援に対しては極めて批判的な者の一人なのであります。つまり、モラルの問題でいつも衝突しようとすることに極めて批判的な者の一人なのであります。私を苛立たせていることは、特に政治的な側面であります。民主主義というものは、反対する意見の代表者を他人が尊敬するということに依存しているのです。しかしモラルの論争が判ぜられるというところでは、こうしたことは起こらないのです。公共の意見のモラルか、そしてこれを更に洗練したかたちでの倫理学というものは、たぶん道徳的な考え方ならびに行動というようなものを尊厳し、またそこにこれを黙認するというようなことを決して許すことはないのであります。このようなかたちでは民主主義というようなものは崩壊し、そして強力なデモンストレーションをはじめながら市民政府の方向をたどり、やがて独裁者の方向へ向かうでありましょう。あるいは目下、考え方でもそう。そのことはモラルも、そして倫理学ですら崩壊し、そして単なる会話のファッションに堕落してしまい、自分の意見を獲得するための、いわゆる目立ったことを強調するという仕方になってしまうでありましょう。
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このテーマに連帯して、私はもちろん社会理論の問題に細かく立ち入ることはできません。しかしながら、それは私の研究対象の問題ではありますが、その社会理論の問題に立ち入ることは出来ませんが、私は昨年、『エコロジーのコミュニケーション』という本を出版しました。その日本語訳は既にここに出版されています。私のこの本の主要なテーゼを表明している全ての理論とその後ろづけを断念する代わりに、私的な、そして政治的なコンテクストに関する二、三の注釈と、この本がドイツでどのように受け取られているかというようなことについて、お話しましょう。
<社会>というものは人間からできているのではなくて、寧ろコミュニケーションから成立するのであります。<社会>は特殊な自己言及的なシステムであって、コミュニケーションによって再生産されるのです。つまり、コミュニケーションがコミュニケーションによって再生産される、そうした自己言及的なシステムなのであります。コミュニケーションは一種の所作であり、それによって社会がその周りの世界、かつそれ自身を観察するのであります。コミュニケーションされないものは、従って、なんら作用を及ぼさないのであります。
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結論として言えることは、この社会においては社会全体を代弁するような権威というようなもの、正統性というようなものを要求するようなものは何もないということであります。そのことによって、また確かに理性というヨーロッパの古い概念は、その意味を失っているのであります。存在するものは、ただ観察を再帰的に観察するという、そうしたネットワークが存在するにすぎないのであります。人々はその興味、関心、先入観、潜在的な構造、そのイデオロギーというようなものを問題にしているのです。理性の統一というようなものは、観察者の差異によってそれ自身を再生産する、「観察を観察する」ということの再帰的なネットワークによって分断されてしまうのであります。
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今まで現代社会というようなものには、なんらそこそこ適当に自己の現実というようなものを考えるということを生み出してくることが無かったのです。現代社会というものは自分自身の社会の現実について、そこそこ適当に考えるということを成功させてこなかったのです。この概念的・理論的可能性というものは、今日に可能なものであります。というのは、私はその場合、さらに一言付け加えるならば、システムとその周囲世界というものをつくっている理論というものを考えるということで、エコロジーの問題の緊急性は、この可能性を利用するのに一つの動機を与えてくれるに違いないのです。
どうもご静聴ありがとうございました。