歩行論

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

Contact: takayuki.kawamoto (at) gmail.com.

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First appeared: 2017-05-24 17:02:09,
Modified: 2018-02-13 09:11:18
Last modified: 2019-01-31 11:12:32.

はじめに

ここでは「歩行論」と名づけたカテゴリーを設けて、歩行に関わる様々なテーマを取り上げます。まず、以下に趣旨を説明しておきます。

多くの人々は、通園や通学を始める頃から、自宅を出て定期的にどこかへ向かうという生活を何十年と送っています。このような習慣や風習は、これまで歴史学、人類学、民俗学、社会学、交通科学などによって研究されてきました。また、ヒトという生き物が歩いたり走る際の生理的な仕組みは、臨床運動学や体育学やリハビリテーション医学や身体運動学といった分野のテーマでもあります。また近年では、ダイエットやトレーニングの方法としてウォーキングが話題になる機会も増えており、歩くという行為に学問上の興味だけでなく、生活スタイルに取り入れたい活動の一つとして価値を認める人も増えていることでしょう。このようなわけで、歩行には多くの人が関心をもつようになりましたが、たいていはトレーニングなり健康増進という目的があり、それ以外の脈絡で関心をもつ方はまだ少ないようです。

例えば、歩行に関する法律の議論は大して多くありません。そして、歩行という行為が道路交通法によって詳しく規定はされていない(そして、それはそれで構いません。法律で歩き方の細部までいちいち決める方がおかしい)ことから、基本的なことまで蔑ろにされているように思われます。その代表例が、「車は左、人は右」という時代錯誤の標語の濫用であり、この標語を、歩道で人が右側通行すべきだという理由に使っている人が一定数でいるようです(車道と区分された「路側帯」である歩道では、右側を歩いても左側を歩いても構いません。そもそもこれは、歩道と車道の区別すらなかった戦後の混乱期に事故を防ぐために考案されただけのアド・ホックなスローガンでしかなく、道路交通法で規定された状況の通路を歩くときを除けば不要です)。恐らく小学校から高等学校までの教育関係者を誤解させる致命的な文書がどこかにあるのか、あるいは道路交通法の第十条を正確に読めない学校教員がそれほど多いのか(それはそれで、教員の識字率や理解力という皮肉なテーマにもなりますが)というテーマになります。このように、法律や法律の運用あるいは実社会で通用する解釈という話題も、歩行や通行というテーマの中で重要な論点になりえます。

そして数年前には、特定の団体が意図的にミスリードして話題づくりをしたと見做されている「江戸しぐさ」においても、「傘かしげ」として対面通行時に傘を外側へ傾けて互いに濡れないように配慮することが日本人の様式美や道徳性の表れだったなどと言われたりしました。もちろん「傘かしげ」そのものは何の証拠もない出鱈目でしかありませんし、このていどのことは江戸だろうと賢島(三重)だろうと天草(長崎)だろうと、その場で相手に気を使う性質の人たちがそれぞれの人柄としてやっていたことにすぎません。江戸という特定の地域で励行されていた証拠などかけらも無く、しょせんは何かの理由で他人に優越したいという子供じみた自意識を補完するために江戸っ子を自称する人々が妄想した作り事でしかないと言えます。思い込みや無知無教養で「伝統」を捏造する人間こそ、(もし「国」という何かがそれほど尊いなら)国の恥であり国賊であります。いずれにせよ、通行について日本人が何らかの気を使っていたりマナーや様式を語る用意があり、多くの人たちが「江戸しぐさ」の話題に呼応できたという社会学的な分析を要する事態があったという事実は、このように馬鹿げた事例からでも分かります。

更にはスマートフォンを眺めながら歩く「歩きスマホ」や、イヤホンで音楽や英会話の教材を聴きながら歩く人たちの危険性や無礼な態度が頻繁に話題となっていますし、実際に歩行中に駅のプラットフォームから転落したり車に跳ねられたり、あるいは歩きスマホを注意した人物と当人との口論が起きるといった事故や事件や諍いが増えているようです*1。更には、ゲームや通話しながら車を運転する人間のクズに被害を負わされたという事例が続々と生じており、もとより車を運転すること自体が刑法では危険行為と見做されていますが、多くのドライバーや自転車に乗っている人々には、(別の場所ではどれほど善良で優しい親や子供であろうと)そういう自覚が欠落しています。そして、これからは自動車や自転車に乗っている人々が本当にそういう人物であろうとなかろうと、自分たちのしていることが歩行者に対して危険な行為であるという自覚に欠けた人物が多いという前提で、道を歩いたり横断歩道を渡らなくてはいけないと言えるでしょう。

*1それから、これは僕が Twitter で指摘したことですが、Pokemon Go のような屋外を移動して楽しむゲームの流行と、戦後からこのかた多くの日本の凡俗、いやインテリにも見受ける個人主義とエゴや放埓との混同によって、ゲームをプレイしている自分の行為が往来での公共マナーに優先して、何か尊い行為であるかのように思い上がった人々が増殖するという効果を生じてしまっています。かような俗物たちは、凡人であるがゆえに何の取り柄もなく、せいぜい安っぽい「愛」やら古いゲームへのノスタルジーに浸るくらいしかやることがないため、プライベートな行為が彼らにとっての最後の拠り所として神聖不可侵な価値をもち、往来でプライベートな行為に没頭しても非難されるいわれはない(「自由!」)とばかりに振舞えることが「民主的」な国家の取り柄なのだと思い込んでいるかのようです。僕はもちろん、このように堅い言葉で冷静かつ中立にものごとを解釈しているかのようでいて、実は皮肉を尽くした文章表現で人々を冷笑するていどのことはいくらでもやっていますが、彼らの愚かさを即座に否定して、これまた凡人がよく口にするお手軽な保守反動の感想を述べるつもりはありません。このような人たちが一定数でいることは、社会においてはありふれた現象と見做してシステム構築や理論化の前提としておくべきです。

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歩行論に関わる分野と話題

当サイトで提唱する歩行論には、多くの研究分野や話題(専門の研究分野にまで昇華されていない段階のテーマ群)が関わっています。既存の研究分野で近いものは、歩行という動作に関わる運動生理学、往来を歩行する際のルールに関わる刑事法学(道路交通法は特別刑法の一つです)、そして法律以外のルールや節度に関わる倫理学、社会学、民俗学、社会心理学です。こうした研究分野の中に、それぞれ歩行と関連のある研究成果が出ているわけですが、それらが体系的に「歩行」という観点からまとめられているとは思えないのが残念です。また、行政に関わる多くの機関や団体のサイトでは、いわゆる「交通安全」という概念で歩行が取り上げられており、たとえば WHO のサイトには “United Nations Road Safety Collaboration” として特別のコンテンツが用意されています(日本は多額の拠出金を国連に出しているはずですが、どうしてドキュメントを日本語に翻訳してくれないんでしょうかね)。他にも、アメリカでは “Pedestrian Safety” のコンテンツが用意されていますし、日本でも藤沢市のように歩行者への啓発を続けている自治体があったり、Honda のような企業が交通安全を啓発している事例もありますが、車と歩行者という構図での安全性に偏っている印象が強く、歩行者どうしの関わりだとか、自分がどういう道を歩くべきなのかを判断するといった、生活の指針を考えるために参考となるような文書は非常に少ないと言えます。

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歩行・徒歩の思想について

ここらあたりの人間は歩く者を嫌う。彼らは歩いている人間を頭がおかしいと思う。

ブルース・チャトウィン『パタゴニア』(芹沢真理子/訳, 河出文庫, 2017), p.153.

以上のように、当サイトの趣旨としては歩行するときのサバイバルという観点が強いため、このセクションに分類されているウェブページの多くは、ここ数年のあいだに公刊されたロバート・ムーアの『トレイルズ』(岩崎晋也/訳、エイアンドエフ)やレベッカ・ソルニットの『ウォークス』(東辻賢治郎、左右社)のような、文学や思想として議論するようなアプローチとは趣が違います。もちろん、その手の議論を無視したいわけではなく、また無視する必然性もありません。したがって、趣旨の異なる文章が混在する可能性もありますが、「歩く」ということにまつわる多様な観点を考慮しているという事情により、ご了承ください。

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