Scribble at 2024-04-25 17:23:35 Last modified: 2024-04-25 17:45:27

堀米庸三は、その著『西洋中世世界の崩壊』をシャルル・ダンジューの「両シチリア王国」支配の話のあたりから書き起こしているが、シャルルを「最後の中世人」といいたげで、敵手のアラゴン王ペドロ三世についてもそうで、それはよいのだが、他方また、アラゴンのような「個別国家が、すでに中世的限界をこえて、じしんのレーゾン・デートルを意識するようになっていた」こともいいたげで、だからか、どこか口調があいまいになる。わたしがいうのは、「ボルドーでのペドロとの決闘という中世的フェーデの奇妙な一幕を演じ」と書く。「奇妙な」と書くとき、堀米は、フリートリヒ二世を「中世における最初の近代君主」と批評したブルクハルトに身をすりよせている。(p.4f.)

堀越孝一/編『新書ヨーロッパ史 中世篇』(講談社現代新書、2003)

いま、というかこれまでに何度か、堀越孝一氏の著作あるいは彼が編纂した『新書ヨーロッパ史 中世篇』(講談社現代新書、2003)を読もうとしては途中で止めるという失態を繰り返している。薄い新書ですら、読み始めると非常に疲れるからだ。

一つの理由として、文体に違和感を覚える。彼の著作を読んでいるなら、ご存知の方も多いとは思うが、堀越孝一氏の文章は、です・ます調とだ・である調が混在している。それにもかかわらず奇妙なユーモアを感じることが多い。しかしながら、読み辛いという事実は変わらないので、文体の変わる箇所が要点なのかどうか混乱させられることがある。

そして二つめに、ややスノッブ的な記述が多い。上記の新書(一般向けの本である)の序文にすら、上に引用したような文章が平然と書かれているのだ。このような文章を序文で述べることが、中世ヨーロッパの入門書(中世ヨーロパについて分からないから、こういう本を読むわけだが)を読もうとする人々にとって、どういう効果があるのか、僕にはまったく理解不能である。おそらく、この一節を何の注釈もなしに理解できる人は、そもそもこの本を読む必要がないくらい中世史の素養があると言えるだろう。そういう文章を冒頭に述べるのは、敢えて読者を選ぶような効果を狙っているのか(「分からないが面白そうだ」と思えるチャレンジ精神を持っていない者は読まなくてもよい!)、それとも敢えて業界人やプロパーにだけわかればいいような暗号として書かれているのかもしれないが、どちらにしても僕の考えでは不適切な文章だと思う。

そして、この人はこういう文章が多いので、果たして調べながら読ませようという教育的な配慮というやつなのか、あるいは本当にスノッブ的な文章であるという自覚がない、考えようによっては発達障害なのかと思わせるような違和感が常に残るので、どうしても読んでいるうちに読む意義を感じられなくなってくるのだ。しかし、それでも何か読んだ方がいいような気がして、いつも読み返そうとするという、なんだかギャンブル依存症の患者みたいなことになっている。

ついでに書いておくと、かようなスノッブ的な文章が不適切である理由は、初学者には手持ちの情報だけで内容の是非を判断できないからだ。ここで言う「手持ちの情報」には、もちろんその本に書かれている内容も含まれる。したがって、冒頭に書かれると、それまでに書かれて読んでいる文章というものが形式上は(なんと言っても「序」文なのだから)存在しないので、その内容の是非を読者は論理的にしか判断しようがない。これは、初学者であれば不可能な相談である。そして、そういう文章は、たいていにおいて著者の自説なり独自の解釈を元にして書かれている散文なのであるから、その内容の是非を判断するために必要な他の情報が高度に専門的な研究成果であることも多く、あまりにも負担が大きすぎるし、残念ながら学術的な観点で言えば是非を判断しかねる個人的な感想にすぎないか、端的に言って些事であることも多いのである。

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