他ならぬ凡人である僕の読書方針について

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

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First appeared: 2013-04-05 22:40,
Modified: 2013-04-05 22:40, 2015-04-17 15.26, 2017-03-25 13:09:02, 2017-05-15 10:19:25, 2017-10-17 09:16:46, 2018-01-24 22:02:01, 2018-05-14 11:42:45, 2018-07-15 23:17:34, 2018-09-14 17:07:31, 2018-10-31 12:32:49, 2018-12-09 16:28:07, 2019-03-05 11:41:25, 2020-05-02 10:35:16,2020-09-12 00:47:25,
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I

世の中には「読書論」と呼ばれる論説が数多くあります。僕がここで紹介する方針や基準は、恐らく独自のものでもなければ特別の努力や才能や莫大な金銭を必要とするわけでもないと思うので、多くの人が既に感じたり考えていることと何も変わりないかもしれません。寧ろ、そういうものであるべきだとも考えているので、「凡人である」僕の方針とは、すなわち誰でも考えて実行しているていどのことだろうという意味にもなります。但し、ここで紹介したり言及する方針や基準が言語表現や概念として平凡だったり簡潔だからといって、それらを誰でも現に実行できる(または実行し続けられる)とは限りません。世にあふれている経営書や自己啓発本や情報商材詐欺のテキストにも言えるように、言語表現あるいはそれが意味している内容は簡単でも、現に実行するのが難しいからこそ、胴元や発案者や著者やコンサルはその責任を逃れられるわけです。したがって、方針や実務的な手順を幾つかご紹介しますが、それらの中には読者にとって言うは易く行なうは難しというものがあるかもしれません。但し、僕自身が出来ていないことをベキ論あるいは理想として語ることは差し控えていますので、自分がこうして方針に従っていると具体的にご紹介するように心がけて解説したいと思います。

まず、本稿では物体として一つのまとまりである「著作物」を対象にします。したがって、「読書」という言葉は使っていますが、ここでは書物だけでなく、雑誌に掲載される論文も含めています。論文と本とでは分量が違うので同列に扱えないと思うかもしれませんが、本は「言いたいこと」を正当化したり経緯や根拠を説明するのに、それだけの分量を要しているだけだと考えます。したがって、「たったこれだけを主張するために本を書いたのか」という結果もあれば、「これだけのことを主張するのに論文ていどの議論しかできないとは」という逆の結果もあるでしょう。こういう単純な方針を採っている理由は、まず僕が大して記憶力のない人間であるということです。もちろんノートを録ったり専用の読書カードを作ったりもしましたが、自分の考えをかたちづくるための素材になるのは強く留めている記憶です。何か議論するたびにメモ帳をめくっているようではいけません。何か一つのまとまった著作物を読んで主張していることを受け取るというだけなら、本であれ論文であれ、記憶すること(あるいは僕の能力から言って記憶できること)は、せいぜい一つにしておく方がよいと思っています。大部の本だからといってポイントが幾つもある筈だと想定してしまうと(それを否定する理由はもちろんありませんが)、内容を記憶しなくてはならなくなるようなストレスを感じるかもしれません。しかし、それは逆に大部の本であれば幾つも記憶にとどめる「価値のある内容」がある筈だという、これも肯定する理由のない先入観を強化してしまうことになります。

対して、論文であれ本であれ、何か主張したいことがあって書かれているのですから、そこには著者の言いたいことが最低でも一つはあると考える方針は、単純であることに加えて、著作物にポイントが複数あったとしても、少なくともその一つは受け取る用意があるという意味で間違いを避けられます。大部の本について、三つあるポイントの一つしか理解しなかったり記憶に留めなかったとしても、それが最も重要なポイントであればなおさら、少なくともポイントの一つは勉強になっているわけですから、それ以上のポイントがあるかのように想定しても、あるのかないのか分からないものを何度も繰り返して読んだり考えたりするというのは、自分が生涯を賭して読解に取り組んでもよいと思える著作や古典であればともかく、殆どの著作物については不要の方針だと思いますし、そんなことを自分が読んでゆく個々の著作物について気にする必要はないと思います。寧ろ、そんな心配をするくらいなら、最大のポイントが何であるかを正確に読み取るためにはどうすればいいかを考える方が有益ではないでしょうか。最大のポイントが、評価という段階において最後は否定されてしまうような主張であろうと構いません。そもそも、最終的に自分が肯定すべき議論だけを最初から読んだり学ぶようなプロセスを、学問の研究において誰が誰に要求できるというのでしょうか。そういう都合のよい手順が最初から決まっていて、誰かが教えてくれるとか、どこかの本に書いてあるとか、要するに何らかの方法で自分にとって無駄のない研究プロセスを保証してくれる道筋を知りうるような学問は、どこにも存在しません。誰であれ、多かれ少なかれ愚かな本や論文を読まされる回り道をしながら学んだり研究するものです。

論文であれ、本であれ、著者が訴えようとしている議論を一つだけ拾い上げるという作業には、時間がかかります。少なくとも僕は、自称速読家のように1冊の新書を数十秒で読む人間ではありませんし(何度か表明したように、僕は速読というのは単なるザッピングだと思っています)、サヴァン症候群のような能力をもつ人々のように書かれている字面を全て記憶に留めるような人間でもありません。恐らく1冊の新書を読むのに、僕は4時間ていどの時間を要すると思います。いま社会人として働きながら勉強している状況では、昼休みに30分くらいずつ新書を読み進めているので、せいぜい新書を1週間に一冊くらいしか読めません(帰宅したら他の勉強をしたり、こうして文章を書いたりしているので、一日のうちで寝たり働いたり小便している時間の他に読書しかしていないなどという生活をしているわけではありません)。これでは、1週間に一つの議論を記憶に留めることしかできないので、効率は非常に悪いと言えます。学生時代は、アルバイトもしていましたが、もっと勉強に集中できる時間はあったので、読書の速さは大して変わらないにしても、一日に新書を二冊読むといったこともありました。したがって、いま限られた時間(残りの人生という意味でも)の中で効率よく学んでゆくためには、色々なことをここで書いているように割り切る必要があります。もちろん知的研鑽なるものは割り切りよりも一種の「こだわり」を必要としますが、方針を改善するなり洗練すれば切り詰められるはずのことがらにこだわり続けて悲哀を装うのは学術的な態度とは言えず、単なる自意識やセンチメンタリズムというものでしょう。

上記で述べた内容は学生時代からの方針ですが、学生時代であれば「こんなものは読まなければよかった」という読書でも構いませんでした。しかし、そのような読書による時間の浪費は、オッサンになると耐え難く感じられるようになります(笑)。そのために、自分が大学で学んだという経験を活用しなくてはなりません。最も有効に活用できる経験は、自分が抱えている当該の研究プログラムや思索のテーマにとって、或る文献を優先して読むべきものかどうか、あるいはまともな著作であるかどうかを(独断であるにせよ、少なくとも)選り分けるということです。僕は大学では(科学)哲学を専攻しましたので、次に科学哲学という特定の分野を想定して、次に読むべき本を選別するとか仕分けるための基準についてご紹介します。

そのような選別には誤りもあるでしょう。例えばマイケル・ポラニーの著作は、現代思想やポストモダン思想あるいはニューアカデミズムなどと言われた思潮に関心を持つ人(かつて僕も栗本慎一郎の著作を熱心に読んでいたので、その一人でした)、あるいはアメリカでも一部の研究者に読まれていましたが、はっきり言って分析哲学・科学哲学のメインストリームに位置する研究者たちからは黙殺されていました。現在でも、ロイ・バスカーなどと共に、そうした「傍流」の人々の著作は、科学哲学において一種の気晴らしとして読まれているにすぎません。多くのプロパーによる現状の評価や読書傾向が誤りであるかどうかは、個々の研究者の判断の当否を誰がいつ判定するのかにも依存するでしょうから、確たることは誰にも分からないでしょう(なぜ、そういう判定に個人的で歴史的な制約があるのかは、いまこの時点でポラニーやバスカーの著作が分析哲学・科学哲学のメインストリームにおいて「刺激的で面白い読み物」ていどの扱いしか受けていないという現状、そしてそういう現状が大勢として正しいかどうかを疑えるという事実によって説明できます)。

もちろん、僕はポラニーやバスカーの著作が(分析哲学や科学哲学の著作がもつスタイルから外れているという違和感を覚えるにすぎないので)まともな成果でありうると思っていますが、しかし科学哲学の研究において他を差し置いても丹念に検討すべきであるとまでは思っていません。つまり、僕も彼らの著作はせいぜい「メインストリームから外れた面白い読み物」だと見做しています。また、科学哲学だけに限った話ではありませんが、東欧やロシアやアフリカのマイナーな思想家の著作を掘り出してきて代弁者を気取ったり、たかだか大学院で数年ほど有名哲学者本人の授業を受けたていどのことで優先的に翻訳する資格があるかのようにふるまうような人々などというものは、せいぜい大阪の裏路地を歩きまわって「ディープな大阪」を発見したとわめいている、三流ジャーナリストや左翼の社会学者みたいなものでしょう。非常に粗雑な基準かもしれませんが、僕にはかつて分析哲学や科学哲学を学んだという経験から、「どれがまともな著作なのか」という嗅覚のようなものが備わったはずだと仮定しています。よって、書店で哲学の書棚に「超訳」とか「野生の科学」とか「フクシマ」とか「禅と誰それ」とか「わかりやすい」とか「完全読解」などという文言があれば、その手の本をわざわざ時間とお金を割いて読む必要はないと断定してよいという方針を採ります。繰り返しますが、そのような断定が「間違っているかどうか」などというのは、実は哲学的にはどうでもよいことです。そういう断定をしようとしまいと、その末に自分で納得のゆく成果を出してみて、学会誌に投稿するなりブログ記事として掲載するなりして世に問えばいいわけです。現状の知見では十分に納得できず、或る人物の著作を参照すればよい着想を得るのではないかという見通しを立てられたら、その後で当該の人物の著作を読めばよいでしょう。最初から、あらゆる哲学者の著作を読んでいなければ「よい研究」ができないなどと考える人は、一流の万年筆とペンとホテルの部屋がなければ論文を書き始められないと言う無能な物書きと同じであって、どうあっても哲学という思考に打ち込まざるをえないという動機があるとは思えません。そういう自己欺瞞や自尊心だけで読書や研鑽を語る人々に向かって、僕は当サイトで何か参考になる論説を一文字すら書くつもりはないのです。僕は通俗書の著者でもないし、そういう雑文を書いて愛する家族と人生を過ごすつもりもありません。よって、そんな人々が何を悩んでいようと知ったことではなく、好きに悩んで後悔してくださいとしか言いようがありません。

[2018-05-13に改訂]

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II (2017-05-15)

ここから以降は追記していくたびに節を分けることとします。

[...] to finish what is on our plates before we get up for more. Make sure you master what you have before moving on.

Charles Chu, “The Collector’s Fallacy: Why We Gather Things We Don’t Need

僕も積読する傾向にありますし、ブラウザの Firefox で使うアドオンの Scrapbook(現在は Danny Lin さんがソースコードを引き継いで Scrapbook X として公開しています)にウェブページや PDF を毎日のように記録しています。250 GB の HDD へデータが入らなくなってきたので、今年(2017)からは Blu-ray ディスク(50 GB)へカテゴリーごとに書き出しているのですが、過去のページや PDF を検索して読み直す機会は、確かに滅多になく、一つずつページやファイルを処理していっても同じことかもしれません。したがって、読書にも言えると思いますが、あれこれと買い求めても目を通さなければ十分に活用しているとは言えませんし、せいぜいその本の装丁や目次を眺めた感想を書いて読んだフリができるていどの、つまらない利用価値しかなくなるでしょう。実際、ビジネス書のように通俗的な出版物の多くは、そのように「利用」されたり「処理」されているだけのように思えるので、僕は別のサイトでビジネスや経済にかかわる本格的な書評を書こうと思い立ったわけです。『ブルーオーシャン戦略』を真面目に読んだ人は、どれほどいるのでしょうか。著者が第一章の冒頭で紹介している、世界中で数多くの人々がサービスを楽しんでいる企業を覚えている人は、どれくらいいるのでしょうか(答え:シルク・ドゥ・ソレイユ)。しかし、僕が見受けるところでは、実際には殆どの人が読んでおらず、読んだとしても目を通したというていどのものであって、批判的・分析的に読んですらいないどころか、内容も覚えてもいないと思います。そんなことを何千年と繰り返していても、恐らく人類にとって何の価値もありません。将来において何らかの差が集団規模で生じる可能性はありますが、社会科学的に有意な違いのある結果が出るとは思えず、せいぜい誤差ていどのものだと思えます。

他方で、ウェブページを見つけた時に自分のストレージへ保存することには、それをリソースとして適正に利用するという目的だけではなく、資料として保全するという目的もあります。ウェブページの多くは、個人が公開するものであれ、あるいは企業や行政組織が公開するものであれ、恣意的に書き替えられたリ(もちろん修正にもなりえますが)サーバから削除されます。したがって、URI を学術活動の典拠表記として安定的に使おうとすれば、ISO にもなっている DOI (Digital Object Identifier) を利用するか、国内の図書について採用されている表記や収録サービスを利用するしかないでしょう。しかし、そうしたサービスは主に公的な学術団体をサポートするものなので、アマチュアが書いたウェブページや、プロパーであってもプライベートに書いたブログ記事などは対象外であり、閲覧している個々人が保存しない限りは急に消失すると取り返しがつかなくなります(書いた当人ですら下書きを自分のパソコンに残しているとは限らず、いわゆる「オン書き」のブログ記事はブログ・ホスティング・サービスが機器の障害などでデータを失うと復旧が困難となります)。

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III (2017-10-17)

読書法について」というエントリーを『学者たちを駁して 人文書中心の読書感想文』というブログで見つけたので一読しました。一定の蔵書を抱えていて電子化を採用した方の一例です。

僕も、かつては1999年頃に自分のパソコンを初めて買ったときは、論文や単行本を PDF にスキャンして貯めていけば楽になると思いました。しかし当時は、OCR ソフトの性能、スキャンデバイスの性能、そしてパソコンの記録容量といった全ての点で、蔵書あるいは大学からコピーしてきた論文を電子化するというのは、まず技術的に困難であり、次に大容量の外部記憶装置が高すぎるという経済的な困難があり、そして記録メディアとしての CD-R も実は数年ほど経過すると読めなくなるものが多いというセキュリティ上の困難があって、電子化という措置そのものがハイリスクだという結論になりました。それ以降、どんどんストレージの値段は下がってゆき、記録メディアの保存性能も上がってきて(ありていに言えば、僕が生きているあいだだけ読み取れたらよく、何百年ももつ必要はないです)、更に OCR の性能も向上してきています。したがって、上記のエントリーのように、本を買ってきたら即座に裁断して「自炊」してしまうのは、書物の物質としての効用を無視すれば、非常に合理的で効率の良いやり方だと言えます。この点は、電子化に取り組んでいない僕も認めたいところです。

ただし電子化には電子化したなりの新しいリスクというものがあります。情報を集積し過ぎることにより、Blu-ray 一枚に何千冊ものデータが貯め込める一方で、その一枚を何らかの原因で破損すれば何千冊ものデータをいっぺんに失うこととなります。従って、このようなデータは物理的に確実なコピー(複製そのものに失敗する可能性もある)を幾つか作成して、或る人は遠方の実家へ帰省したときにわざとメディア保管用のケースごと預かってもらったりするようです。更に、最近ではクラウド・ストレージ・サービスを利用して、データをそのまま複数のサービスへアップロードする人も多いと思います。

他のリスクとして、電子化した書籍や論文のデータはあくまでもデータに過ぎないので、それを「読む」ためには一定の規格なりソフトウェアに依存しなくてはなりません。書籍をスキャンしたときに、電子化を目的とする方の多くは JPEG ファイルとして画像にするよりも、テキストを検索できるように PDF などの文書フォーマットを選ぶと思いますが、PDF という規格が永続する保証はありませんし、PDF を読み書きできるソフトウェアや、そういうソフトウェアが動作するための OS やパソコンの規格など、データを「読む」文書として扱うためだけであろうと多くの依存関係を維持しなくてはならず、そしてその依存関係はだいたいにおいて僕たち一般ユーザがどうにもならない事情で簡単に他のものへ替わったり、ときには簡単に提供や開発が中止されたりします。いちおう、同じ規格のバージョンアップであれば、かなりの年数に渡って後方互換性というものは保証されることが多いですし、異なる規格に流行や業界の力関係が移っても、コンバータや読み取りだけに対応したツールなどを開発し続ける奇特な方がいたりします。ただ、自分自身が最後の最後はそういう「奇特な方」になれると自信がある人などそうはいないでしょうから、電子化したデータがどれくらい利用し続けられるのかという心配はあります。

それから本稿は読書の方針について書いているので、電子化した書籍を読む場合のリスクについて追加すると、上記のブログ記事でも述べられているように、電子化したデータを表示するソフトウェアが「しおり機能」や「マーカー機能」をもつことはよくありますが、場合によっては正しく動かないこともありますし、アップデートに時間がかかることもあれば、データが何らかの原因で失われることもあります。そして、そもそもそのソフトウェアの開発が終わってしまうこともあります。ネットワークとは独立に、インストールしたマシンだけで使うなら、使えている限りは特にアップデートしなくてもいいかもしれませんし、ソフトウェアの開発が終了しても動くうちは使えます。しかし、それも物理的なデバイスが動き続ければという別の条件があってのことです。

というわけで、紙の書籍は確かに何冊も持ち歩けないですし、検索も遅くて時間がかかります。いちどマーカーを引くと(最近は擦ると消えるものもありますが、あれは見えなくしているだけであって、条件が揃えば再び色が出てきます)訂正して消すことはできません。しかし、データや本を中心にして物事を考えるのではなく、学術研究に従事する者としてどう行動するのが合理的であり、また学術としても正当であるかという本旨から考えれば、毎日のように大量の本を読まされるアメリカの大学院生ですら、せいぜい一日に読めるのは数冊でしょう。しかも、そのような読書は、どちらかと言えば僕が常々「情報処理」と揶揄している詰め込み記憶にすぎず、法学部の学生や医学部の学生のように、判例や部位の学名を記憶すること自体に価値がある勉強ならともかく、量子物理や哲学のように記憶量がものをいうわけでもない分野では、パソコンに 50,000 冊ぶんのデータが入っていると言っても、それを仮に全て暗記しているのではないかと思えるような人ですら、物理学者・哲学者として凡庸であるどころか、そのような記憶に頼った概念操作が学問だと誤解しているという点で有害と言い得る場合もあります。

そして効率という点についても、上記の記事ではブックマークのデータを一覧にして、

といった箇条書きから「読書体験のさらなる質的向上に役立てよう」という趣旨が紹介されているのですが、果たしてこのような、『超訳ニーチェ』のような断片集どころか片言隻句の羅列で何が向上するのかはよく分かりません。寧ろ、このような片言隻句を結びつけるための「なぜこれらの語句が重要なのか」という最も重要な知見と言うべきものは、この「シャンピン」さんという人物にこそあるのであって、それがこのような語句の羅列に反映されているとしても、「記録」しているとまでは言えません。なぜなら、この片言隻句の羅列でこの人物が思い描いているストーリーなり論点なり脈絡が他人に正確に伝達できるとは到底思えないからです。他人に伝達できないということは、簡単に言えば数年後の自分自身にも伝達できない(つまり思い出せなくなる)という可能性があるので、このようなメモのようなものは即座に何らかの内容を(もちろん言語の本質から言って完全に他人へ伝えることは不可能かもしれないとは言え)伝達する意図をもった文章にまとめてしまう方が適切だと思います。このように、僕は自宅の蔵書を電子化しているわけではありませんし、その予定もありませんが、それは「手で覚え、肉体化され」ることで得られるといったセンチメンタルな何かを重視して技術アレルギーのようなものを言いたいがためではありません。

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IV (2018-01-24)

書店でビジネス書を並べた棚には、よく『論語』とか孫子の兵法など中国の古典に関する通俗書が置かれています。アマゾンで『論語』を扱った本を検索すれば、それこそ基本的な注釈書からマンガに至るまで膨大な数の本が出ていると分かるでしょう。こうした古典に学んで、自分としてはどう考えたらよいのでしょうか。特に何か切実な課題や悩みがなくとも、教養を身につけたいとか古典の読解に挑戦したいという目的や動機で『論語』や『孟子』を手にする人は、学者に限らず市井にも数多くいます。そして、僕もその一人です。しかし専門の研究者でもない限り、『論語』を一読して自分なりに理解したうえで何らかの見識をもつ無駄のない手続きとして、どういう方法が望ましいのかと悩む人もいることでしょう。もちろん古典というものは「読書百遍」などと言われるように、読むたびに何かを新しく発見したり理解が進むことも変わることもあります。そして、それは実のところ古典に限らず全ての著作物にも(会社で読む上司や部下の馬鹿げた報告書ですら)当てはまることなのですが、3,000円のブルーレイ記録メディアを購入する稟議書を百回も読み返すほど我々は暇ではありませんし、趣味でもない限りは『論語』を百回も読み返すという人はいないでしょう。それゆえ、一定の手続きに従って条件を満たしたら次へ進みたいと思うのが人情というものです。もちろん、雑に読み飛ばせなどと言いたいわけではないのです。ごく普通の人々が古典に触れる意義というものは、一節一句をそらんじて他人に自慢するためでもなければ、それ一冊に拘って一生を費やすためでもありません(結果としてそうなっても別に構わないとは思うが)。よって、かつて呉智英さんが「技術」と呼んだように、一定の手続きや条件を設定して黙々と必要な作業を遂行するということも必要だと思うのです。そして、その際に弁えておくべきなのは、予め分かる範囲で本を買ったり読む方針を立てた後は、無駄な読書をしないということです。

まず、研究者の読解と共に数々の種類が出版されている(ここでは海外または明治以前の)古典だけに着目してみましょう。『古事記』でもいいですし、『論理哲学論考』でもいいでしょう。少なくとも五つ以上の異なる注釈者や翻訳者によって異なる版が存在している古典については、その増刷回数を確認することから始めるとよい筈です。もちろん学術的な妥当性と相関しているとは限りませんが、学界であまりにも評価が低い注釈や翻訳は、やはり教員がテキストとして採用しないので売れないと言って良いわけです。そうして、おおよそ初版が出てから40年以上は売れ続けているものがあれば、まずそれを1冊だけ買いましょう。40年くらいの期間を設定したのは、古典的な著作の注釈や翻訳は、専任講師や助教クラスで全責任を任されたりしないからです。だいたいは古典を扱うに足りる見識があると学界でも許容されるくらいの年齢になってから手がけることが多いため(若いうちは下訳や共訳で古典を手がけることはある)、当人が学内人事や学界での影響力を持たなくなるか死んでしまった後でも売れているなら、それなりに信用してもよいと判断できるでしょう(ちなみに、僕は冗談や皮肉を書いているわけではありません)。そして、そういう一種の「定番」や「基本書」を、四の五の言わずに一読することが大切です。実際のところ、多くの人々は話題の本を買っても読まないことが多いのですから。読んでないよりは、一読でもしている方が圧倒的に有利です。

そして次に、同じ条件を満たす別の本があるなら、図書館で借りるなりして通読することが大切です。そして大多数の場合においては、「何が書いてあるのか分からない」というわけでもないなら、これで十分です。複数の理解や解釈を学んで、おおよそは同じでも人によって捉え方が幾つか違うという事実を知るだけでよいのです。そのどれが正しいかを、しょせんはプロパーでもない素人に決める資格があるわけでもないからです。やれるのは、自分自身の関心に従って、そこから自ら考えていくことだけです。そして、大学教員でもライターや新聞記者でもない大多数の人々は、少なくともそれだけをやればいいはずです。暇なら更に別の注釈や翻訳を読んでもいいでしょうが、恐らくは別のバリエーションを色々と読んでいくよりも、別の古典、つまりは別のものの考え方を学ぶ方が有益だと思います。

したがって、サルでも分かる論語だの、論語に学ぶ経営だのというような、いかにも自己啓発系という風情の本を手にする必要は何もありません。『論語』の注釈書に解説されていることが日本語として分からないという人がいるなら、そういう人が手にするべきなのは『論語』の通俗解説書ではなく国語辞典です。そもそも、古典が述べている内容を「わかりやすく」書いた本というものは、その殆どが古典の全ての章句を扱っておらず、そんなものを読み通したところで、元の古典を全て日本語の文章として理解したことには絶対にならないのです。古典的な業績へと向かい合うに際しては、自分が知らないことは知らないと自覚することが大切であり、日本語として意味が分からない人は、億劫がったり瑣末なプライドは捨てて、謙虚に国語辞典や漢和辞典を手にするべきなのです。すると、アマゾンでどれほど大量に『論語』を扱う本が発売されていようと、実は読むべき本など僅かしかないことが分かります。そして、例えば僕が専攻している科学哲学などでは、そもそも古典的な著作(カルナップの『世界の論理的構築』とか、ダメットの『形而上学の論理的基礎』など)が翻訳すらされていないのであって、読み比べるだの30年ほど reputation が蓄積されるのを待つだのという余裕は最初からありません。そういう状況に比べたら、既に数多くのバリエーションがある古典を読んで何かを考えるという有利な状況にある人であれば、ぜひともその有利な状況を有益に活用してもらいたいものです。クズのような通俗書には一瞥もくれる必要はありません。クズに何か宝が混じっているかもしれないなどと想像しても無意味です。なぜなら、何が宝なのか、そもそも素人には分からないからです。それに比べて、多くの古典が宝であることは、それらが「古典」として評価されているという事実そのものが説明しているのです。

[2018-05-13に改訂]

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V (2018-05-13)

「教養」の姿とかイメージとか典型として、これまで多くの人は百科事典を想像してきたと思いますし、実際にそういう印象によって教養について語られてきたとも言えるでしょう。しかし、ここ数年は「教養」の新しい姿として、新書の乱読や多読による情報の積み上げが宣伝されてきました。読書家が読む雑誌には頻繁に有名人の読書リストや雑談が掲載されては、新書の新しいレーベルも続々と始まり、毎月のように数多くの新書が発売されるようになりました。また、ネットだけで有名な幾人かの人々も新書の新しいレーベルや既存のレーベルを「教養」が現れる場であるかのように宣伝する手助けをしています。

しかし、新書を読むことが「教養」を得ることだというのは全く根拠のない単なる宣伝にすぎません。そして、是々非々の議論として情報収集・吟味・購入・通読・整理・記録・利用といった実務を考えてみると、大多数の新書は吟味する必要もなく、それどころか情報収集する必要もないと言える段階で、無視してしまえます。そのための基準はごく簡単であって、ここ10年くらいのあいだにできた新しい新書のレーベルを、全て無視すればいいだけなのです*。もちろん、このていどのことで教養(そういう概念が現在も適正に成立するとして)を弁えるのに 0.1 % でも何かが欠けるなどということはありえません。しかし、だからといって岩波新書や中公新書のような昔からあるレーベルこそ教養に相応しいなどという短絡的な権威主義は通用しません。最近になってハエのように現れた新書のレーベルを無視することは、ただの第一関門にすぎませんし、このような関門は何かの試練が待ち受けるような難関では全くないのであって、三輪車に乗った幼児でも(それなりの知性があれば)通過できるていどのものです。もちろん、こうした極端な方針は理由もなく採用するものではありません。そして、理由を理解するのは簡単なことです。つまり流行や売れ筋の変化に乗じて作り出されただけの商品は、どういう用途の商品であろうと低品質であるというのが相場だからです。新書の発行点数が倍になったからといって、新書どころか何かを書くに値する重大なテーマが倍に増えることなどありえませんし、いままで半分ていどのテーマが大出版社に無視されてきたなどということもありえません(それはただの子供じみた陰謀論です)。また、発行点数が倍になったからといって、何かを書けるだけの能力がある人が日本で倍になるなどということもありません。寧ろ、日本の物書きというのは(それどころか、出版社の経営者から編集者やデザイナー、取次ぎの営業マン、そして印刷会社の製版・印刷スタッフのスキルまで含めて)時間が経つにつれてどんどん教養も技術も低下しているというのが僕の印象です。

*具体的に言えば、新書と文庫のレーベルでフォローしておけばいいのは、次のとおりと言えるでしょう。

文庫
文春文庫、講談社文庫、角川文庫、講談社学術文庫、中公文庫、中公文庫BIBLO、新潮文庫、ちくま文庫、河出文庫、朝日文庫、ちくま学芸文庫、岩波文庫、岩波現代文庫、光文社古典新訳文庫、ハヤカワ文庫NF
新書
ちくま新書、中公新書、岩波新書、講談社現代新書、PHP新書、講談社ブルーバックス、集英社新書、平凡社新書、文庫クセジュ

さて第二の関門は、オーソドックスな新書のレーベルであろうと、どんな著名人が書いていようと、時事をテーマにしている場合は無視しても構いません。もちろん、個人としてそういう話題が瑣末であるとか無視してよいと言っているわけではなく、そういうことは既にオンラインで十分に見識を蓄えるための情報を集められるし、時事についてはその方が適切であって、1,000 円近くもするような新書をわざわざ買う必要はないのです。仮に、稀勢の里が長期に渡って欠場していることについて書かれた新書とか、トランプ大統領がどうして正式な決定事項を真っ先に Twitter に書くのかを「考察」(たいていは邪推だが)した新書とか、そういうものが集英社新書やちくま新書から出たとして、オンラインの雑多な記事を読むだけではなく新書としてまとめられた著作を読んでまで、いったい何になるのでしょうか。本当にそんな些事について詳しく知ることが、自分自身の生き方やものの考え方、ひいては周りとの人間関係から国家や宇宙について何事かを弁えるために必須だと思いますか? 確かに、或る横綱の長期にわたる休業は日本の相撲部屋の人材マネジメントについて学ぶ点があるかもしれませんし、人体の仕組みについて生理学の観点から興味深い一つの事実が分かるかもしれません。しかし、それはやはり専門家が知ったり学んで、もっと基本的な課題や原則や規則性や構造を考えるための糧にすればいいのであって、われわれ凡人がそれぞれ単独に読んで知ったところで、せいぜい居酒屋で語る薀蓄ていどの利用価値しかないでしょう。

このていどの条件だけで、かなり読むべき新書が限られてくることが分かります。演習として、2018年4月に発売される岩波新書のタイトルを判定してみましょう。

『ルポ 保育格差』は、僕は個人としては関心があるので読みたい一冊ですが、やはり「ルポ」なので、時事の話題に関する個別事例を書いているだけにすぎず、針小棒大の可能性があります。『五日市憲法』は、もちろんそれをネタにして憲法学を展開できる話題ではありますが、やはりただの歴史的な詮索の域を出ない恐れもあり、書店では最低でも目次で中身を確認しないといけません。『EVと自動運転』も技術的な原理や社会政策について「興味深いタイトル」ですが、これも時事の話題を扱った一冊と判断できます(たぶん3年もすれば内容が陳腐化するか現状を正しく説明していない内容となる可能性があります)。

次に、第三の関門として、寝かせてみて読むに値するかどうかを再判定してから買うという基準を採用するよう、お勧めします。既に時事のテーマを扱ったタイトルは除外してあるのですから、いますぐに読まないと話題に乗り遅れるというようなテーマのタイトルは残っていない筈であり、それゆえすぐに読まなくても構いません。よって、発売予定のタイトルから第一、第二の基準で不要と判断したタイトルを落とした後に残ったタイトルを、最低でも六か月は買わずに放置しておきましょう。その間に、色々な事情や自分の関心の強さから、時事とはかかわりなく、自分自身の必要性という理由によって、いま読んでおきたいと思える本から買っていけばいいわけです。そうして六カ月が経過して、それでも読んでおきたいと思える本だけを残します。一例を挙げておきましょう。

以上は、2017年12月に公刊された岩波新書から、2017年12月の時点で僕が第一・第二関門の評価を加えた結果です。『科学者と軍事研究』は、必ずしも時事の話題だけを扱っているわけではないと思いますが、岩波書店から出ているということを考えると、立論も結論も最初から推論できるので読む必要はないと判断しました。そして、半年が経過するあいだに [〇] の評価をしたタイトルの中で、実際に購入したものはありません。もちろん、『トマス・アクィナス』は一読したいとは思いますが、何を措いても真っ先に読むべきものとは(哲学者としても)とても思えない。事実、新書やペーパーバック1冊で古典の解釈や先人の評価が完全に刷新された事例など海外にもありません。よって、知らないことを知るというだけのことであれば、必要に応じて読めばいいだけです。それに、読んでおかないことには哲学するにあたって重大な過ちを犯すかもしれないなどという可能性を想定してみても、それ以前に自分自身の無知無教養ということ(もちろん、僕は可算有限個ではあれ膨大な知識や情報や事実の全てを、しかも正しく知ってはいないという意味で、圧倒的な無知無教養です。更には「事実」が何かの計算結果も含むなら、恐らく僕の無知の範囲は不可算無限である可能性もあり、その場合は原理的に無知無教養だと言わざるを得ません)に照らせば、まぁ大したことでもないと言えます。そして、もう一冊のオーラル・ヒストリーについて書かれた一冊も、個人的に興味深いテーマでもあり、実際にランド研究所のウィリス・ウェアにインタビューした記録を読んでいたときに、このような記録を残す活動があることを知りました。が、そのコンセプトをすぐに知っておく必要があるとは思いません。ということで、どちらもウィッシュリストへ登録することにはなりますが、読むかどうかは僕自身の関心の変化や事情、そしてお金や時間があるかどうかに依存するでしょう。

そして更に、このような判定を経た末に読むべきリストへ残したタイトルについて、少なくとも1年ごとに見直してみるのがよいでしょう。ここで一つだけ着目しておきたいのは、新書でも品切れや絶版というものがあり、自分が個人としてどれほど興味深いと思っていても、他の多くの人がそう思わなければ、初版の第一刷だけで暫く重刷されなくなるタイトルもあるということです。そして、数年ほど経ってから読む必要が出てきたときには、既に品切れの状態になっていて、アマゾンや古書店では倍以上のプレミアがついていることもあります(同じように、後から欲しくなった人たちが買うからでしょう)。しかし、そういう場合でも公共の図書館を利用すれば事足りる場合も多く、手元に残して何度も読みたいというものでもなければ、一読すればいいかもしれません。よって、何年も寝かせることで手に入らなくなるということを心配する必要はないのです(そもそも本は第一義からして読めたらいいのですから、「手に入れる」という目標を優先して設定してものを考えるべきではないでしょう)。

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VI (2018-07-15)

さて購入した本を読むにあたって、何か準備が必要なのでしょうか。しばしば読書術と銘打った指南書の中には、専用のカードやノートを作れだの何のと型を要求する人がいるわけですが(また、昨今だと専用のアプリケーションやデータベースを推奨する人がいるかもしれません)、僕自身の経験や友人らの様子(少なくとも高校時代からの友人二人はどちらも大学院は出ていて、一人は弁護士、もう一人は経済専攻の大学教授をやっています)を見聞きした限りでは、記録を残すのは良いことだと思いますが、専用のノートやカードを用意する必要はありません。たとえば、これは社会学者に任せたいと思いますが、ノベール賞を授けられた学術研究者のうち、専用のカードや原稿用紙を印刷してもらったり、特別なレイアウトで罫線が引いてあるノートを使っていた人なんて数えるほどしかいないと思います(しかも、ノベール賞を受けるまでの間にです。有名人になれば「何とか式ノート」を出そうとする人が出てくるからです)。ここ数年ほど、何でもかんでも方眼紙を使えば効率が良くなるとか「理系」になれるといった、馬鹿げたコンプレックスに訴える姑息なキャンペーンを展開している文房具会社と出版社がいますが、こんなものは無視しても何のリスクも無いと断言できます。

そして、冷静に考えてください。その指南書を書いている人は、ノベール賞を受けた国際水準の学者でしょうか。仮にその著者が灘高や開成高校を出て官僚や外資系企業の役員になった人であろうと、もともと学習効率のよい個体だから成功したのか、そういう note taking をしていたからなのか、note taking が一定の寄与を果たしたなら推定する方法はあるのか。こういった真面目な科学に取り組んでから自らの読書遍歴や読書の方法を語るべきでしょう。それを実証したり論証していない人たちの読書指南は、簡単に言えば全て無視しても全く問題ありません。哲学者として断言しますが、そのようなものは根拠の無いクズなのです。僕が学んだ関西大学や神戸大学の大学院で出会った教員や先輩や同期や後輩らに、そんな特別な文房具を使ったり、その必要を説く人など一人もいませんでした。つまり、僕の経験した範囲だけで言えば、神戸大学の博士課程で博士号を取るのに特別なノートやカードや記録用アプリケーションやデータベースソフトは必要ないのです(そして、恐らく Cambridge や Carnegie Mellon で科学哲学を学んでいる人に聞いても事情は同じだと思います)。

とは言え、記録やメモを取ったり、読んで考えたことを書き留めることには、一定の効用があります。したがって、大きな文房具店なら置いているような B6 判のカードを使ったり、何の変哲も無いノートを読書の記録用に大学生協で買ってくることを否定するつもりは全くありません。僕が、恐らくは何の根拠も無いとして無意味だと言っているのは、何か特別な製造方法やレイアウトのノートやカードを使えばいいというタワゴトです。事例は幾つもありますが、例えば「コーネル式」と呼ばれるレイアウトのノートなどは、僕が小学生の頃に歴史や理科の授業用にゴマブックスから出ていた勉強法の本を参考に作っていたノートと殆どレイアウトが変わりません。その頃に大人の助けを借りて実用新案でも取っていれば、今頃は「河本式」とでも呼ばれたに違いありませんが、たぶん同じような工夫をしている生徒なんて日本中にいたでしょう。それでも、そういう小学生が全てコーネル大学に入れるかと言うと、そうではないのです。また、僕の高校の後輩が商品開発に参加したというナカバヤシさんの「ロジカル・ノート」にしても、6 mm ~ 9 mm 間隔の罫線を更に細く薄い罫線で二分割したり三分割したノートというのは、実は昔から何度か発売されては消えていった経緯があるのです。そして、こういう、一見しただけだと特別なレイアウトに思えるノートは、ノートをとるたびに罫線を引くという手間を厭わずに丁寧に扱うなら、別に専用のノートなんて買わなくても自分で好きな罫線を引けばいいだけのことなのです。これは大抵の「特別なレイアウト」を宣伝しているノートにも言えることですが、やろうと思えば無地のノートに自分で罫線を引けば、どんな特別なレイアウトのノートも自分で作れるわけです。最初に全てのページに罫線を引かなければいけないなら、それは面倒な話ですから買った方がいいと思うのかもしれませんが、誰もそんなことはあなたに要求などしていない筈です。

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VII (2018-07-15)

ここでは特に新書や文庫の扱いについて述べておきます。みなさんは、何か新書を買ってきて、その内容を全て暗記しようと思っているでしょうか。このような問いをみなさんに投げかける理由は、読書術の類で出版されている数多くの指南書や通俗本が陥っている落とし穴とも言うべき思い込みがあるからです。その思い込みとは、読んだ本に書かれてあることを、まるで最初から最後まで記憶することが「正しい読書」であるかのような前提で、本の読み方とか読書の記録について解説することです。こんな思い込みを愚かな物書きから押し付けられる必要など、誰にもありません。たとえ、あの「編集工学」を謳っている自称思想家であっても、サヴァン症候群の患者でもあるまいし、読んだ本を全て記憶しているわけがないでしょう。

ということで、よほどの古典的な業績とされている著作物でもなく、ただの教養の類であれば、読んだ記録やメモを残すにせよ、せいぜいノートに数ページかカードで数枚を使えば十分です。通俗書と言うべき一冊の新書や文庫に拘っているくらいなら、どんどん他の本を読み広げていく方が効果的だと言えます。そもそも、たとえば『日本近代史』と題した新書を端から端まで記憶したとして、その内容が歴史学において正しい保証はありません。また大多数の本というものは、主旨を展開するために必要十分な内容だけを書いているわけでもなく、余分どころか有害な内容を無自覚に書いてしまっている可能性もあるわけです。読み手は書き手の伝えたいことを可能な限り正確に理解したり記録できればよいのであって、それ以上の、はっきり言えば忘れたり必要となれば後からでも調べなおせば済むような些事をいちいち記憶する必要などないのです。

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VIII (2018-10-31)

書店で、あるいは新聞広告などを見て多くの人が悩むのは、「話題の本」を読むべきかどうかです。ビジネス書などで、営業トークのネタになりそうなものであれば、いわば仕事道具の扱いで購入し読むのもよいでしょう。しかし、自分が生きて考えるための参考にするものを読みたいという、もっとプライベートで切実な目的があるなら、話題になっていて多くの人が買って読んでいるからといって、自分が同じように読む必要があるのかどうかは、にわかに判断はつかないと思います。他人との付き合いで共有しておくべき情報が書かれているというなら、その付き合いの重要性に応じて(幾らでも買って読むわけにはいかないでしょう)読めばいいかもしれません。しかし、自分自身の必要に応じて読むべきかどうかを決めるというのであれば、幾つかの基準に従って判断するのが妥当だと言えます。

まず、医療や人体の生理や栄養に関わる本は、手軽な新書だろうと単行本だろうと、3年ていどは買わずに放置した方がいいと言えます。なぜなら、これらの分野は健康とか生死に関わるテーマでもあるため、正しい可能性が1%でもあると口先で言えるなら何でも印刷するのが出版社の生態とか本能と言ってよく、出版社は売れるテーマの本なら何でも出版してしまうからです。そして、だいたいにおいて「何とか健康法」とか「次世代の癌治療」などと謳っている本の 99.99 % くらい(つまり 10,000 タイトルのうち 9,999 タイトル)は、僕らが読んでも判断がつかない非常に疑わしい成果にもとづく針小棒大な本であったり、あるいは端的に言って嘘が書かれている(たいていは統計学の素養がないせいで、データを間違って理解している)場合も多く、そして後から幾らでも言い訳ができる曖昧な言い回しを多用した書き方をしていたりします。もちろん、できるだけ色々な本が出版される社会の方が「良い」とは言えますから、出版社が色々な本を出すことは社会科学的なスケールで一定の効用が認められるにしても、その効用は仕組みについて認められるだけであり、個々の出版物の是非についての正当化とは別なのです(それは、幻冬舎や太田出版といったクズ出版社から出ている数々の本や、些末な出版社から出ている代替医療や占いやヘイト本を見れば分かるでしょう。日本では出版の自由はあるていど認められていますが、現実には大半の出版物が読む価値のない低レベルの学生レポートみたいなものか、端的に言って「クソ」と言えるようなものです)。

そして、実際に書店で山積みとなっていて、よく売れている本を買った方がいいかどうかも気になるところです。たとえば、2018年10月に出版された宮崎哲弥さんの『仏教論争』(ちくま新書)は、書店でも早々に売り切れているようです。特に大阪で放送されている悪質な印象操作番組に著者が出演している事情もあるとは思いますが、それ以外にも本書が扱っている「縁起」というテーマは、ここ数年ほどのブームになっている統計学や因子分析ともかかわりがあるため、或る意味では便乗本としても売れているのでしょう。しかし、そういう事情を抜きにしても興味深いテーマではありますから、仏教や宗教の教義に関心がある方や、「因果」という発想について少しでも興味がある方であれば、一読した方がいいのかどうか悩むところかもしれません*。僕が思うに、こういう場合でも、やはり1年ていどは寝かせた方がいいと思います。そもそも本1冊で天地を引っくり返すような思想の大転換が起きるわけがないのです。そして、そういう本を期待するべきでもありませんし、しょせん読書は読書でしかないと弁えるべきです。どれほど話題になった本であろうと、1年や3年ていどの間に二束三文で投げ売りされるようなものであれば、結局は読まなくてもいい駄本だったということが分かります。大多数の人がそう判断したのであれば従うのが賢明ですし、一部でも学ぶところがあると判断した研究者や個人がいたら、彼らはそれぞれ自分たちの研究や考察に活用するはずなのですから、彼ら自身の成果に学べばいいでしょう。もちろん、そういう他人の成果をいつまで待てば「最終結論が出てくるのか」などと問うことは馬鹿げています。どういう状況かで、自分自身で読むべきものを選ぶというコミットメントは必要です。しかし、少なくとも売れているとか話題になっているという状況は内容の是非を反映するわけではなく、新刊書に飛びつくのは軽薄と言えます。

*ちなみに、こういう場合に、金があれば悩まずに買っておけばいいと言えるのは確かですが、そういうアドバイスは実際のところ「何を読むべきか」についての判断を先送りにしているだけであり、積読の状態になった家の中で当人が再び悩むことになるだけです。しかし、先に買っておいてから判断する方が良い結果をもたらす可能性があることは既に述べてきましたし、そもそも手元になければ読むべきだと思っても手に入らなくなっている可能性があります。したがって、もしお金に余裕があれば買っておいてもよいでしょう。しかし、「買っておいてもよい」からといって「買うべき」だとは言えません。人は読書のためだけに働いてお金を稼ぐわけではないからです。

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IX (2018-12-09)

上記で述べた話に関連して、僕は一定の条件(明解に表現できるわけではないが)により、特定の出版社の本や雑誌は無視するようにしている。前節で言えば幻冬舎や太田出版といった出版社だ。もちろん、イデオロギーは関係ない。他にも潮出版社やこぶし書房も加えている。しかし、とりわけ僕が連れ合いや親類あるいは周りの知人にも機会があれば避けるように薦めているのは、何やら業界や社会のタブーに挑戦するなどと称して「逆張り」の奇抜さだけで売ろうとする出版社である。そうした連中は、何やらアウトロー的なポジションに満悦しているようだが、しょせんは編集者や出版社としての才覚なり書き手との信頼関係に乏しく、一回限りの出版でも話題になって投資を回収できればいいという手法しかやることがない、要はアマチュア出版社である。しかるに、ウィキペディアや自分たちが敵視している大出版社・大新聞社からのコピペや剽窃(恐らくは言葉も読み方も知らない編集者が数多く在籍しているのだろうから、親切にも哲学者が人生の中の数十秒を使って教えてやろう。これは「ひょうせつ」と読むのだ)で、何の見識も実績も学位も無い構成作家風情が「歴史書」を世に問う手伝いをしたり、政治犯や冤罪事件の被告人でもない、単なる凶悪犯の勝手な弁明を印刷しては配るような不正義を平気で行う。そして、こういう人々による口ごたえの定番は、正義の概念は相対的だとかデリダがどうしたという、三流の思想オタクがブログに書くようなポストモダン音頭の裸踊りである。われわれのような哲学者からすれば、それらが紛れも無い欺瞞や酔っ払いの戯言であるのは自明だが、学識もない(もちろん、ここでは学位や学歴のことではなく、まじめな勉学を積んだという意味)人々が出版や報道や広告という行為を何か神聖なものであるかのように思い込むことによって、たやすく自分たちのやることにはなんであろうと弁解の余地があるという自己欺瞞に落ち込むのは、世の習いというべきものである。

よって、特定の出版社の本を全て無視することによって、われわれに何らかのリスクが生じる可能性など実はない。しばしば、僕は「読書家の青い鳥症候群」や、「古典研究の通俗実在論」と呼んでいるのだが、その本を読まなかったことによって一生が台無しになるような本など、実はこの世に存在しないのであり、或る哲学者やその人の学説を知らなかったことによって無駄な研究を重ねたことになると言いうるような、決定的で究極の真理が書かれた哲学の古典など存在しない。当人が哲学を何らかの宗教の原理主義や教典主義と混同しているような三流の研究者であればともかく(そして、われわれ哲学者はそんな無能を基準にものを考える必要など無い)、そういう究極の答えが記してある本が、誰か他人によって、しかも自分が生きている現代において手に入る筈だ(そして、それをまだ見つけていないのは不幸だ)などと思い込むのは、自分で生きて、自分でものを考えるという現実の生活での自主性を培っていない子供の発想なのであり、いい年をした大人が口にしたり悩むようなことではない。

このようなわけで、それぞれの人にとって基準は違うとは思うが(それゆえ太田出版の本を買い、岩波書店の本は断じて買わないという方針を持つ人がいても不思議ではない。それは単に、僕からすれば間違っているというだけであり、間違いにも原因があるのが自然現象というものだ)、何らかの基準を立てて特定の出版社を切り捨てることは、もっとまじめに検討されていいと思う。なんとなれば、それが消費者としての防衛策であり、愚かな著者や出版社に対する唯一の圧力・牽制だからだ。しばしば、「読まない本を批判することは不当だ」などと平気で言う人間がいるが、そんなことを言い始めたらクズの書くものを読破するだけで人生が終わってしまう。人には、思考や判断の効率を(もちろん一定の担保や留保条件があったうえで)上げるための断定をする能力もあれば、権限もある。これを「差別」と言っていいかどうかはともかく、個々の出版物の内容がどうであるかにかかわらず、或る特定の出版社から出ているというだけで無視する権利が消費者にはあると思うのだ。

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X (2019-03-05)

先に「VII (2018-07-15)」でも(なぜか砕けた口調で)書いたように、まじめな話、どういう本であろうと記憶したり議論すべき論点というものは数多く書かれているものだ。よく、「クリティカル・リーディング」とか「分析的な読書」と称して丁寧に本を読む手法を紹介している本があるけれど、読む本をいちいちあんな調子で古典や有名な研究書を扱うように読んだり note taking していては、それこそ本当に人生など読書で終わってしまうだろう。

あるいは、新書を一冊でもいいから暗記してみるということを考えてみてもよい。僕の神戸大学(大学院)での先輩に『論理哲学論考』を暗記していると言われれる人物がいたけれど、さてそれでいったい学術研究者として何が「有利」なのか。実務としては、もちろん本を1冊だけ持ち運ばなくても済むだろう。しかし、果たしてその人物の記憶が確かであるかどうか、誰が保証するのか。やはり『論理哲学論考』の信頼できる原著を手にしている人ではないのか。あるいは、現代ならスマートフォンを一つだけ持ち歩いていれば確かめられるし、そもそもスマートフォンがあれば『論理哲学論考』を記憶している必要があるかどうかも怪しい。このように、本を読む目的は記憶ではない。もちろん、読んだことから啓発されたり示唆されたことについて、更に他の著作物や資料を調べたり考えるきっかけとなるわけだから、「その本を読んで更に何かをした」ということは覚えておいた方がいいに決まっている。それは、後から何か文書を書くときに典拠表記する必要があるといった、アカデミズムの実務という理由だけではなく、そういう関係を覚えておくと、その関係を疑ったり再検証することで更に何か新しいことが分かるかもしれないからだ。しかし、だからといって本に書かれた語句を記憶するというのは無駄であり、たいていにおいてわれわれ凡人の記憶力では無理であり、端的に言って非効率というものである。

したがって、僕はどういう本を読む際にも、それが良書であれ駄書であれ、薄い新書であれ大部の古典であれ、何か教えられることを一つは見つけたら良しとするような方針で読んでいる。そして、自分が丁寧に読み続けるべき本というものは、本を読んでいる最中にそれと分かるものだと思うのだ。単に自分が知らなかった情報が書かれてあるだけの本にも、覚えておいたことは山ほど書かれているだろう。しかし、しょせんそうした事実や事項は、必要になって調べなおしてもいいし、その方が最新の情報を使えるという利点も考えられる。『戦後経済史』といった書名の本を全て記憶したとして、そこに1980年代までの GDP しか書かれていなかったらどうだろうか。その情報だけをもとに現在の経済について考えるのは軽率というものであろう。そこで調べなおして得た情報もあれば更に長期間の経済の推移が分かるし、『戦後経済史』に書かれていた情報で間違っていたことがあれば修正できるかもしれない。なまじっか記憶していると、新しい情報を得ても自分の記憶を正しく修正できるかどうかは分からない。

しかし、こう書いているからといって、僕は本をどんどん読み飛ばせと言っているわけではない。そんなことをして、しかじかの本を読んだという経験を積み重ねるだけで何らかの見識になるとでも思っているようでは、「編集工学」レベルと大して変わらない(笑)。何かポイントを一つでも見つけようと集中して読み、ポイントを幾つか残して別の本を読み進めるというのは、別の言い方をすれば、読みながらポイントを一つに絞り切れないほど考えたり覚えておくべき論点や事項が膨大にあると圧倒されるような、自分にとって真に重要と思える本を見出すためなのである。そういう本を見出せば、何度も読むべきだし、批判的な読書だろうと、丁寧にノートを取っておこうと、やるべきことを満足するまで、それこそ生涯を通してやればいいのである。

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XI (2020-05-02)

先に VII (2018-07-15) で書いた通り、読書というものは、その本に書かれている字句を最初から最後まで記憶することが目的や効用なのではない。やろうと思えばそれができるサヴァン症候群の患者にノベール賞を受けるくらいの業績を残した人は誰もいないし、いわゆる速読や多読をもって有名な人々とか速読セミナーのカウンセラーを自称する人々が大学教授や大企業の役員であることなどないのであり、はっきり言わせてもらえば、結果を残していない無能な人間に限って、大量の読書や速読が有効だと言い張る傾向がある。よって、英語の訓練でたくさんの文章を読むといった多読には一定の効用があるものの、それを一生涯にわたる読書のスタイルとして採用することは、無益どころか時間の浪費である。人は、単に一つの外国語を習得するだけで、正しく(あるいは有利に、あるいは幸福に)ものを考えたり、生きられるわけではないからだ。あなたが何年もかかって覚えた英単語をはるかに超える数の英単語を、アメリカの高校生は知っている筈である。しかし、彼らの大半は(おそらく)あなたよりも愚かで、幼稚で、場合によっては犯罪者ですらありうる。

このことは、僕らが読書するときの常識に照らせば自明に思える。たとえば300ページの文庫本で小説を読む人の大半は、読んだ小説の文言を最初から最後まで記憶できたりはしないし、そんな必要などないと思って読んでいる。いや、300ページの小説どころか、最小の文学作品とされる俳句や川柳ですら、国語の授業で習った作品を覚えている人はそう多くない(もう少し長い形式の和歌では、小学校や中学校の国語で百人一首を暗記させられた人は多いと思うが、それらの中から思い出せるのは幾つあるだろうか)。そして、このような文学作品については、文言を覚えていないどころか、何年か経つと肝心の筋書きすら思い出せなくなる人も多い。それゆえ、読み終わったときに強い印象を受けた本は所蔵しておいて、たとえ筋書きを忘れたとしても、読み返す価値がある本だと自分が思ったという事実は、その本を所蔵し続けている事実によって示唆されるのだから、それを読み返す価値や必要について疑問を抱くことなしに、人は本を再び、いや何度も読み返すことだってあるのだ。しかし、それは書物の文言をすべて正確に記憶していないがゆえの、無能な凡人ゆえの「愚行」だと言えるのだろうか。

もし、或る書物の文言を最初から最後まで記憶することが「読んだ」と言えるための必要条件であり、読み終えていない本がある限りは新しい本を買うべきではないというルールを自分に強いるとすると、恐らく大多数の人たちは子供の頃に買ってもらった絵本、あるいはせいぜい小学校(低学年)の教科書しか自宅に置いていないという状況になるだろう。もちろん、或る意味では、そういう方針は正しいかもしれない。実際、世の中で起きている下らない事件や事故や公共政策の多くは、大半の人々が小学校で教わるていどの社会科の《すべての事項》を、正確に心へ留めていないことが原因であると推定できる可能性は、全く無いとは言えないだろう。単純に知識が欠落していることによって、人は或る事柄に配慮する必要すら気づかないまま、ものを理解したり考えてしまうこともあるからだ。もちろん、全ての文言を記憶しない限り次に進めないなどという強迫観念に近い仮定を置いて本を読んだり何かを学ぶという方針は、一定の成果を挙げることが優先する限り、「非効率」だとして斥ける他にないだろう。実際、そんな方針に全く従っていない人々でも、《ノベール賞を受けるていどの業績》は残せるのだから。読む本を片っ端から暗記することによって、そうした業績を超えるほどの重大な何かを達成できるという保証なり根拠でもない限りは、本を記憶することにかかるコスト(殆どの人にとって、一冊の本の文言を正確に暗記するというのは、仮にそうしようとする意欲があって持続すると都合よく前提できるとしても、非常に時間のかかる仕事である)に対して、リターンは不明だというほかにないので、そのような原則や基準にコミットすることは望みの薄い賭けだと思える。事実、この節の冒頭でも述べたように、それがいとも簡単にできるサヴァン症候群の患者に優れた実績を残した人物がいないのだから、記憶だけで何かを達成できるわけではないという判断には抗いがたい説得力がある。

だからといって、子供が『週刊少年ジャンプ』を読み捨てるような態度で良いなどということも、逆の極端であろう。いわゆる精読が必要な場合もある筈だからだ。ただし、丁寧にノートを取りながら読むに値する本というものが最初からジャンルなり著作として決まっているという思い込みは慎むべきである。つまり、『ONE PIECE』の単行本第15巻を1年くらいかけて、構図や作画やストーリー構成などを精密に解析したり読み解きながらノートをとってゆくような読書をして悪いわけがないし、『知の考古学』を数時間で読み流しても、一概に悪いわけでもない。「古典」と称する本は精読するものであり、四コマ漫画の単行本やハシビロコウの写真集はざっと眺めて終わりだというのは、単なる偏見である。ものごとはいくつかの条件、そして自分自身の動機や目的に対して誠実に向き合うことから導かれる(暫定的であろうと)原則や方針に従って、文字通り虚心坦懐に望むべきこともあろう(そして、そういう必要性すら条件次第なのだから、そこまで深刻に考えなくてもいい場合もある)。

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XII (2020-08-06)

もう少し書籍の文言を記憶するという話題を扱ってみよう。たとえば、新書で経済の本を読む場合に、そこでは数多くの表だとかグラフが登場するだろう。では、そうした表の数値をいちいち記憶していないと《読んだことにならない》だろうか。その本を参照して何か文書を書くときに、その本に登場する文言や図表の数値を記憶だけで引用できなければ《良い読者》とは言えないだろうか。もしそんなことが他人の文章を参照したり引用するときの必要条件であれば、恐らく古今東西という規模で、他人の文章をまともな分量で参照したり引用できる人はいなくなるだろう。簡単に想像してみればいいが、何か論文を書くときに、他の論文を10本ていどは参照するだろう。では、それらの論文を一字一句たりとも間違えずに記憶したり、挿入されている図表の値を全て暗記していなければならないとすれば、誰も論文を書くのに bibliography や references で典拠を上げようとはせず、それらを読んで自分なりに展開した議論や論証だけを論文へ書こうとするだろう。もちろん、学術研究の作法として参考文献がなければいけないという決まりはないし、もしも参考文献で典拠を示すためにソースとなった文献を暗記しなくてはならないなら、誰もそんなルールの雑誌に投稿しようとはしないかもしれない。

大学教員だろうと天才だろうと、そんなことは誰もしないのだ。なぜなら、そのような暗記の労力は、文献を読んでものを考えたり、他人と議論したり、論文を書く労力と比べて、引き合わないからである。おそらく、僕のように記憶力が極端に低い人間であれば(それでも、別の意味で有能であれば国公立大学の博士課程には進学できる)、10ページの論文を記憶するのに5年や10年はかかるだろう。中学時代に百人一首を覚えるのですら夏休みを全て使っても無理だった。記憶力だけは僕よりマシであろう東大や京大の哲学プロパーであっても、論文1本を書くのに必要な文献を全て記憶するのに、何年もかかるとは思う。しかし、それがどうしたというのか。

文献に出てくる主張やデータを表す何か、図でもいいし、表でもいいし、infographic でもいいし、あるいは日本の通俗本編集者がお好みのエロ漫画もどきや安易な幼児向けイラストでもいいが、それらを《使って》僕らは何かを考える。それらを単純かつ正確に《伝達する》ことが研究者の目的なのであれば、何も論文を書く必要はなく、学術雑誌には JAIST で公開されている論文の URL や、アマゾンの URL を貼り付けておけばよいわけだ。よって、何をどう使って僕らがものを考えたのか、興味があれば典拠表記を利用すればいいし、典拠表記とはがんらいそうしたものである。つまり、「典拠表記」がなんであるかをそもそも理解していない人間が、まるでソースを暗記すれば理想であるかのような読書論をぶち上げたり、それと似たような思い込みで議論のルールを勝手に(古典である何某の何ページに何が書いてあるかを覚えているのが当然であるかのように)引き上げるのである。

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XIII (2020-09-12)

俗に critical reading などと呼ばれる手法があるようだが、そういうことをしている自覚はないにしても、この論説で述べているように、いくらかの工夫をしながら本を利用してきたつもりだ。その一つを手短にご紹介しておくと、読書の記録を取る方法として、ノートを作ったり、あるいはカードを作ったりしてきた。そして、そういう記録を残す際に気を付けているのが、書き留めたことがらに着目した脈絡も一緒に記録として残すということだ。実際、なんでその一節に着目して、わざわざ書き写したり論点として拾い上げようと思ったのかという、自分がその時に重要だと思った脈絡を一緒に書いておかないと、後から引用の文章だけを読んでもピンとこないことがあるからだ。なんでこんなことに着目したのか、自分でも分からなくなることがある。しかし、その時は何かを感じて書き留めたのだ。それを、自分でもしっかり覚えていない。だからといって、読み返したら思い出すかと言われても、もちろん思い出すときもあるが、思い出せないときもあって、それどころか読み返したときに何の着眼点も残す気になれないことがあって、そういう読み返し自体が時間の浪費となる場合がある。それは残念でもあり、無駄なことでもある。よって、何か思うところがあって一節を書き留めたり、論点として要約しておく必要を感じたら、どうしてそうするのかも併せて残したい。そして、そういう書き方をする簡単な方法と言えば、つまるところ書評として展開した議論を書き残せばよいのだ。

そういう、自分から自分に宛てて書くような体裁の書評にも、上に述べたような理由で効用がある。そして、読み返す必要を感じて改めて読んだときに、その書評で展開されている議論が間違っており、つまりは間違った読み方をしたと自分で気づく材料にもなりうる。したがって、こういうことをいちいちやりながら本を読むと、新書一冊を3時間程度で読了するにしても、その中で見つけた論点なり重要な記述をノートへ書き写すといった作業を伴うので、現実には新書一冊ぶんの内容を現時点の理解において書き残す時間も含めると4時間か5時間はかかるだろう。たいていの社会人は仕事も家事もしているのだから、このようなことを1日で1回でもやれたら良いだろうし、1日に5時間を読書に使うなら、他に趣味などもつ余裕はなくなるのではないか。したがって、「編集工学」などと自称している人々(こう称して議論しているのは、いまや松岡という人物だけではなさそうだが)のやっていることが、まずサヴァン症候群の患者でもないのに科学的な根拠がない速読とかいう手品をやりつつ、読んだ時の感想やあやふやな記憶の集積だけを積み上げていって何かの業績なり思想としての蓄積になるという、僕に言わせれば典型的な自己欺瞞であることは明白だと思う。したがって、一日に新書どころか単行本を何冊も処理するなんてことは、雑に読んで雑に理解するのでもない限り、たいていの人間には(生活という単純で切実な観点から言っても)不可能だし、そうする《べきでもない》のである。それが仕事でもない人間は、自分の生活に費やす労力や金銭を無闇に浪費したところで、社会的なスケールでも個人的なスケールでも、得るものは殆どないのである。それで何かを得るくらいの才能があれば、そんなことを《やり続けなくても良いはず》なのだから、すぐに成果を上げてやめてしまっても問題はないだろう。逆に言えば、いつまでもそんな大量の読書を続けなくてはならないという事実こそが、そういう情報から何かを正確かつ十分に得て自分自身の生活なり思考の糧に出来ていない証拠なのである。

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XiV (2021-01-27)

読みたい本や、単純に欲しい本を買うと、もちろん幾らでもお金がかかる。それに、置く場所も必要になるし、読む時間もたくさん必要となる。どういう意味であれ有限でしかない僕らの能力や生活の事実においては、どこかで諦めたり妥協する必要がある。その場合に、考え方の一つとして強調したいのは、本とか雑誌の記事や論文というものは、何も現物を自宅や自分のタブレットに所有していなくてもいい場合があるということだ。これはつまり、「そういう本があるということを知っておくだけでいい」ような本が、実は所持している本の中にもたくさんあるということであり、情報として維持し続けているだけでも、後から必要に応じて図書館で借りたり買い求めても遅くないということである。

ただし、そのためには簡単に絶版となったり図書館から除籍されたりして、後から読もうにも簡単にはアプローチできなくなるようなものでは困る。必要になったからといって、いちいち国立国会図書館へ探しに行くわけにもいかないし、古本として市場に出回っている保証など何もない。そして、何か本を確実に探せるところとして、いま述べたように国立国会図書館を引き合いに出す人はたくさんいるのだが、出版物を国立国会図書館に収めることは強制力を伴う規制でもなければ、それをしなかったからといって出版社の商業活動が制限される法令でもないのであって、実際には国立国会図書館に収められていない出版物や発行物というのは、膨大な数に登る。とりわけ、続々と増え続けている KDP などの電子書籍は、個人が勝手に出版しているものの大半が国立国会図書館になど存在しないし、これからも電子データを収めようなどとはしないだろう。なぜなら、こういうものを出版する人々の動機なり目的は、昔の自費出版とは違って自己満足とか「出版物を執筆した」などという学者や知識人階級へのコンプレックスではなく、単にお金だったりするからだ。国立国会図書館に電子データを収めたところで、1円の稼ぎにもならないのだから、誰もそんなところで永続的に自分のデータが保管されたところで嬉しくもなんともないだろう。寧ろ、そこで自分のデータをタダで読まれたら困ると思うに違いない。

ということで、後で読めばいいだけの本というのもたくさんある。その筆頭は、時事の話題を扱ってはいても、情報を得るだけならネットで十分であり、その出来事についての冷静で公平な記述が欲しいという場合だ。後から経験してもいない他人が書く場合にこそ公平さが保たれると期待できる場合もあるが、その代わりに当時の経験がない人の記述には個人としての感想なり切実な内容が不足している。かといって、渦中にあるような人物の書くものは、その多くが視野狭窄に陥っていたり、その当時の利害関係や人間関係によって判断や物事の理解が歪んでいる可能性もある。そして、読む側の僕らにしても同じように色々な影響を被っている恐れがある。そのため、どちらにせよ時間を置いてから偏向した内容を取捨選択できる状態で、改めて読み返すほうが良い場合もあるのだ。しかし、たとえば新型コロナウイルス感染症にまつわる一連の出来事を記した本を10年後に読み返そうとしても、手に入らなくなっている可能性がある。したがって、大手の出版社が出す新書や文庫やムック本の類は(そもそも読むに値しないものも多いわけだが)、後からでも読める可能性が高いので、どんな本が出ていたかという情報だけ残しておけばよく、時事にかかわる内容だからといって飛びつく必要はない。いや、実際には飛びつく人がいるからこそ、そういうものが出版されるのだろうから、みんながこういう方針で本を買い始めると本がぜんぜん売れなくなるので、出版社からするとキャッシュフローとして適正なお金の動きが見込めないのだから、このような消費者行動は困るのだろう。しかし、こちらとしては幾らでもお金があるわけではないのだし、必要は本はすぐに買うが、後から読んでもいいような本は後回しにするのは当然である*。そして、そういう消費者が多くなると経営がなりたたないのであれば、多くの人々がすぐに読みたくなるか読む必要を感じる本を出せばよく、時事の話題や芸能人とか政治家のケツを追いかける本ばかりを出すのはやめるべきだろう。

*いや、しかし現に必要もなく新しい本に飛びつく人が多いからこそ数多の新書や文庫が続々と刊行されるのだから、その中から必要に応じて後から買ったらいいという方針で〈賢く〉買い物をしている人たちは、いわば〈バカの消費者行動にフリーライドしている〉ことになるのだろうか。

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