いわゆる「歩きスマホ」に対応する短評集

Takayuki Kawamoto

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First appeared: 2018-03-09 12:57:46.

はじめに

このページでは、いわゆる「歩きスマホ」(往来に立ち止まるような事例も含める)について考えた短評や雑感を集めています。それぞれの節は、お互いに前後関係や論理的・心理的な繋がりはないので、単独で読んでも問題ないように書いています。

I

往来を電話しながら好き勝手に歩く人は昔からいるにはいるが、更に最近では老若男女を問わず、歩きながらスマートフォンの画面を眺めて他人に道を譲らせても平気という無礼な連中も増えてきた。そこで、本稿ではそうした人々にどう対応するのが望ましいかを検討してみる。そもそも、自分にとって何の価値もない他人の振る舞いに、いちいち腹を立てていては切りがないし、精神衛生にも悪い。そこで、或る種の自動で動く障害物と見做して機械的に対応するための知見を増やした方がよい。もし、このようなアプローチやスタンスが一種のシニカルで傲慢な態度に見えるとしても、そもそも「歩行論」という僕の議論は公共の場所でのサバイバルを目的としているので、何と言われようが自分自身にとって都合がよければそれでよいのである。スマートフォンを使っている理由が、エロゲーだろうと愛のチャットだろうとクソ中小企業のメールだろうと、そんなことはどうでもよい。何の理由であろうと自分の事情しか考えていないような人間に気分を害されてしまうことが僕の弱さだとすれば、それを克服するには、

  1. 彼らの振る舞いを彼らの生まれ持った特権であるかのように許容する。
  2. 彼らを「奇妙な動き方をする障害物」として処理する。
  3. 携帯の画面を見ながら歩いてくる人間と遭遇するたびに「彼らには彼らの事情が何かあるのだ」と常に善意の解釈をする。

上記のいずれかしか選択肢がないように思える。これらの中から選ぶとすれば、(2) のように機械的な「処理」こそが、自分や相手に余計な差別感情や悪意を抱いたり、精神的な負担を負わずに済むのである。

確かに、凡人というものは常に愚かであるとは限らない。歩きスマホをしている人でも、家に帰れば良き親や子供であるかもしれないし、逆に歩きスマホを絶対にしないと堅く誓っているヤクザがいてもおかしくない。どういう人でも誰かに何らかの迷惑をかけている可能性があり、たぶん僕も往来で誰かに迷惑をかけたり悪い印象を与えているのかもしれない。しかし、昔から言われることだが、だからといって「お互い様」で済むなら道徳は必要ないのであって、そのように凡人が自らの凡庸さを認めたくないがための方便を許容してしまうと、人の精神性は何も向上しないだろう。そういうわけで、歩きスマホの特性を検討して機械的に対処するように心がけ、少しでも相手を内心で罵倒するという無駄な反応を避けるようにしたいし、相手を平気で避けるようになりたい(そこで相手が自覚していて、「他人に道を譲らせた」という優越感を感じるかどうかなど、実はどうでもよいことだ。そんなことで我々と相手とで客観的な何か ― 必ずしも身分や地位とは思わない ― が変化することはない)。もちろん、基本的にそのような人間は好ましくないことをしているクソには違いないので心中では罵倒してもよいわけだが、気に食わない相手を内心で罵倒し続けていると、まず自分自身の感情が乱れて損なのである。道端に落ちているクソは避けざるを得ないが、クソを罵倒したところで無益であろう(したがって、本稿では歩きスマホをしている当人に向かって文句を言ったり注意するという対応は選択しない。擦れ違って行った人間が数秒後に肥溜めに落ちて本物のクソになろうと、我々はそのまま道を歩いていけばよいのである)。

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II

歩きスマホの特性として、まず最初に誰でも分かることは、スマートフォン(もちろんガラケーやタブレットでもよい)の画面を眺めているということだ。「歩きスマホ」とは言うものの、立ち止まっている人間も含めてよいだろう。それはちょうど、犬を散歩させている途中で電信柱にマーキングしている犬を眺めている飼い主のようなもので、ただでさえ電信柱があって歩ける範囲が狭い場所なのに、犬と一緒に立っていることを通行の邪魔だとまるで自覚しない愛犬家さまたちと歩きスマホの人々には、自分の事情を公衆道徳よりも優先させる(というか、その双方を比較するという発想がそもそもない)という共通点がある。

画面を眺めるという挙動では共通しているが、やはり画面を眺めている理由によって、画面を眺めることに没入し易いかどうかは変わる。ゲームのように文字通り目が離せないなら、対向に人が歩いてきているかどうか前方をなかなか注意すらしないが、ただちに誰かとぶつかったり肥溜めに落ちるわけでもないので、ひとまず何らかのタイミングを見計りながら前方を少しでも見ているのだろう(そして、そのうえで直進するのだから、そういう人間が車に轢かれても「歩きスマホの鑑」として誇ってもよいのだろう。もちろん、現今では歩きスマホで車に轢かれた場合は轢かれた側の重過失と認められる可能性があるので、治療費をせしめられるとは思わないことだ。もっとも、そのときに死んでしまえば治療費どころかゲームやチャットの続きなどできないわけだが)。

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III

しばしば目に付く特徴として、壁際を歩こうとする人たちがいる。これは子供を載せた自転車の母親や父親にもしばしば見受ける挙動であって、誤って車道へ落ちないようにとか、車が対向から突っ込んで来ても自分だけは比較的安全な位置を確保するという思惑もあるのだろうが、それゆえに日本の対面通行原則である左側通行を平気で無視することになる(父親や母親がこのように振舞うのは、必ずしも皮肉で書いているわけではないが、生物としては仕方のないことだとは思う)。ちなみに、この原則はもちろん道交法に規定されているわけではない。道交法に歩道の歩き方を規定する条文は「ない」のだが、道路交通法第10条を間違って解釈して、日本では右側通行だと言っている人間がいまだにたくさんいるのは辟易する。寧ろ、車両の運行に合わせた対面通行原則である左側通行を守るのが常識というものなのに、いつまでも「車は左、人は右」というキャッチフレーズを繰り返す者が後を絶たない(このキャッチフレーズは、下町の脇道のような、車道と歩道の区別がない道でドライバーから見え易いように右側を歩くという特殊な状況だけにしか通用しないのだ)。

ということで、壁際(車道から離れた側)を歩くというだけなら左側通行になる場合もあるわけだが、このように道の右側を平気で歩く者がいると、そういう人を避けるために他の全員が右側通行しなくてはいけなくなる場合もある。僕がふだん通勤で歩いている幾つかの場所、特に堂島川や土佐堀川の橋で、通勤時間帯に橋の欄干にもたれて画面を眺めたり、どこの代理店から来ているのやら道を塞いでまでティッシュやタブレットを配ったり、大勢の人々に避けさせて(左側通行の原則から言えば)逆走する者も見かけることがある。そして、困ったことにこういうことをやるのは、自分たちの国では対面通行原則が右側通行の場合もある海外の観光客ではなく、一部の日本人なのである。

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