はじめに
多くの方は「自剃り(self-shaving)」、つまり自分で(大半は自宅で)髭を剃っているわけですが、特に剃刀を使って髭を剃る場合には、顔を切ってしまう心配があります。僕は T 字剃刀を20代の前半から今年で30年以上は使ってきて、T 字剃刀で切り傷を作るなんて1年どころか5年に一回もありませんでした。しかし替刃式の直刃剃刀を使うようになって、おおよそ3月1日で二ヵ月弱の経験ですが、それでも既に三回ほど顔を切ってしまっています。何らかの止血処置をしなくてはいけないほどの事態にはなっていませんし、切ったとは言っても痛みやヒリヒリした感触はありません(アフターシェーブ・ローションを顔全体に塗布しても、特に切った場所での刺激は感じませんでした)。しかし顔を切ってしまうと、少なくとも数日は同じ個所に剃刀を当てられなくなりますし、人前に出る仕事の方にとっては困るでしょうから、できれば避けたいところです。そのための工夫として、もちろん事前に髭や肌を濡らしたり熱いタオルで温めたり、あるいはプレシェーブ・オイルを使うとか、剃刀自体の運行としてなるべく寝かせて剃るとか、色々と言われています。そして、ここでご紹介する「髭の地図(grain map / face map)」を自作するというのも、一つの工夫としてご紹介できると思っています。
剃刀の運行を説明するために顔写真やイラストへ矢印などを示した図は、もちろん昔から理容師に向けて書かれた教材とか参考書には出てきます。そういう解説のために顔写真やイラストを使って図示するのはいいとして、では自分自身の髭を自分で剃るにあたっては、そういう解説の図だけを覚えておけばいいのでしょうか。そうではありません。なぜなら、髭というものは人によって、あるいは同じ人でも年齢によって、生える場所や生える速さや生える向きが違っているからです(年齢で髭の生える向きが大きく変わったりはしませんが、その代わりに太ったり痩せたり、あるいは皮膚がたるんだり老化してくる影響から、結果として髭の向きも変わってしまう可能性はあるでしょう)。したがって、自分の髭がどういう場所に生えていて、どういう向きに生えているかは、自分で調べて把握しておかないといけません*。プロの理容師は、初見のクライアントが来店して髭を剃ることになっても、わざわざ剃るくらい生えているのですから、少なくとも眼で見て生えている場所や生えている向きを把握しながら剃れるでしょう。しかし自剃りでは、鏡に写った自分の髭を自分から見える範囲にしか顔を動かせないという決定的な制約があります(これを「欠点」と言っていいかどうかは、自明ではないかもしれませんが)。したがって、理容師が他人の髭を剃るために顔を近づけて細かいところを見ながら剃るような動作が自剃りでは難しい場合があるので、自分で自分の髭の様子を知っておき、剃っている様子を自分自身で見ながら剃刀を当てるというよりも、或る程度は自分の手の動きや角度の自覚と、剃刀が当たっているときの自分の肌の感覚だけを頼りにする必要があるでしょう。そういう剃り方をする場合に、自分の顔に髭が伸びてくるパターンを事前に把握しておくことは、事故を防ぐために有効だと言えます。
*また、丁寧に鏡で自分の髭を観察すると分かりますが、一本だけ周囲の髭とは違う向きに生えているような場合もあります。そういう例外的な向きに生えている髭があるため、どうしても一律の方向へ剃ると髭を剃り残してしまうわけで、そういう例外的な向きに生えている髭をマッピングしておくことにも意味はありそうです。どこまで細かくマッピングするかというのは、やはり人によって例外的な向きに生えている髭がどのていどあるかによって違うでしょうから、一律には決められないでしょう。下の写真は私の左頬を拡大した一部分ですが、黒い髭や白い髭があって、それぞれ生え出し方も生えてゆく向きも微妙に違っていたりします。
なお、「SHAVE MAP」というのを紹介しているブログ記事を見つけました [Yan-tan, 2017]。これも同じ趣旨で作成されたマップのようです。細かい話ですが、英語で “map” という単語には動詞として「今後の作戦を立てる」という意味もあるので、“map (mapping)” という言葉には、髭の生え方をただ静的あるいは記述的に「こうなってます」と図示するだけではなく、「こう剃っていこう」という予定や意志を表すような意味合いも含まれると思います。それは、まずもって矢印の向きとしては順剃りの計画になるわけですが、最初に順剃りの向きが分かれば、どう剃るのが横剃りで、どう剃るのが逆剃りなのかは分かりやすいでしょう。
そして、自分自身の髭が生える正確な向きを把握しておくと、実際に剃るときの「順剃り(WTG: with the grain)」、「横剃り(XTG: across the grain)」、そして「逆剃り(ATG: against the grain)」という三つの運行方向で正確に剃刀を当てられるため、効果的に髭が剃れるという利点もあります。実際にあなたの髭が生えている向きとは違う方向に剃ってしまうと、WTG, XTG, ATG の全てで、期待していたのとは違う結果になるでしょう。つまり、WTG である筈なのに XTG で剃れば肌を傷める危険があったり痛みを感じたりしますし、ATG である筈なのに XTG で剃れば十分に剃れないという結果になります。そして、XTG だと思って実際には WTG や ATG で剃ってしまうと、これもまた剃り方が足りないか、いきなり深く剃ってしまうことになります。こういうミスマッチによるトラブルを防ぐためにも、やはり自分の髭がどう生えているかを正確に知っておいて損はないでしょう。
髭の地図とはどういうものか
こういう図を作る必要があることは分かっていましたが、参考になる資料とかメディアがないものかと探していたところ、Razor Emporium という通販サイトを運営している Matthew Pisarcik さんや、Shave Nation Shaving Supplies という通販サイトを運営している geofatboy さんが丁寧な解説ムービーを公開していました。そこで、まずは彼らの解説をご紹介します(他にも、同じアプローチを Eric Latta さんも YouTube の動画として紹介しています [Latta, 2019])。僕が実際に作成しているマップの考え方や作り方も、おおよそ彼らの説明している考え方や手順に準じています。まずは Razor Emporium のマットさんの解説からご紹介しましょう。
次に、geofatboy さんの解説もご紹介します。地図の呼び名は違いますが、考え方はほぼ同じだと言ってよいでしょう。
動画を最後まで観ていただければ分かりますが、geofatboy さんは髭の向きを確かめるために、手探りの他にも、ティッシュ・ペーパーを当てる方法を紹介しています(Matt さんは double-edged の替刃を袋に入れたまま当てていますが、あまり安全とは言えません。プラスティックのカードなどを使う方がいいでしょう)。ティッシュ・ペーパーが髭を擦って、音の大きさでも確かめられるというわけです(生えている向きと逆に擦ると、音は大きくなる)。実際に髭の地図を描く際には、もちろん絵心がある人は自分で自画像を描いて髭の生えている向きを矢印などとして書き込めばいいでしょうし、geofatboy さんが紹介しているように自撮りした写真を印刷して使ってもいいでしょう。
ここで geofatboy さんの説明に幾つか補足しておきましょう。まず第一に、髭の地図を作るために自分の髭が生えている向きを確認するという作業は鏡を見ながらやった方がいいということです。geofatboy さんも鏡を見ながら動画を撮影していると思いますが、動画を観ている方は、いつもの撮影場所で説明しているということしか分からなければ、そこで鏡を見ながら作業しているという点に気づかないかもしれませんから、敢えて書いておきます。鏡を見ながら確かめた方がいい理由として、鏡に近寄って丁寧に自分の顔を眺めると、そもそも髭が生えていない箇所を簡単に見つけられるからです。もちろん人によって状況は異なりますが(だからこそ、自分自身の髭の地図を作った方がいいわけです)、たとえば僕の場合は首や喉の髭は細くて少ないですし、咽喉ぼとけから下には髭どころか産毛も殆ど生えていません。また、頬も全体に髭が生えているわけではありませんし、唇の下から顎にかけては中央付近しか髭が生えていないのです。それから、鏡を見ずに確認しようとすれば、それこそ顔全体を確かめなくてはいけないと思えるので、上から下へ複合機のスキャナみたいに機械的に手を動かして髭の生え方を感じ取るという作業が必要になります。でも、鏡を見ながら作業すれば、そんな無駄なことをする必要はありません。目で見て髭が生えているところを確かめたらいいだけです。そして、手で触るだけでは、何本かの髭だけが奇妙な向きに生えていることが分からない場合も多いと思います。それこそスキャナのように精密に顔へ手を当てて感じ取りながら作業しないと、何本かだけ周囲の髭と別の向きに生えているなんてことは気づきにくい筈です。
第二に、これは言うまでもないと思いますが、髭が生えてきていて剃ろうとする直前に確かめた方が良いということです。剃らなくてはいけないほど髭が生えてきているときに確認した方が、髭の生え方が分かりやすいからですね。髭を剃った直後に確かめようとしても、剃ったわけですから、髭が短くなっているせいで方向を確かめるのは難しくなります。どちらの向きに手を当てても似たような感触しかないという可能性があるため、これまで自分で髭を剃ってきた経験と記憶からだいたいのことは分かると思いますが、一部だけ違う向きに生えている髭を鏡で改めて見つけるという作業は難しくなるでしょう。
留意したいこと
ここでは、各論あるいはそれぞれの状況や道具などに応じて選択すればいいことを幾つか取り上げて議論しておきます。
まず geofatboy さんの動画では、実際の顔の様子を髭の地図として描いてから、まさに自分が髭を剃るときと同じく壁に地図を貼り付けて鏡で眺めると説明しています。でも、そのやり方には問題があると思います。なぜなら、鏡に面した、地図を貼り付けられる壁や柱が近くにあるとは限らないからです。たとえば、鏡に面した壁が 2m ほど離れているとしたら、2m 離れた場所に貼り付けられた絵の矢印などを眺めるには、たぶん視力が 1.0 くらいは必要でしょう。髭を剃るときに眼鏡をかけていられるとは限らないので、眼鏡を外して 2m 先の絵を見て何が描いてあるか分かる視力を誰でも維持できるとは思えません。したがって、髭の地図は近くで眺めながら確認できる方がよい筈であって、鏡の近くに貼り付けたり、あるいは段ボールなどに貼って立てかけるにしても、鏡に近くなければなりません。
次に、髭の地図をどう作るかという点についてですが、自分で顔のイラストを描くとしても、あるいはスマートフォンなどで撮影するとしても、実際の顔の様子を地図のベースとして用意するか、あるいは鏡面(左右が逆)の様子を用意するかという違いがあります。鏡に向かい合った壁に貼り付けるという前提なら、鏡で自分自身の顔と髭の地図とを見比べるわけですから、どちらも同じように見えている方がいいわけなので、鏡面での見え方になっている左右が逆のイラストや写真として、地図のベースを用意した方がいいかもしれません。つまり、スマートフォンのサブ・カメラで自撮りすると左右が逆になったりしますが、そういう写真を使うわけです(イラストとして自分の顔を描く場合は、最初から左右を逆に描く人なんてそういないかもしれませんが)。ただし、これは一概にそうするべきかどうかは決められないかもしれません。なぜなら、多くの方がもつ空間認識能力なら、左右を逆に描いた図や写真を見ても、実際にそれを使ってどうすればいいかという場面で左右を戻して行動できるからです。つまり、左右が逆になっている図を見ながらでも、逆向きに(正しく)髭を剃れる人だって多いからです。鏡面の図や写真では、左右が逆になっているだけであり、まさか上下が逆になったりはしていませんから、どういう向きに剃ることが順剃りであって、どういう向きに剃れば逆剃りになるかを、実際の絵柄であれ鏡面の絵柄であれ、多くの方は正しく把握して手を動かせるでしょう。他人から見た向きとしての髭の地図よりも、自分が鏡を見ながらどう手を動かすかが描いてある地図(その場合は鏡面で作ることになります)の方がいいという方もいる筈です。
僕の髭の地図
最後に僕自身の髭の地図をご紹介しておきます。もちろん何度も強調しているように、これは僕の髭の生え方であって、あなた自身の髭の生え方ではありませんし、僕にはあなたの髭の生え方は分かりません。それぞれ自分で調べるしかないのです。
上の図が僕自身の髭の地図です。スマートフォンで自撮りした、左右が逆になっている鏡面の写真ではなく実際の顔の様子を画像として用意します。getfatboy さんの動画では、少し上を向いて喉の様子も見える写真を一枚だけ使っていますが、僕は正面から撮影した写真と、かなり上を向いて喉が広く見える写真の二枚を用意しました。かなり顔を上に向けても顎の下が見えない人も多いでしょうから(逆に言えば、すぐに顎の下が見えるのは顔や首が太ってるからでもあります)、無理に一枚で済ませる必要はありません。これらの写真に、肌がなるべく白くなるようなエフェクトをかけられる編集ソフトを使って加工します。Photoshop であれば、グラフィック・ペンや色鉛筆などのフィルターで写真の色の階調をわざと雑にしてから輪郭の検出といったフィルターを適用すると、肌の色が抜けて白くなります。スマートフォンでも線画風などのエフェクトが適用できる編集ソフトはたくさん出ていますから、後で矢印などを追加しても見えやすいように加工しておくと良いでしょう。僕は、Android のアプリケーションで “DeepSketch” というアプリケーションを使いました。顔の画像を用意したら、自分の髭の生え方を丁寧に確認しながら、まずはノートやメモ帳にでも記録しておきます。或る程度の部分を調べたら、どれだけ詳しく髭の向きを描き込むかは、もちろんみなさん自身の方針で決めてください。周囲の髭とは違う変な向きの些細な髭は描かなくてもいいとか、逆に可能な限り詳細な地図を用意したいとか、色々あって良いと思います。後から調べ直して詳しく描き直してもいいですし、詳しすぎて分かりにくいと思えば地図を作り直せばいいわけです。僕の地図では、Photoshop CC 2023 で矢印やら髭のない箇所を描き込んでいますが、この程度の作業に、年間の契約料金が10万円近い(企業版だとアカウントの管理機能があるため、個人で契約するよりも高い)Adobe Creative Cloud など必要ありません。無料で使えるソフトをスマートフォンにインストールして矢印を描いても問題ないでしょう。そうして、完成した画像ファイルをもとに適当な大きさの紙に印刷してもよいでしょう。あるいはスマートフォンに画像を取り込んでおいて、髭剃りのときに近くへ置いて画面を確認しながら剃ってもいいでしょう。
ただし、こういう地図を常に使うか、あるいはいつまでも使うのかと言えば、それは分かりません。実際、僕は既に頭の中に入れてしまって、髭を剃るときにこういう地図は見ていません。というよりも、地図を作る手順の途中で、具体的な髭の生え方を相当に詳しい箇所まで覚えてしまったので、印刷したり画像としてスマートフォンに入れたりはしていないというのが実情です。それから地図の更新を考えるべきかどうかは、もちろん地図に従って剃っていても剃り残しが多いとか、あるいは順剃りの筈なのに痛い箇所がある(何本か違う向きに生えていることに気づかなかった)とか、幾つかの理由で検討すればよいでしょう。少なくとも、数ヵ月や一年で変わるわけではありません。したがって、髭の地図を作ってみましょうとは薦めていますが、このような髭の地図を印刷して洗面室に置くべきであるとまでは考えていないのです。しかし、確かに髭の地図を作ってみる手順で色々と発見したり気づくことがあり、地図を作る作業そのものは有益であり、お勧めできます。
参考
書誌情報は、「References - Shaving」のページにまとめてあります。こちらをご参照ください。