鹿持雅澄の妻
First appeared: 1943(昭和18年).
「鹿持雅澄の妻」 in 『歌境心境』(かきょう・しんきょう), 湯川弘文社, 1943, pp.117-121.
914.6-Y88aウ, info:ndljp/pid/1130715 / http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130715,
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転載にあたって
原文の表記については、(1) 旧仮名遣いを現行仮名遣いへ、(2) 旧字体を新字体へ(但し『萬葉集古義』のように、書籍名はそのままとしてあります)、(3) 年号や番号の漢数字を英数字へ(「一つ」のような表現はそのまま)、(4) 一部の送り仮名を改めてあります。また、戦前以前の文章にしか殆ど表れないような漢字表現も仮名にしました(「遽かに」を「にわかに」、「殊に」を「ことに」とした等。但し、昔の文章に多い事例ですが助詞や助動詞や読点が足りないせいで、「また所以なしとしない」など、「所以」を平仮名にすると読んだときに文節を分け難くなる場合は、敢えて漢字のままにしている表現もあります)。なお、HTML 文書では段落の開始文字を紙の出版物や原稿用紙の書式とは違って字下げしないのが当たり前になっていますが、転載した文章については段落の先頭を字下げしてあります。また、書籍や雑誌名は二重引用符で囲み、書籍に収められている論文や章節は一重引用符で囲むの現代の文書編集の常識なので、これも変更しています。もちろん、僕は私見では「~かもしれない」という表現に「知」という字を当てる文体は好きではありませんが、そういう好き嫌いでの書き換えはやっていません。
私は土佐の猪野々の山里に籠居中、仕事が出来ないので仕方なしに、毎日百足を殺しながら日に焼けた黄いろい畳の上に寝そべり、携えて来た書物を乱読して日を送っていたが、その時読んだものの中で、最も興味が深かったものは、土佐史談会から出している雑誌『土佐史談』第38号に掲載されていた「土佐歌人群像」という一文であって、ことにその中の鹿持雅澄の伝記には胸を打たれた。筆者の白洋松山秀美君は相馬御風君等と同期の早稲田出身、現在史談会の会長をしている篤学者で、雅澄のことについては造詣がことに深い。
実をいうと鹿持雅澄という名前は、私の記憶の片隅に微かに残っていた位のもので、厖然たる大著『萬葉集古義』の著者であるということだけは知っていたが、それがいかなる思想の歌人、いかなる人格の歌学者であるかということは、今度この『土佐史談』を読むまではほとんど知るところがなかったのである。それだから高知の旅館において松山氏と会談した際、是非雅澄の墓に詣でるように勧められたけれども、私の意はあまりその言に動かされず、もし往けたら往ってみようという位に考えていた。それが今度ここでその小伝及びその中に挙げられた作品を読むに及んで、にわかに雅澄に対する敬慕渇仰の念が高まるのを覚えた。雅澄が篤実なる歌学者であるということは、『萬葉集古義』その他数十種の著書を見ても分かるが、それと同時に彼はまた尊皇愛国の情烈々たる勤皇歌人であって、明治維新の際海南僻遠の土佐から多くの志士を輩出したのもまた所以なしとしないのである。
しかし私がこの小伝を読んで、最も心に響くものがあったのは、雅澄の妻菊子の殉教者的な、聖徒のような生涯である。雅澄は軽格の至って身分の低い徒士で、御墓番などを勤めていたものであったから、困苦窮乏の間にかろうじて歌学の研究を続け、畢生の大著『萬葉集古義』の完成を見るまでには、惨憺たる苦心が重ねられていたのであった*1。それだからその間における菊子夫人の辛労はほとんど言語に絶していて、雅澄が『萬葉集古義』の著述に没頭することを得たのも、実に菊子夫人が誠意をもって良人に仕え、内顧の憂いなからしめたためだといわれている。それであるから雅澄は、その大著の業半にして妻を失った時、いかに哀傷の情の切なるものがあったかということは、松山氏が伝記中に引くところの『永言格』の奥書の一節に、「しかはあれど我常に、大丈夫は名をし立つべし後の世に聞きつぐ人もといふ古言を称へ居りしを、有りし世に妻が聞き喜びて、夏の日の暑さもいとはず、冬の夜の寒さも知らで、朝夕の事とり賄ひつつ、いささかも我志の撓なからん事を助けあへりしその面影の、今も見ゆる様に覚ゆる」とあるのを見ても分かると同時に、殉教者的な菊子夫人の心持に対しては、涙を誘われずにはいられないものがある。
けだし私が雅澄の妻の生涯に深い感動を覚えたのは、世俗ようやく浮華軽佻に堕し、近代女性の間にも紅毛夷狄の風習にならうものが続出するのを、心ひそかに憤っていたためかも知れない*2。こういう日本的な女性を妻にしていた雅澄の生涯は、活計には苦しんでいたかも知れないが、内面的にはむしろ幸福だったのではないだろうか。
私がはじめて雅澄の墓に詣でたのは、昭和8年の秋のことであって、土佐における雅澄学者である松山君の案内で、高知の街からあまり遠くない、土佐郡福井村にその草廬の跡をたずねた後、その傍の小高い丘の上にある、古義軒先生の墓を訪れたのであった。
黄いろい野菊の小さな花がさびしくそこらに咲いていて、いかにも一生を『万葉集』の研究に捧げ尽くした、歌学者らしいわびしい奥津城、はからざりき石碑の側面を見るとそこには一首の歌が刻みつけられてある。それは「余ゆ後生れん人は古言のわが墾道に草な生しそ」という歌を万葉仮名で書いたものであって、凛然たる気概は、読むものの胸を打つものがあった。
私はこの如何にも雅澄にふさわしい墓の傍に立って、そのあたりに咲きみだれている野菊の花を眺めながら、この花とその名を同じくするところの、日本の妻とも称えるべきひとの姿を思った。
注釈
*1「かろうじて」とした箇所は、原文では「纔うじて」と書かれていて、なるほど「纔(サン)」という字には「やっとのことで」という意味があるにせよ、「かろうじて」とは読めない(藤堂他/編, 『漢字源』, 改訂第四版, 学習研究社, p.1253)。ここでは脈絡を優先して読み下した。
*2現在は「軽佻浮華(けいちょうふか)」という語順で書かれる方が多い。また、「慣ふ」は「ならわし」を「習わし」とも書くので「習」の字を当てようとも思った。なぜなら、現在は「ならう」という表現に「慣」の字は使わないからである。しかし、「習」という字には現在は自発的に学ぶというニュアンスがあって「世のならい」というニュアンスが逆になくなってしまうため、敢えて平仮名とした。なお、「漸く」を「ようやく」と書き下したが、現在では「ようやく」という言葉には何か良いことが始まるといったニュアンスがあるため、ここでの論旨と逆の意味に読めてしまう。ここでは「ゆっくり、じわじわと進行する」という意味にだけとるべきであろう。