クラシック音楽を知る話

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 2020-07-10 06:46:04,
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Last modified: 2020-07-15 21:05:37.

はじめに

これまでクラシック音楽については殆ど書いてこなかった。書くべき素養も経験も大してないという自覚があるからなのだが、アマゾンでクラシック関連の本を物色していると、あまりにも馬鹿げた本が大量に出版されてきている実情を鑑みて、やはりアマチュアなりに私見であろうと何か書いておくべきだと感じた。

月刊『CDay』

当サイトでプロフィールにも書いていた時期があったからご存じかもしれないが、僕は高校を卒業してから暫くは進学せずに東京で働いていた。1987年というから、ちょうどバブルの真っただ中で、アルバイトどころか正社員の求職ですら簡単で、大卒でもなかった僕の部屋にも、どうやって調べたのやら就職情報誌やそれらの特別号、あるいは企業が発行している求人プロモーションの冊子などが段ボールに入って運ばれてきたこともある。いわば学生から見て「超」の付く売り手市場であり、高卒を採用する中小企業ですら、会社説明会と称して高校生をハワイのホテルへ招待しなくてはいけないだろうなどと、人事担当者が真顔で議論していたものだった。そういう中で、高校時代に同人誌を自主制作していたり、父親が印刷会社で働いていたりした事情から、僕は印刷や出版・編集に興味があり、『FromA』で見つけた「デジタルネットワーク株式会社」という、神田神保町で起業したばかりの小さな出版社の編集アルバイトとして働くことになったのである。

昔からクラシック音楽を少しは聴いていたので、これから創刊するという『月刊CDay』という雑誌(入社した当時は、まだ雑誌名すら決まっていなかったが)のクラシック音楽を担当することになった。とは言え、商業誌の編集など初めての経験だから、数ヵ月は先輩の編集者に従って、一緒に AIWA が発売するという新型ラジカセの発表会へ取材に行ったり、他のジャンルで使うジャケットのネガを東芝 EMI やポリドールといった各社を回って借りてきたりという初歩的な仕事を色々とこなした。しかし、その先輩編集者は半年も経たない間に辞めてしまったので、後は編集長らに少しずつ教わりながら版下を切り貼り修正するような実務を教わった。当時の文字出力の主流は電算写植であり、まだ DTP は一部の印刷会社にしか導入されていなかった(とはいえ、それから10年も経てば DTP が主流となったのだが)。原稿を写植屋さんへ渡すと、指定した文字級数やピッチで印字されたシートが出来上がってくるので、版下となる厚紙にシートを割り付けながら、スプレー糊で貼り付けていくというのも編集者の仕事であった。もちろん、紙面に使う挿絵をイラストレータへ依頼して調達することもあったし、近くの写真専門の会社からレンタルしてきた風景写真を誌面の見開きサイズで背景に使って、後からサイズによってレンタルの料金が違うので安易に大きく使うものではないことを教えられたりした。(ていうか、よく考えたら入稿する前に版下をチェックしてなかったのかという気もするが。)

このような編集者としての仕事は、何度か書いたと思うが、実は2年も経たずに終わってしまった。『月刊CDay』の売れ行きが創刊号からずっと低調のままで、強力な競合であった『CDジャーナル』(音楽出版社、株式会社シーディージャーナル)や『CDでーた』(角川書店)などと肩を並べるまでには至らなかったわけである。たぶん、全国規模で数えても『月刊CDay』は数千部しか売れていなかったと思う。商業雑誌で数千などという販売部数のまま経営を続けていこうとすれば、一部の業界雑誌のように異様な高額で年間購読を取り付けてもらう他にない(30ページに満たない月刊誌の年間購読料が数十万円もしたりする)。結局、創刊してから1年半くらいで社長の個人的な資産(もともと音楽之友社で副社長をされていたという)も枯渇し、バブル期だったにもかかわらずファイナンスもうまくいかずに、会社を解散するという結果になった。そのあと、他の出版社を紹介されたり、自分でもいくつかの出版社を回ってみたが、さほど編集とか出版という仕事に魅力を感じられなくなり、大阪へ戻って進学したのである。

以上のような次第で、音楽雑誌の編集者をしていたとは言っても、僕は別にクラシック音楽の専門的な知識があるわけでもないし、数多くのコンサートやアルバムを聴いていたわけでもなく、一時期はギターやシンセサイザーも所持していたが、そもそも僕は学校で教わった以外の楽器が扱えないのである。つまり、音楽を奏でる側としても、音楽を聴く側としても、まったくの次元が低いアマチュアだ。しかし、クラシック音楽に限らず曲や歌などを楽しむこと自体は他人と同じような経験はもっている。小学生の頃は毎週のように『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』を観ていたし、10年ほど前までは連れと一緒に深夜の CDTV も観ていた。そういう平凡な経験だけは多くの人々と共有しているし、それなりに思うことは昔からあるので、冒頭で書いたような状況を見て思うところを書いても、賛否はともかく何を言っているのか理解できないというほどの奇妙な議論にはならないだろう。

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「クラシック」音楽を聴くこと

まず、「クラシック」というジャンルの音楽を聴くということがテーマになっている本は、実に数多く出版されている。しかし、そもそもそういう本を読もうとする人は、どういう事情で特に「クラシック」というジャンルの音楽について知る必要を感じているのだろうか。もちろん、教養として知っておきたいという理由でもよいし、授業で教わっているから少し詳しく知りたいという理由でもいい。こういうことは、何も能動的な理由がなければ不純だというわけでもないし、場合によっては思い込みにもとづく能動的な理由で本を読んだり音楽を聴く方が、本人にとっても有害だったりするからだ。

しかし一つだけ最初に強調しておきたいのは、自分にとって馴染みがないから知識を得ておこうという動機は良いとしても、それで得た知識は他の「馴染みがある」何かと比べて「同じていど」のものなのかどうかということだ。特に音楽の他のジャンルとの比較で言えば、クラシック音楽の本を1冊読めば、あなたが演歌や歌謡曲についてもっている知識と「同じていど」の知識になるのだろうか。僕は、そういう思い込みは良くないと思う。たいていの人は、たとえ子供の頃から何百回と耳にしてきたり口ずさんできた経験があろうと、童謡や歌謡曲について殆ど何も知らないと言っていいからだ。そもそも、クラシック音楽の解説は大半が音楽理論や音楽史の解説にもなるのだが、「めだかの学校」(茶木滋/作詞、中田喜直/作曲、1951)の調性を答えられない人がクラシック音楽の本で調性を教えられたところで、いったい何が「同じていど」に分かるというのか。(ちなみに、「めだかの学校」のオリジナルではニ長調である。ハ長調は伴奏用として使われる。)つまり、僕らはそもそもサザン・オールスターズや前川清の歌だとか、ポール・マッカートニーやボブ・ディランの作る曲についてすら、殆どそうした本を読む前のクラシック音楽と比べて、それこそ「同じていど」にしかものを知らないのである。よって、もし自分がクラシック音楽を知らないから知りたいということであれば、そういう意欲は称賛に値するものの、それは自分が親しんでいると思っている他のジャンルにも向けるべきだと思う。プラシド・ドミンゴについて調べるのはいいが、同じように氷川きよしについて調べてもいいはずである。

つまり何が言いたいかというと、単なるコンプレックスでクラシックについての素養を得たいというなら、それは自分自身についての錯覚による間違った理由なのだから、もっと自分が何を知っているかわきまえる必要があるということだ。もちろん、それを知るためにも音楽の理論なり音楽の歴史を学ぶことは正しい。そこにあるのは、望むべくは特定の時代や国や文化に捉われない「音」や「歌」や「曲」の話だからだ。そういう知識を概括でも得ておくことが、自分自身の知っていることや、まだ知らないことを見定めるための良い出発点になり、クラシック音楽について本当に何かを特にもっと知らなくてはいけないのかどうかを判断するための基準になるだろう。僕は、そういう意味で言っても、どのジャンルについても十分な知識や情報はもっていない。しかし、それゆえにあらゆるジャンルの音楽を聴くのに躊躇しないのであり、雅楽だろうとボサノバだろうとヘビメタだろうと河内音頭だろうと、何の関係もない。

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クラシック音楽について初心者が読まなくてもいい本

僕は専門的な音楽の教育を受けていないので、音楽家を志望する人の参考になるような素養も知識も情報も経験もなく、それゆえ、ここではプロパー(志望者)にとって有益なことは何も書けない。その代わりに、中学生の頃から FM ラジオでクラシック音楽の番組をエアチェックしたり、音楽雑誌に少しだけ関わったり、あるいは飯森範親さんを初めとするクラシックの音楽家に接したことがある一人として、なにほどかのアドバイスや批評を書いておこうと思っている。見ている限り、クラシック音楽に関する出版物の酷さは、僕のような言わばアマチュアから見ても批評を書き残しておきたくなるほどの様子となっているのだ。

まず、初心者向けに発売されてはいるが、実は初心者が買わなくてもいい本というものがたくさんある。その筆頭は、次のようなものだ。

無益な本

まず、クラシック音楽を色々と知りたいという方は、いわゆる「名盤」とか「名演奏」などという言葉を無視するべきである。僕らが耳にする演奏とか歌というものは、プロの歌や演奏であれ、場合によっては体調が悪いときのものだったり、気分が優れないとか、演奏メンバーが入れ替わったばかりで調整が不十分だとか、色々な理由で「ベスト」とはいかないものである。テレビの歌番組を観ているなら誰でも知っていると思うが、たいていのアーティストのパフォーマンスは CD や MP3 の音源としてスタジオで録音した歌や演奏から編集して出来上がった商品としてのパフォーマンスとは違っているし、中にはライブで演奏したり歌うと上がってしまい、ロクでもない結果になる人もいる。しかし、僕が思うには音楽とはそのどれでもある。商品として編集された音声データの再生する曲も音楽には違いないし、酒場やテレビ局のスタジオやカラオケで歌っているのも音楽だ。こうしたことに何か本質的な違いがあるかのように思い込むのは、悪い意味の「アカデミズム」というものであろう。よって、ツタヤで適当に借りてきたクラシックの CD が「名盤」のものでないとしても、何の問題もないと思う。仮にそれがフルトヴェングラーによる戦前の演奏をリマスタリングした記録のような体のものだったり、聞いたこともないような無名の演奏家による CD だったとしても、良い曲であれば聴くに値するだろうと信ずる。それは、『白木屋』の店内でほろ酔いの連中が合唱している歌を迷惑がらずに聴いている人たちの心境と何も変わらないからだ。そして、僕が思うには欧米の人々と日本の人々とがクラシック音楽について感じている印象の差は、こういうところにも表れていると思う。

次に、吉田秀和さんと言えばクラシック音楽の評論家としては大家と言ってもいいが、それでもこうした《たかだか十進法で丁度というだけの数》で数えて曲を勧めるという態度は、僕は哲学者として許容しかねる商業主義的な愚行だと思っている。言い換えれば、そうした《キリ番》を唱えても許されるのは、よほどの努力を積み重ねないと達成できないような数に限られる。したがって、『クラシック音楽の名曲 50,000 選』とかだったら(「選」とは書いているものの、そもそもクラシック音楽の作品が古今東西を合計して、それ以上の数で存在するのかどうか知らないが)、50,000 曲を聞けば重大な偏りや不足や聴き過ぎになっている誤差の割合が非常に小さいと想定できる。だが、100 とか 300 とかだと、不足しているとか多すぎるとか偏っていると言いうる曲の数が、選ぶ批評家が誰であるとか、どういう時代に選ばれたのかとか、あるいはそういう選択を出版する動機がなんであるかという影響によって、それぞれの出版物を比較すれば、異同の割合が全体の1割や2割に達する可能性があろうから、どういう本を読もうとも重大な点で偏っている可能性がある。(もちろん、凡庸な選者に比べて吉田さんならば9割ていどは他の選者と共通する曲を選択しているだろうと期待できなくもないが、それは単なるハロー効果の可能性もある。なぜなら、そういう推定には実際には根拠がないからだ。)

そして素人向けの本として多いのが、右の二冊がそうであるように、音楽家や曲の裏話というかゴシップを集めた駄本である。もちろん、音楽史や音楽家の評伝にも掲載はされる事実だろうから、そういうことを知らなくてもいいとか隠すべきだと言っているわけではなく、そんな話を真っ先に読もうとする人は、おそらくクラシック音楽に本当は興味なんてない筈だと言いうるからだ。更に言えば、クラシック音楽を芸術学だの対位法だの和声理論だのという理屈として理解することも重要だが、それは一定の脈絡や必要に応じての重要性であり、誰にとっても重要だと断言しうる根拠はない。単純に言えば、音楽作品なんてものは聴いてみて好きか嫌いかの問題に話を煎じ詰めてしまっても良いと言えば良いのであり、そういう話に煎じ詰めた末の評価に耐えられない作品を駄作だと言って何がいけないのか、というわけである。そこに、いやブラームスのこれこれは彼が青年時代の経験を反映させることによって表現された印影を表しており云々とか、ビゼーのこの曲は対位法という点から言ってどうのこうのうと、まことしやかな蘊蓄を重ねたところで、人は説得や論証で芸術作品の良し悪しを理解したり決めたりはしないものであるし、芸術も人の社会が生み出す成果物の一つであるからには、それで良いのだと僕は思っている。もちろん、それは芸術家や批評家やアマチュアが物事の良し悪しを決める基準を作り上げる際に大衆に迎合しろという意味ではないし、商業主義を擁護する意図でもない。この点については、上記のような本を不要だと言っているのだから、僕の意図が誤解されることはないだろう。

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僕が勧めるクラシック音楽への導入

僕の経験した範囲で言えることにすぎないのは確かだが、かなり簡単で多額の費用もかからない導入の仕方は、まずクラシック音楽の歴史を体系的に解説しているか、あるいはクラシック音楽の作品を総覧的に取り上げて解説している、それなりの分量の本を一冊でもいいから買うことだ。これは、先に吉田さんの本を批評したときに書いたことと同じ趣旨で言っている。つまり、クラシック音楽というジャンルの成果として十分な数の情報が納められている本を持っていれば、多すぎるとか少なすぎるとか、紙面の都合でどうのこうのと本質的でない理由で収録数を切り詰めるといった不合理によって、知るべきことの範囲を勝手に狭められたりしていないと想定できるからだ。そして、多すぎるという点については、少なすぎるという点よりも心配の必要はない。少なすぎると、情報そのものが本に無いのだから、どれをどう補えばいいのか素人には全くわからない。他の本をたくさん読んで書き足せばいいか? でも、それを足していいと何冊読めば判断できるのだろう。それに比べて、多すぎる場合は他の本とも照らし合わせてゆくうちに、この曲は多くの人にとって名曲ではないと考えられているとわかるので、《脇に置いておく》ものとして逆に明示的にわかるような対応が(書き足さないといけない場合に比べたら簡単に)とれるからだ。もちろん、それは当人の好き嫌いとは関係がないので、他人が評価していないからといって、その曲の項目を塗り潰すなどということは愚行と言っていい。そうするべきかどうかは、自分でその曲を聴いてから決断するべきだろう。また、年齢が変わると好みが変わることもあるから、塗り潰すまでもなく印を付けておく程度で十分だと思う。

クラシック音楽鑑賞事典 実家に置いてある方がボロボロになったため、買いなおした

僕が高校時代に愛読していたのは、神保璟一郎さんの『クラシック音楽鑑賞事典』(講談社学術文庫、1983;初版は1934)だ。事典とは言っても索引がなくて簡単な用語集が付いているくらいの本である(なお、初版は昭和9年というから80年以上も前であり、講談社学術文庫版は神保さんが没した後の発行らしい)。とはいえ、音楽史や世界の楽団についての概括的な紹介も含めた、初心者向けとしては体系的で分量も十分な著作だと思う。こういう本を一冊だけ持っていればいいのであり、他に必要なものがあるかと敢えて言えば、それはクラシック音楽の本と言うよりも世界史の教科書であろう。

そして、このような本を手掛かりに、いまでは YouTube や SoundCloud やインターネット・アーカイブといったサービスでクラシックの作品でも無料で聴けるのだから、片っ端から聴いていけばいいのである。僕らが高校生の頃は、こういうサービスはなかったので、無料でクラシックの曲を聴ける場所といえば、高校の音楽室で先生に頼み込んでレコードを聴かせてもらうくらいしかなかったと思う(僕も、何度か音楽の先生に頼んでレコードを聴かせてもらったことがある)。それから、昔は大阪は日本橋なら音響機器専門店や電化製品の大型店舗に入っている音響機器コーナーでも、多少の時間はかかっている曲を聴けたとは思うが、自由に聴けるわけでもない。それに、もうそういう店は殆どなくなってしまった。そういうわけで、現在はウェブに膨大な数の曲が公開されているので、それこそ上記で紹介した『事典』に掲載されている曲を全て無料で聴けるかもしれない。ただ、闇雲に『事典』の最初から聴くのもいいが、それだけではなく、クラシック音楽の FM 番組やポッドキャスト放送を聴いて、その日に紹介された曲をたまたま聴くという贅沢な偶然の機会を作るのも良いと思っている。僕も、「アルビノーニのアダージョ」のような曲を初めて知ったのは、FM 放送を聴いていたときだった。そして、そういう曲を知りえた偶然をいまでも喜んでいる。

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