名詞化した動詞連用形の独立的用法について

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 2013-02-06 22:25,
Modified: 2014-04-17 16:13,2021-04-27 10:28:29,
Last modified: 2021-05-02 07:43:58.

私が開発した類似画像検索エンジン「IMAGE VORTEX(3D)」は、「気づき」をキーワードにしている。大量の画像データを俯瞰(ふかん)する形で見せて、個々の情報がもつ潜在的な共通性を浮かび上がらせる。そこから情報にまつわる知識や記憶を呼び覚まし、必要なものにたどり着かせることが、本エンジンのコンセプトである。これらは、2007年にテレビ東京の番組「ワールドビジネスサテライト」の中で、3分間弱放送された。(取材撮影は4時間半だったが〈笑い〉)。

ハイライト『長谷山 美紀 氏(北海道大学大学院情報科学研究科 教授) - 『社会変えるインフラに - ソーシャルメディアの未来』」[sic:括弧がおかしい]

僕は上記のような文章を読むと「気づき」という言葉の語感が気になる。このような表現は日本語学(文法)で「名詞化した動詞連用形の独立的用法」と呼ばれる(長いので、以下では単に「動詞連用形」と呼ぶが、単に動詞連用形と言うときは「(川の)流れ」のようにコロケーションが限定されている表現を特に指している場合もある)。他には「試み」「安らぎ」「行い」のような事例があって、独立的用法ではなく複合的用法になると、「取りやめ」「話し合い」「立ち読み」のような事例がある。これまで僕はソーシャルメディア上の投稿で、これらの動詞連用形を「組合用語」とか「NHK用語」などと揶揄してきたが、何も労働組合員や NHK のニューズ原稿担当者だけに特異な用法なのではない。

動詞連用形が語感として気になる理由を自問してみるに、上記の長谷山氏の文章では何について「気づき」をキーワードにしたのかが不明確だと思う。開発者のコンセプトなのか、それとも IMAGE VORTEX という検索エンジンに実装されたアルゴリズムなのか、あるいは両者とあまり関係のないキャッチフレーズにすぎないのかが明確ではない。もちろん、上記が不明確であるのは動詞連用形という用法の語を使っているせいだけではない。動詞連用形だけではなく、「キーワードにしている」という表現の曖昧な使い方も内容が不明確だと思える要因ではないか。つまり、「気づき」を設計コンセプトにして開発を始めたのか、出来上がったものを説明するためのキャッチフレーズとして考え出されたのか(つまり、「気づき」という語は原因なのか結果なのか)がはっきりしないのである。

なるほど、そうしたポイントを明確にしたくないからこそ、敢えて不明確な語を使ったり、曖昧に言葉を使うのだという「リアリズム」からの説明も一理あるだろう。こうした用法を目にするたびに書き手の日本語能力を疑ったり、読み手を煙に巻こうとしていると疑っていても、面倒なだけである。しょせん、凡人が書くものを凡人が理解しようとするのが「コミュニケーション」の典型であるから、こちらも理解力が大してないという前提であってみれば、相手の日本語能力にも何らかの下駄を履かせたり善意の解釈を採用しておくべきだろう。

しかし語感としては気になる。なぜなら「試み」や「気づき」といった動詞連用形を目にしたとき、それを為している者が疑うべき点のない善意のようなものを前提しているように思えるからだ。ここには、宗教者や市民団体の活動家や福祉事業者が講話や勧誘や演説でものを語っている様子を見ているときの気持ち悪さに似たものがある。全てが和語であるから、まずもって表現として「やさしいでしょう?」という、思い込みで啓蒙活動をしている人たちに特有の傲慢さも感じられるし、人によっては漢語ではなく和語を専門用語のように使われると、バカにされたような気がして嫌悪感を抱く人もいるはずだ。官公庁の文書に見られるキャッチフレーズなどに動詞連用形が使われる場合は、人にこういう印象を与える事例が多いと思う。

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追記:2021年4月27日

このところオンラインの雑誌や新聞サイトの記事で、「学び」という表現が頻繁に使われている。もともと、僕が本記事を書いたきっかけも同じなのだが、このような表現の違和感というか、「学び」については押し付けがましい思い込みで書いてるくせに温和な善人を装っている体の嫌悪感は、何が原因となっているのだろう。僕が特定の表現に何らかの悪い印象を抱くという事実は、その指し示している意見や行いの是非とは(いちおう)関係がないかもしれない。よって、このような違和感や嫌悪感を僕がもつということに(物理的・心理的な機序はあるにしても)妥当性などない筈であり、これこれこういうプロセスで僕の脳が違和感を覚えると発生論的に説明したところで、僕が違和感をもつ当の対象である誰かの発言いわんや意味されている意見や行いの是非や善悪を決めるだけの根拠にはならないだろう。

それに、僕はこのような表現は或る種の sexism ではないかと思う。封建的で「男性的」な漢語表現を排した、いかにも「女性的」な言葉遣いに思えるからだ。もちろん、僕自身がそういう sexism に陥っているという批判はありえる。たとえば、「或る言葉が差別的だと思うのは、あなたがその言葉で差別しているからだ」などと言って、差別表現の糾弾に反論する人々がいるからである。しかし、或る言葉が特定の意味合いをもつと理解することと、その言葉で特定の意味合いで何かを語ることは別である。もとより差別に反対し差別しないように心がけるということは、性根や考え方において差別しなければそれに越したことはないが、まずもって判断や言動に反映させないことが第一の目標であろう。Twitter で見かける愚劣なリプライや下らないブログ記事を眺めて「無能」とか「クズども」と思うことはあるかもしれないが、まず重要なのはそれを Twitter で気軽に投稿したり、誰かの評価に何の根拠もなく反映させないということが大切だ。よって、「学び」とか「試み」といった(僕が思うには)ナヨナヨしていて〈女性的〉だと僕が思う表現について、僕がそう思うこと自体は否定のしようがない。そして、それを理由にして sexism だと指摘したとして、僕が「学び」という表現を〈女の腐ったような日本語〉だと感じなくなるわけにはいかないのである。重要なのは、僕がそう感じるからといって「女性的」な表現〈だから悪い〉とか、逆に「女性的」な表現〈だから素晴らしい〉という思考に陥らないことであろう。

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追記:2021年5月2日

書き忘れてしまっていたことが一つある。この「学び」という言葉遣いに感じる奇妙さというか胡散臭さは、この言葉を使う人間が最初は圧倒的に教育者や役人(加えて、文科省案件を担当してるコンサルとか広告代理店とかシンクタンクが〈黒幕〉としていたりするわけだが)であり、学生や生徒の側で使っている人も増えてきたが、その多くはステレオタイプ的な優等生タイプの人々だったりする。自分たちでは socially aware(最近の流行語では “woke” と言う)か何かだと思ってるのかもしれないが、結局はパターナリズムに回収されているだけである。

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