ジョギングと自転車走行の倫理学と生理学

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

Contact: takayuki.kawamoto (at) gmail.com.

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First appeared: 2018-11-12 11:32:09,
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はじめに

本稿は、当サイトで僕が「歩行論」と呼んでいるアプローチを前提にしている。歩行論を手短に言うと、公道で無知・無教養・無頓着(もちろん、これは当人に悪意があるとは限らない)な振る舞いをする人々から、どのようにして被害を負わされずにやり過ごすか、そしてどのようにして愚かな人間を見かけてもイライラせずに心を平穏に保つか、また場合によっては相手に愚かなふるまいをどう自覚させるかといった、刑事法学(道路交通法など), 社会心理学, 認知心理学(交通心理学), 脳神経科学, サバイバル技術, トレッキング(歩く技法の参考になる), 倫理学, 生理学, 社会学などにもとづく体系的な議論のことである。こういう、僕らのような凡人が自分の生活そのものについて厳密な知識を得たり議論をするような機会をつくったりテーマを設定することは、不当な権力や権限をもっている宗教家や為政者や広告・マスコミ業界の人間、そして実は多数の物書きや学術研究者にとっては好ましくないことであり、それゆえこのような「既成の枠組みに捉われない」アプローチは、行政や出版社や大学行政が積極的に出版物の題材や研究・議論のテーマとしないため、少なくとも出版業界や大学と利害関係のない、僕らアマチュアが押し進めなくてはならない*。ともかく、本稿で扱っているような事例は日本語で書かれたページには殆ど見つからず、ジョギングについてヒットするのは、もちろん圧倒的に多いのは「健康」にまつわるロクでもない小噺の類だが、それ以外にはジョギング走者が車にぶつけられないための安全策とか、企業経営者がジョギングすれば売り上げが伸びるといった御伽噺が関の山だ。

*もちろん、アマチュアにも「独立研究者」などという肩書を捏造して既得権益のおこぼれをいただき、どこそこ書店から立派な(装丁の)本を出版したがる人々もいるが、もともと学問や思想の習得・伝達・研鑽に大学の建物や科研費や出版社やマスメディアなど必要ないのである。たとえ大型の高エネルギー加速器といった高額の予算を必要とする分野であっても、その必要性を説明し、説得し、理解する人さえいれば、国家予算の一部を投じるのに何の論理的な矛盾もない。もちろん、その選択が「正しい」という保証はないが、少なくともそういう手続きで物事を決められる人々であれば、利害関係や人間関係、あるいは凡人が考えるていどのしょーもないイデオロギーに固執せずに、失敗したときに他の手立てを選び直したり、やり方を改善する努力はできるだろう。

また、おうおうにして「既成の枠組みに捉われない」などという形容を一種の誉め言葉として使う人々もいるが、そもそも学術研究に「枠組み」など最初から存在しない。「物理学」とか「家政学」などというものは、高等教育制度や学界といった利害関係や行政システムを基準にしているだけの約束事や慣習にすぎないのである。そういう約束事から可能な限り自由な観点(あるいは約束事を不問のままにしない観点)を得るためにも「哲学」と呼ばれるものが必要だとされてきたのだが、最近では哲学すら、ラノベかと思うような表紙の本で、特に才能があるわけでもない若造が人生相談に応えたり、AI などに関するロクでもないエッセイを書き殴ったり、あるいは古典的な業績を摘み食いしたまとめ記事のような本を書くという意味になりつつあるようだ。

僕は、それこそ小学生の頃から、公道の路側帯や歩道あるいは公園内の遊歩道で我が物顔に突進してくるジョギング・ランナーや自転車に乗る人々(自転車の場合は走ること自体を目的にしているトレーニング中の人だけではなく、買い物や子供の送り迎えで通行する人も含むので、「ライダー」などとは言わない)の振る舞いに困惑してきた。もちろん、どういう物事にも例外はある。全てのランナーや自転車乗りが傲慢な振る舞いをするわけではない(僕もかつてはロードレーサーの愛用者であり、傲慢な振る舞いをした覚えはない)。しかし、大多数のランナーや自転車に乗る通行者は、まるで公道に「あたし専用のレーン」とか「俺たちの道」でも作られているかのように、全く歩行者を避けもせずに突進してくる。場合によっては、わざと会話に熱中するふりをして、道を占拠するくらい多人数で横一列に並んだまま走って来る(これを小学生の頃は「Gメン75」と呼んでいた)。そうして、昨今ではウェアラブル端末しか眺めずにうつむいて走ったり、イヤホンを装着して通話したり音楽を聴きながら走る人も増えた。今日(2018年11月9日)の朝に NHK の報道番組では「骨伝導で音楽などを聴くことができる帽子」を紹介し、ジョギング・ランナーの感想として「ジョギングに集中できる」などと紹介していたが*、彼女らランナーや自転車乗りが道路交通法や社会常識を軽視し、ジョギングや自転車の操縦と音楽や会話だけに「集中」することこそ、まさに公道で起きる歩行者とランナーの衝突事故の主な原因なのである

*この帽子を開発している企業のページには「外部の音を遮断しないので、常に耳が開いており、音楽を聴いたり、自転車に乗る時又はジョギングをする時、外部の音を聞くことができる」と説明されているが、周囲の環境音に加えて音楽や英会話の教材を「聴く」のだから、注意が散漫になるのは確実であり、外の音が聞こえる〈ていどのこと〉などは何の言い訳にもならない。こういう、テクノロジーおたくが作るクズみたいな製品の設計には、音の数や種類が増えても人は同じ注意力でマルチタスクを続行できるなどという、いまどき SF マンガでも採用しない愚かなファンタジーしか前提とされていないのだろう。骨伝導などという、何年も前から既に実用化されている古臭いテクノロジーなど、何の解決にもならない。それこそ、骨伝導のイヤホンが従来のイヤホンを置き換えるような売上の規模では全くないという事実が、イヤホンという器具に対するニーズ(外界の音を寧ろ聞きたくない)が何であるかを正しく表しており、イヤホンによって確実に注意を散漫にすることが分かっていながら商品として提供しなければいけないというジレンマ(これがジレンマだと理解しているかどうかはともかく)こそ、問題の本質なのである。

もちろん、中には何らかの経験によって自分の無知や無頓着に気づく人もいるだろう。しかし、まずもってジョギング・ランナーに法を説くことから始めるのは下策である。なぜなら、このような人々は自分たちのやっていることに落ち度があるなどとは露ほども想像していないので、急に自分たちが「反社会的」とすら言えるような思考と行動に陥っていると指摘されると、彼らにもいちおう多細胞生物としての些細なプライドはあり、そして安っぽいプライドは簡単に自己欺瞞としての自己正当化を引き起こすため、たいていにおいて反撥心を生じるからだ。よって、まず僕たち歩行者(もちろん、僕らの方がランナーよりも崇高な目的のために生きている「上級の」人間だなどと言いたいわけではない)として心得ておくべきなのは、こういうジョギング・ランナーや自転車(とりわけロードレーサー・タイプ)に乗っている人が陥りやすい心理である。それに応じて、行政が何らかの注意を促すなり、僕らが道を歩くときに注意するなり、対処の仕方を検討したり選択すればよいだろう。相手にいきなり怒鳴ってもいいのは、それこそ犯罪行為をしようとしている場合だけだが、これから人を轢き殺しますという自転車など判断がつかないし、これから歩いている老人に後ろからぶつかりますなどという兆候を示しながら走るランナーなどいまい。そして、仮にそれらの人物がまさに誰かへぶつかったり誰かを押し倒そうとしているからといって、うかつに声を上げていいかどうかは別の問題だ。なぜなら、今度はこちらを標的に何らかの行動を起こしたり、あるいは犯罪行為に至らなくてもこちらの顔を覚えるかもしれず、僕らが巻き込まれる恐れがあるからだ。公道で無頓着にふるまうような人間など、どのみち家庭や会社や駅やファミレスや菩提寺やラブホテルなど他の場所や状況においても、社会人としてまともな思考や判断力があるのかどうかは疑わしい。もちろん「一事が万事」という可能性を保ちながら、ジョギング・ランナーを不当に差別するまでには至らないように考えたり振舞うのが「正しい大人」というものだが、他方でわれわれは正しさのために身を殉じる必要などない。自分自身の判断だけではなく、多くの他人の評価や合理的と思える基準に照らしても危険だと思えるならば、特定の条件だけで振舞う特殊な行動をとっている人と同じ条件にある人々を、グループとして差別的に扱うことに何の違法性もないだろう。そして、そう考えているからこそ、僕はこういうページを書いているのだ*

*もちろん、僕が、ルールを守ることへの発達障害的な執着によって過敏になっている可能性もあろう。しかし、実際に調べてみるとジョギング・ランナーや自転車乗りの振る舞いに困惑して感想を書いている人は少なからずいるし、発達障害であろうとなかろうと、困惑する人が多ければ是正するべきであろう。その結果、一方で発達障害の人にとって都合のいい社会になっても他方で「健常者」には大きな不利益があるというならともかく、恐らくそんな不利益は存在しない。仮に「ある」としても、それはせいぜい一部のリバタリアンや差別者の妄想の世界においてだけだろう。発達障害を含めて認知機能に一定の問題があるとか、あるいは障害が無くても端的に勉強できないとか勉強しなかったというだけで生き辛い社会にするのは「良くない」ので、どうすれば「良い」かは哲学者も一緒に考えるべきだが、犯罪者や不当な地位を得ている人間や差別的な人間が生き辛い社会になろうと、そんなことはわれわれ哲学者の知ったことではない。犯罪や差別を引き起こすような考え方を改められないなら、生物学的にも社会学的にも法律としても正当な社会防衛の理屈から言って、われわれはそういう人々を特別な人間関係に置くか、隔離するか、あるいは処罰するしかないのである。

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“jogger rage”

では、まずこのような事案について書き留めている人の文章を紹介することから始めよう。

私がジョギング・ランナーとして歩道や公園を走ってきた年月のあいだ、ジョギング・ランナーが逆上する瞬間を見かけた回数がどれほどだったかなんて、忘れてしまうくらいの数に上る。強引なランナーが歩行者を怒鳴り散らしたり、車のドライバーに向かって拳を振り上げて怒りをぶつけたり(あるいは車のボンネットを叩いたり)、または「市民マラソン」でゆっくりと走っている人たちを感情に任せて肘で押しのけたりするのだ。

こんなふうに感情に任せて自分の走りだけに固執するようなランナーは、社会の恥である。こういう人たちは、「ライクラを着たクズども(“lycra lout”*)」と呼ばれた不愉快な自転車乗りたちのことを思い出させる。この連中ときたら自己ベストタイムを叩き出すことだけに執着し、週末の脇道や幹線道路を駆け抜けて大混乱を引き起こすのだ。それに比べて、逆上するランナーたちの振る舞いは、これまでずっと見過ごされてきたのである。

[Newkey-Burden, 2017]

*“Lycra” はデュポン社が開発・発売した弾性繊維の商標であり、伸縮性に優れいているため、自転車用の競技ウェアとしても採用された。現在は「スパンデックス」という一般名称になっているが、「ライクラ」を着た自転車乗りが公道で横暴な乗り方をしたことから、イギリス英語で “lycra lout”(“lout” はイギリスの俗語で「粗野な奴」のこと)というフレーズが使われるようになったという。

日本では、ここまでの人を見かけるのは難しい。しかし、ジョギング・ランナーの多くがライクラなど着ていなくても「クズども(侮蔑語は「野郎」と書くことが多いが、実際には女も同じくらいクズだらけだ。クズに老若男女や人種・時代の区別などない)」であるのは事実であり、「一部の人たちだけがやっていること」などと、公正な態度を気取る評論家ヅラして事態を過小評価する人こそ(こういう人に限って丁寧な調子で文章を書く)、歩行者も含めた社会全体にとっての危険を隠蔽するような人物だと見做すべきであろう。

Police hunt jogger after woman pushed into path of oncoming bus

上記の画像はロンドンで撮影されたものらしいが、ジョギング・ランナーが歩行者を車道に突き飛ばし、そのまま立ち去ったという。記事の最後にランナーの風貌が書かれているため、このランナーは今でも「健康」のためか、あるいは「自己記録」などという些末なもののためにロンドンを走っているのかもしれない(容疑者が特定できないまま捜査は終了した。“A police investigation to find a jogger who pushed a woman into the path of a bus on a bridge in London has been closed.”)。これは、高校で陸上部に在籍し 200m と三段跳びをやっていた(そして出身校の学内記録を一度は書き換えたことがある)僕のような陸上競技の理解者・愛好者でも言えることだが、オリンピックに出場するわけでもない無能の「自己ベスト」など、何の意味もない。それこそクソみたいなものであり、iPhone アプリに「1」とタップするか「2」とタップするかの違いでしかない。つまりデータのバイナリの違いでしかなく、当人にとっての生理的な効果も殆どないのだ。

アマチュア・ランナーが自己ベストを更新して気分が良くなろうと、末期癌で死ぬのが1時間ほど先に延びるわけでもなければ、癌になるリスクが有意に下がるわけでもないのである。ジョギングが「健康」などという怪しい言葉に関わっているからには、いまのところどうとでも解釈しうる。そして、ジョギングに関してランナーの多くが自分で調べもせずに盲信している(そして、それゆえ、自分には幸福を追求するための〈ジョギング権〉のような特権でもあるかのような、傲慢な振る舞いをするのだろう)のが、ジョギングをすると健康になる、または健康を維持できるというデタラメだ。更に、もちろんロクでもない企業のロクでもない経営者が1時間走ろうと3時間走ろうと売り上げなど無関係だし、「頭の回転がどうの」などと非科学的なこと(脳神経科学の測定結果として出る違いなどというものは、人の行動の結果において有意な差に寄与しない)を言っても、われわれのような科学哲学者には無意味である。

そもそも、ジョギングを「簡単」だとか「ストレス解消」になると書いているオンラインの夥しい数のコタツ記事(素人がコピペや思い込みで書く記事。もちろん専門職のジャーナリストや学者も、たいていは無能なので、このレベルの記事をよく書くわけだが)には、その簡単さこそが、社会常識の軽視へと簡単に陥りやすい原因になっているという観点が完全に欠落している。そして、ストレス解消や、いわゆる「ランナーズ・ハイ」の実態が、他人を押しのけたり、対面から歩いてくる人々に道を譲らせる優越感によるものだという可能性があるという観点もない。それから、スマートフォンの画面を眺めながらバカみたいにゆっくり歩いたり立ち止まることによって、通勤ラッシュ時の多くの人たちの通行をあらゆる場所で遅滞させている連中と同じく、このような利己的行動を「個人主義」と混同し、このような人々の放埓な思考や行動を尊重し批判しないことが「自由主義」や「民主主義」なのだと思い込みながら育った世代が、既に高齢者にまで達してしまっているのが日本という国なのである。

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その昔、私たちの血筋に加わった時代には祖先の利益にかなっていたけれど、現在ではかならずしも私たちの利益にかなっていない感覚だ。運転中にキレる「路上の逆上」もその一つだ。不当に扱われたり侮辱されたりして、相手に制裁を加えたくなるのはなんとも人間らしい。それに正直なところ、他人にむっとさせられたことにあまりいい気持ちはしなくても、怒りを感じること自体はそれほど悪い気分ではないはずだ。これなら自分がむかついてあたりまえという感覚だ。ブッダは、怒りに「毒の根と蜜の先端」があると言った。

[...]

察しのいい人は、現代の道路上でこの感覚にとらわれることがどんなにばからしいかすでに感づいていることだろう。運転中に無礼な運転手に遭遇してこらしめてやりたくなっても、相手はもう二度と会うことのない人間だし、あなたが仕返しするところを目撃するほかの運転手も二度と会うことのない人たちだ。だから、怒りに身をまかせても得になることは一つもない。損失はといえば、時速一三〇キロで相手の車を追いかけるのは、狩猟採集社会で殴りあいをはじめるより、自分自身が命を落とす危険が大きい。

[ライト, 2018: 45, 46]

しかし、われわれ多くの歩行者は、他の無礼で無神経な歩行者や自転車乗りやジョギングのランナーたちと毎日のように接しており、たとえそれが毎回のように別人と入れ替わっていようと、被っている迷惑には変わりがない。ライトが取り上げているのは、要するにアメリカなどの地方都市をまたぐハイウェイなどを走っている、たいていは付近の住民ではなく年に何度も当該の道路を走行しないか二度と走行しないであろう、ゆきずりの観光者や長距離輸送トラックの運転手などとの人間関係である。したがって、そのような状況においては、相手がどのように無礼な人間であろうと、たったいちどだけの関わりで相手に何らかの報復を実行するのはコストが大きく、だいていにおいて損失の方が多いのは当然であろう。無神経な振る舞いというものは、つまるところ抑制や冷静さを保つというコストを払わないということなので、良識に沿った振る舞いや報復的な振る舞いという自発的に何かをコントロールしながら実行する振る舞いに比べて「低コスト」であるのは自明だと言えるからだ

したがって、子供の親として振舞っている人々が典型であるように、常に抑制の効いた、「高コスト」で、冷静かつ良識的な思考や判断や振る舞いを続けられる人が殆どおらず、或ることには慎重で冷静な態度をとっていても、他の或ることには全く頓着せずに無礼な態度をとる人が多い(というか、ほぼ全ての凡俗の親というものはそうであるほかない)のは、ごく自然なことだと言える。自分の子供が乗っている三輪車の安全は気にしても、その三輪車が対向から歩いてくる老人に道を譲らせたり、他の子供の足を踏みつけながら走行していても、だいたいにおいて凡俗の親というものは他人の受ける被害を過小評価しがちであり、自分の子供が受ける被害に比べたら他人の迷惑など大したことはないと思い込む傾向があるからだ。しかし、昔はそうではなかった。下層階級の子供が往来で無礼な振る舞いをすると、相手が子供の顔を殴ったり蹴り飛ばして即死させたり、場合によっては切り捨てられていた可能性があるからだ。しかし、現在は往来で無礼な子供を大人が叱り付けることすら「子供の人権」を侵害するだのと顔を真っ赤にする人たちがいる始末だ。もちろん子供に暴力をふるったり大声で恫喝するのは犯罪や異常な行動だが、教え諭したり叱り付けるだけで、「他人の子供に勝手なことをするな」などと、しつけも満足にできず、長期にわたってセックスの後始末をしているにすぎないだけの連中が親を名乗って抵抗し、自分たちの無礼など全く忘れてしまったかのように被害者ヅラしはじめるのが「民主国家」というものらしい。

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References

有森 (2015)
有森裕子「ランナーのマナーがランニングの未来を左右する:歩行者のことを考えて走っていますか?」, 日経Gooday, 2015-09-03, https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/column/14/091100001/082100015/ (accessed on November 9th, 2018).
Kuzma (2017)
Cindy Kuzma, “The Rise of Run Rage,” Runner's World, 2017-02-28, https://www.runnersworld.com/health-injuries/a20847875/the-rise-of-run-rage/ (accessed on November 9th, 2018).
Newkey-Burden (2017)
Chas Newkey-Burden, “Jogger rage - why runners are getting more aggressive,” The Telegraph, 2017-08-09, https://www.telegraph.co.uk/health-fitness/body/jogger-rage-runners-getting-aggressive1/ (accessed on November 9th, 2018).
ライト (2018)
ロバート・ライト (Robert Wright) 『なぜ今、仏教なのか』, 熊谷淳子/訳, 早川書房, 2018 (1st., 2017).

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