鹿持雅澄の墓

下村海南(しもむら・かいなん, 明治8年:1875-05-11 ~ 昭和32年:1957-12-09, ウィキペディアの解説(下村宏)

First appeared: 1935(昭和10年).
「鹿持雅澄の墓」 in 『本卦かへり』(ほんけ・がえり), 四条書房, 1935, pp.168-171.
632-66, info:ndljp/pid/1214152 / http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214152,
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このページで “[Name, 1990: 13]” のように典拠表記している参考資料の一覧は、「References - 鹿持雅澄」をご覧ください。

転載にあたって

原文の表記については、(1) 旧仮名遣いを現行仮名遣いへ、(2) 旧字体を新字体へ(但し『萬葉集古義』のように、書籍名はそのままとしてあります)、(3) 年号や番号の漢数字を英数字へ(「一つ」のような大和言葉の表現はそのまま)、(4) 一部の送り仮名を改めてあります。また、戦前以前の文章にしか殆ど表れないような漢字表現も仮名にしました(「遽かに」を「にわかに」、「殊に」を「ことに」とした等。但し、昔の文章に多い事例ですが助詞や助動詞や読点が足りないせいで、「また所以なしとしない」など、「所以」を平仮名にすると読んだときに文節を分け難くなる場合は、敢えて漢字のままにしている表現もあります)。なお、HTML 文書では段落の開始文字を紙の出版物や原稿用紙の書式とは違って字下げしないのが当たり前になっていますが、転載した文章については段落の先頭を字下げしてあります。また、書籍や雑誌名は二重引用符で囲み、書籍に収められている論文や章節は一重引用符で囲むの現代の文書編集の常識なので、これも変更しています。もちろん、僕は私見では「~かもしれない」という表現に「知」という字を当てる文体は好きではありませんが、そういう好き嫌いでの書き換えはやっていません。

永楽寺から兼山の墓へと志す道すがら、鹿持雅澄の墓をたずぬる。

高知市福井というても、軒並の町をはなれて畑中道を自動車にて十余町、さらに車が通じないというので徒歩さらに 5、6 町にして、昔の朝日村の小高き岡に鹿持雅澄の邸あとというのを見出でる。邸というと聞こえがよいが、赤貧洗うが如かりし雅澄の住居のあとで、ここから城下へは約30町、麦田をへだてて高知城の天守閣が霞んで見える。

17、18歳より学に志し、中村某に漢学、宮地某に国学の手ほどきをうけた鹿持雅澄は、その一生を国学の研究に志し、家老福岡氏の知遇により書庫の蔵書を閲覧することを得、刻苦精励独学をつづけて萬葉集の研究に没頭し萬葉に関するもののみにして

等の大作を筆にした。

このあたりの畑には油障子の温床をつくり、西瓜や胡瓜の走りを植えつけている。畦には雪柳が真白に咲きみだれてる。武市半平太、吉村寅太郎などはこの畦道伝いに雅澄の住居を訪い夜を徹して時勢を慨したことであろう。

落椿の藪たたみを登ること半町足らずの岡の上に、樫の木 4、5 本あり、その木陰に小さな墓が五つ、3段に15基並んでる。奥の一列の左のはしが鹿持雅澄妻墓と刻され、その右の正面古義良範居士墓とあるが雅澄の墓で、右側には鹿持藤原太郎雅澄と刻まれ、裏には安政5年68歳、左側には

余以後将生人者古事之
吾墾道爾草勿令生曽
(われいふのち生れむ人はふることのわがはり道に草なをへしそ)

という歌が刻まれてある。雅澄の妻きくというのは賢夫人で、武市半平太の叔母にあたるらしい。若死をしたが雅澄は68歳までやもめで通し、村の子だちに短冊など与えては、文の使いさては井戸の水汲みなど手助けして貰ったと伝えられている*1

赤貧の中で独学50年の長きにわたり、孜々倦むところを知らず、萬葉集古義152巻を筆にした雅澄の努力と苦心は誠に想像にあまりがある。その著作は無論印刷に付せらるべくもない。後年明治に入り宮内省の手によりて漸く上梓せられたのである。

かつて松阪に鈴の屋のあとを訪い、本居宣長翁の古事記傳44巻は35年の歳月を経て脱稿され、その版木が春庭以下子弟の手により、また約36年の星霜を経て出来上がり、宣長没後22年にして出版せられたるをしのび。近くはこの度の旅に徳島の宿に四国遍路の第一信を船の便絶えたれば電話にて大阪へ通じ、それの印刷に付せられた朝日新聞が、翌朝旅枕のもとにおくられてありしを思い、今更に吾等たまたま生を明治、大正、昭和の御代に享けし者の余沢のあまりにも大なるを顧み、無量の感慨に打たれたのであった。

雅澄の家のあとなる菜の畑の
あぜにむら咲けり雪柳の花は

樫の木のしげみの蔭に苔むせる
鹿持家の墓の小さきがならぶ

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注釈

この文章の転載においては、「鹿持雅澄の妻」を転載したときとは逆に、文節を区切って読みやすくするために平仮名表記を漢字表記に改めた箇所がある。

スキャンした文字 *1この箇所(p.170)は、国立国会図書館がオンラインで公開しているスキャンデータでは「若」の次の文字が殆ど判読出来ない。雅澄の妻の話なので妥当な推定と考えて「若死」としているが、他の蔵書を見る機会があれば検証したい。それにしても殆どインクが乗らないほど活字が擦り切れてしまっているとすれば、これはこれで何か別の考察を呼び寄せる事実であろう。

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