鹿持雅澄にまつわる覚え書き
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orcid.org/0000-0002-7867-2654, Google Scholar, PhilPapers.
First appeared: 2017-09-10 14:05:56,
Modified: 2017-09-19 23:29:17, 2017-09-21 23:36:35, 2017-09-29 22:34:50, 2018-07-24 22:39:39,
Last modified: 2018-08-01 08:30:34.
このページで “[Name, 1990: 13]” のように典拠表記している参考資料の一覧は、「References - 鹿持雅澄」をご覧ください。
はじめに
このページは、土佐(高知)の国学者・国文学者であった鹿持雅澄(かもち・まさずみ, 寛政3年4月27日: 1791-05-29 ~ 安政5年8月19日: 1858-09-25)について調べたり考えてみた覚え書きを書き溜めてゆくページです。このページ全体として、何か一つのテーマを設定しているわけではありません。また、書き留めたいことがあれば後から幾らでも追記します。それぞれの覚え書きどうしには前後関係や論理的な関係はないので、「第何節」といった章立てはしていません。また、同じ箇所について後から文章を追記することもあるため、段落の始めに追記した日付を書き加えてあります。
鹿持雅澄に関心をもったきっかけ[2017-09-11]
僕が鹿持雅澄という人物に関心をもったきっかけは、足立巻一さんの『やちまた』で次のように書かれていたからでした。
この文章は、もちろん足立巻一という著者自身のエピソードとして読めるわけですが、それでも著者の記憶に留まった人物である鹿持雅澄にも興味が湧いたのでした。特に、鹿持雅澄の生涯を知る人の文章でたびたび言及されるように、自らの不甲斐なさもあって妻に先立たれるという不幸をどう受け止めたのかという点には強い関心があります。足立さんと同様に僕も、彼らが成した国文学や言語学や国学の業績に興味をもつだけでなく、やはりそういう成果をあげるに当たって経てきた苦労を、独学なり不幸な境遇においてどう耐えたのかということを、僕も一人のアマチュアの研究者として弁えておきたいと思ったわけです。
ガミナリ[2017-09-19]
上記の逸話で関西学院中学部の生徒だった足立巻一さんに鹿持雅澄の事績を教えた「ガミナリ」という教師は、その後も『やちまた』では第17章に登場します。
ここで「辞世の詠」と書かれています。辞世は予め用意しておいた歌のことであり、ここで紹介している歌は鹿持雅澄が57歳のとき、つまり亡くなる10年以上も前に創られた歌です。
さて、この「ガミナリ」とは誰のことなのでしょうか。まず『やちまた』では、上記のとおりガミナリが恩師であったとされる「古田教授」について、以下のようにも書かれている点に着目しましょう。
この箇所と、西尾明澄さんの『「やちまた」ノート』に収められた『池部宗七歌抄』(昭和50年:1975)の「編者あとがき」に、「先生 [池部宗七] が神宮皇学館の学生時代以来最も深く傾倒されていた万葉学の千田憲先生に題字と序文とをお願いした」(西尾, 2000:219)という記述を照合させると、大正6年(1917)に神宮皇學館の教授となった千田憲が一字違いで「古田教授」として描かれているように推定できます。しかし、千田憲さんの恩師が誰であったかという点までは分かりません。京都女子大学の紀要に「千田憲教授略年譜・著書目録」という文章はあるようですが、中学時代の恩師まで書かれているかどうかは不明です(リポジトリに電子化されていない紀要なので、国立国会図書館のデータベースに登録されている情報だけしか分かりません)。
ガミナリII[2018-08-01]
確か足立さんは、著書のどこかで『大鏡』を読んだことがない国文学者はモグリだと書いていた記憶があります。それで、僕は国文学者ではありませんが、『新編 日本古典文学全集34 大鏡』(橘 健二, 加藤静子/校注・訳、小学館, 1996)を手に入れたのでした。しかし、それがどこで読んだ箇所だったのかを思い出せないので、昨日から足立さんの著書を何冊か斜め読みしていたのです。『やちまた』の下巻は冒頭に国語学史の話が続いていますが、そこには書かれていません。それゆえ気分を替えて『夕暮れに苺を植えて』を手に取ったわけです。その本は、足立さんが恩師の池部宗七(石川乙馬)さんのことを書いた評伝です。国語教員であった恩師とのやりとりが書かれているので、もしかして『大鏡』について書かれていたのはこれかもしれないと思って流すように目を通していると、別の思わぬ発見がありました。「ガミナリ」が誰なのかわかったのです [足立, 1995c: 263-265, 但し『やちまた』関連の書誌ページを参照]。
足立巻一さんを教えた「ガミナリ」は、三宅光華(本名:三宅 質、「三宅成蹊」の筆名もある)という人物です。
余以後将生人者古事之吾墾道爾草勿令生曽[2017-09-21]
これは鹿持雅澄の墓標で左側面に彫ってある一首であり、雅澄の門人で「鹿門十哲」と称される高弟の一人であった別府安宣(べふ・やすのぶ, 寛政3年:1791 ~ 文久3年:1863)の字とされています。この歌は雅澄が万葉集を研究しながら作った歌を集めたとされる遺稿(雅澄が亡くなってから後に『雅澄詠稿』という題が付けられています)の中に現れ、小関清明さんの調査・分析によると弘化4年(1847)10月初旬、雅澄が57歳のときの歌と推定されています [小関, 1992:260]。そして、その後に再編集されて『千首のくり言』へ一部が収められ、この『千首のくり言』は『山斎集』とともに雅澄の歌集として伝わっているという次第です。
つまり、『万葉集』に出てくる歌を一つずつ読み込んで解析すると共に、その歌を元にしてアレンジした歌も同時に増やしていったということなのでしょう。
「余以後将生人者古事之吾墾道爾草勿令生曽」という歌の元になった『万葉集』の歌は、巻十一に出てくる次の歌です。
読み下しの例や解説は数多くあるので、一例として小西甚一さんの『古文の読解』を取り上げておくと、「我が後に生まれむ人は我がごとく恋する道にあひこすなゆめ」となり、「(もう恋の苦しさは自分ひとりでたくさんだから)わたしのあとから生まれる人は、恋なんかにぜったい出あわないよう用心したまえ」と解釈されています [小西, 2010:75]。
さて、『万葉集』の歌を参考にして雅澄がアレンジしたと思われる「余以後将生人者古事之吾墾道爾草勿令生曽」という歌ですが、『やちまた』では関西学院中学部の生徒だった足立巻一さんに文法を教えた「ガミナリ」の読み下しでは、
となっていて、小関さんの読み下しでは次のようになっています。
読み下し方には、「あ(吾)」を「われ」、「あが(我が)」を「わが」と読んでいる事例もありますが、それらは「あ」でも「われ」でも解釈にあたっての違いはありません。問題は、上記のように「ガミナリ」が「草勿令生曽」を「草なおひせそ」と読んでいる箇所です。ここは、高校の古文でも「な」という副詞に「そ」という終助詞を対応させて禁止の意味を表すと教わりますから(「そ」単独で禁止の意味になっている事例もあるようですが)、ひとまず何を「~するな」と言っているかがポイントです。「草勿令生曽」が漢文であることを考慮すると、「令生」は「生」を「お」と読んで「令~」は「~(せ)しむ」と読めます。逆に言って、「令」を「ほ」とか「ひ」などと読む事例は知りません。すると、「令生」の二文字を「おひせ」「おほし」と読む二種類の読み方があり、どちらも「お」は「生」に対応すると考えて、「おほし」は「生ほす」というサ行四段活用の他動詞(生えさせる)として解し、「おひせ」は「生ふ」というハ行下二段活用の自動詞(生える)の連用形に助動詞「す」の下二段型連用形である「せ」という使役の意味が付くと解して、どちらにしても「草を生やしてくれるな」というくらいの意味になるものと思われます。こうして、「余以後将生人者古事之吾墾道爾草勿令生曽」という歌を通して読んでみると、「私の後から生まれる人は、古い歌や書物について私が切り開いた学問のみちすじに草を生やしてくれるな」のようになります*。なるほど、『万葉集古義』によって国文学史の一つの里程標を作ったという自負があればこそ、自分の切り開いた道を辿って学問を発展させてもらいたいという願いが込められているのでしょう。
*笠間書店のブログに掲載されていた「高知県立文学館・没後150年、鹿持雅澄展(平成21年1月2日(金)〜2月22日(日))」という、高知県立文学館の企画展を紹介した記事には、「私から後に生まれてくる人は、古代文化について、私の切り拓いた道に、どうか草を生やさないでくれよ。」という訳が載っています。[2017-09-29 22:34:50]
『幡多日記』と『幡多方言』[2018-07-24]
鹿持雅澄に関する年表を少しずつ作っています。もちろん [小関, 1992: 389-414] の記載を中心として、関連する事項を追加したり有職故実について解説を加えたいというのが動機でした。そして、それらの史実を西暦で置きなおすことも目的の一つです。なんとなれば、国文学や日本史の本を読んでいてたびたび閉口させられるのですが、当然のように元号だけで説明されても、それが他の年号で書かれた年から何年くらい離れているのか分からないからです。要するに時間の長さの感覚が掴み難く、それは元号を習得しなければつかめないような特別の性質ではないのですから、既に西暦が公文書でも使われていて西暦の方が色々な点で優れているのは明白であるにも関わらず、元号表記に固執する意味は無いと思うわけです。従来よりも優れた方法や考え方を導入しようと、それはスメラミコトを敬うとか日本の歴史や伝統を敬うことと何も矛盾してはいません。
さて、そういう次第で雅澄の著作一覧を [尾形, 1944: 295-336] で眺め始めると、冒頭にこうあります。
ところが、[小関, 1992] に次のような記述があります。
雅澄が幡多郡を周って旅をした日付から言って、尾形裕康さんの言う『幡多方言』は、小関清明さんの言う『幡多日記』と同じ文献としか考えられません。しかし、小関さんの表現を正確に読むと「全く別の日記を『幡多日記』だと解している」となっていて、更に困惑させられてしまいます。なぜなら、尾形さんは『幡多方言』を『幡多日記』として雅澄の著作一覧に掲載しているわけではなく、逆に『幡多日記』を『幡多方言』として掲載しているように見えるからです。したがって、小関さんが「全く別の日記と『幡多日記』を取り違えている」とか「『幡多日記』を全く別の日記と取り違えている」と書いていたらともかく、これは尾形さんの著作のことを言っているわけではなく、他にも雅澄について書かれた伝記があるので、それらの記載のことを指しているのかもしれません。それに、尾形さんの著作では [尾形, 1944: 296] に「先年、高知市の飛鳥井玉惠氏(雅澄の孫)方から彼の『幡多方言』が発見せられた」とあり、これは小関さんの記述とも異なるので、別の文献なのでしょう。他に、[浜田, 1961] のような幡多地方の方言を取り上げた論説でも『幡多方言』を1834年(雅澄44歳)の記録として推定されており、これは『幡多日記』の成立した1817年(雅澄27歳)よりも何十年か後になっています。それでも、尾形さんによる『幡多方言』の記述は日付からして『幡多日記』と重なっているので、やはり実際に両方の文献を手に取っている方が両方の文献について論じてくれなくては、全く現物どころか復刻した文献すら見たことがない人にとっては、判断できかねる事案に思えます。