On “Google’s Ideological Echo Chamber”
Contact: takayuki.kawamoto@markupdancing.net
ORCID,
Google Scholar,
PhilPapers.
This essay contains some paragraphs and phrases as Japanese translations from:
James Damore, “Google’s Ideological Echo Chamber,” referred as [Damore, 2018] in the References section below.
First appeared: 2018-06-13 21:17:18,
Modified: 2018-12-03 14:01:59, 2018-12-12 13:15:34, 2021-03-12 19:38:21,
Last modified: 2021-04-03 20:11:33.
下記の訳文において “(1)” は原注(ダモーア本人の注釈箇所)を指しており、“*1” は僕(河本)の注釈・訳註を表す。そして、[ ... ] で囲んだ箇所も僕の補注である。
[追記:2021-03-12 19:36:18] “Damore” の発音はカタカナ表記だと「モ」にアクセントがあるため、人名は全て改めた。
はじめに
2017年の7月に、Google のソフトウェア技術者(software engineer)だったジェイムズ・ダモーア(James Damore)が「Google のイデオロギーのエコー・チェンバー(“Google’s Ideological Echo Chamber”)」という文書を作成し*1、それが社内のメーリングリストで回覧された後に何者かによって Gizmodo というサイトの記者へリークされて(最初は文書の一部だが)公表に至り、やがて各所から文書の全文が “publish” されて、文書の作者であるダモーアが公衆に知られることとなった。そうして、内容が Google 社の行動規範(Code of Conduct)に違反しているとの理由で2017年8月7日にダモーアは解雇され、その五ヶ月後の2018年1月にダモーアは他の元 Google 従業員と共にカリフォルニア州サンタクララ郡の上位裁判所へクラスアクション(集団訴訟)を起こして Google を提訴している。
[2021-04-03 追記] 丁寧にフォロー・アップしていなかったせいで知らなかったのだが、ダモーアらは訴訟を昨年の5月までに取り下げたようだ (他のメディアは、ほぼこの Bloomberg の記事を引いているだけで独自の取材はしていない)。ダモーアらは Google と幾つかの条件付きで和解したようだが、詳しいことは明らかにされていない。仲裁した裁判官は Google にバイアスがあると証明することは困難であり、訴訟を維持するには根拠が曖昧であると指摘したようだ。ただ、この和解により、Google では従業員が政治について議論することを抑制するような社内規則を発表したり、幾つかの影響が出ているようだが、ダモーアの弁護を勤めたハーミート・ディロン(Harmeet Dhillon)によると、Google は変わっていないという。“I think the bullies pretty much run the shop over there, [...] Google has the most brutal ‘Lord of the Flies’ workplace for people who don’t fit it.”(「いまでも、いじめっ子たちは Google を殆ど支配していて、[...] 彼らの考えに同意しない人たちにとって、あそこは最も野蛮で『蝿の王』のような職場ですよ。」)なお、この Bloomberg の記事はたまたま見つけたものであり、他の報道でも「ひっそり(silently)」と訴訟を取り下げたと書いているように、わざわざ探さないと分からなかった。実際、今日(2021年4月3日)の時点でアクセスした Wikipedia のエントリーでもフォロー・アップされていないくらいなので、よほど注目を惹かなかったようだ。
*1上記の経緯を訴状の記載で補うと(もちろん事実認定で争う可能性のある記述が含まれているかもしれないが)、2017年3月にダモーアは全社規模で毎週のように開かれている “TGIF (Thank God It’s Friday) meeting” という会議に参加した。そのときは女性史をテーマにしており、登壇した二人の幹部社員は女性の比率が 50 % 以下の部署を侮蔑したらしく、また Google が採用時のダイバーシティを会社として数値目標にまでしていることにダモーアは衝撃を受けたらしい。その後、6月には “Diversity and Inclusion Summit” という 100 名の従業員を集めた会合があり、ダイバーシティとインクルージョンへのコミットメントがリーダーシップ(つまりは昇進)に必要だとされていたらしいので、上級エンジニアへ昇進を望んでいたダモーアは会合へ参加した。そこで彼は、Google における「ダイバーシティ」とは性別や国籍や人種のことであり、ものの考え方についての多様性は許容されていないと感じたという。そして、この会合で主催者側から作成・提出を求められたフィードバックの文書として、書かれた当初は Google の社内用語を使って “go/pc-considered-harmful” というタイトルだったが、同僚のコメントに対応しつつ推敲を重ねるうちに、“Google’s Ideological Echo Chamber” というタイトルになったらしい(ただし、[Damore, 2018: 64 (1)] でも分かるように、元々のタイトルはリンク付きで残されている)。
それ以降の、ダモーアの文書がメディアにリークされてダモーアが解雇されるまでの数日間に渡る推移は、[Wikipedia, 2018] の “Course of events” という一節にまとめられているのだが、ダモーアの文書がメディアで公表された経緯の詳細など幾ら正確に知っていても些事でしかないため、本稿では扱わない。恐らく、Gizmodo にリークした Google の従業員も不明だし、それが分かったからといってダモーアの文書の内容つまりは意見なり思想についての(それこそダモーアが言う冷静な)議論とは何の関係もない。報道や取材の経緯を事の真相の一部であるかのように扱うのは、1990年代頃からテレビや新聞や雑誌の取材力が低下してきたときに捏造されたネタであり、大人が真面目に扱うような話ではなかろう。そんなものは、とんねるずやウッチャンナンチャンの古臭い業界ネタのコントと同列だと思うが、なんらかの「サスペンス」を期待する方は、[Wikipedia, 2018] なり Gizmodo の記事なりをご覧いただきたい。
僕は、この文書の内容と Google による解雇の是非が話題になった頃から幾つかの記事を眺めてきたが、ダモーアの文書*2に端を発する議論を自分なりに整理して取り上げることとした理由は、以下のとおりである。まず第一に日本の報道機関はダモーアが解雇された当時も大きな話題にはしなかったし、現在ともなれば全くフォローしていないという実情で、これには強い不満を感じている。恐らく日本においても、僕は Google と似たような状況に陥っている企業や地域コミュニティが各所にありうると思う。とかく、日本の経営学者や人事コンサルや関連業界のライターが語る「ダイバーシティ経営」とか、ダイバーシティやインクルージョンを組み込んだ人事などというものは、要するに(敢えて悪意の表現を使うなら)、口うるさい女や外人やイスラム教徒やメンヘラにどうしてやるのが無難なのか、という差別的な観点を温存したまま、「対策」などという言葉で分かるように、PC 推進者からの非難や Twitter などでの炎上を避けるためだけの実務を繰り広げる地雷探知でしかないだろう。つまり、まだ日本ではダイバーシティなど人口に膾炙するどころか歪んだ仕方でしか広まっていないアイデアだと言ってもよい。よって、この事例は Google という一つの企業で起きたトラブルとして矮小化されてはいけないし、われわれ日本の企業の役職者も対岸の火事として眺めているだけでは不十分だと思う。(そもそも、僕らが小学生の頃から地理や歴史の授業で「アメリカは人種のるつぼ」だなどと言われてきたにもかかわらず、どうしていまだに彼らが「ダイバーシティ」というアイデアをわざわざ改めて提案しなくてはいけなかったのかという単純な疑問にすら、日本の報道や社会学者が明解に回答できた試しなど一例としてないのだ。)
そして、ダモーアの文書に端を発する議論を整理しようと思った二つめの理由は、ダモーアの PDF 文書 [Damore, 2017a] の翻訳は二つほどあるのを知っているが、どちらも〈やってみた系〉の低レベルな機械作業でしかなく(いや、今となっては機械翻訳のアルゴリズム設計者に失礼だと言い得るほどの低レベルな訳文だと思うが)、しかも公開された後は放置されてしまっており、ダモーアの文書が述べている内容について雑な印象をばら撒いたままになっているからだ。もちろん強い関心をもっている人の多くは [Damore, 2017a] のような原文を読んでいるかもしれないが、やはり原文に簡単にアクセスできない人にもダモーアの文書の論旨は(もちろん内容の是非は別として)大きく齟齬を生じないように伝えた方がいいに決まっている。僕に、それが適正にできる能力があるかどうかは分からないにしても、そうすべきだと思う人間がやらないと、このような事案においても相変わらず、未熟さや愚かさを善意や好奇心だけで弁明できるなどという日本人に特有の甘えを放置することになろう。
*2なお、ここで取り上げる文書は “Google memo” とか “Google manifesto” あるいは “anti-diversity memo” や “anti-diversity manifesto” などと呼ばれていたが、もともとダモーアはこの文書を Google 社外や公衆へ発表するために書いていたわけではないため、現在は “manifesto” という言葉は使われていない(Although it would be very disgusting that I have to tell about a meaning of “manifesto” even to people in the United States. Some people would have to know an accurate meaning of this word.)。それに、Google はこの文書の内容を否定してダモーアを解雇したのだから、“Google” 社内で暗に支配的だった思想とでもいうような逆のニュアンスに誤解されるような表現は避けた方が良い(だいいち、そういうニュアンスの方が本当なら、これだけ論争の余地がある文書を Google が「会社のマニフェスト」として公にできただろうか)。他方、“Google memo” という表現は「Google『についての』メモ」として解釈しうるものの、こういう杜撰なマスコミ的表現についても、僕は Google で共有されていた(許容されていた)メモという誤解を招く余地の方が大きいと考える。更に、“anti-diversity” という表現は文書を読んだ人自身の理解を反映しており、客観的な表現であるとは限らず、loaded language や論点先取になっている恐れがある。実際、ダモーアを擁護する人々は “diversity” というものはジェンダーや人種や宗教の違いだけではないとして、思想の多様性(the diversity of thought)やイデオロギーの多様性(the diversity of ideology)は無くていいのかと異議を述べている。よって、本稿では無用な先入観を込めないように「ダモーアの文書」とか「ダモーアのメモ」と表記する。ただし、本稿ではダモーアが「メモ」に対する同僚の意見を参考にして手を加えた「文書」だけに言及する筈であるし、ダモーアが最初に書いた “go/pc-considered-harmful” という名称の「メモ」は恐らく公開されていないので、「メモ」は本稿で直に議論する対象にはならないだろう。
訳出(部分訳)にあたって
まず初めに、僕は国内法だろうと国際条約の範囲だろうと、権利が失効していない他人の著作物を無断で転載したり翻訳を公開したりしない。ありていに言って著作権法違反であることが明白であるにもかかわらず、「問題があればご連絡ください」などという卑怯極まりない言い訳を書いて、翻訳文書を著作権者の承諾なしに公表するのは、端的に言って違法行為である。そして、そういうことを堂々とやるプロの翻訳家すら日本には存在するわけで、自分では何かの社会貢献だと思い込んでいるのだろうが、大多数の人々に向かって、法律を軽視するという逆の影響を同時にバラ撒いていることを無視しており、職業人どころか日本の成人として恥を知るべきだと思う。もちろん、このような議論と、僕自身が著作権法(ないし著作権制度)をどう考えるかは別の問題だ。僕は、権利自体を否定する強い根拠はもっていないので権利がなくてもいいとは言えないが、著作権の効力はせいぜい 10 年から 20 年でよいと思っている。寧ろ保護期間が長すぎる著作権こそ、逆に人類全体の知的向上という目的に対する反動的な制度であり、公共の知恵や技術の発展に対する挑戦だと言えよう。
やや長い前置きになったが、そういうわけで僕はダモーアから翻訳の承諾を得ていないので、彼の文書を全訳として当サイトに掲載するようなことはしない。もちろん手元には全訳した翻訳文書がデータとしてあるわけだが(違法なのは他人の著作物の無断転載や無断頒布であって、翻訳した文章を手元に作成するだけで違法になる国などない)、ダモーアから承諾を受けていないので、前段落の理由により、当然のことながら翻訳全体は公開できないのである。もちろん本人には2018年の3月頃に承諾を問うメッセージを送ってあるが、そもそも彼の文書は既に訴状の添付資料にもなっているので、もはや彼が文書にかかわる取り扱いについて独断で承諾していい立場かどうかも分からない。なお、昨年の8月21日に中国語の翻訳文書に言及して “My doc has been translated into Mandarin!” と Twitter で発言しているようだが、これを「自由に翻訳してくれてもいい」という意思表示だと解釈するのは法的に言って無謀というものだろう。よって、本人の承諾がない以上は、著作権法第三十二条で認められた「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれる」ための引用として、翻訳文を必要に応じて扱う*3。ただし、その取捨選択において僕自身の無自覚な偏りや誤りがあってはいけないので、訳出した箇所だけを取り上げた理由だけではなく、他の訳出していない箇所を取り上げなかった理由も、必要に応じて示す。そして、それだけでは取捨選択の理由として不足していると感じる方は、もちろん問合わせていただいても構わないが、恐らく僕とやりとりするよりも原文の英語を読む方がいいかもしれない。
*3かつてジャック・デリダが「有限責任会社abc...」という論説で、論争相手のジョン・サールが書いた論説を細切れにして、殆ど全ての文章を引用して収録してしまったという逸話がある。これに対してサールが著作権法に訴えたなどという野暮なオチはないのだが、学術的に正当な理由があれば殆ど全ての文章を引用してもいいのかという点は、もっと真面目に検討されてもよい筈である。たとえば、俳句や短歌は法律でも個々に著作物と数えられているのだから、一句を全て引用すると著作物の全体を引用したことになり、これは実質的には「転載」に当たると言い得る。したがって、俳句や短歌の全文を記載する場合は「引用」の限度を形式的には越えてしまうため(判例では「一部を採録すること」とされている)、著作権者の承諾なり一定の契約が必要だろう。ちなみに日本文藝家協会では、俳句の全体を記載した場合でも主従関係が明確で引用した意図が論評や解釈であれば許容されると解説しているが、もちろんこれは法律の正しい解釈でも何でもない。著作権者の団体として、そう宣言しているだけのことである(親告罪の範囲で罪に問えることなら、著作権者の判断で告訴するかどうかを決められるからだ。ちなみに著作権法違反が全て親告罪だと説明する人が多くて困惑するのだが、告訴がなくても違反者を起訴できる場合もある)。[追記:2022-01-10 既に著作権法は2018年の改正で、親告罪ではなくなっている。]
さて、ダモーアの文書を訳出するに当っては、[Damore, 2018] を元にした。現地アメリカでは大多数の批評や報道記事が [Damore, 2017a] にリンクしているのだが、[Damore, 2018] は [Damore, 2017a] と同じものと考えてよく、そして [Damore, 2018] は訴状(complaint)という公的な審判の場に提出される文書に添付されている資料でもあるから、文書として参照するに足りる永続性がある。他方、[Damore, 2017a] は Motherboard のロレンツォ・ フランチェスキ・ビッチェライエ(Lorenzo Franceschi-Bicchierai)のアカウントで任意にアップロードされたファイルにすぎず、リソースとしての永続性に劣ると思う。(理由はともかくとして、仮にダモーアが DocumentCloud に要求すれば、サイトから PDF ファイルは削除されてしまうだろう。)それから、あらかじめ注意しておく必要があると思うのは、[Damore, 2017b] として文献表に挙げた文書、つまりダモーアが「公式サイト」として運営しているらしき FIRED FOR TRUTH - James Damore’s official site というサイトで公開されている “The document that got me fired from Google” (August 8th, 2017; accessed on June 6th, 2018) なるブログ記事は、[Damore, 2018] との違いを丁寧に調べていくと、ソースとして採用することはできないと言わざるをえない。これは本稿の参考資料として下記に相違を指摘するが、[Damore, 2018] には含まれていない一節が追加されていたり、“edited purely for formatting purposes” とは言い難い再編集になってしまっていると思う(しかも彼が解雇された日の翌日の日付で公開されているブログ記事であるから、これが本当に “that got me fired from Google” なのかどうか、つまり公になっているメモから更に手を加えて社内で回覧に回し、まだ公にはなっていなかったものの最終的に解雇される原因となった文書だったのかどうか、部外者には分からない。それに訴状をそのまま読めば、[Damore, 2017a] から後に改定した事実はなく、あくまでも解雇の原因になった文書として提出されているのは [Damore, 2018] = [Damore, 2017a] なのである)。
最後に、[Damore, 2018] のページ数については、訴状の参考資料としての通し番号として扱うページ番号(PDF として開いたときのページ番号)を基準として、ダモーアの文書として単独に取り上げた場合のページ番号([Damore, 2017a] の番号に該当)を括弧内に追記した。内容は [Damore, 2017a] と [Damore, 2018] では同一なので、どちらを読んでいる方でも参照できるようにしてある。
ダモーアの文書(抜粋と注釈)
Google のイデオロギーのエコー・チェンバー*1
*1上記はダモーアの文書のタイトルである。“Google’s Ideological Echo Chamber” という表現では、“echo chamber” を「エコー・チェインバー」と外来語に訳すか、それとも「反響室」のように訳すかがポイントになる。意味合いとしては、似たような考え方が特定の集団の中で増幅されて、やがて誰もその考えを批判できなくなってしまうという社会心理学の用語として使われているのだから、「反響」という現象がもつ意味について必要以上の脈絡を読み手に示すべきではない(たとえば、実際に反響室を設計する場合は ISO に専用の工業規格があるけれども、Google がその規格に準拠しているのかどうかなどと悩むのは馬鹿げているだろう)。従って、「エコー・チェインバー」と外来語にする効用は確かにある。しかし、今度は「エコー・チェインバー」が何であるかが簡単には伝わらないという問題が生じる。そして、「イデオロギー」という言葉に繋げると「イデオロギーのエコー・チェインバー」などと字面が長くなってしまうという懸念もある。また、「イデオロギー・エコー・チェインバー」など一つに繋げてしまうと(原文を予想して、なおかつ英語表現として修飾語の範囲を正確に理解できる人でなければ)、単語同士の修飾関係や修飾している表現の範囲が分からなくなってしまうという問題も起きるだろう。
しかし、藤井裕志さんのブログ記事 [藤井, 2017] では、注釈 *1 として「コンピュータの検索ではこの辺の表記ゆれの影響が小さくなってはいるものの、まだ融通が利かないところがあるので、早くどれかに統一されないと議論の効率が悪いと個人的には思う。」とある。つまり、“echo chamber” を「エコーチェンバー」と外来語表記するのは自明となっていて、残るは「~現象」や「~効果」のような捕捉を追加するかどうかだけの問題ということらしい。実際に、Google Trends で「エコーチェンバー」と「反響室」を比較すると、圧倒的に「エコーチェンバー」の方が多くヒットする。話題を共有しやすくするには、特に不都合のある意味合いや暗示あるいは loaded language が含まれない表現であれば、既に多くの文書で使われる表現を採用しておく方が無難ではある。よって、今回の(2018-12-06)更新で「反響室」という表現を「エコー・チェンバー」に改めることにした。ただし、省令などでは “echo chamber” のような複合語を「エコーチェンバー」と表記して良いことになっているものの、僕はあまり複数の単語からなる表現を一つの外来語で表記するのは好まないので(たとえば大型量販店の名称を「どんき+ほーて」だと思っていて、「どんき」と略す人が多いのは、実際のロゴマークでも中黒が目立たないからか、正しい区切り方が分からないせいだ)、当サイトでは「エコー・チェンバー」と表記する。このていどの表記揺れなら検索するときでも許容されるとは思う(というか、strict keywords 検索でもない限り、この程度の表記揺れは許容して結果を出すべきだろう)。
「みなさんの応答や出鱈目な理解に答える」
最初に注釈しておくと、ダモーアの文書の中で使われている章立ての見出しを本稿の見出しとして流用する場合は、上記のように括弧書きとしている。では、次に「みなさんの応答や出鱈目な理解に答える(Reply to public response and misrepresentation)」という題がある箇所に移ろう。ここは、タイトルが示しているように、ダモーアが Google 社内で初めてメモとして発表した “go/pc-considered-harmful” について、社内で受けた批評なりフィードバックへ応答する内容ために書かれたものだと分かる。したがって、この文書の前のバージョンがあって、Google の社員はそれを読んだのだろうという予想が立つ。
僕はダイバーシティやインクルージョンが価値のあることだと思っているし、性差別があることを否定するつもりはなく、そしてステレオタイプを認めたりもしない。人の分布においてギャップがあることを議論する場合、僕らは集団レベルでの違いに着目しなくてはいけない。こういうことについて誠実な議論ができないなら、差別は本当の意味では解消されないだろう。
心理的安全はお互いを尊敬して受け入れることで成り立つものだが、不幸にも僕らのカルチャーは他人を恥じ入らせたり悪人に見せかけることで、エコー・チェンバーの外にいる人を軽視したり拒否するようになっている。
みなさんがこれまでに寄せてくれた応答とは別に、僕は同僚から数多くのメッセージを受け取っていて*4、僕がこの文書で大切な論点を取り上げたことを感謝して同意してくれている。けれど、この同僚たちは、僕らの恥のカルチャーを気にしているし、解雇される恐れもあるというわけで、声高に支持したり擁護することはできないと言っている。こんな状況は変えなくてはいけないだろう。
上記は、本文を読んだ Googlers からの批評にダモーアが応答している文章なので、ここを最初に読んだところで脈絡は分からないだろう。字面として「読める」かもしれないが、それは速読バカと同じで文字を記憶しただけにすぎない。よって、この箇所は後から振り返って参照することとして、次の「要約(TL;DR)」に進もう。
*4原文には、“many†personal” という具合にダガーが挿入されている。ダガーは注釈記号として使われることもあるが、この文書で採用されている注記の方法と比べて一貫していない。また、“many” と書かれているのはどういう人々なのかと問われた際に、特定の日付で誰と誰のことだったのかはメールなどを確認すれば「観測」できるし、その値は「実数」である。よって、ダモーアが “many†” についてエルミート性をもつと言っている可能性はあるのだが(笑)、彼に賛同する同僚の一覧から正方行列を作ったり、随伴という特徴を使って何かを論じる理由はないと思われる。もちろんこれは冗談だが、既にダモーアの文書は訴状の資料として使われているため、タイプミスがあっても修正や編集はできないのかもしれない。とは言え、どういうタイプミスをすれば半角スペースの代わりにダガーを入力できてしまうのか、僕にはわからないが。
それから、これは裁判で事実認定の問題になるかもしれないが、上記のうち三つめの段落は証拠がない。ダモーアに賛同するメッセージを送った同僚がいたという証拠はないのである。逆に、ダモーアに対して罵詈雑言を投げつけている Googlers の発言は訴状に掲載されており、Alex Hidalgo(Site Reliability Engineer)から送られてきたというメールには、「誰でもいいから、これは HR [人事部門] へ知らせてくれ。やりとりするときは僕にも分かるようにしておいてくれよ。なるべく早くしてくれると嬉しい。君って、女性を憎む不愉快な奴だな。どちらかがクビになるまで、ずっと追いかけてやるから覚悟しろ。クソが」と書かれていたという [DLG, 2018: 13]。メールの送り主であるアレックス・ヒダルゴは、バージニア州の大学で哲学を学んだ技術者らしいが、ダモーアは「同僚」からこういうメールを数多く受け取ったのだろう。(後で調べると、ヒダルゴは Google に Site Reliability Engineering のコンセプトを導入した人物であり、2020年に O'Reilly Media から Implementing Service Level Objectives という本を出しているくらいなので、Google で役職には就いていなかったようだが、それなりに実績を積んだエンジニアの一人だ。)
「要約」
- Google の政治的な偏見は、批判を被らない自由(freedom from offense*5)と心理的安全(psychological safety*6)とを同一視してきたのだが、人を恥じ入らせて沈黙させてしまうことは心理的安全の正反対である。
- このように人を黙らせてしまう状況はイデオロギーのエコー・チェンバーを作り出し、そこでは幾つかの考えが誠実な議論からあまりにも遠ざけられてしまっている。
- そして誠実な議論が無いことで、このイデオロギーの最も急進主義的で権威主義的な点が助長されている。
- 急進主義的な点: 何であれ目につくあらゆる格差は抑制されるべきものである。
- 権威主義的な点: 我々は、この抑制のために違いを区別して改めなくてはならない。
- 男性と女性との間にある特徴の分布の違いは(「社会的に構成された抑圧」がなければ)、あるていど、女性がソフトウェア技術職や経営者層の 50 % を占めていないのは何故なのかということを説明するかもしれない。
- 技術者や経営者として女性の割り合いを平等にするという差別は不公平であり、軋轢を招くものであり、そしてビジネスにとって悪いことだ。
*5ダモーアの文書を自分で訳そうと思った理由の一つがこの表現だ。他の翻訳では、この “freedom from offense” という表現を「(男女)差別をしないこと」とか「侵犯からの自由」と訳しているが、この表現がどういう脈絡で使われているかは、調べれば分かるはずである。「表現の自由(freedom of speech)」を、誰からも批判されない特権や神聖不可侵な保護対象の正当化として解釈することは間違っているという指摘があるように、ここでは「侵犯(権利ではないと言いたいのがダモーアの主張なのに、何の?)」とか「男女差別」というような、脈絡が本当に分かってるのかどうか不明な単なる言葉の機械的な置き換えや、宗教を始めとする実際の英語圏のニュアンスや脈絡を無視した日本の生活感覚だけで意訳をするのは軽率だと思う。
*6いきなり接する方にとっても、日本語の字面としてなら「心理的な安全」のことだと分かるだろう(笑)。しかし、それだけで受け流されてしまうと、ダモーアが Google 社内で感じていたとする「抑圧」は理解できないかもしれない。なお、この言葉は間違って「心理学的安全性」とか「心理的安全性」などと素人が訳しているので注意したい。昨今の「関係性」を始めとする不愉快な表現(僕は、断定的な語調を抑えるために使われる姑息な意図の接尾辞だと理解している)で誤魔化されてしまいがちなのだが、ここでの “psychological safety” は、心理学において安全だと保証されているという意味ではない。とは言え、この “psychological safety” なるもの自体が、はっきり言えば group dynamics や社会心理学や対人心理学などの分野で十分な支持や証拠のサポートを得ているとはおよそ言い難い、IT 業界のコンサルやメンターによる一種の folk psychology でしかないというのが実情だろう。実際、この言葉は約20年ほど前に Harvard Business School のエイミー・アンダーソンが提唱してから議論されてきた、リーダーシップ論や企業組織論という分野のマネジメント用語なのである。
こうした、チームのメンバーが気安く仕事に参加できる方が望ましいといった、当たり障りのなさそうな理屈は、Google を始めとする大企業が採用し始めると InfoQ のようなメディアが飛びつき、Maitria などという聞いたこともない会社でコーチをしているというだけの人物が専門家ヅラしてアジャイルへの応用を語ったりする。自己啓発カルトとエンハンスメント薬物の先進国であるアメリカならでわの話だが、学術的にも人材マネジメントとしても実績や論証の乏しい「良識や道徳の再定義に尾ひれを付けたもの」でしかないような理屈を Google のような規模の会社が導入してしまう事情というものは、ダモーア自身が個人として受けた抑圧だけではなく、Google つまりは幹部たちが企業としてどのような抑圧を株主なり当局から受けたり牽制されているのかと勘ぐってしまう。もちろん、僕はここで「政治的な正しさ」が企業にとって単なる抑圧(心から賛同して取り組んでいるというよりも、単なる「クレーム対策」ということ)でしかないとか、そういうものが企業の効率的な活動を鈍らせているなどと言って、ダイバーシティなりインクルージョンなり政治的な正しさなりというスローガンで多くの人たちが取り組んでいることについて FUD となるような理屈を言い立てるつもりはない。
原則の話をすれば、合理的に考えれば是々非々があたりまえであり、採用試験の結果として女性の採用がゼロだったとしても企業が差別を問われる筋合いはない。しかし、歴史的な経緯や生まれながらのハンディキャップなど、圧倒的に不利な状況に置かれている個人や集団に対して一定のサポートを(たとえ不合理でも)やるのが人類の叡智や人倫ではないのかとも言い得る。そして、集団に対してどうこう企業がポリシーを立てる必要など最初からないのであって、個々の事例で不利な状況の人に対応していくことは逆差別でもなんでもない。したがって、女性の採用を 50 % にするという数値目標は、僕も馬鹿げていると思う。しかし、個々の採用において女性が不利な条件を可能な限り撤廃したり、最初から女性の志願者に幾らかのアドバンテージを設定することは問題がないと思う。なぜなら、その時点で明らかに見て取れる具体的なハンディキャップがなくとも、そもそも女性であるというだけで被る不利益や不公平の被害者であった可能性があるからだ(たとえば男の兄弟とは違って、家事の手伝いをやらされていたとか)。実際、ただの合理性だけでものごとを判断すればいいなら機械が判断すればいいのであって、人事部長だろうと採用担当役員だろうと、それらのホモ・サピエンスは皮肉にも企業の合理的な経営にとっては全く不要である。日本の新卒採用なら、SPI のスコアと出身校の偏差値だけで決めた方がマシという上場企業や大企業のヘタレ人事部など幾らでもあろう。
「議論の背景」
たいてい人々は善良だが、我々は誰しも自分ではよく見えていない偏見を持っているものだ。しかしありがたいことに、誰にでも開かれていて誠実な議論というものがあって、そこでは意見の一致を見ない人々が相手の盲点を指摘して互いを高め合うことができるのであり、僕がこの文書を書いている動機もここにある。Google には幾つかの偏見があり、そういう偏見について交わされるべき筈の誠実な議論は、Google を支配しているイデオロギーによって沈黙させられてしまっているのだ。僕が以下に書いているのは話の全てではないけれども、Google において切実に語られなくてはならない、Google という会社の一つの見え方なのである。
ダモーアがこの文書を書いた経緯について理解してゆくと、ダモーアは上記の文章で Google が社内外のステークホルダからどう見えるかという観点で書いていることが分かる。なぜなら、もともとこの文書は、自社について Googlers 自身が集まって話し合う会合のフィードバック・レポートとして書かれたからだ。もちろんダモーア自身も一人の社内のステークホルダとして Google という会社の様子を眺めており、そのうえで彼が「一つの見え方(a perspective)」として語っているのが、以下のような一連のエコー・チェインバーという状況なのであった。
「Google にある偏見」
Google で、我々は人種とかジェンダーについて無意識に当てはめる偏見のことをたくさん話している。けれど、我々自身の道徳的な偏見について議論することは殆どない。政治的な志向というものは、実際のところは内にある道徳的な選好つまりは偏見の結果である。そこで、社会科学やメディアや Google の圧倒的な多数派が左寄りに偏っていることを念頭に置いて、次のような先入観を批判的に検討するべきだ。
左寄りの偏見 右寄りの偏見 弱者への思いやりをもつ 強者や権威を尊重する さまさまな格差は不正義によるものだ さまざまな格差は自然で正当である 人間はもともと助け合うものだ 人間はもともと競い合うものだ 変化は良いことだ(不安定) 変化は危険である(安定) 開放的 閉鎖的 理想主義 現実主義 [...]
こういう偏見に光を当てられるのは、ただ事実と理性だけである。けれど、多様性(diversity)とか、個人の特徴を受け容れること(inclusion)について、これまで Google の左寄りの偏見は政治的な正しさに従うモノカルチャー(politically correct monoculture)を生み出し、批判する人を恥じ入らせて沈黙させることで自らを保ってきたのだった。この沈黙によって、他人の権利を侵害する過激主義や権威主義の方針に抵抗するような、あらゆる吟味の機会は取り除かれてしまう。そこで、僕はこの文書の残りを使って、何であれ我々の目の前に現れる全ての差異は差別的な扱いの結果なのだという過激な態度と、男女の平等な人材配分を作り出すには男女を実質的に区別して扱う必要があるという権威主義的な態度とを専ら議論することにしたい。
上記で、ダモーアが「過激主義」と評している主張、つまり「何であれ我々の目の前に現れる全ての差異は差別的な扱いの結果なのだ(that all differences in outcome are due to differential treatment)」という主張は、恐らく彼が参加した研修で目の当たりにした結果平等としての女性の採用比率のことを示唆しているように思える。女性の採用比率が 50 % に達していなければ、それは当該の部署で女性が差別されているからなのであるという議論は、アファーマティヴ・アクションを敢えて(局所的かつ一時的な戦術として)訴える人が梃子にするレトリックでもあり、もちろん一時的にものごとを是正するために必要だと判断できる場合もある。もし、その企業で本当に女性が差別されているとすれば、なおさらだろう。そして、差別されていない企業も含めて一律に女性の採用比率を 50 % に引き上げて、多くの企業で事業継続なり業務遂行に重大な支障が起きるという合理的な根拠がなければ、企業の人事ポリシーなり行政措置としてアファーマティヴ・アクションを採用することに一定の価値はあると思う。そもそも、我々は人類の「歴史」(それが大文字で書かれていようと小文字で書かれていようと)を物語あるいは物事の単なる推移として無批判に扱うことが多々あるが、それは特定の性や宗教や人種や地域や身分に対する不合理な差別や抑圧や衝突や戦争が無かったならば、人類はもっと優れた文明や思想に到達していた可能性があると考えられないものだろうか。つまり、現状は寧ろ失敗や失策・失政の帰結なのであって、世の中に iPhone があろうと量子コンピュータができていようと VR ゲームが流通していようと、女性に対する不合理な抑圧や差別がなく、黒人奴隷の歴史がなく、ガザ地区に向かってイスラエルがロケット砲を打ちまくるという事態も起きなかったならば(いまモーセ五書を読み終わったところだが、エジプトから逃れた後は統率者に歯向かい、神に向かって不平不満を言い、そして侵略した地域で残虐の限りを尽くした人々の話を読みながら、それは無理だったかもしれないとは思う)、もっと世界は良かったかもしれないと想像しうる。確かに、そういう想像には強い根拠がない。寧ろ、論理的には現状よりも更に酷くなっていた可能性があると想像して良いが、その想像にも十分と言えるほど妥当な根拠はないだろう。そして、個々の事業者がアファーマティヴ・アクションを採用することによって、局所的かつ特定の業種という幾つかの理由で地域や国家の規模にそのまま行政措置として当てはめられるとは限らないが、参考とすべき試金石にはできる。そして、これまでの「歴史」の成果と比較しなくてはならないのだから、その試金石の評価を数十年や数百年で確定しうる保証はないのである。
「ソフトウェア技術職のジェンダー・ギャップにあるかもしれない、偏見とは無関係な原因」*7
*7ダモーアは “tech” という言葉について “software engineering” のことだと注釈しているので、本稿では「ソフトウェア技術(開発)」あるいは「ソフトウェア技術職(という職能)」として訳してある。いわゆる「テック業界」とか「テクノロジー企業」という意味に使っているような気がする箇所もあるにはあるが、ダモーアにしてみれば Google 内の一部の職能についてだけ言っているつもりであり、 Google 全体どころか IT 業界全体について言っているかのように受け取られたくないのだろう。(もちろん、その注釈が議論を限定的なものとして矮小化させるための言い逃れや小細工として追加された可能性はある。)
Google において我々が日頃から話しているのは、女性に対する暗黙の(無意識の)偏見とかあからさまな偏見というものが、ソフトウェア技術職と指導者層にあるということだ。もちろん、偏見、ソフトウェア技術開発、そして自分たちの自身の職場についてどう感じるかは男性と女性で違っているのであって、我々はそういうことを知っていなくてはならない。けれども、それだけで話が終わるわけではない。
おおまかに言って、男性と女性には多くの点で生物学的な違いがある。そして、それらの違いは社会的に構成されたものでは全くない。なぜなら、次のような理由があるからだ。
- それらの違いは人類の文化にあまねく共通している。
- それらの違いは明らかに生物学的な、胎児期のテストステロン(prenatal testosterone)に関連する原因をもつ。
- 生物学的な男性が出生時に去勢され女性として育てられても、しばしば自分を男性だと考えたり男性のように振舞うことがある。
- 男女の根底にある形質は遺伝しやすい。
- これらは、まさに進化心理学の観点から予想し得ることである。
但し、僕はここで全ての男性が全ての女性と以下のような点で違うと言っているわけではないし、これらの違いが当たり前だと言いたいわけでもない。僕がここで言っているのは単に、物事の選好とか男性や女性の能力の分布は、或る部分では生物学的な原因をもつということだ。そして、これらの差異が、ソフトウェア技術職とその指導者層において女性が男性と同じだけ活躍していない理由を説明するかもしれないということなのである。そうした違いの多くは些細なことであり、たいていは男性と女性で共通することの方が多いので、あなたは以下のような人口分布が与えられても、それだけで或る特定の個人について何かを言うことはできないだろう。
![]()
もちろん、ダモーアの文書が明らかになった後で加えられた数多くの批評が示しているように、ダモーアが持ち出している「進化心理学」に訴えた議論には多くの問題がある。詳しい批評は後述するが、例えば以下のような批判を紹介しておこう。
[男と女とでは交配において異なる淘汰圧にさらされるので、生物学的にも心理的にも違いを生じるという] 一連の論理的な推論に問題があるのは、これが「俺、ターザン。おまえ、ジェーン」*8式のステレオタイプに乗っかっただけにすぎない、危なっかしい科学理論の体裁を整える便利な言い訳になるということだ。こういう推論は、まるで自然が男女の違いを最初から組み込んでいるかのような主張をしており、男なんて、こんな風に踊るのさとばかりに芸人が踊って見せる出し物の科学版でしかない。実のところ、近年の進化生物学者であれば、本能か育ちかという二分法(the nature-versus-nurture dichotomy)は時代遅れだとすぐに指摘するし、まともな科学者はそんな二分法を信頼に足るモデルだとは思っていない。
*8余談ながら、このフレーズを映画や原作小説のセリフだと誤解している人がアメリカでも非常に多いようだが、もともとは主役の俳優がインタビューで口にした冗談らしい。
「個人としての違い」
- 自分と異なる考え方に対してよりも、自分と異なる感情や美意識に対して寛容である。また、概して女性は、男性に比べて物質よりも人に強い関心をもつ(これは共感化とシステム化の対比としても解釈できる)。
- これら二つの違いは、或る程度は女性が男性と比べて社会奉仕分野や芸術分野の仕事を好む理由を説明する。男性が女性よりもコーディングを好むのは、それがシステム化を要求するからかもしれない。そして、ソフトウェア・エンジニアたち(SWEs)においても、比較すればフロントエンドの仕事、つまり人や美的なものに関わる仕事に就いている女性の方が多いのである*9。
- 自己主張よりも社交性として表れる外向性。あるいは、高度な同調性。
- その結果として、概して女性は給与の交渉に時間がかかり、昇給を求めるのかどうかを尋ねたり、率直に意見を言ってもらったり、あるいは何をしたいのか聞き出すのに苦労する。注意したいのは、これらの特徴は平均的な違いでしかなく、男性と女性では重複することが多いという点なのだが、このような特徴はもっぱら女性の問題だと見做されているということだ。そうして、ストレッチ(Stretch)のような排他的なプログラムが組まれたり、或る特定の男性たち(swaths of men)へのサポートがなくなったりする。
- 神経症傾向(不安を感じる高さ、そしてストレス耐性の低さ)。
- このような傾向は、Googlegeist で報告されているように、女性が強い不安を感じていることにも表れているし、女性が強いストレスにさらされる仕事に就いている割合が低いということにも表れている。
ここで注意したいのは、社会的構成主義者が説明するような話とは逆に、調査が示すところによれば、「国家規模でジェンダーの違いを無くしてゆくと、男性や女性の個性における心理的な違いが逆に促進される」のである。なぜなら、「社会の景気が良くなって男女の差がなくなると、男女が生まれついてもつ傾向の違いは更に大きくなる余地を生み出し、男女の個性にあるギャップは更に広がるからなのだ」。したがって、男女のギャップは常に女性差別のせいだと考えるのを止めるべきなのである。
*9“SWE” は “Society of Women Engineers” のことかと思ったのだが、同じ節の中で参照されているブログ記事を見ても SWE という団体が女性の従事している職能の統計を取ったわけではないようだし、そもそも SWE という団体について殆ど言及されている様子がないため、SWE という女性技術者の団体の中ですらフロントエンドの仕事に就く人が多いという意味にとっても、その証拠はない。よって、そういう訳し方だとダモーアが証拠もなしに特定の団体について何かを言っているような内容となってしまうので、ここでは “software engineers” の略称として訳した。つまりは、ダモーアが “tech” と書いているのと同じ意味だ。大学のシラバスでも、ソフトウェア・エンジニアリングを “SWE” と略す習慣がある。
「ステータスに対する男性の高い意欲」
ステータスというものは男性が相手から評価されるときの重要な基準なので、そのために多くの男性は収入の高い仕事、しかしそれゆえに詰まらない仕事でも、ステータスのために就こうとする。なお、技術関係や指導者という高収入で強いストレスを受ける仕事へ男性を導く力は、全く同じように石炭の採掘とかゴミの収集とか消防士といった不快で危険な仕事へ男性を導くのであって、業務に関連して死亡する人の 93 % は男性なのである。
この一節は、前節で列挙した女性のストレス耐性に比較して、男性がステータスを求めてストレスの高い仕事に就く傾向があると説明しているが、社会科学としては非常に雑な議論であって、はっきり言えば取り上げるに値しない。
なお、[Damore, 2017b] のようなブログ記事では、この次に「男性の中での差の大きさ(Higher variance among men)」という一節が追加されているが、この一節は騒ぎになった後から追加された可能性が高いため、本稿の「参考資料:[Damore, 2018] vs. [Damore, 2017b]」で紹介するだけに留めておく。
[continued...]
参考文献
- あきみち
-
2017
あきみち,「『女性は生まれつきエンジニアに向かない』と元Google社員は主張していたのか?」, Geekなぺーじ, 2017-08-09, http://www.geekpage.jp/blog/?id=2017-8-9-1, (accessed on December 3rd, 2018.)
- Bruinius, Harry
-
2017
Harry Bruinius, “Meritocracy and the history of the science of biological differences,” The Christian Science Monitor, 2017-08-25, https://www.csmonitor.com/USA/Politics/2017/0825/Meritocracy-and-the-history-of-the-science-of-biological-differences, (accessed on December 3rd, 2018.)
- Chachra, Debbie
-
2017
Debbie Chachra, “To reduce gender biases, acknowledge them,” Nature, Vol.548 (2017-08-24), p.373, https://www.nature.com/news/to-reduce-gender-biases-acknowledge-them-1.22502, (doi:10.1038/548373a), (accessed on December 3rd, 2018.)
- Damore, James
-
2017a
James Damore, “Google's Ideological Echo Chamber,” https://www.documentcloud.org/documents/3914586-Googles-Ideological-Echo-Chamber.html.
- Motherboard のロレンツォ・ フランチェスキ・ビッチェライエがアップロードしたファイルを HTML に変換したものらしい。海外の論説で参照される場合は、これのオリジナルの PDF 版がだいたいポイントされている。ダモーア本人も自分の「公式サイト」からリンクしている。しかし、他人が保管・管理するファイルである以上は後から改竄できるし、アカウントがクラックされたら第三者に改竄されてしまうため、念のため翻訳は [Damore, 2018] を元にした。
-
2017b
James Damore, “The document that got me fired from Google,” https://firedfortruth.com/2017/08/08/first-blog-post/ [as a “reformatted” version].
- ダモーアが運営するサイトで公開されている文書。論旨を変えずに Google の社内リンクなどを削除したと説明しているが、[Damore, 2017a] との差分を比較してみると、PDF 版にはない一節があったり、冒頭の “Reply” が削除されていたりと違いが多いため、本稿の冒頭で述べたように翻訳の元にはしていない。
-
2018
James Damore, “Google's Ideological Echo Chamber,” as an “EXHIBIT A” in the complaint for JAMES DAMORE vs. GOOGLE, LLC Case # 18CV321529 (Cal. Super. Ct., Santa Clara Cty., Jan. 8th, 2018), https://www.dhillonlaw.com/wp-content/uploads/2018/01/Dhillon-Law-Group-James-Damore-Complaint-against-Google.pdf.
- カリフォルニア州サンタ・クララ郡上位裁判所に提出された訴状に添付された資料。[Damore, 2017a] と同じものである筈だが、正確なチェックはしていない。(ちなみに裁判所を「上級」「下級」と分類するのは日本の習慣であり、日本では最高裁以外の裁判所は全て「下級」と称されるので、アメリカの裁判所について使うと誤解を招く。)公的な審判の場に提出された文書なので、本稿ではこれを元に翻訳している。
- DLG
-
2018
Dhillon Law Group, The complaint for JAMES DAMORE vs. GOOGLE, LLC Case # 18CV321529 (Cal. Super. Ct., Santa Clara Cty., Jan. 8th, 2018), https://www.dhillonlaw.com/wp-content/uploads/2018/01/Dhillon-Law-Group-James-Damore-Complaint-against-Google.pdf.
- [Damore, 2018] を資料として含む訴状の全文。
- 藤井裕志
-
2017
藤井裕志,「Google社員の『女性はエンジニアに向かない』文書問題について」, ありそうでないもの, 2017-08-14, http://plousia-philodoxee.hatenablog.com/entry/2017/08/14/192910, (accessed on December 3rd, 2018.)
- Ghosh, Shona
-
2017
Shona Ghosh, “Female engineers explain why James Damore was really fired from Google,” Business Insider, 2017-08-16 7:51 a.m., https://www.businessinsider.com/female-engineers-rebutted-james-damores-google-memo-2017-8, (accessed on December 3rd, 2018.)
- McArdle, Megan
-
2017
Megan McArdle, “We Live in Fear of the Online Mobs,” Bloomberg, 2017-08-22 22:06 JST, https://www.bloomberg.com/opinion/articles/2017-08-22/we-live-in-fear-of-the-online-mobs, (accessed on December 3rd, 2018.)
- Molteni, Megan and Adam Rogers
-
2017
Megan Molteni and Adam Rogers, “The Actual Science of James Damore’s Google Memo,” WIRED, 2017-08-15; https://www.wired.com/story/the-pernicious-science-of-james-damores-google-memo/ (accessed on December 3rd, 2018.)
- ちなみに、WIRED の記事は (1) ページに表示されるタイトル(The Actual Science of James Damore’s Google Memo)、(2) URL 文字列(/the-pernicious-science-of-james-damores-google-memo/)、そして (3) メタデータのタイトル(James Damore’s Google Memo Gets Science All Wrong)が全て違っており、はっきり言って真面目な典拠表記に値するのかどうかすら疑わしく、この点だけについて言えば、「クズ」としか言いようがない編集方針を取っているらしい。
- Stoeffel, Kat
-
2017
Kat Stoeffel, “What I Got Wrong About Misogyny,” The CUT at New York Media, 2017-08-24, https://www.thecut.com/2017/08/what-i-got-wrong-about-misogyny.html, (accessed on December 3rd, 2018.)
- Wikipedia contributors
-
2018
Wikipedia contributors, “Google’s Ideological Echo Chamber,” Wikipedia, The Free Encyclopedia, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Google%27s_Ideological_Echo_Chamber&oldid=844651879 (accessed on June 7th, 2018.)
- Young, Cathy
-
2017
Cathy Young, “An Interview With James Damore,” reason, 2017-08-14, https://reason.com/archives/2017/08/14/an-interview-with-james-damore/, (accessed on December 3rd, 2018.)
参考資料:[Damore, 2018] vs. [Damore, 2017b]
本稿で既に言及したように、[Damore, 2017b] はダモーアが Google から解雇された後に公開された文書であり、[Damore, 2018] = [Damore, 2017a] と比較してみると、かなり違いがある。よって、この文書は解雇された後に再編集されたものだと言わざるをえず、実際にダモーアが他の元 Google 社員と一緒に起こしたクラス・アクションの訴状では全く無視されている。よって、本稿でもいちいち言及するだけの価値があるとは思っていないが、念のため両者の違いを指摘しておく。なお、[Damore, 2018] から [Damore, 2017b] を照らし合わせた場合にどこが違うかという話なので、基準はあくまでも [Damore, 2018] である。よって、以下の各点は、全て「この箇所において [Damore, 2017b] は~」という主語を省いてある指摘だと思ってもらえばいいだろう。また、ページ数の表し方は本稿で採用している [Damore, 2018] の扱い方と同じである(ダモーアの文書を単独で扱った場合のページ数を括弧に入れている)。それから、特定の表現にリンクが付いていないと指摘している場合が多々あるが、これはダモーアがわざと外したのか、それともリンクを付け忘れたのかは分からないので、「リンクが付いていない」とだけ表記してある(「リンクが外されている」という表現にはしていない)。
ページ数 | [Damore, 2018] との違い |
---|---|
64 (1) | タイトル、署名、目次、“Reply to ...” を含めて、p.64 のコンテンツはない。 |
65 (2), TL;DR | “psychological safety” にリンクが付いていない。 |
65 (2), TL;DR | “Differences in distributions of traits between men and women (and not “socially constructed oppression”) may [...]” として、括弧内の表現が追加されている。 |
65 (2), Background | 注釈が掲載されているのに、注記の数字が本文から全て無くなっている。よって、[Damore, 2017b] の末尾にある注釈がどこのことを指しているのか、ブログ記事だけを読んでいる人には全くわからなくなってしまっている。また、[Damore, 2018] は脚注だが、[Damore, 2017b] は後注になっている。 |
65 (2), Google's biases | “media” にリンクが付いていない。 |
67 (4), Possible non-bias ... | グラフに記入されている説明文で “(this is bad and I don't endorse that)” という括弧書きが削除されている。 |
67 (4), Personality differences ... | タイトルにコロンが付いている。 |
67 (4), Personality differences ... | “more women work on front end” という箇所に https://medium.com/@kt_seagull/quantifying-impostor-syndrome-gender-imbalance-along-the-stack-f39ef27042bf へのリンクが付いている。 |
67 (4), Personality differences ... | “Neuroticism” にリンクが付いていない。 |
68 (5), Men's higher .... |
この箇所が終わった後、次の “Non-discriminatory ways to reduce the gender gap” という節とのあいだに、新しく “Higher variance among men” という節が追加されている。
*原文を読むと気付くのだが、ダモーアが使う “lead” と “cause” には注意が必要だ。訳文のニュアンスを間違えると、これは簡単に correlation を causation と取り違える間違いを犯しているように翻訳できてしまう。「これにより」という表現だと、どちらのニュアンスなのかは分かり難いが、逆にどちらかを意味しているかのように読者を誤解させずに済むかもしれない。 |
68 (5), Non-discriminatory ... | “and suggest ways to” が “and how we can” になっている。 |
68 (5), Non-discriminatory ... | 箇条書きの “Women on average” は、全て “on average” が削除されている。 |
68 (5), Non-discriminatory ... | 箇条書きの二つめ、最後の “do.” は、“do, especially in our interviews.” と続いている。 |
69 (6), Non-discriminatory ... | 箇条書きの “Women on average” は、“on average” が削除されている。 |
69 (6), Non-discriminatory ... | “Women on average look for more work-life balance” はリンクが付いていない。 |
69 (6), Non-discriminatory ... | “men may disproportionately” は “men will be disproportionately” になっている。 |
69 (6), Non-discriminatory ... | “(as part of our culture)” は削除されている。 |
69 (6), Non-discriminatory ... | “part time work” はリンクが付いていない。 |
69 (6), Non-discriminatory ... | “arbitrary social engineering of tech just to make it” の “just” がイタリックになっている。 |
69 (6), The harm ... | “I strongly believe in gender and racial diversity, and I think we should strive for more. However, to [...]” は、短く “To [...]” になっている。 |
69 (6), The harm ... | “effectively lower the bar” はリンクが付いていない。 |
70 (7), The harm ... | “left ideology” は “neo-Marxist ideology” になっている。 |
70 (7), Why we're blind | “deny science” はリンクが付いていない。 |
71 (8), Suggestions | 箇条書きの二つめ、“conservatives tend to be higher in conscientiousness” はリンクが付いていない。 |
71 (8), Suggestions | 箇条書きの三つめ、“and personality” が削除されている。 |
72 (9), Suggestions | 箇条書きの七つ目、“De-emphasize empathy” は “De-emphasize empathy when making policy decisions” になっている。 |
72 (9), Suggestions | 箇条書きの七つ目、“causes us to focus on anecdotes” は “causes us to focus on individual anecdotes” になっている。 |
73 (10), Suggestions | 箇条書きの10個目、“many other types of biases” はリンクが付いていない。 |
69 (6), 注釈 5 | “Engineering Practicum (to an extent), and several” は “and countless” になっている。 |
69 (6), 注釈 6 | “(which is illegal and I've seen it done)” は “(which is illegal)” になっている。 |
71 (8), 注釈 11 | “defined” はリンクが付いていない。 |