「街場」なんて存在するのか

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

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First appeared: 2010-09-24 00:19:08,
Modified: 2013-08-16 11:39:00,2015-06-04 21:21:00,
Last modified: 2015-10-27 22:24:00.

以下の文章は、何度か途中まで書いて「くだらない」と思いながらも、再び書き直してきたものである。どうして書き直すたびに「くだらない」と感じてしまうのか。その話から切り出した方が、却って分かりやすいかもしれない。

I

第一に、江さんや内田さんの議論について検索してみると、彼らの議論について社会学の観点から取り上げたり応じている事例が少ないという印象をもった。その理由はなぜなのかと調べてみたら、彼らの着眼点だけを見ると、草間八十雄、磯村英一、あるいはエドワード・ソジャのような、底辺、下流、下層、あるいはプレカリなんとかであれ、「その手の人々」に着目した大量の研究は、戦後の都市社会学を知っている人間にとっては常識の範囲に属していることが分かる。

II

第二に、とりわけ江さんが自著で描いている「街場」は、つまるところ単なる「酒場」や「盛り場」のことではないのかという疑問がある。江弘毅さんという『Meets Regional』の元編集長が書くので、ご本人の意図とは逆に「ディープな大阪のディテール」について訳知り顔したい他府県のマスコミ関係者だとか、大阪に関する紋切型を探している編集者に(もともとその言葉が担っていた意図とは無関係に使われてしまいかねない)新手のパッケージを用意してやっただけのことではないのか。

その一例として、『+ViSiT 大阪』という枻出版から出たムック本には(枻出版のウェブページでは意図的に伏せてあるようだが)、表紙に堂々と「街場」という言葉が使われている。そしてこのムック本を見るとすぐに分かるとおり、この本が「街場」と形容しているものは、江弘毅さんらが語っているものとはかけ離れている。早い話が、ムック本の方は、他府県からやってきた旅行者にオススメする、地元の人間が一度も行ったことがないような高級デートスポットのカタログであり、高級レストランやおしゃれな小物洋品店などが、それこそ80年代後半のバブルを彷彿とさせる様相で紙面を埋め尽くしているのだ。もちろん「街場」という言葉は江さんの造語でもなければ、彼あるいは女子大のフランス文学教師だけに語る資格があるわけでもない。しかし、見るからに「大阪」「街場」という安易な組み合わせは、枻出版の編集者が自分で社会科学の文献を猟渉して見つけたというよりも、江さんらが一般読者に広めた「新手のレッテル」の借用だと判断せざるをえないだろう。

[追記: 2015-10-27] ちなみに、この枻出版社という出版社は、自社で出版した本をそのまま自社でパクって出版し直すという不思議な芸当をもっているらしく、都内の編集者や出版社の才能はおろか職業人としての節度の零落をよく表している。

III

そして第三に、これは過去の記事では、いたずらに誤解を与えかねないという理由で遠回しな言い方をしていた印象なのだが、江さんの文章を参照してから説明する方が分かりやすいかもしれないので、この節だけ異様に長くなるが、ご承知おきいただきたい。

今年に入って、江さんが『街場の大阪論』(新潮文庫)を上梓されていたので手にとってみると、正面切って「街場とは何か」と問うているわけではないにしても、「街場」という言葉に込められている意味合いの概略を掴める箇所があった。「『知らない人なのに知っている人』のいる街」(pp.96-103) である。そこで、手短にこの文章を取り上げてみよう。

「『知らない人なのに知っている人』のいる街」という一節には、最初から「街」という言葉が出てくる。いわく、秋葉原は東京ならではの「街」であり、「顔がない『一人ぼっちのみんな』でいっぱいの街だ」という。これに対して大阪という「街」は「知らない人なのに知っている人」に出会う「街」であり、それを江さんは「多分に感覚的な言い方で『街場』などと呼んだりしている」らしい。

すると、「この文章によれば、秋葉原も『街』なんでしょう?」という質問を思いつくのだが、次のように答えられるだろう。つまり、秋葉原と大阪(のどこなのかは知らないが)はどちらも「街」とは言えるが、もっと丁寧に表現すれば、「顔がない『一人ぼっちのみんな』でいっぱいの」と、「『知らない人なのに知っている人』に出会う」という違いがある。したがって、どちらも「街」であるには違いないが、彼の言わんとする「街場」とは前者のような「街」には当てはまらない(としか説明のしようがない)。

では「知らない人なのに知っている人」がいるとはどういうことなのか。大阪の特定の場所が「街場」であると言いうるなら、それが理解できなければならないだろう。江さんによると、「知らない人なのに知っている人」とは、次のように説明される。

その人の名前やその人の属性、どこで何をやっている人なのかは「知らない」けれど「知っている人」のことである。逆にどこで何をしているのかを「知っている人」なのに「知らない人」というパターンもある。(『街場の大阪論』,p.97f.)

ここで、後者は別に「街場」を説明するために持ち出す必要などないだろうと反論したくなるかもしれない。なぜなら、何をしているのか知っていても知らない人など、別に大阪でなくても至るところにいるからだ。その典型は、僕らからみた芸能人や政治家や内田樹という、いろいろな意味で「別世界の人々」だ(笑)。しかし、別に有名人という意味合いで後者が持ち出されているわけではない。有名人ではないが、僕が大学時代に線形代数と解析を習った数学の先生は生野区に住んでおられたし、さきごろ『現代思想』にデビューした某社会学者も都島に住んでいる(彼はネットでは有名人なのかもしれないが)。彼らの周辺に住んでいて挨拶したり喫茶店で顔をあわせる人たちは、彼らが「何をしている人なのか」は知っているかもしれない。しかし他方で、殆どの人は彼らを知らないとも言えるだろう。そういう状況、なんなら、気取った連中の趣味に合わせて「カンケーセー」と言ってやってもよいが、そういう条件で誰かと「客―店主」あるいは「近所の人」といった間柄を取り結ぶところが、街場なのであろう。

ただ、「街場」として描かれているエピソードの数々を、単なる「大阪の場末にある盛り場で見聞きした人付き合い」の話としてベタに読むと、大阪人なら或る種のいかがわしさを覚えるのではないだろうか。つまり、江さんのような文章は、いかにも民俗学者や社会学者あるいはルポライターが手掛けるエッセイのように書かれているが、要するに相手が「何をしているか」が分かると、付き合いの構えが変わってしまいかねない国籍や地域や職業の人とか、「何をしているか」は薄々分かるが、それ以上は踏み込めないような人のことを指しているのではないかとも言いうるからだ。

実際、上記の引用箇所のすぐ後で、江さんはよその街や海外へ行ったときに来訪者として受ける印象を述べており、つまるところ「大阪には外国のようなところがある」と外挿することを読者に要求しているように読める。それを「大阪という街の特徴」とか「街場」という言葉で表現することに、どういう意味合いがあるのだろう(僕が問うのは「江さんの真意」ではなく、「街場」という言葉を使える条件がマスコミで整えられた場合の「効果」である)。

IV

「街場」という言葉が念頭に置いているところは、もちろん山村や農村でないことは明白であるにしても、都市のオフィス街でも高級住宅街でもなく郊外のベッドタウンでもない「どこか」として語られる。既に「それって、要するに盛り場や酒場のことなんじゃないのか?」と指摘したが、それはつまり、都市社会学のタームでは「第三空間」と言い換えれば済む話なのではないかという指摘を意味する。この指摘が的を射ているならば、そうした既存の知見を利用せずに「目新しいだけの何か」を言わんとすれば、マスコミ関係者の宿命なのか、「あれでもなく、これでもない、俺が言いたいのはこうだ」という消去法あるいは差別化のレトリックに訴えざるをえなくなってくるのも理解できる。「俺が言いたいのは、こういうことではない」という表現は、確かに元『Meets Regional』の編集長が口にすると、それが単なる個人の経験だけに基づいているのであれ、何か高尚な意味合いに向かって「純化」されてゆくように見えるのかもしれない。しかし、本当にそうなのか。ただのクオリアに訴える詭弁(自分の主観的な経験とその解釈に合致しないというだけの理由で、他人の説明や記述を拒絶して自分の記述の正統性は反論不能であると考えたり前提すること。教育の議論で個々の教師が口にする「現場主義」も、この手の詭弁が多い)ではないのか。

消去法のレトリックを使う危うさは、「ここでもない、あそこでもない」という語り方の末に残る場所という印象を読者に与えてしまい、とりわけ大阪に住んでいる人間には「なんや、あっこみたいな処のことか」という、逆に偏見を自動的に増幅するようなイメージと共に<理解>されてしまいかねないということである。しかし、おフランスのゲンダイシソーをお嬢様方に教えている先生も使っている言葉だし、PC 的に正かろうと正しくなかろうと、自分たちが「何のことだと理解してしまったのか」という後ろめたい話とは分離した状態で使えると読者に判断され、「或る意味では PC でない使われ方をしてしまいかねない」という文脈は、この言葉が便利な遮蔽装置として流通し始めると、どこかに放置される可能性がある。

そうして、メディアの中で PC 的な正当化を必要としなくなるという効果があれば、どんな地域を個別にメディアで取り上げようと、歴史的な経緯や社会的・政治的な背景を全く無視して済ませられるので、安易にメディアで語りうることになる。僕が思うに、これはなにも江さんだけに限った話ではないし大阪だけに限った話でもないが(実際、東京にだって外国人が寄せ集まって住んでいるところはあるし、歴史的な経緯から在日韓国・朝鮮人が多く住んでおられる地域や同和地区もある)、どこであれその土地の習俗について語る著作物は、「現象論として描くだけなら PC 的に無害であり、面倒な話題をスルーできる」という境界線をメディアに勝手かつ安易に引かせてしまうようなインセンティブを与えてよいのか、自問すべきだろうと思う。

はっきり言うが、例えば在日朝鮮人が多い地域を「韓国料理の紹介」という名目だけで取材すれば、イデオロギーや政治から切り離してもらえると勝手に思い込んでいるかのバラエティ番組や視聴者が増えていないか。ドキュメンタリーと称して社会学者になったかのような気分で取材すれば、しかるべき行政上の取り扱いを受けている地域を面白おかしく(あるいは深刻ぶった社会派づらして)取り上げても許されると思っていないか。それを「大阪の一味違った楽しみ方」などと低レベルなコピーライターにレッテル貼りさせるのは勝手だが、現象論として取り扱うことと、単なる無知無教養は意味が違う。

V

とりわけ大阪についてものを書いている人間が、いま述べたような点を推測できないわけがなく、したがって、「俺だけが知ってる新今宮」とか「本当の大阪」という絶望的に下らないヲタク競争の結末がどうなるかを、江さんのようなマスコミ人は最初から分かっていた筈である。話は枻出版のムック本だけに限った事ではなく、ひとたび大阪について語る新しいキャッチフレーズが認められると(もちろんそれは大阪だけに限った話ではなく、東京の「下町人情」や地方の「人の良さ」といった、表面的な民間社会学あるいは素人民俗学のフレーズにも当てはまる)、「何が本当の大阪であるか」とか「どこについて語れば『大阪通』であるか」とか、その手のお伽話が量産されることになり、江さんらが自覚していようといまいと、自分たちが違和感を感じていたはずの観光地ガイド的な上滑りの話へ、実質的に自ら加担してしまったことになるのだ。しかも、「街場」という言葉で語っていれば、コリアタウンを取り上げようと同和地区を語っていようと釜ヶ崎について書いていようと PC 的に安全であるというお墨付きまであるかのごとく客観的に、あるいは現象論として眺めているフリができる・・・のか? あるいは、このように愚劣な議論や思考を、内田氏は女子大で「現象学的還元」とでも教えてきたのか。

いまの時点で僕が言えることは、もしあなたが『街場の大阪論』を読んで、「へぇ、こんな面白いところがあるのか」としか思わなかったなら、少なくともあなたは大阪に生まれ育った人間ではない筈だ、ということである。そして、「街場」とは事実上において特定地域の「酒場」や「盛り場」のマスコミ的な言い換えにすぎないという結論に至っている僕から見ると、僕のようにそもそも酒場を彷徨かない(酒が飲めない体質の)人間にしてみれば、「酒が飲める=まっとうな大人」という土俗的な図式に、おフランス流のたわごとを31アイスクリームのトッピングみたいに振りかけたような所説には、胡散臭い印象が強く残る。いわんや、単に新規な言葉遣いをするだけで、「PC的に無害な立場から現象論的な視線で人間関係や土地を紹介できる」などという免罪符をマスコミ関係者に与えてしまう危険性があると思える以上、胡散臭いだけの話では済まないようにも感じる。

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