英語の勉強について

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

Contact: takayuki.kawamoto@markupdancing.net

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First appeared: 2019-02-23 22:25:05,
Modified: 2019-04-11 10:29:38,2019-04-16 15:53:41,2019-06-30 00:53:02,2021-09-21 09:02:45,2021-11-22 17:33:11,2022-05-11 07:02:44,2022-06-06 07:36:01,2022-08-23 07:45:27,2022-08-29 10:24:59,2022-10-11 08:50:50,2022-10-24 13:23:01,2022-11-18 21:55:09,2023-03-14 08:21:01,2023-05-22 12:13:17,2023-10-29 11:18:19,2024-02-03 15:58:20,2024-06-01 11:59:43,2024-07-09 11:42:55,2024-09-09 08:00:30,2024-11-20 22:00:29,2024-12-19 07:05:05,2025-04-09 10:59:17,2025-10-06 08:14:10,2026-01-09 12:51:47,2026-01-15 16:50:22,2026-01-23 08:22:05,2026-01-23 12:02:50,2026-01-26 07:32:07,
Last modified: 2026-01-27 11:09:02.

はじめに

本稿は、英語の勉強について色々なテーマを取り上げる。そして、取り上げているテーマの多くは中学から大学まで英語を勉強した人なら誰でも口を挟めるような話題ではあるものの、その多くが本人の僅かな経験に頼る偏った議論にすぎないので、ここでの議論も僕自身の経験が限られていることを理解したうえで、誰にでも当てはまるとは限らないという前提を置く。そして、本稿の目的は、僕が英語を勉強してきた方法をつまびらかに列挙したり勧めることでもなく、その是非を決めることでもない。僕は、英語のユーザとしては全くの平凡な人間なので、自分の経験が誰かの役に立つかもしれないとは思うが、僕のやってきたことに賛同したり従ってもらいたいなどとは思っていない。

なお、本稿は別のページや記事で書いた文章を追加したり、後から新しく書き足しているため、それぞれ文体が違っている。このページへ転載するにあたって表記を改めてもいいのだが、些末なことに時間を使う必要を感じていないため、本稿はそういうものだと割り切って読んでもらいたい。

松本亨さんの話

もう松本亨さんと言われても知らない人が大半だろうし、そもそも僕と同じ年代の人々でも英語の勉強に特別の関心がなければ知らない人も多いとは思う。それに、松本亨さんは僕が中学に入って英語の勉強を始めた1981年には亡くなっていたのであり、彼が長らく務めたという NHK ラジオの『英会話』というプログラムも聴いたことがないから、彼が英語の話者としてどう喋っていたのかすら僕は知らない。しかし、それでも僕は松本亨という人物には一定の影響を受けている。なぜなら、僕は彼が書いた『英語の新しい学び方』(講談社, 講談社現代新書52, 1965)という本の愛読者だったからだ。他にも、中学に入って英語の勉強について色々と調べたり試していた頃に、同じく英語教育の本では著名な松本道弘さんの著書にも触れて、「なるほど、僕はまだ*級の使い手か」などと感じては奮起させられたものであった。(それは、僕が幼かったからだろう。松本道弘さんの著書や主張については、他の話題として書き改めることとしたい。僕は、松本道弘さんのアプローチはロジックや語彙や文法にこだわりすぎていて内容を見失っていると思う。)

松本亨『英語の新しい学び方』

英語を学んでいるときに影響を受けた人物としては、他にも塾の先生がいた。お名前は忘れてしまったが、一時期だけマンツーマンで指導してもらい、そのときに桐原書店の高校の参考書を使い込んだことがある。先生曰く、中学生であっても文法を体系的に解説している高校の参考書を使って勉強した方が効率が良いとのことだった。これは、僕がプログラミング言語を仕事で勉強するときにも従ってきた方針だ。実際、「〇〇を作りながら覚える**言語」のような、書いている側はシンタクスの必要事項を網羅するように構成して書いているのだとは思うが、それをわざわざ場当たり的にストーリー仕立てにしたり具体的な目標を立てて解説しなくてもよいと思う。逆に、機能を使うコンテクストを具体的に決められてしまうような説明だと先入観ができてしまう。数学でもそうだが、いつまでも鶴亀算をやっているだけでは方程式を解いたり解析学の定理を証明できるようにはならないのである。そして、自分の知識や経験や技能を役立てる有効な手段というものは、結局のところ物事を体系的・抽象的・形式的に理解する訓練と、それを色々な場面で応用してみるという好奇心やチャレンジの組み合わせなのである。前者があって初めて信念を持てるし、後者があって初めて理解は向上したり洗練するものだ。

Mastery 高校 新総合英語 3訂版

そして更に、この先生から勧められて使い始めたのが、松本亨さんも勧めている、いわゆる英英辞典だ。どの英英辞典がいいと具体的には勧められなかったが、(なんと言っても中学生だったので)LDOCE の基本単語集を買って一通りの勉強をしてから、当時は一色刷りだった Longman Dictionary of Contemporary English の初版を手に入れた。いまでこそ多くの辞書に採用されているが、その当時は語義の語彙数を制限して記述するという辞書が目新しかったので、語彙が少ない中学生が最初に使うのに最適だと思ったからだ。覚えている方もおられると思うが、昔の英英辞典は語義の記述がそもそも難しくて、特に Webster の辞書は語義を理解するために英和辞典を使わないといけなかったほどだった。それに比べて LDOCE は語義を別の辞書で読み解く必要がない。中には、語彙が限定されているからか回りくどい言い回しの語義もあるにはあるが、それで LDOCE や英英辞典を放り投げる理由になどなるまい*

Longman Dictionary of Contemporary English

*確かに、語義を説明されて何のことかは分かるとしても、それを日本語でどう言うのかを知らなければ、英語で生活はできても翻訳家や通訳にはなれない。したがって、回りくどい表現で語義を理解するよりも英和辞典に書いてある日本語の方がすぐに分かることもあるし、他人である日本人に伝わりやすいことも多いので、英和辞典にも有利な点がある。しかし、学校で無理やりに教え込まれるのとは違って、多くの人が自ら英語を勉強する目的は、英語を他人のために日本語へ訳すことではないはずなのだ。これも松本亨さんの著書に出てくる指摘であり、英語教育において何度も指摘されてきた話題だ(つまり学校教育では英語《を》訳すテクニックを教えており、英語《で》理解したり、英語《で》表現することを教えていない)。

次に、松本亨さんの著書から僕が影響を受けて実際にやっていることをご紹介しよう。まず、次の一節を引く。

辞書をひいたら,その単語にしるしをつけておきます。2度目に同じ単語をひいたときは,それを最後にするつもりで,notebook に書きうつします。この notebook は,book of shame と思って,内ポケットに忍ばせておいて,電車の中で,こっそり復習するために使います。ただし,そこに記入する words には,日本語の訳もなにも書きません。ただそれだけを書いておいて,最初から順々に暗記していきます。

松本亨『英語の新しい学び方』(講談社現代新書), p.193.

上記をヒントにして、単語集を作るときに僕が守っているのは、訳語を書かないというルールだ。知らない単語だけを赤字で書いておき、それが出てくる文を書くと、脈絡とセットになって単語が登場する。こういう単語帳を使い始めた当初は、その脈絡が単語の意味を思い出すヒントになってしまったり、単語の意味を限定する先入観になるのではないかと心配したのだが、そういう心配は英語で生活できるレベルの人間がすればいいことなのである。「学習」している段階の人間は、四の五の言わずに詰め込むことこそ勉強においては王道なのだ。もちろん無味乾燥な作業に耐えられない人も多いので、自分なりの工夫はした方がいい。しかし、いずれにしてもやることは「覚えこむ」という意味において同じであり、なんやかんやとやる前に自分で不安材料を見つけたり欠点をあげつらうのは、要するに勉強したくない人間の言い訳にすぎない。

僕の使ってた単語帳

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「英語ペラペラ」という幻想

英語の勉強がしたいという人はたくさんいるし、好き嫌いはともかく必要だという人も多いが、そうした人たちがたいてい誤解しているのは、(1) 日本で学べるのはあくまでも日本で流通している範囲の情報にすぎないという当たり前の事実を分かっていないということと、(2) 自分たち自身の日本語の運用能力や、自分たち自身の素養・知識についての思い込みがあるということだ。

まず (1) については、英語を勉強する人々の中で、現地で生活するために必要だとか、あるいは業務で習得しなくてはいけないという切実な事情がある人は、既に英語を使わざるをえない状況に置かれている立場であるからには、何をどう勉強してもいい。まずはがむしゃらに勉強しないとどうしようもないのであり、それは他の国へ足を踏み入れる行商人や犯罪者らが遠い昔から延々とやってきたことなのである。それに比べて、学校教育のお勉強だの、字幕を見ないで映画が観たいだの、アメリカに旅行して話したいだのという、言わばカジュアルな動機で英語を勉強する人の殆どは、もちろんアメリカやイギリスへは行ったこともなければ、実はアメリカやイギリスについて、歴史だろうと行政システムだろうと、あるいは歩いていてウンコしたくなったらどこへ行けばいいかすら学んだことがない人たちであろう。或る言葉をアメリカで現地の人たちが気軽に話しているのを聞いて理解するための、実生活という経験もゼロである。もちろん僕らにも言えることだが、現地で流行っているテレビ番組のセリフや広告のキャッチフレーズをもじった表現などは、現地で生活していないと理解できないし、まず相手に言われてもピンと来ない。確かに Philosophy of Science に掲載される学術論文に出てくることはないから仕方のない話だが、映画を字幕なしで観たいとか、現地で話してみたいといった、カジュアルな勉強をしている人たちが思い描いている実生活で使われる表現として、こうしたフレーズは膨大な数に上る。そして、そういうものは決して日本で発売されている辞書の類には掲載されないし、辞書の語義を眺めているだけで語釈が正確に分かるものでもない。スラングを集めたような本を片っ端から読んでいる人などもいるようだが、そんなことで南部の黒人が話す訛りまで分かるものでもなかろう。現実に使われる言語というものは、これはスラング、これは訛り、これは業界用語などと区別して相手が使ってくれるという保証などないのであって、その多くの原因は英語のネイティブであるアメリカ人も、その多くは (2) で挙げたように、母国語の能力が欠けているからなのである。(TPO に合わせて言葉が選べない人なんて、日本で日本語を使って会話している大人でもたくさんいるのは誰もが知っているだろう。それに気づかないなら、それはあなた自身の日本語の運用能力が低いからなのだ。)

ということで (2) について話を進めると、これはしばしば英語の幼児教育に反対する人々の根拠にもなっているとおりである。きわめて簡単に言えば、相対性理論を(ブルーバックスを読んだというていどにすら)理解していない人が「そうたいせいりろん」という単語を覚えたところで、そんな語彙は役に立たない。自分で何かを考えるためのツールとしても役に立たないし、相手に「あれは相対性理論に照らしたら起きない筈のことだ」と言われても理解できないだろう。あるいは子供に “administration” という単語を教えたところで、子供にはそれがどういうことなのかという概念がないのであって、“to perform executive duties” と言い換えたところで同じである。更に、“to manage us like your teacher” などと子供に分かる範囲で説明しなおしたとしても、それではニュアンスが全く伝わらない。たぶん、そう説明された子供は、大統領も学級委員も、あるいはテレビのリモコンを握るおとーさんも “administration” していると思ったり言うだろう。或る意味ではそうだと言えるのも確かだが、そういう雑な語釈をつかむだけで言葉を習得していくと、母国語であれば周りとの会話で早期に修正したり調整するチャンスがあるけれど、外国語を独学したり試験問題だけで学ぶ場合は調整不能と言ってよく、現地で使い始めても相手からは「変な英語を喋る人」として扱われたままだ。ちょうど、僕らが留学生の日本語をいちいち修正したり調整などしないのと同じで、アメリカ人も相手の英語をいちいち指摘などしないし、リベラルな人が多いと言われる西海岸地域ですら英語の扱いが下手だと差別の対象になって、指摘どころか全く相手にされなくなるのである(これは強調しておくべきだと思うが、アメリカはあらゆる種類の差別の先進国である)。したがって、英英辞典の語義では《それがどういうことなのか》を理解するにはニュアンスや制約条件が足りず、結局は教えるべき人が(いればの話だが)的確な状況で使って見せるしかない。しかし、英語を学びたいという人の多くは単独で勉強しているため、そんな的確な語釈を示してくれる相手などいない。すると、英英辞典の語義を眺めて過不足なく語釈を記述しているかどうかを自分で判断しなくてはいけないという英語の能力を、英語の学習者が要求されるなどということは無茶な話だと分かるだろう。

もちろん、どこまで準備すれば英語を学ぶだけの知識や経験があると言えるかは分からない。しかし、上に紹介したとおりのミスマッチが見過ごされたまま英語の幼児教育が普及して、日本語も英語も半端な能力しかなく、それどころか日本と英語圏の生活や知識についての理解も不十分と言える、日本の成人としても英語圏の成人としても半端な人々が育っているように思う。そして、実のところ日本の社会や企業の大半は、日本で英語が使える人間を評価などしていないし採用する必要も感じてこなかったし、それで十分だったのである。実際、テレビでの扱いを見れば分かるように、英語が話せるというのは「芸」の一つにすぎない。沖縄出身、横浜出身でインターナショナル・スクールに通っていましたとか、オーストラリア出身とか、母親がアメリカ人だとか、その手のプロフィールはアイドル歌手や俳優の「オプション」であり、その人物の個性でもなければ強みでもなんでもないのである。もちろん、アメリカの帰国子女だというアイドルに、アメリカでレコーディング・スタジオを使う際の契約書を読ませたところで、彼女らはその当否について何も分からないだろう。そして、当然だが芸能プロダクションは現地のエージェントや日本人の弁護士に依頼して契約書をチェックさせるに決まっている。それは、英語を読み書きできるということと、契約書面の法的なリスクを判定できるということは、全く異なる知識や経験が必要だということを、ぜんぜん英語が話せなくてもまともな大人は理解しているからである。

したがって、そろそろ英語を運用するということについての間違ったロールモデルの典型である、「英語ペラペラ」という馬鹿げたイメージをばら撒くのはやめてもらいたい。馬鹿は、たとえ英語で話していても、馬鹿なことを英語で話しているだけなのである

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単語集をつくる人々へ

単語集や文法の本は、本当にたくさん出版されている。学校の試験や受験だけではなく TOEFL や TOEIC や英検などの qualification にも対応する色々な編集方針の書籍が出ている。僕がそろそろ英語の勉強でも始めようかと思い始めた頃から40年が経過しても、その傾向は全く変わらない。もちろん、そのあいだには幾つかの名著や定番と言われる著作物もあって、文法では多くの人たちが江川泰一郎さんの『英文法解説』(金子書房, 1991)を挙げるだろう。また、英単語では「豆単」と呼ばれた赤尾好夫さんの『英語基本単語集』(旺文社, 1995。アマゾンのレビューで「豆『短』」と変換して推敲すらしてない人が意外と多いのは何か皮肉な印象を覚える)や「シケ単」「でる単」と呼ばれた森 一郎さんの『試験にでる英単語』(青春出版社, 1997。赤尾さんの単語集もそうだが、これらは復刻版なので1990年代の出版となっている)が有名らしい。「らしい」というのは、僕はこれらの単語集を一度も使ったことがないからだ。いや、これらどころか、僕は大学を出るまで英語では単語集を使ったことがないので、ここ数年は初めて単語集を色々と買ってみて教えられるところも多い。

僕が単語集を使わなかった理由は、かなり単純だ。辞書には「重要語」として見出しに星マークが付いていたり別の色で見出し語が印刷されていたりするものだ。そういう目立つ単語から順番に抜き出してノートへ書いていけば、重要な単語だけを集めたノートになる。何もわざわざそれを別の本を買ってやる必要などない。昨今は多色刷りが当たり前になって中華料理屋のメニューかと思うような辞書ばかりが並ぶようになったが(こういう書籍の版下デザイナーは “Nascar effect” という言葉をプロとして聞いたことすらないらしい。あるいは英語学者というのは素人の分際で紙面のデザインにも口を出すのだろうか)、昔は重要な単語の見出し語は文字が大きくなっていたり太字になっていて、それだけでも区別はできた。もう現在の子供は見出し語にラメ入りのインクでも使わないと、重要な見出し語を区別できないのではあるまいか・・・当てつけはともかくとして、単語集を買う人というのは、そういう作業の手間や時間を惜しんで書籍を買っているのだろうとは思ったのだが、実はその当時から、その手間こそが単語を覚えるために必要なプロセスなのだと思っていたため、単語集を漫然と読んでいるだけの人は何度も繰り返して復習しなくてはならなくなり、全ての単語を身に着ける所要時間は大して変わらないのではないかと思っていたのだ。であれば、自分でノートを作った方が安上がりだし、なにより自分の好きな体裁でノートを作れる。B5 ノートで作りたければそうできるし、A7 の非常に小さいコクヨノートでも作れる。あとからメモを書けるように下の5行分だけ空けておくといった工夫もできる。もちろん、これは自分のやり方が最善だという思い上がりにもよるわけだが、しかし勉強において大切と思える一つのポイントは押さえていると思う。

そして色々な種類が出ている単語集、とりわけ奇妙な編集方針をセールス文句にしたものを敬遠していたのは、やたらと文字のサイズや色をたくさん使い分けてみたり、動物などの漫画テイストにしたりという手法を、作っている人々が自分の勉強に使ってきた形跡がまるでないからだ。つまり、或る手法で単語集を編集するという方針に何の実証も論証も存在しないなら、それは単語集の著者が「こうやれば覚えやすいだろう」と思い込んでいるだけの話かもしれないのである。それが、いかに東大の英語学の教授であったり、英字新聞の元編集者だったり、アメリカ在住ウン十年の人だとしても、的確な教材を作る能力があるという保証は何もない。僕は、大阪教育大学の附属小学校から附属高校まで、色々な教諭の教育手法のモルモットになってきて、そういうことはよくわかっていた。学習や教育というのは、正直なところ大半が個人的な経験という貧弱な支えしかない、プライベートな試行錯誤の積み重ねであって、信頼できる理論とか思想というものは(もちろん21世紀の現在でも)殆どない。

単語集をつくる人は、一度でもいいから自分が知らない分野や言語について、自分が提案する手法で自分自身が初めて学び始めてみて習得しやすいかどうかを、自分で勉強して確かめてから出版していただきたい。そうすれば、単語集の本質なんて「どの単語を選ぶか」だけが重要であり、そしてそのていどのことであれば既に辞書があるし、オンラインでは English-Corpora.org のようなコーパスを無料で利用できるし、こうした巨大なデータベースを使った無料のアプリケーションも続々と出ている。これまでの惰性や思い付きの目新しさだけで単語集など作り続けていても、そのうち単語集どころか、オンライン・サービスによって英語の教員すら不要という時代になるかもしれないのだ。

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音声データの提供方法

特に資格試験の教材や英会話の教材では、会話やスピーチとして実際に発せられている様子をヒアリングすることに大きな効果がある。そのため、幾つかの方法で音声データが提供されているのだが、今回は残念ながら購入しても有効に音声を活用できないと思える失敗例を二つご紹介しておく。

失敗例1

まず、『ALL IN ONE』という総合テキスト(文法、単語集・・・第一候補で「丹後州」と出たが、Microsoft の人間は日本にこんな行政区があると思ってるのかな? ・・・あるいは読解の内容を兼ね備えたもの)で知られる高山英士さんという方が作った『ALL IN ONE TOEICテスト 音速チャージ!』という単語集だ。これは、もともと『新TOEIC TEST英単語・熟語高速マスター』という黄色い本として発売されていた冊子から多くの例文が引き継がれているので、改訂版と言ってよいものだが、改訂版は例文が減った代わりに文法の解説などが加わって、単語に比重を置いた『ALL IN ONE』だと考えられる。ただ、そうなると従来の「ALL IN ONE』とも重なることになる。実際、この方の出す本はプロダクト・デザインという観点から言っても、装丁に統一感が全く無いため、直感的にどの本がどういう目的で、どういうレベルの人に向けたものなのか、装丁では殆ど分からない。受験参考書のチャート式のように、色だけで「センター試験レベル」とか「理系難関レベル」などと分かるような明解さが欠けているし、英語の教材としても不必要かつ人を混乱させる無駄なフレーズが多い。英語の運用者としての実力はあるのかもしれないが、いささか悪い意味でのマーケティングに走りすぎている人という印象がある。

それはそれとして、僕がこの『ALL IN ONE TOEICテスト 音速チャージ!』を買って失敗したと思った理由は、既に Messages に書いたとおり、音声データを利用するために専用のアプリケーションをインストールしなくてはならず、もちろんユーザ登録が必要なので個人情報とのバータになり、しかもアプリケーションの運営会社は中国系だという。購入者にこれだけの手間をリスクを負わせないと音声データひとつ提供できないなら、出版する側は音声データが自由に MP3 ファイルなどで第三者にコピーされたりすることを恐れているということである。ということは、英語でもよく言う “the next logical step” として推論できるように、この手の教材の本質は、実は冊子ではなく音声データの方にあり、音声データを繰り返して聴いていれば冊子の教材なんかなくても単語を習得できるということである。英語と日本語でスキットがまとめられているのだから、音声データだけで自立した教材だと考えても違和感は無い。よって、音声データを簡単にコピーさせないように、専用のアプリケーションにユーザ登録しなければいけないという牽制をかけているものと思われる。

しかし、問題はそのアプリケーションだ。開発元が中国人の経営する、別に教育事業を専門にしているわけでもない、何の志があるのかも不明な都内のベンチャーが作ったイージーなアプリケーションで、いまどき教材配信や電子書籍の配信に特化した SDK を使えば中学生が数時間で作れてしまうようなものである。そして、このアプリケーションは、直感的にどう操作すればいいのかまるで分からないにも関わらず、ヘルプが一切無い。スマートフォンに音声データをダウンロードする機能はあるようだが、UI だけではどうやればダウンロードできたことになっているのか、何の notification も indicator もない、いまどき HAL など専門学校の学生が卒業制作で作るアプリケーションよりもレベルが低いと言える(実際、ファイルマネージャで該当するフォルダを見てもファイルが何も無い)。よって、Wi-Fi が使える環境でストリーミングで音声を聞くしか方法がない。これでは気軽に好きなときに勉強するわけにも行かず、また教材そのものも実質的には旧版を改善したものなのかどうかも判断し難い内容なので、僕はこの改訂版は放置して、旧版だけを引き続き使って、旧版の場合は教材の発売元である Linkage Club のサイトから MP3 ファイルとしてダウンロードできるので、それらをスマートフォンに入れて使っている(それほど難しい単語集ではないので、どちらかと言えばヒアリングや英語を聴く環境を維持するために使っているのだが)。そもそも収録されている単語は殆ど同じなので、黄色い旧版を持っている場合は買わなくていいと思う。

ちなみに、後からあたためて audiobook.jp へユーザ登録して、シリアル・コードを入力してから、MP3 ファイルを全てダウンロードできた。結局、Android のアプリケーションなどインストールする必要はなかったのだ。まったく不要なので、サイトに記載してある手順は無視して audiobook.jp にアクセスする方がよい。

失敗例2

そして次に、つい先日の給料日にジュンク堂で買ったのが、『CD3枚付 英語で話す力。141のサンプル・スピーチで鍛える!』というスピーチの教材だ。40年近く前に都内の三流学生や三下サラリーマンに流行した「ディベート」と同じく、一つのテーマについて Yay, Nay, そして中立的な立場からのスピーチを集めたもので、会話とかヒアリングの教材ではない。内容を読むと、この教材でヒアリングや、いわゆる「英会話」の力をつけるのは、殆ど不可能だと思うので、もしアメリカ人やオーストラリア人と話す機会に備えたいといった理由で教材を求めているなら、これはぜんぜん主旨が違うので、お勧めしない。

内容はともかく、この教材で問題があるのは、附属している CD-ROM の音声データだ。いまどきの CD-ROM のデータにプロテクションがかかっていて、単純に WAV ファイルや MP3 ファイルが記録されているわけではないだろうという予想はつく。しかし、購入者まで使い辛いと感じるようでは、やはりプロダクトの設計としては問題があるだろう。そもそも、いまだに英語関連の雑誌では当たり前のように CD-ROM を付録にしているが、いったいいまどき誰が CD プレイヤーなんて持ち歩くというのか。あるいは、CD-ROM から音声データをいちいち吸い出してスマートフォンに転送するためのアプリケーションを探したり、そういう手順を調べたりする購入者が、どれくらいいるだろうか。CD-ROM などという、記録媒体としても、それから利用するためのデバイスとして、およそ汎用性がなくなっていると断言していいものに頼っている時点で、全くもって旧来の出版社や印刷屋の「マルチメディア」という古臭い認識でしかものを作っていないということがわかる。

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本当のところ、辞書って使ってる?

辞書、引いてますか? 敢えて勉強や趣味として「英語の勉強をしている」と人前で言えるくらいの人であれば、それこそ毎日のように Longman や Webster's を手にしているのかと思いますが、実際にはそんなことないですよね。どうしてでしょうか。辞書を引かなくても、英単語や熟語を覚えるのに、いまでは夥しい数の単語集が発売されていたり、単語の意味が書いてある雑誌が出ていたり、ラジオの教材があったり、あるいは単語を覚えるのに利用する電子書籍やスマート・フォンの学習アプリケーションが出回っているからでしょうか。いや、これらが少なかった時代でも、僕らは英語の授業が明日あるから予習しなきゃいけないという理由でもない限り、英語の辞書を一日に何度も手にすることはなかったはずです。英語の勉強が好きだろうと嫌いだろうと、それは殆ど同じだったと思います。

では、みなさんは国語辞典を使っているでしょうか。あなたが最後に国語辞典で言葉を調べたのはいつですか? 僕は自宅の机に『明鏡国語辞典(携帯版)』(初版第三刷、大修館書店、2005)を置いていますが、これで言葉を最後に調べたのは、たぶん5年以上は前だと思います。正確な年数どころか、もう何という言葉を調べたのかすら覚えていないほどです。でも、もともと子供の頃から国語辞典を毎日のように開いて言葉を覚えていったわけではありませんよね。

文法なり言葉を覚えるとは言っても、机の前に座って、それこそ「辞書と首っ引き」などと表現されるような仕方で外国語を勉強した人なんて、実は殆どいないでしょう。そしてそれは、言葉の意味を字義という別表現として記憶することと、その言葉が《どういうことを意味しているのか》という概念を会得することが違う経験だからだと言われます。「りんご」という言葉を僕らは辞書で覚えたりはしなかったでしょうが、辞書には「多く紅色・黄緑色の甘酸っぱい果実を食用とするバラ科の落葉高木。また、その果実。」と書かれています。そして、恐らく「りんご」という言葉を正確に使える人々の多くは、林檎がバラ科の樹木であることを知らないでしょう。それでも「いましがた、お隣の奥様からりんごをいただいたのよ、おほほ」などと言えるし、その人物が何について言っているのか(言外のニュアンスはともかくとして)分かる・・・ということが言語の哲学や言語学として、本当に正しい理解なのかどうかはともかく、僕らが辞書によって殆どの言葉を覚えたわけではないという事実は間違いのでしょう(もちろん、そういう人がいてもいい)。もちろん、辞書が必要ないなどと言いたいわけではありません。

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小型辞書の話

辞書そのものについては上記に書いたので、今回は特に小型辞書について書いておきます。

中学時代から幾つかの小型辞書を使ってきました。過去に僕の家では薬店を営んでいて、薬剤師の免許をもつ方に来てもらっていました。店主が薬剤師の資格をもっていなくても、有資格者を店の顧問やスタッフとして在籍させていれば営業できるからです。そして、週に何回か来てもらっていた薬剤師の有資格者は高齢の男性で、あまり話をした記憶はないのですが、僕の中学への進学祝いとして、革製の表紙が使われた『旺文社 小英和辞典』(初版:1967年、重版:1982年)という小型の英和辞典をくれました。これが初めて手にした小型の辞書です。

旺文社の小型辞書 1982年にもらったもの。革製の表紙なので、皮肉にも殆ど使わなければ40年近くが経っても美麗な装丁だ。

他にも、英英辞典や和英辞典も含めて、色々な小型辞書を買ってきたように思うのですが、定着したものはありません。一つの大きな理由として、いまでこそ老眼となってはっきりと自覚していますが、もともと子供の頃からですら、僕は小さな文字を読むのがあまり好きではないのです(もしかすると、生活するのに困らないため診察してもらったことはありませんが、軽い乱視なのかもしれません。実際、ヒトの眼のレンズは完全に正確な形状や屈折率を維持しているなどということはありえないので、誰にでも軽微な乱視はあるといいます)。

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英会話のフレーズ集は参考ていどにしかならない

英会話のフレーズを大量に集めた本が発売されています。英語に限らず、他の言語でも「観光」とか「ビジネス」とかシーンごとに頻出するとされるフレーズを集めた特殊な本も数多く発売されているのもご存知でしょう。しかし、こうした本は英語で話したり聞いたりする参考にしかなりません。もっと簡単に言えば、こういう本に集められた膨大なフレーズを何十回、何百回と眺めたり口に出して言ってみても、英語で〈話す〉ことはできないと言えます。

その理由は、僕自身が数ヶ月ほど使ってみた経験からも言えますが、もっと単純に考えたら買ってみるよりも前に分かる話でありましょう*。つまり、自分が同じセリフを自分の生活、すなわち日本の実生活で使うのかと考えてみればいい筈です。親しい人と出会って「やぁ、今日の調子はどうだい?(Hellow, how about you today?)」なんて聞く人が日本にどれだけいるでしょうか(その良し悪しを言っているわけではありません。挨拶くらいはした方がよいでしょう)。また、同じ意味の表現を英会話のフレーズ集では数多く取り揃えていますが、自分自身のふるまいを思い返してみれば、そんなに色々な種類で受け答えしているわけでもありません。そして、英単語の意味を正確に理解していればフレーズとしていちいち覚える必要のないものも、数多く列挙されています(たとえば「ご飯ですよ(Dinner is ready)」とか「前向きに考えよう(Think positively)」なんて、いちいち一つのフレーズとして暗記するようなものなのでしょうか)。要するに、あなたが何をどう言いたいのかを決めて、それを英語でどう言うのかさえ幾つか調べて決めておけば十分でしょう。他の選択肢があることは、確かに他人の発言を理解するために必要な知識ではありますが、それこそ人の数だけフレーズのパターンがありえます。フレーズを虱潰しに覚えるよりも、文法の勉強をする方が大切です。

*お金を使って買うよりも前に納得して別の手段を選べるなら、その方が〈絶対に〉有益です。お金と時間の無駄遣いは、たとえ何百円でも〈絶対に〉あなたにとって有害であり、こういう害悪を「蕩尽」などと称して先進国の豊かな文化や生活習慣であるかのように、広告代理店と一緒に嘘をついていたポスト・モダンの大学教授や評論家や建築家や文化人は、こう言ってよければ「文化的な犯罪者」でありましょう。

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〈これだけ本〉は自己満足の気休めにすぎない

日本で発売されている英単語集や英会話の本で目立つのが、たった1,000語、いやそれどころか100語で「会話できる」などと称している本です。この手の本を〈これだけ本〉と呼ぶなら、正直言ってアメリカの大多数の人々に対して非常に失礼だし、現実に役に立たず生活や応対なんてできない、それこそ自己満足の気休めでしかないと断言できます。こんな本を買うのは、絶対にやめましょう。

まず、客観的な事実から言うと、“An average 20-year-old American knows 42,000 words, depending on how you count them” のような論説では平均的な二十歳の若者で42,000語を知っている(使ってるかどうかは別として)とされ、少なく見積もっている事例でも20,000から30,000語と紹介しています。そうした論説のおおよそ中間を取るとしても、平凡な大学生と同じていどでも30,000語は必要というわけです。これを日本語で置き換えると、「日本人の語彙量(理解語彙、使用語彙)調査を行うにあたっての基礎的研究」によれば、こちらも成人で40,000語と推定していて、オンラインでやりとりするていどの目的なら8,000語で済むと述べています。このように、まず事実として他人とやりとりするための言葉として1,000とか100なんていう語彙で済むわけがないという点はお分かりかと思います*。つまり、1,000語なんて語彙で他人とやりとりするということは、相手にしてみれば3歳児と喋るようなものであって、何が言いたいのかを推し量る負担を相手にかけることとなるのです。こんな横柄な態度をとっている自覚もなしに、相手と「コミュニケート」できるなどと吹聴するのは、ネイティブに対して人として失礼な話だと思いませんか。それに、新しい言語を習得するということは、それまで知らなかった生活文化に参加しようとすることでもあります。そんなリスクのあることについて(もしあなたが未開の集落へ迷い込んだのであれば、殺される可能性だってあるのです)、わずかな労力だけで〈望ましい〉結果を出そうなんて都合のいい話があるわけないでしょう。どれだけ他の民族や文化や環境を舐めてるんですかという話です。みなさんは通訳なしで観光したいとか、ビジネスの相手と交渉したいとか、自分にとって好ましい結果だけを考えて英語の勉強をするつもりなのかもしれませんが、相手をするネイティブにとっては、サービスとして応対するとか知り合いや新しい家族になるといった特別な事情でもない限り、いい歳をした外見の人間が言葉も知らずに他人の仕事場や生活に踏み込んでくるのですから、これほど不愉快で失礼な話はありません。

*少し議論を補足しておきたい。(初出は、2022年5月14日の落書き

世の中には英単語集と呼ばれる本がたくさんあって、実際のところこれほど色々な種類の単語集を、日常会話用とかビジネス用とか TOEIC 対策とか色々な用途に出版しているのは、はっきり言って英語教育が半世紀以上にわたって未熟と言われている日本だけであると言っていい。つまり、この実態こそが日本人の多くが英語をまともに使えない原因からもたらされた結果なのだ。単語集が充実していないとか、あるいは単語集を熱心に使う人が少ないことが日本人の「英語下手」の原因などではない。寧ろ、こんなものを無暗に使うことが英語の学習を効果的かつ十分に進められない元凶なのだと思う。実際、僕も幾つかの英単語集を使ってみたが、やはり辞書には到底およばないし、効果的に使おうとするなら現状のような闇雲に暗記していくような用法しか伝えないのでは不十分だ。海外でも、単語集とは編集方針が違うけれど、同じように語彙を増やす目的で出版されている "Word Power" の類があり、もっと扱い方を丁寧に解説しているし、必ず self check の方法を取り入れている。結局、試練なり検査つまりは「試験」というプロセスを怖がるようなことでは物事を習得することなどできない。

上記で議論した話は、要するにアメリカの平均的な大学生が語彙として扱える単語とかイディオムの類は3万ほどあるというものだ。したがって、ここから直ちにわかるように、世に出回っている殆ど全てと言ってよい単語集の類は、最低でもアメリカの大学生レベルの語彙と比較すれば圧倒的に足りないのだ。すると、アメリカの大学生と同じ語彙を身に着けるには、たいていの単語集は3,000語ていどしか掲載されていないので、単純に計算しただけでも10冊の単語集をマスターしなくてはいけない。しかし、これも既にご存じだと思うが、TOEIC の過去問とか用例のデータベースから弾き出したなどと称して、たいていの単語集は単語を重要度順に、つまり用例の多さから順番に収録しているので、1冊で3,000語の単語を収録している10冊の単語集を買ったとしても互いに収録語が重複していて、それら10冊の単語集が全体でカバーしているのは、3万どころかせいぜい1万もあればいいほうだ。つまり、どれだけ単語集を買って、それだけを使って単語を覚えていっても全く足りないのである。よって、こういうものをどれほど買っても非効率きわまりないのだ。これは、おそらく英会話のフレーズ集とか、場面や用途ごとの用例集、あるいは句動詞・イディオム・慣用表現・ことわざなどを雑多に扱った読み物についても同じことである。日本で発売されている教材を使った英語の学習は、つまるところ無駄な繰り返しや出費だけが多くて効率が悪く、しかも何故その単語を覚えなくてはいけないのかという動機と何の関係もない言い回しや単語を無暗に暗記することになるため、要は使えない情報を頭に入れているだけなのだ。これでは言語として使い物にならないのは当然である。

英語が不得手だから語彙を増やすために単語集を買うという発想は止めるべきだ。逆である。使いもしない単語を詰め込むのに、単語集を買ってお金や時間を浪費してるから、いつまでたっても英語を〈自分のために〉使える道具として身に着けられないのである。

で、なんで日本ではこういう無駄なことが行われているのかというと、実は英語だけでなく他の教科や分野でも似たような方針や考え方が蔓延していることにも関連がある。それはつまり、雑多に、力業で大量の事項を暗記しておけば、〈後で役に立つかもしれない〉という想定あるいは思い込みが多くの分野の学者や教育者にはびこっているのである。僕が思うにこれの元凶は、日教組だというのが言い過ぎなら、ソヴィエト教育学を日本の出版業界や教育行政に持ち込んだ連中のせいだと思っている。かつて、ソヴィエトの教育心理学では、この手の「後で役に立つかもしれない」という理由で大量の事項を暗記させる詰め込み教育が称揚された。中国やソ連のような国では、そういう愚かな方針や教育であっても試験的に多くの生徒や学生に実施され、ついてこれない生徒は当たり前のように切り捨てられるだけだった。よって、彼らの「教育理論」の成果は、当然だが愚かな教育でも乗り切って成功した一握りの有能な(しかし何のために勉強しているのかも自覚がないロボットのような)人間たちによって「立証」されてゆく。典型的な生存バイアスなのだが、生き残ったものだけが国家の礎になればよいという、あからさまな成果主義や弱肉強食を自覚して実行しているのだから、これに道徳や福祉という脈絡で反論することは難しい。

要するに、こういう闇雲な暗記を押し進めていくやりかたは、それに適応できる人々、つまり物事の良し悪しを考える前に進んでロボットのように何でも実行し続けられる忍耐力があって、価値観を保留しても気にならないし後から補正できると思えるような人々が、結果として成果を上げてきたという事実によって説得力をもっている。そしてそういう事実に支えられた教育というのは、そこからドロップ・アウトした人々は関知しないという社会でこそ有効なのである。みんなで仲良くキャバクラだろうと地獄だろうと万歳突撃していく「平等」な日本の教育や出版の啓発事業で、そんなことを実行しようとしてもうまくいくはずがない。

それと似たような話だが、「東大生が教えるなんとか」とか「東大生を3人育てた母が語るどうのこうの」という、典型的な生存バイアスでも、当人にとっては他にやりようがなかったしやらなかったのだから、他の仕方を説明するわけでもない限りは「事実を述べているだけだ」という理由で、いくらでもこういう結果論を本に書いたりセミナーで語れるわけである。しかし、これらは全て結果でしかない。大半の人々はこういう勉強方法に適用できないからこそ、何冊も単語集や英会話の本を買い続けなくてはいけなくなるし、朝ドラの主人公らのように勉強する意欲や動機があっても NHK の英会話ラジオを何年も聞き続けないと会話すらできないわけである。(あれは英語で結果的に成功できた人々のお話にすぎない。3年や5年を費やさないと英語で会話できるようにならなかったという筋書きそのものは、単に日本が大昔から非効率で馬鹿げた英語教育や啓発活動を続けてきたという事実を物語っているにすぎないのだ。)

それに、こう言っては教育とか英語の教材そのものについても大きな疑問を呈することになるけれど、冷静に考えてみてほしいのだが、小学校も出ていない人物ですら不法移民としてアメリカに入ってから生活して英語を話せるようになるのだ。東大生の子供を何人育てようと、そんなことと英語を習得するための条件とは関係がない。英語も含めてお勉強ができたというだけの、いわば十分条件を満たしているだけの結果論で必要条件を語ることはできないのだ。そして、東大生の大半は学部を出てから大して社会に貢献も出世もしていないし、官僚や政治家になっても上場企業から小銭を巻き上げたり、せいぜいヒルズの一室で芸能人の卵を接待の乱交パーティで弄ぶのが関の山だ。

色々とやっておけば、後で役に立つかもしれない。それは一般論として間違いではないが、そのためだけに費やすコストを日本の学習者はかけすぎであり、そのせいで本来やるべきことに時間や労力を費やせていないと思う。英単語は3万どころか何十万もあるし、慣用句やイディオムを入れると更に多いが、各人が生活なり仕事で必要とする単語や経験から身に着けた表現(口癖のようなものも含めて)には偏りがあって当然である。僕は、服飾デザイナーと比べて哲学の用語を彼女らよりも多く知っているかもしれないが、ファッション業界で使われる用語は彼らよりも知らないだろう(もちろん、哲学科出身で僕と同じだけ哲学用語を知ってるデザイナーがいてもいいし、僕が知ってる数と変わらないくらいしかファッション業界の用語を知らないデザイナーがいてもいい)。そして、誰でも知ってるような the とか and といった単語もあるだろう。しかし、それ以外の単語は英語で生活して身に着けたり必要に応じて学ぶのが原則であり、何の意味も脈絡もなしに「supervene は付随するということ…」などと繰り返して記憶したところで、そんなものは使わないのだから役に立たないので、結局は身につかない。身も蓋もない言い方だが重要なこととして、あなた自身の生活や仕事や興味と関係のない言葉を身に着けて何の意味があると思うのか。確かに自分が何かの欲求や意見を口にするためだけに言葉は習得するものではないが、仮に他人の言っていることを理解するためでもあるにせよ、それはまずもってあなた自身の生活や仕事にかかわりがある他人の意見や連絡やメッセージを受け取るためであるはずだ。単語集を使った勉強は、まったくの無意味だとは言わないにしても、日本で英語を学ぶ人々はそういうことに時間を使いすぎていると思う。

〈これだけ本〉のパターンとして、たとえば have や get を使った慣用句とか熟語を駆使すればいいなどとデタラメを言っている人たちがいます。でも、そういう人たちが、実際に have や get の慣用句を多用してネイティブのアメリカ人と渡り合っている様子を目にした人なんて、実は一人もいないのです。いまどき動画すらないのですから、信用に値しません。加えて、仮に一方的にそういう表現をどんどん会話の中で使えたとしても、それこそ真面目に英語を勉強している人なら即座にニュアンスとして分かってくる筈ですが、聞いているネイティブにしてみれば「なんとバカな(ぞんざいな、あるいは横柄な)言葉遣いをするんだろう」と呆気にとられてしまうはずです。要するに、give や get や go などを多用する表現は、そもそも言い回しとして無礼なのです。そして、「学習途上の人間は恥のかき捨てや無礼があってもいい」などとアドバイスを書く人もいますが、もちろんこんな態度こそ無礼というものです。

したがって、語彙数という点で何らかの目標をもつのであれば、いま書店に並んでいるバカ専用の〈これだけ本〉など無視して、きちんと人として相手に接する努力をするに足りるだけの語彙を習得するよう望みましょう。僕もそうしています。先にご紹介したように、まず最初の目標は30,000語というのが目安だと思います。大学院を出ているような人であれば、おおよそ120,000語という数も紹介されている場合があります。すると、学術書に出てくる語彙は100,000語とまでは行かなくても、学術書を書いている著者と議論するのであれば、もっとたくさんの語彙が必要でしょう。日本の平均的な成人でも40,000語を知っているわけですから、せめてそれくらいの語彙をもっていなくては、みなさんの周辺で生活している人たちよりも少ない言葉しか知らずに生活することになります。そういう人が、もしあなたの周りにいたと想像すれば、交渉したり何かを連絡するのに、相手が「商工会議所」だとか「通学レーン」といった言葉の意味がわからないわけですから、困惑させられるに違いありません。それを思えば、平均的な語彙すらもたずに相手とやりとりすることが、どれほど迷惑なことかも分かると思います。

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Amazon.co.jp のレビューについて

FT氏のカスタマー・レビュー

例えば、仮に、週に4時間の英語の授業を8年受けたとすれば、通算すればどれだけの時間になるだろうか。しかも、授業には普通は宿題が出されるし、予習や復習をしている学習者も多いだろう。中には塾などでも英語を学び、ラジオなどの講座も聴いている学習者もいるだろう。だが、そうやって努力を積み重ねても、現実は簡単な会話すらうまくできないことが多いのである。これはやはり学習時間の問題というよりも、教育の仕方の問題ではないのだろうか。学校の通常のカリキュラムに沿って勉強してもまともな外国語会話など出来るはずはない、と長年大学教授であった編者が言い切ってよいものであろうか。

悪しき語学教育の見本

この「FT」と称する人物は、とりわけ語学書と翻訳書について手厳しい(が、大半は正当に思える)レビューを書いている。中国語検定の自習用として出ている本書(上記の引用でリンクしているカスタマ・レビューは、『CD付 学習者の間違いから学ぶ! 中国語スーパートレーニングブック 中検2級レベル編』という著作物に付されている)については、上記のとおり編者の見識を問うている。そして、アラビア語から古代ギリシア語に至るまで、相当な数の外国語を習得している方のようであり、他の著作物についてFT氏が書かれたレビューを参照しても教えられる点が多い。ただ、上記の個所は論旨を理解しかねる。

本書の編者である上野惠司氏は、本書で語学の習得について章末のコラムみたいな文章を掲載しているらしい。そして上野氏によると、日本人は何年もかけて中等教育までみんなが英語を学ぶのに全く使えるようにならないと不平を口にするが、何年やろうと会話なんてできるようにはならないという。文章の筋を追うと、要するに上野氏は学校で週に数時間ていどの授業をやっても、ましてや社会人が週に1回ていどの英会話レッスンを受けたところで使えるようになんてならないと言っている。そして、僕はまさにそのとおりだと思う。要するに文科省のカリキュラムや英会話スクールの課程は、言語を身に着けるという、人が生きるために切実な欲求として道具を習得するというプロセスについて舐めているのだ。現代の中等教育における外国語(別に英語でなくてもいい)のカリキュラムは、外国で生きるとか、日本国内でも言葉が通じない相手(本来は、何も外国語を使うアメリカ人やドイツ人である必要はない。沖縄弁や津軽弁しか話せない親類でも同じことが言える)とやりとりするとか、あるいは着任した土地でスパイ行為に携わるのに必要な手段を身に着けるという目標にとって、文字通り子供騙しとしか言いようがないレベルだと思う。

たいていの留学生や犯罪者や移民や外交官などが、切実に現地で生活したり仕事をしたい、つまりは〈生きたい〉という動機をもって、それこそ東南アジアや韓国や中国や中南米やアフリカや中東など非欧米圏の人々が年齢に関係なく hard work をこなしているのに比べて、日本の生徒や学生は「腑抜け」と言ってもいい勉強しかしていない。よって、現行の英語教育や英会話スクールのレッスンを何年と受けていようと、大多数の日本人は英語を話せたり使えるようにはならないと上野氏が指摘しているなら、それはまったくもって正しい。逆に、(エロ)アニメや(エロ)漫画が好きで日本語を勉強しているんですなどと、YouTube の Vlog やニューズ番組のインタビューなどで日本語で受け答えしている外国語話者の若者たちが、日本語を各国の学校だけで週に4時間程度しか受けていないとか、あるいは自宅で更に勉強を積んでいても週に数時間しか費やしていないとか、そんな舐めた勉強をして日本語を僕らが分かるレベルで話せるようになると想像できるだろうか。正確な統計や調査の結果は知らないが、そんなことはありえないだろうと思う。日本人の英語学習に費やす時間の量は、はっきり言って10年続けようと暇潰しや気晴らしの類でしかないのだ。それゆえ、僕が当サイトの落書きで、朝ドラ(『カムカムエブリバディ』)で主人公らが何年もかけて英語を使えるようになったなんて設定は、英会話ラジオの有効性を立証したり弁護するようなものではなく、寧ろそういう学習方法の未熟さや不適切さを示しているだけなのだと書いたのは、同じ理由による(とは言え、このドラマでは外国語の学習で有効だとされている shadowing の様子を描いているのは良かった)。

ということなので、FT氏が上に引用した箇所で書いている話は上野氏と全く主旨が同じであり、この方は何を批判しているのか不明だ。仮に、上野氏が教育方法を批判するのではなく、寧ろ生徒の学習意欲がないとか、あるいは学習に自らの意志で費やしている時間が少ないと批判しているなら、FT氏が言うように「学習時間の問題というよりも、教育の仕方の問題ではないのだろうか」と上野氏の議論を批判できるだろう。でも、上野氏は(少なくともFT氏が引用している範囲だけで判断すると)そんなことまで言っているようには思えない。日本人が英語の学習に費やす時間は他の国の学習者と比べて短いと書くだけなら、それは恐らく単なる事実でしかない。これが学習者の怠慢によるものなのか、それともカリキュラムとして設定している所要時間が少ないからなのかは、「日本人が英語の学習に費やす時間は他の国の学習者と比べて短い」という日本語の一文だけでは判断できない。

そして、上記の引用では最後に「学校の通常のカリキュラムに沿って勉強してもまともな外国語会話など出来るはずはない、と長年大学教授であった編者が言い切ってよいものであろうか」と書かれている点については、カリキュラムの設計や学校での指導方法だけで十分に外国語を習得できるという見込みがあれば、確かに外国語の教員が「カリキュラムだけでは不十分だ」と言うのは不見識だと見做されるかもしれない。FT氏が書いているように、まず学校教育を正してから、そういうことを言うべきだろう。しかし、現実にはそういうことは難しい。もし外国語をカリキュラムの範囲だけで十分に習得できるようにしたいなら、現行の英語の授業時間だけでは全く足りないだろう。最低でも、毎日6時間ていど、つまり学校の授業をすべて英語の授業にするくらいでなければ、生活の手段として使える言語なんて習得できるものではない。こういう点については、数多くの言語や数学の分野を習得しているFT氏の個人的な経験とか基準は参考にならないだろう。有能な人間を基準にして凡人を評価したり責めても、理想論としては意味があるにせよ教育としては無効であろう。

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真似してはいけない勉強の仕方

直に英語の「勉強法」を指南するような本は言うまでもなく、他にも英語の参考書や読み物で、著者が自ら書いていたりインタビュー形式で掲載されていたりする「私の勉強法」とか「私の英語遍歴」みたいな文章があります。もちろん、嘘をついていたり見栄を張っているわけではないという前提があったとしても、それらの文章は大多数の人にとって参考にはなっても真似するようなものではないと言えます。

その理由は、英語で成功した人々のストーリーや方法だから、つまり成功した人たちがたまたまやっていたにすぎない方法だからです。こういう人たちは自分のやった経験で成功したというだけであり、数多くの方法を試してみたうえで有効な方法に到達したわけではありません(予備校の講師は競争があるので多くの人が試行錯誤していますが、学校の教師ですら、そんな実験はまじめにやっていません)。そして、そういう経緯や方法の多くは、大半のわれわれ凡庸な人間がなぞっても効果があるかどうかは定かではなく、もともとできる素養があった人がその程度のことしかやらなくても成功できたというだけのことにすぎない、効果が低いか凡庸な方法である可能性が高いからです。場合によっては、無効どころか有害な方法だったかもしれません。それでも有能な人は、凡庸な方法だけでなく有害な方法を無自覚に実行していてすら、もともと持っている記憶力や要領の良さや割り切った性格などの特別な才能が凌駕するので、結果的に成功してしまうのです。しかし、凡庸な人間が凡庸なことをしても凡庸な結果に終わります。そして、たいていの人が何の成果も得ずに英語をまともに使えないのは、もちろん最大の理由は英語を使う動機も理由もないからなのですが、それに加えて、実際には大半の凡人は凡庸な方法ですらやろうとしないからでもあります。当サイトで僕が良いと思って紹介している方法は、そういう凡庸なことが大半を占めていますが、やるかやらないかで大きな違いがあると思っています。どこかの予備校の講師が好むフレーズに、「やるなら、いまでしょ!」という名言がありますが、まさしくこのフレーズはやろうとする方法が正しいかどうか分かっていようといまいと、どのみちやらなければ結果は出ないという真理を教えてくれているわけです。

簡単な話をしますが、仮に英語で有名な予備校の講師となったり有名な本を次々と翻訳したり、あるいは国連や英語圏の官公庁で重要な職に就いたり、アメリカで大企業の重役に抜擢されたりイギリスの大学教授になったといった、英語を高度に使えなければ到達できない成果を上げている人が「どんな勉強をしてきたのですか?」というインタビューに答えて、「高校時代は平均的な成績だったのが、予備校へ1年ほど通って猛勉強の末に東大へ入りました」と言ったとします。多くの人は何気なく読み流すと思いますが、既にこの時点で日本の高校生としては上位の 2% 以内にいる人の話なわけです。なぜなら、まずその「高校時代」と言っても、偏差値が40くらいのどこにでもあるような公立高校なのか、それとも開成高校や灘高校なんでしょうか。そこまで極端ではないとしても、出身高校で中位ていどの平凡な成績の高校生が「猛勉強」したくらいで1年や2年の浪人で東大に入ったということは、たとえ下位の成績で東大へ入れたとしても、その人物は恐らく相当な見込みで偏差値70以上の高校生だと思います。「ビリギャル」は実話だとしても珍しいからこそストーリーになるわけであって、現実には偏差値50の高校生が猛勉強したくらいで東大どころか慶応にも入れるわけがありません。

あるいは、そういう人たちの多くは高校時代や浪人時代にあれこれの参考書を使ったとか予備校に通ったという話をなにげなくするものですが、そこでは参考書を(もちろん大学受験をパスするには、英語の勉強だけやってりゃいいというわけではありません)全ての教科でなくても何冊と買えたり、予備校に通ったり、地方の高校生なら予備校へ通うために大都市で下宿するといったことも珍しくありません。そのお金は自分でアルバイトしているのでしょうか。そうではありません。昨今、東大生の大半が高額所得者や資産家などの子息で占められているという統計があり、結局のところ勉強法として一定の効果があることでも金がなくてはどうしようもないやり方をしたという人も多くいます。参考や真似をしようにも多くの家庭では難しい方法を当たり前のように口にする人もたくさんいます。

もちろん、だからといって金持ちしか英語の勉強はできないのかというと、そういうわけではありません。既に述べたことですが、アメリカでは殺人犯やレイプ犯やテロリストでも英語を流暢に話したり書いています。高校を卒業していないウェイトレスやゴミ収集車を運転する移民でも、語彙が5万語を超える人だっていることでしょう。言葉を使えるようになるということは、言語の運用にかかわる脳の機能さえ異常がなければ、親の地位や資産や通っている学校や性別や民族や性癖など何の関係もありません。それゆえ、凡庸でも堅実な方法を実行することに意味があって、アメリカやイギリスではそれを生きるためにやらざるをえないという事情で、誰でもやるのです。日本人の多くが英語を習得できないと言われるのは、言語の能力とは何の関係もありません。習得できないのではなく、日本では英語の勉強なんかしなくても殆どの人が問題なく生きていけるので、そもそも英語に限らず外国語を学ぶという強い動機や事情や切実さがないのです(そして、それは「悪いこと」だとは限りません)。凡庸な方法であっても勉強するかしないかの違いは、そういう切実さに由来するわけです。

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「観るだけ」・「聴くだけ」

「観るだけ」・「聴くだけ」 【逆効果?】一生英語力が伸びない人の特徴と解決策

どんな学習や勉強、あるいは学問や仕事でも当たり前のように言えることだが、一朝一夕に習得したり、他人さまからお金がもらえる仕事ができるようになるなんて魔術はない。逆に言えば、入社して明日からでも何十万と稼げますなんて言ってるのは、高度にマニュアル化されていて誰でもできるように設えられている(そして失敗しても「黒幕」にはリスクがない)詐欺まがいの商法とか営業トークとか、コピペだけで出鱈目な記事を量産できる「メディア」配信業などだ。つまり、速成でモノになるのは、それにかかわろうとする人々がバカだからであって、バカでもできるようにセット・アップされた手順にロボット同然に従っているだけなのである。もちろん、ロボットに高額な給与など保証されるわけがないので、そういう仕事の多くは完全歩合だったりする。

英語の勉強でも結局は同じだ。単語を覚えたり、イディオムや慣用句の意味や由来を知ったり、文法を学んで表現の仕組みを理解するといった、原則や基礎を丁寧に継続して固めてゆくことなく、気が付いたら英語が話せるようになっていたとか、いつのまにか海外のドラマを観てわかるようになったとか、適当にやってたらプリンストン大学の博士号をもらってましたとか、そんなことはありえないのである。上で紹介している動画でも、イカサマの学習法として紹介されているが、覚えている方もおられるようにプロゴルファーの石川遼氏が広告に登場していた「スピードラーニング」なるイカサマ学習法は、とっくに事業が終了している*。そして、この手のイカサマ学習法は、実は大昔から何度でも媒体やデバイスをいろいろと替えて、何度でも現れては短期間に荒稼ぎして終わる。それはちょうど、役にも立たない英語学習本の類が何冊も毎年のように出版されては売れてゆく(そして大半は即座に古本屋へ流れてゆく)のと同じであり、そうした流行から文科省が英語の教育手法を見直したなんて事例は全くない。もし或る勉強方法に劇的な効果があって確かな証拠が積みあがっているなら、そういうものは100年くらい前の旧制高校時代から色々と提案されているのだから、既に考案された手法の中でどれかが採用されて、既に何十年も中学や高校で実行されている筈だ。現に、効果があると学術的にも検証されている手法として「シャドーイング」がある(正確には “prosodic shadowing” というタイプの、聞いている言葉の解釈を伴わないシャドーイング)。これは、中学の無知な英語教師が “Repeat after me!” などとやっている「リピート音読」とは違って、喋っている途中から追いかけて同じように喋るという、リピート音読よりも集中力が求められる負荷の高い方法だ。通訳者を養成する場所では昔から導入されてきた方法だが、どういうわけか専門職の養成向きだと思い込んでいる人が多いらしく、中学校や高校で導入している事例は少ない。だが、シャドーイングは効果的な方法として既に70年以上の実績がある。

*そして、皮肉なことにスピードラーニングを手掛けていた企業であるエスプリラインは、現在は広告制作業に事業転換している。つまり、彼らが即座に事業転換できるほど社内に蓄積してきた広告・宣伝のテクニックを使えば、出鱈目な学習方法でも効果があるように見せかける方法などいくらでもあるということだ。僕は、電通や博報堂の案件に従事してきたウェブ制作業界のプロのデザイナーないしエンジニアとして広告の役割を否定するつもりはないが、しかし技術であろうと広告手法であろうと、悪用すればいくらでも他人を騙せるという一例だろう。

ただし、2022年8月30日に audiobook.jp 運営事務局が配信したメールで、エスプリラインは再びスピードラーニングのサービスを復活させているらしい。過去を知らない新規顧客に改めて販売するというのは、営業手法としてはうまいやりかただ。過去の結果を知らないということは顧客の落ち度ではないが、販売する側が事前に教える義務もない。

上記の動画で詳しく説明されているとおり、聞き流すだけで英語が上達するなんてことはありえない。それは、僕らが小学生の頃に日本で流行した「睡眠学習法」と呼ばれる出鱈目な学習教材の事案と同じく、何の効果もない(そして、たぶん検証することも難しいので、詐欺的だと思うが有罪にするのは難しい)。実は僕も中学生の頃に睡眠学習法を取り入れたという、スピーカーが内蔵された枕を買って、3分用の「エンドレス・テープ」という特殊な作り方になっているカセット・テープに、覚えたい単語を録音していたものだった。しかし、そんなことをしても覚えられるわけがないし、効果がいくらかあったとしても、その原因はエンドレス・テープを聞いていたことではなく、テープに録音する行為だとか、日課のように繰り返して英単語を扱う習慣をつけたことだろうと思う。また、自分で録音する以外にも、上記の動画で話題となっているように、映画とか、いまで言えばインターネット・ラジオやポッドキャストや YouTube の動画などを漫然と聞き流していれば、「英語に慣れてくる」とか「リスニング力が上がる」などと言っている人が、大学教員にすらたくさんいるのが実情だ。これでは、いつまでたっても同じままである。つまり、逆効果のやりかたであっても一定の成果を上げられるくらい出来る人しか上達しないという、効力のあるなしとは関係のない生存バイアスの英語学習法が繰り返して宣伝されるだけだ。つまり、自分の経験を客観的に見て、やったことに本当に効果があったのか、それとも効果がなくても自分はできてしまっただけなのかを冷静に見極められるという、英語の能力とは別の能力をもっている人でなければ、単に英語が使えるというだけの人たちが口にする「体験談」や「僕の勉強法」は、多くの他人にとっては危険だと言わざるをえない。(したがって、このページで書いている内容にも同じことが言える。)

大繩道子

2018

「外国語教授法としてのシャドーイング活動の効果――リスニング力、英文復唱力、プロソディの観点から」, 『石巻専修大学研究紀要』, No.29 (March 2018), pp.73-82.

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「和英辞典不要論」について

何度か見かけた議論なのだが、そろそろ愚かなことを書く人が増えてきているようなので、ここでも取り上げておこうと思う。結論から言うなら、道具は使いようによって効用は異なるのだから、「不要」と言っている人々は和英辞典がないことで正当化できる効果とか実績を示さなくてはいけない。それができないなら、和英辞典が不要であるという話は単なる思い込みや錯覚、あるいは自分自身の好みや経験だけで語るような「マンション・ポエム」と変わらない空語にすぎない。僕は、和英辞典には効用も適切な使い方もあると思う。見ている限り、「不要」と言っている人々の多くは、不要なりのくだらない業績しかあげていないし、英語を使った業績すら何もあげていない予備校講師とか英語教育関連の物書きといった、マスターベーションをしているにすぎない英語ペラペラ馬鹿が大半だ。

無名の人間や馬鹿を取り上げて叩くのは簡単だから、とりあえず一定の範囲で有名な人物の意見を取り上げてみよう。まずは、アマゾンで “kaizen” というユーザ名をもつ膨大な蔵書と読書量を(自分でも控えめに)誇っている、名古屋市工業研究所の小川清氏の意見だ。

和英が不要な理由は、日本語を英語に変換する際には、自分の知っている単語だけで言い換えて文を作るように教えられたためです。和英辞典を調べて文章は作るなと。単語に頼るのではなく、知っている単語だけで説明する力が大事だと。

英和辞典

実は、僕も高校時代までは和英辞典など必要ないと思っていたし、母校(大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎)の英作文の授業では、常に作文に使うことを期待されているイディオムや慣用句を使わずに、自分が知っている単語や熟語だけを使って表現するということを繰り返して、教師と毎日のように〈対決〉していた。もちろん、期待されている言い回しを使って作文するように予習して来いと怒られるからだ。引き籠っていたわけではないのだが、当時は殆ど授業に出ていなかったという事情もあり、通知簿なんてずっと赤点である。たとえば “dictionary” という単語くらいは知っているけれど、それをわざと “a book by which we find a meaning about foreign word or phrase” などと書いていた。当時は、こういう力こそが「英語力」なのだと思っていたのだけれど、それは現実のアメリカやイギリスでは通用しないと知った。それは東京で雑誌の編集者をしていたときに、その出版社の取締役を自称するチンピラみたいなオッサンから「そんなことも一語で言えないなんて、相手に音として意味がすぐに伝わるわけないだろう」と叱られたものだった。つまり、たとえ同じ意味になると思って自分が使える単語で表現しても、それは〈英語ができない人〉として周囲が保護してくれない限りは、アメリカでも差別の対象になるという話である。その人物から35年ほど前に聞いた時点でも、アメリカは差別大国であり、民主党員だろうと口先で自由だ平等だと言っていても、そういう連中の大半は絶対にどこかで条件を保留している。ゆえに、〈われわれと〉平等に扱われるべきなのは、〈われわれと〉同じ程度に英語が使える人に限るといった制約をもっているのだ。無条件に誰でも受け入れる人なんて、スラム街の教会にすらいない。よって、そういう自分勝手な英語の運用は、英語を生活や仕事で〈普通に〉使う環境では周囲から「無知」(もっと酷ければ犯罪者予備軍)というレッテルを貼られる。しかし、自分では「表現」できているという勘違いをしたまま生活してしまえる人が多いため、新しい単語を覚える必要がなくなってしまう。それを、「英語力」があると勘違いすれば、もう周りから諭してもらえない限りは悪循環である。

これは、実はわれわれの母国語である日本語を使う状況でも同じことが言えるのだ。日本語話者であっても、彼らのツイートなりブログ記事、いやそれどころか行政文書や学術論文ですら、未熟で語彙が貧弱で議論も傲慢であるのは、要するに自分が知っている範囲の言葉や知識や概念だけで済ませてしまう、つまり現時点で自分がやれるだけの範囲でものごとを理解したり説明しようとするからなのである。大学教員の大半が教員免許状を持っておらず、バイトで塾の講師をやったことすらない、〈教える側の素人〉であることを理解すれば、そんな人々がいきなり講義をしたり、それどころか教科書を書くなんておかしいと思える常識があれば、こういうことは母国語と外国語との違いには関係のない話であることが分かるだろう。馬鹿は日本語を話していようと、英語を流暢に話していようと、馬鹿なのだ。

自分が言いたいことをどう言えば〈相手によく伝わるのか〉という観点を大切にするなら、自分の知っている単語や熟語だけでいいなどという態度が無礼にもほどがあることくらい分かるだろう。そして、そういう傲慢さを回避するための道具として和英辞典を活用してもいいことは誰にでもわかるはずである。和英辞典がなければ、では誰が自分の知らない英語の表現を代わりにいつまでも付きっ切りで教えてくれるのか。高校時代の英作文の教師が自分の家で隣にずっと座ってたり Zoom でつながっているなんてありえない(そもそもキモい)し、そんなサービスを契約できる余裕も大半の人にはない。また、TOEIC でスコアが900を超える人たちでも語彙はせいぜい10,000前後と言われている。中型の和英辞典だと収録語数は50,000くらいだから、誰かに聞くよりも辞書を引く方が良いのは明らかだし、質問サイトで答えてもらうなんてことに慣れてしまうのは勉強の方法としても、それから人として成長するためにも良くない。

これに加えて、英語の「上級者」とか語学研修学校の教員には、和英辞典は要らないと言うばかりか、英英辞典を使う方がいいから英和辞典は要らないと言ったり、更には辞書を使う必要すらそもそもないという持論を展開する人もいたりする。特に辞書だけでなく本というものが少ない辺境国家や元植民地などで英語を習得した帰国子女の類が、こういう暴論を日本でばらまいていたりする。そして、実は日本でまともな英語教育が考案されたり普及しない一つの理由として、こういう出鱈目でプライベートなメソッドを、個人的に信奉していたりする英語教師がたくさんいるという事情もあったりするのだ。文科省に規制されていない範囲であれば、教員の裁量で任されているがゆえに、英語ができない教師に限って〈にわか英語学者〉にでもなったかのように、自分が宇宙の真実を発見したとでも思いこんで、そういう帰国子女が書きなぐっている奇抜な「わたしの英語勉強法」の信奉者になったりするのだ。そして、日本の教育というのは、そういう個々の教師の実情を第三者が検証したり評価する手段がないため、子供から親へ、そして PTA から教育委員会へと伝わるだけで握りつぶされているのが実情だ。教育委員会なんて、学校で起きることならなんでも事実を握りつぶすのが仕事みたいなものだ。どのみち定年前のジジイが大半であるから、何か失敗しても頭を下げるだけでいい。そのあとは形だけの責任をとって辞めさせられても年金はもらえるし、実名をどこかで報道されることもないから、気楽なものである。そして、そういう辞書が要らないと言う連中が常に理由として掲げるのは、「子供は辞書なんて使わずに言葉を覚える」という馬鹿の一つ覚えだ。

しかし、既に本稿の他の一節で書いた通り、このようなインチキ文化人類学やデタラメ言語学に耳を貸してはいけない。子供は自然に言葉を覚えるというが、それはつまり子供が習得して運用するレベルでいいという、甘えた目標を設定すること自体が、日本語でも英語でも言葉で生活する意欲や見識が低い証拠だろう。言葉の扱いは、すなわち概念や知識の扱いでもある。つまり、それが子供として習得する範囲や内容やレベルでいいなんて言うのは、わたしは子供として生きますと宣言しているのと同じなのだ。子供には概念がないため、先に発音や文字として言葉をぼんやりと覚えて、使い方という脈絡の中で意味を探るしか方法がない。これに対して大人は既に(馬鹿でなければ)日本語として概念をもっているのだから、子供と習得する実情や方法が違うのは当たり前なのである。それがアメリカの言葉で意味する概念と比べて違っていることはあろう。“God” と言われて、アメリカ人が把握することと日本人が(日本語に置き換えて)把握することでは違いがあるし、日本人が英語として把握していてすら、どこかに僅かな経験上の違いがあったりする。しかし、なんにしても全く知らないアメリカや日本の子供が “God” だ「神」だと言われてから言葉を学ぶのとでは、学識のあるなしとは関係なく、言葉として見聞きしたり使ってきた脈絡があるという経験だけでも大きな違いがある。

長年にわたって使われてきた道具には、それなりの効用や役割がある。そして、それを使うことで獲得できた利便性というものが語られる以上は、そういうものが全くなくても同じ結果を上げられるという意見に反対はしないが、敢えて手にできる状況を軽視したり、それどころか不要論などと称して否定したり侮蔑するまでの根拠など、たいていの人はもっていないはずである。和英辞典などなくても東大に入れた、和英辞典などなくてもノベール賞を受けた、和英辞典などなくても元坂道アイドルと結婚できた、和英辞典などなくても投資で数十億を手に入れた、和英辞典などなくても良い病院に入って最期を迎えられた。それはそうかもしれないが、論理的にはどうでもいい話でしかない。それらがどれほど都内の愚劣な人々にとっての安っぽい成功や幸運だろうと、和英辞典が不要かどうかを論証する根拠にはならないのである。

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「無能な人の英語学習法TOP3」について

2022年10月02日に初出の投稿」という Notes からの転載です。

無能な人の英語学習法TOP3 【絶対にやめて】無能な人の英語学習法TOP3

なかなか今回も興味深い話だった。先に内容を紹介してしまうが、彼女が説明している三つの無駄な英語学習法とは、(3) 単語帳を使う、(2) 文法を勉強する、(1) 英語の先生に質問する、というものだ。それぞれの理由は動画を観ていただき、それぞれで判断していただくとして、ここでは僕から幾つか反論させていただく。

まず、単語帳は市販の単語帳であれ自分でノートに書き溜めてゆくものであれ、要するに使い方によって有効にもなるし無効にもなる。これは、当サイトの「英語の勉強について」というページで和英辞典の是非について述べている話と同じく、simpliciter なテーマではなく、条件によって正否が異なるのである。もしこんなことを simpliciter つまり無条件に誰にとっても無駄なことであるとわかっていれば、明治時代から学校教育に英語を取り入れてから150年間も無駄な教育をしていたなんて話になる。それほど教育というものは単純ではない(そしてそれゆえ、たいていの教師の「教授法」なんて個人的な経験、教師生活35年にわたる「経験」であろうと、そういう矮小な事実から得た感想を言っているだけの御託でしかないという事例も多いのだが)。そして、彼女も単語帳を使うべきではない段階の学習者がいるという前提で話をしているのであるから、動画の演出として極論を口にするのは仕方ないとしても、やはり極論を言いすぎると、従来の英語教師と同じく個人的な経験(その大半は、やめていった生徒ではなく記憶に残る成功した生徒と接した経験である)だけで生存バイアスに陥ることとなろう。何度も言うようで気の毒だが、成功者を100名輩出したのは結構だけど、あなたの英語教室を1レッスンだけで止めた人や、1年ほど通っても英検2級すら合格できない生徒は、他にどれだけいるんですかと聞きたい。ていうか、そもそもレッスンの受講者を募る時点で何らかのハードルを設けてる可能性だってありそうだ(受講料がそれなりに高額であるとか、そもそも英検2級ていどは合格してないと申し込めないとか)。

そして次の文法についても、僕の評価は同じである。また、彼女自身も、単語帳の話と同じく動画では文法を学ぶ良しあしについて全く無意味だとか無駄だと言っているわけではない。実際、彼女が言っているようなタイプの批評やアドバイスは、彼女の独創でもなければ最近の話でもなく、はっきり言えば僕らが学校で英語を勉強し始めた頃から色々な本や雑誌で指摘されていたことであり、或るていどの説得力はあるが無条件に同意してよい話でもない。みなさんも英語の勉強について、いちどくらいは「赤ちゃんは言葉を覚えるのに文法の教科書なんて読まない」などという、僕に言わせれば「減らず口」としか言いようがないセリフを読んだり聞いたことがあると思う。もちろん、発達科学や認知言語学という研究分野でヒトの個体が言語を習得するプロセスという話をしているなら正当な話であるし、それが事実というものであろう。いや、そもそも「文法を理解していない幼児が日本語で何かを表現するために文法書を読む」という表現そのものが論理的におかしい。文法がわからないのに、どうやって文法書という本を読んで理解できるというのか。しかし、中学生や高校生ならともかく、一通り初歩的な勉強をしている大学生や社会人が英語を学ぶときは、既に母語としての日本語という最低でも一つの言語体系について理解し運用している体験が備わっているのであり、その状況で異なる言語を習得するという条件は、未熟児が言葉を覚えるのとでは話が違う。そして、文法は要らないという、格好はいいが無責任なフレーズをまくしたてる連中の大半は、発達科学や認知言語学どころか、英語教授法について学部レベルの勉強すらしていない素人であるから、結局のところ自分の身の回りで起きた結果論で喋っているだけにすぎず、大半の大人や社会人には通用しない、都合の良い事例だけで固めた話をしているのである。また、これも「英語の勉強について」というページで書いている話だが、「幼児みたいに英語を習得する」というのは、要するに社会人が幼児並みの理解で言葉を使ってもいいという傲慢な話をしていることに気付くべきである。知りもしないのに、"theory of relativity" という言葉を口から発音できるというだけで何事かを「自己表現」しただの英語で話しているだのという妄想に陥ることは、英語や言語を習得するという以前に、社会の一員つまりは人として避けるべき自己欺瞞に陥るということなのである。

たとえ英語で流暢に喋れるようになろうとも、自分勝手に物事を理解して言葉にするような人間になってはいけない。

そして三つ目についても、無条件で言えるような話ではない。こう言っては身も蓋もないが、僕が中学時代に英語を教わった先生は高橋一幸という人物で、現在は神奈川大学外国語学部英語英文学科の教授だが、1980年代は僕の母校(大阪教育大学教育学部附属天王寺中学校。現在は名称が違う)で英語の教員をされていたし、僕が中学2年のときは担任でもあった。発音がいいかどうかは正確に覚えていないが、短期間だけ補助教員として招いていたネイティブのアメリカ人とも全く問題なく会話していた。また、英語のスピーチでは僕と一時だけ競っていた(そしてすぐに僕が全く追いつけないレベルに行ってしまった) W 田君という同級生(外務省から MIT の修士課程を経てマッキンゼーに移り、そのあとは何社かの取締役をやっていた)にも英語のスピーチを丁寧に教えていたくらいはできた先生である。要するに、これもこう言っては身も蓋もない話だが、それなりのレベルの学校ならまともな英語教員なんていくらでもいるわけで、「まともな英語教員」が少ないのは僕も同意できるが、それは彼女が動画でも言うように、まさに中学と高校の話であるから、社会人になって英会話の教員を「客」として自分で選べる立場になれば幾らでも改善の余地はある。

それから、ここまでの僕の反論でも薄々感じられると思うが、彼女は自分のアドバイスが当てはまる相手を、社会人だったり中高生だったり都合よく置き換えてしまうのだ。こういうトリックにも注意したい。僕はもちろん社会人として一通りの授業を中学や高校で受けた経験がある人を想定して、彼女のアドバイスが適切であるかどうかという観点で反論している。

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「100%成果の出る英単語学習法を紹介します」について

2022年10月08日に初出の投稿」という Notes からの転載です。

100%成果の出る英単語学習法を紹介します 【爆伸び注意】100%成果の出る英単語学習法を紹介します

また例の英語講師のビデオを紹介する。今回は、英単語を覚える効果的な方法ということで、それなりに筋が通っていると思う方法を紹介していたから、ここでは否定的な扱いはしない。彼女が紹介している方法は5つのプロセスで列挙されているため、ひとまずそれを要点として紹介しておこう。

彼女の解説にいくつか補足させてもらいながら説明しよう。まず教材は、もちろん自分の知らない単語が掲載されている学習用の単語集を選ぶのだが、あまりにも難解な単語ばかり掲載されているものはやめた方がいい。たとえば中学生が大学院入試用の、概念としてそもそも理解していない物理や社会科学の専門用語が掲載された単語集を使っても、はっきり言って無意味である。当サイトで何度も言ってることだが、口先だけで日本語の「相対性理論」とか英語の "theory of relativity" を発音できたところで、内容を理解していない人間がこんな語句をもてあそぶのは、何かの言語の話者という以前に人として不誠実に育つだけだ。繰り返して強調するが、英語がペラペラのテロリストや、日本語を流暢に話すネトウヨになりたいかということである。文法を理解して言葉を発音できるというだけで犯罪や無知無教養から逃れられるなんて錯覚だ。

なお、彼女が旺文社のターゲットを選定した理由は、ネイティブの音声データをダウンロードできるということらしい。でも、これだけだと選定理由として不十分だと思う。なぜなら、この単語集は書名のとおり約2,000語の単語を収録しているが、2,000語なんて中卒レベルの語彙でしかないからだ。実際、僕は中学時代に LDOCE を使い始めたときの準備として語義を理解するために必要な基本単語を2,000個だけ掲載した LDOCE 専用の単語集で勉強した。LDOCE の設計がまさに物語っているように、なるほど基本単語の2,000語を習得すれば LDOCE に出てくる単語の語義を理解できるのだから、それはつまり LDOCE に掲載されている単語なら基本単語2,000語だけで言い換えられる(表現できる)ということだ。であれば、辞書の説明みたいな回りくどい言い方となることすら問題なければ、LDOCE に掲載された単語を使って表現できる文章は、全て基本単語を使った言い回しに置き換えてもいいということになる。しかし、それはまさに「中卒」と言ったように、的確な表現をするための単語を知らない子供の未熟な表現で、大学生や社会人が押し通すということでもある。以前も書いたことだが、サラリーマンが海外で交渉するのに、いくら言語学的に文法や意味としては間違いなく伝達できるからといって、中学生が話すような英語で話すなんて、いったい相手はどう思うだろうか。明らかに、交渉や議論の相手としては信頼できないと思うだろう。そういう英語話者は社会人として間違いなく「未熟」と判断できるからだ。交渉相手である企業の取締役に向かって、「ねぇおじさん、僕たちのえらいひとがつくったプログラムを買っておくれよ」と言ってるも同然の英語で喋ることが表現だと思っているなら、英語を勉強する前に、自分がそもそも日本語ですら馬鹿げた文章を書いていないか、周りの大人に読んでもらう方がいい。

(3) の音声練習は何も言うことがない。単語集にはネイティブの発音を確認できる付録があるものを選ぶのが、僕も良いと思う。どう発音するかも正確に分からない単語なんて、絶対に使えるようにならないのだから、覚えるわけもないからだ。また、いくら英語の教師だろうとインド人や日本人が喋っている動画とか音声データも絶対に使わない方がいい。また教師でなくともアメリカで生活して何十年とか、そんなことは発音が的確かどうかの証拠にはならない。

(4) それから苦手を克服するために覚えられない単語で book of shame(松本亨氏の呼び方)を作るのも、僕は良いアドバイスだと思う。これも、当サイトの「英語の勉強について」というページで僕の使っている単語帳を紹介してある。そして、動画の英語講師がどう教えているかは分からないが、この手の自分の単語帳を作るときに注意もしくはお勧めしたいのは、単語の意味を単語帳に書いてはいけないということだ。その単語帳に掲載されている時点で意味を思い出せという、或る程度のプレッシャーがかけられなくてはいけない。すぐに語義を見られるようにしてしまっては、覚えるというよりも思い出すというプロセスにとって悪影響がある。

(5) そして最後の実践演習は、単語を覚えた後に長文読解なんてやるなという話である。字面で勉強するという方法には、英語をアウトプットするインセンティブがまるでないため、単語を自分の言葉として使う練習にならない。そして、自分の言葉として使うときに大切なのは、"are" と "you" と "kidding" と "?" という個々の単語や記号を「ひょっとして」「あんたは」「冗談言ってる」「の?」などという日本語からの再構成によって表現するのではなく、"Are you kidding?" という一つのフレーズとして表現する訓練をすることだ。このフレーズを一つの発出として表に出すということが表現なのであり、言葉とはそれを相手に発するための手立てなのである。僕らは、相手から聞いたことが信じられないという「意味合い」を相手に自分の感想や感情として伝えるために "Are you kidding?" と表出したいのであって、自分が "are" とか "kidding" という単語を知ってますとか覚えてますとか、あるいは "are" を先頭につけて疑問文を作れますとか、"Are you kidding?" という疑問文が反語表現として使えることを知ってますなどと、相手にそんなことを伝えるために "Are you kidding?" と発音するわけではないだろう。彼女は、おそらくそれを言っているのだろう。そして、そういう趣旨で彼女が「フレーズとして覚えよ」とアドバイスしているのであれば、彼女はまったく正しいと思う。翻訳や通訳に携わる人々は、それをわかっているからこそ、"Are you kidding?" を即座に「まさかね!」と自分の日本語として表出できるのである。

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僕らのような素人のアドバイスは話半分に受け止めること

語学習得は若いほど有利、年齢を重ねてからではもう無理と諦めていないだろうか。確かに脳細胞の数は年とともに減るが、脳細胞の「成長」となると、それとは別だ。習慣を見直せば、まだ脳は育つ。オトナならではの賢い学び方、それとは逆に、やってはならない学び方とは。「プレジデント」(2022年4月29日号)の特集「『英語』レッスン革命」より、記事の一部をお届けします。

オトナになってからの英語学習で、絶対にやってはならない「7つの悪習慣」

日本で英語を学ぶ人の多くが何十年やっても英語をまともに〈使える〉ようにならない陋習や原因には幾つか指摘されている。そして、その一つがまさにこういう素人のアドバイスだ。この手の受験秀才が書く英語学習本とか体験談の記事が、英語学者やネイティブや英語で実務に携わっている人々のチェックも経ずに、市場へ氾濫しすぎていることにあるのだ。この人物のプロフィールを見るとわかるように、脳科学の専門家でもなければ(脳神経内科というのは脳で起きる筋肉痛や神経痛の医療分野にすぎない。科学ですらないのだ)、英語の専門家でもない(この人物が英語でアメリカの学会に参加したりアメリカ人と意見を交換している証拠など一つもない)。しかし、医者だとかどこそこ大学を出てるなどと紹介されると、英語の学習意欲だけではなく学歴コンプレックスがある多くの人は、この手の人々が書くものを妄信したり、あるいはむやみに反発して無視しようとしてしまう。

もちろん40歳や50歳になっても英語は習得できる。というか、英語を使う土地で生きていくために「可能かどうか」なんて調べたり考察したり議論する暇など、たいていの人にはないのだ。そうしなくては生きていけないからこそ英語を身に着けるのであって、たいていの英語を習得している人たちは、字幕なしで映画を観たり原書のエロ小説を読むといった暇潰しや娯楽のために英語を身に着けるわけではない。日本語の標準語さえ使えたら国内のどこへ行ってもコミュニケーションでの苦労がなくて、外国人や外国語と接するチャンスが殆どない島国で生活しているため、外国語を習得して生きていかなくてはいけないという境遇を、とにかく日本人は舐めすぎている。これも、英語の習得ができない理由の一つだ。たいていの日本人は、英語どころか外国語を学ぶ切実な理由なんてそもそもないのである。

上記の記事で紹介されている「やってはいけない7つの『悪習慣』」(他人からの伝聞や著作物のタイトルでもなく、あるいは強調表現とも思えないのに、どうして括弧で囲むのか。日本語の正確な運用能力もない人間に英語を語る資格があるとは思えないがね)を見てみると、

  1. (1) 教材の1ページ目から勉強
  2. (2) つまらない教材をやりきる
  3. (3) 英文の「返り読み」をする
  4. (4) 発音を気にしすぎる
  5. (5) 団体ツアーで海外旅行
  6. (6) 文法を「記憶」する
  7. (7) 部屋が散らかったまま

となっているが、生きるための手立てとして言語を身に着けるという切実で真面目で真剣なスタンスを前提にするなら、(1) と (2) なんてどうでもいい話だ。楽しく勉強する、逆に言えば楽しくなければ勉強しなくてもいいなどという、空虚な「モチベーション」などという錯覚にしがみついて言い訳や正当化を作ろうとするからこそ、そういう正当化そのものに失敗すると勉強しなくてもいいという自堕落な言い訳を自分で作り上げてしまうことになる。

(3) は僕も正しいと思う。言語を習得するのは、たとえば「道草」といったサイトにクルーグマンの論説を違法翻訳して自分が何か世のため人のためになっているなどと承認欲求を満たすためではない。日本語に置き換えるべきときは、それを日本語の概念として理解するときに〈しっくりいく〉と実感できるときだけでいい。しばしば「英語で考える」などと言われたりするが、英語を〈生きる手立て〉として習得しているときには、そういう自覚すら不要な認知プロセスで済むはずなのである。“Stay!” と誰かに叫ばれたら、「止まれ!」と翻訳する必要どころか、英語として〈何かやってることを止めるという意味〉だと理解する必要すらない。ただ単に自分の行動や行為を止めたらいいだけのことなのだ。

そして (4) については、英語の講師やアメリカで生活している人たちが口を揃えて言うように、「発音なんてどうでもいい」なんてことを言う人間に限って、その多くは留学経験もない、日本にわざわざやってくる外国人だけを相手にしている暇人であるか、あるいは自分の聞き取り難い発話が相手からどう思われているかに頓着しない無礼者なのである。しっかり相手に誤解なく伝えなければ、生きていくために致命的な失敗を犯す可能性がある。これくらい、アメリカで何か月か生活するだけで馬鹿でもわかる話だというのが、実際に英語を使って生きている人たちの実感だろう。「L と R の違いなんて気にしなくていい」などと言う連中は、来客へ出す料理に塩と砂糖を入れ間違っても気にしないような奴のことだ。

もう詰まらない話にかかわるのはこれくらいにしておくが、最後に一つだけ書いておくと、日本で英語を習得できない人が多い理由の一つとして、これも市井にあふれている素人や塾講師などの英語本とか雑誌記事でさんざん嘘っぱちを書かれていることだが、文法を後回しにして英会話のフレーズばかりを機械的に暗記する人が非常に多い。でも、当サイトの記事で書いているように、英会話本のフレーズがそのまま使える場面なんて、あなたの人生には殆どないのだ。よって、そういう ready-made なフレーズを骨組みとして自分の置かれている状況へ当てはめるために必要なのは、語彙と文法の力なのである。これがない単純なフレーズを繰り返すだけの人は、朝ドラのように何十年と続けていても、現実にはアメリカの青少年にすら匹敵しない AI 以下の運用能力しかないと言ってよい。

とは言え、ごく当たり前に言葉を習得する仕方について誰でも経験しているように、言葉の習得に perfection などない。そもそも自分たちが使う母国語ですら、相手と正確かつ厳密かつ適切に意志を疎通している保証など全くないのである。あるいは言語哲学として考えても、言語による〈意図〉や〈意味〉の共有とかやりとりに「十分」とか「完全」なんてありえないのだ。なぜなら、その基準が全くないからである。したがって、言語の習得について自らであろうと英語教師であろうと会話の相手であろうと、「~でなければいけない」などと言われる筋合いは全くないのだが、しかし会話が適切であるかどうかの判断は、半分は彼らにもゆだねられている。これがコミュニケーションや伝達の(おそらく原理的な)難しさなのであろう。よって、英和辞典を1ページから最後まで覚えたら〈英語ができる〉ようになるなどというのは幻想でしかないわけだが、だからといって英語のテキストを好きなところだけ読んでいいなどというバカげたアドバイスはすべきでない。このバランスやニュアンスがわからない人間に、他人へ英語の勉強の仕方を教える資格などないのである。

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TOEIC の是非について

21日の『ABEMA Prime』に出演した茂木氏は、改めてTOEICのリスニングとリーディングのサンプル問題に触れ「地獄のようにつまらない。くだらなすぎて、最低最悪。もう砂をかむようだ。マウンティングしているように聞こえるかもしれないが、はっきり言う。僕は『TED』のメインステージで最初の日本人の一人として喋ったし、ケンブリッジ大学にも2年留学した。その俺に言わせると“面白い英語”というものがあるし、ETSというアメリカのテスティングサービス会社が作った、日本人を永遠に“二流以下“の英語話者にとどめるための策謀だと思う」と切って捨てた。

「愛国者として、日本人の英語力をこのままにしておくことに耐えられない」茂木健一郎氏が“脱TOEIC”、“脱ペーパーテスト”を呼びかけ

英語の勉強についてページを公開している都合から、この手の話題に少しは興味があるのだけれど、上記のような議論を読むと、英語の習得とか勉強について大前提として言っておきたいことがある。それは、昔ながらの商売人とか運搬事業者とか移民とか越境者とか漂泊者が新しく行き来する国の言葉を覚える経緯などをモデルにして外国語を習得する理想的なプロセスであるかのようなことを言う議論には、何かセンチメンタルなものを感じてしまうということだ。また、幼児が言葉を習得するプロセスを自然だの理想だのと言いつつ、大人も同じプロセスを追うべきだなどと迷惑なことを言う人々も、はっきり言って外国語の習得とか教育について、口を挟まないでいただきたいという気がする。しかし、かといって昨今の English as the second language (ESL) というアプローチのもとで普及している教材とかセミナーとか TOEIC / TOEFL / IELTS のような試験が有効なのかどうかも、実はよく分からない。なので、いくら Abema が「テレビ朝日が制作するネトウヨ放送」という画期的なエンターテインメントだからといっても、わざわざ明け透けに「愛国者」とか「策謀」とか言わなくてもいいのにと思うが、いずれにしても茂木健一郎氏の言わんとする趣旨は分からなくもない。

実際、次のような反論があるようだが、僕にはくだらないとしか思えない。「TOEICも受け続けている英語講師のもりてつ氏(武田塾English取締役)は『そもそもTOEICは教養を問う試験ではなく、英語圏で生活ができるかどうかを測る試験だ。茂木さん、1回受けてみてはどうか。俺と一緒に受けてみないか』と反論している。」これの何がくだらないかというと、こういう英語で飯を食ってる連中には、そもそも TOEIC を擁護するインセンティブがあるので、茂木健一郎氏に反論する資格など最初からないのだ。「トイッカーとも呼ばれる、TOEICを本当に心から楽しんでいる人もいる」・・・バカか。そんなもの、どうでもいいよ。TOEIC なんて英語の能力試験というよりも一種のゲームであることは多くの教育者や体験者が指摘していることなのだから、そんなゲームを楽しみたい人間は勝手にやっていればいいのだ。入社や入学あるいは昇進の評価基準にするなど笑止もいいところだ。

そして、この手の話をする人間にいつも説得力がないと感じる決定的な理由は、「じゃあ、おまえら英語はいいとして、それでいったい何をしたの? 実績、学位、年収は? いまの会社での職位は?」と質問すれば終わってしまうからだ。つまり、英語教育にかかわる既存のサービスを擁護する連中の大半は、英語については人様に教えるていどには詳しくても、要するにそれだけのことでしかないという事実を超えるものを持っていないのである。しかし、英語を習得して僕らがやることは、アメリカで大学に入ったり、交渉したり、あるいは弁護士や医者になるということだ。正直、英語の勉強なんて最低限でしかなく、そこを何十年も改善できておらず、他の国に比べて英語を学ぶ人数も年数も引けをとらないのに英語が使えない人間を輩出し続けている既存の英語教育や英語関連のサービスは、簡単に言えば決定的に何かが足りないのだ。

もちろん、それが英語の教育や教材や教師だけに責任があるとは思っていない。なぜなら、他の国と比較して日本人の大半は英語を習得しないと職にありつけないとか、専門的な技能や知識が学べないとか、そういう脆弱性がない国に住んでいるので、そもそも英語を学ぶ必要なんてないからだ。これは、おそらく日本人と比べても英語が使えない人が圧倒的に多いであろう、モンゴルとか、ロシアとか、あるいは大多数のアフリカや中東の国々と事情は同じである。そうした国々は、逆に英語ができようとできまいと政情が不安定だったり貧しすぎて仕事じたいがなかったりするため、別の意味で英語を学ぶ必要性がない。韓国人や中国人や台湾人(中国の愛国者には気の毒だが、別の国だ)は、日本人に比べて英語を習得する人が多いと言われるが、それは別に彼らが〈英語習得遺伝子〉のようなものを持っていたり、外国語を習得しやすい生活習慣とか文法とか文化をもっているからではなく、やはり決定的なのは動機だと思う。なので、彼ら他の国の人々のようにギラギラとした欲望とかキラキラとした希望とか、そういう強い動機もなくて、たとえば洋画を字幕なしで観たいだの、「国際人」になりたいだの、MMORPG の国際サーバでアメリカ人と語りたいだの、そういう純朴で無害ではあるが、しょせんは恵まれた境遇の人間が思いつくていどの安っぽい動機で、英語の教科書を眺めたり、(放映中の朝ドラを批判したいわけではないが)英会話のラジオ番組を親子3代に渡って聞いていようと、そんなことではどうにもならないわけである。

そして、パックンが TOEIC にも一定の価値はあると反論した際にも、茂木氏は「そもそも日本企業がTOEICを使っているのは自分たちで英語力を判断できないからであって、そも日本人の英語力がなんでそのレベルにとどまっているのかを問題にしなければならない。それはやはり教育の中で英語劇やスピーチ、ライティングをしていないからだ」と述べていて、これについても僕は茂木氏の方に賛成したい。資格試験の勉強に一定の価値があるのは確かで、たとえば体系的な勉強をすることで我流の勉強による偏向を是正できるといった効用があるにはある。しかし、スコアだけで判断する企業の大半は、これは何度も言ってることだが、人事に人を評価する見識もなければ経験もなく、ましてや人事に関連する学位ももっていないのだら、簡単に言えば素人でも評価できるために TOEIC のスコアが役に立っているだけのことなのだ。そんな連中に評価されたところで、客観的には意味がない。大学生が幼稚園レベルの英語を使えるようになったと、英語もロクにできない大企業の人事部などに評価されて、それで彼らの英語が入社してから本当に役に立つのかという話である。そして、大学受験と同じく、多くの人々は評価される機会を終えたら勉強しなくなってしまう。明らかに〈文化的な下方圧力〉だ。

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口語辞典の「名著」

2022年11月18日に初出の投稿」という Notes からの転載です。

『日米口語辞典』

上記はエドワード・サイデンスティッカー氏と今年の3月に亡くなった松本道弘氏との共著である。僕が手に入れたのは初版だが、いまでも初版ですら評価が高い。現在は2021年に最新版が出ていて、ぞろぞろと英語の語彙を暗記するしか才能がなさそうな業績のない馬鹿どもが宣伝して回っている。確かに読む辞典として編纂されただけのことはあって、読んで理解するというアプローチにはそれなりの利点もあろう。

しかし松本氏には気の毒だが、「英語道」などと称してみたところで、言語の本質は記憶した単語の数や流暢な発音や自然なコロケーションではなく、あくまでも内容なのだということを、クソみたいな発音のインド人が教えてくれるのが現代のわれわれが置かれている圧倒的な差だ。日本人で、アメリカの IT 企業の経営者どころかボード・メンバーに入ってる者すら殆どいまい。内容を無視して、いつまでもこういう辞書を「名著」などと言っていると、英語を使った業績を上げられないばかりか、それこそ老害となじられよう。たとえば、いまでも数多くのレビュアーが絶賛している初版を手にして驚いたというか呆れてしまったのが、数々の女性蔑視としか言いようがない例文や解説文の山である。

などと、冒頭から10ページにも満たない間に続々とこんな表現が出てくる。僕は、何度も言うがフェミニストなんかではない。でも、このような文例が山のように書かれた辞典を「名著」と叫んでいるレビュアーが例外なく男である(少なくとも文体からすれば女性が書いてるレビューとは思えない)という事実から言っても、やはり愚かな精神論を言語の教育に組み込んでしまった人々のエコーチェインバーでは、批判的な観点も身に着かなくなってしまい、ひたすら「英語ペラペラ」というバカの一つ覚えだけを目標にする無能な口先野郎が再生産されるばかりなのだろう。

そら、インド人や中国人に負けるわけだよ。

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マスコミの典型的なネタとしての「語学の天才」

genius as a role

英語、日本語、ロシア語にスペイン語……。カナダ人の言語学者スティーブ・カウフマンさん(77)は、20の言葉を操ることができると言います。しかも、「60歳になってから学んだものも多い」とか。「誰でも語学は習得できるから、諦めないで」と日本語で自信たっぷりに話します。

真田嶺「語学習得『文法より大事なのは…』20カ国語を操る言語学者の勉強法」, March 9th, 2023, https://www.asahi.com/articles/ASR2X454XR2FUHBI01R.html, retrieved on March 14th, 2023.

こういう記事は、大昔から新聞や雑誌、それから現在ならメディアと呼ばれるウェブサイトに何度でも掲載される。そして、だいたいにおいて一致しているのは、その分野で殆ど目覚ましい業績を打ち立てたわけでも何でもない「語学の天才」に秘訣を適当に尋ねるイージーなインタビューというパターンである(世界規模で賞賛されるような業績を出していないという点では、もちろん僕も科学哲学者として同じていどに無能なのであろう)。しかし、このような世間話を真面目に読む必要はない。なぜなら、彼は自分自身の専門である言語学としてすら殆ど根拠のないことを話しているからだ。そして、この手の「語学の天才」という例外的な人物を見つけ出しては記事のネタにしてきた報道機関や出版社の性癖と言ってもいい愚劣な習慣に騙されるのも止めにしたいところである。

日本にも、この手の語学の秀才なり天才と呼ばれている(そして、たいがいにおいて何の目立つ業績も上げていない)人々はたくさんいて、何かあればマスコミが見つけ出してくれる。あるいは自分からソーシャル・メディアなどでアピールしたりもするのだろう。その手の連中は、ともかくたくさんの国の言葉を読んだり話せるということしか取り柄がないので、そういうネタについて売り込むくらいしかできないわけである。しかし、たとえばフランス料理について学びたいあなたは、フランス語の天才に料理を学びたいわけではないだろう。ゲーテの書いたことをドイツ語の原文で読みたいと思う学者は、ドイツ語の教師にゲーテについて教えてほしいわけではあるまい。結局、手段と目的を取り違えさせて、手段であるにすぎない言葉の運用なり習得こそ目的であり、フランス語さえ話せたらフランス料理が作れるとか、英語さえできるようになれば MIT の大学院に入学できるかのような錯覚をばら撒いているのが、自分たち自身では殆ど外国語で業績を上げたりものを熱心に学んだこともない人々が書いている「天才の勉強法」という聞き書きなのである。まだ学び始めたばかりで外国語を流暢に扱えない人たちであっても、このようなデタラメに騙されない程度に大人としての見識を持ち合わせてから、英語であろうとイタリア語であろうと学び始めたいものである。

僕らは、そもそも英語を流暢に話せる人だとか、ましてや外国語を幾つも扱える天才と呼ばれたいがために英語を学ぶわけではない筈である。こういう例外的で何の経験的・理論的な根拠もない、個人的な昔話の類を「勉強法」だの「英語術」だのと吹聴しているような暇人に喋らせた談話を読んでいる暇などなくてもよい。確かに、七か国語が扱えると言われる舛添要一氏は東京都知事にまでなった。これは一つの業績であり、誰かが目指してもいい地位や仕事かもしれないが、では東京都知事はフランス語ができないとなれないのだろうか。ましてや都知事として「良い仕事」をするにはドイツ語を話せる必要があるのか。こんな質問は、小学生時代の僕にすら鼻で笑われるような愚問であろう。

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子供のように言語を容易く習得するという錯覚

このページでは繰り返して強調している話題なのだが、外国語の学習者に蔓延していると言ってもいいデタラメな議論の代表は、子供の言語習得を外国語学習の理想であるかのように思い込む錯覚だ。しかし、事実として僕らは既に(こんな記事が読めるていどには)言葉を習得している成人であって、認知的な条件として子供の状態に戻ったり人為的に子供になることは不可能である。そして、そもそもそんな必要などないことは、大人になってから外国語の勉強を初めて実際に使っている人がいくらでもいるという事実で十分に理解できるだろう。すると、そういう人たちは苦労して外国語を習得していたのであり、もしも子供のように習得していたなら、もっと速く習得できたのであろうという、何の実例も根拠もないことを言い出す人がいたりする。しかし、一般的に言って言葉の習得は、まさしく子供の様子を見れば分かるように個体差がある。発話についても、あるいは表には見えなくても概念として習得することについても、それからそもそも自分が考えたり感じていることを言葉にするとかアピールするということは言語習得の能力だけではなく人格とか生育する環境とか人間関係にも左右されるため、単純に何をすれば速いとか遅いとは言えないものである。そして、そういう色々な条件を合わせて言語を習得していく様子を何年にも渡って十分な数の事例を追跡調査した研究成果など、実は一つもないのである。よって、この話題については学術的なレベルでも仮説の範囲にとどまり、ましてや素人や予備校講師のようなアマチュアが思い込みで話したり書いていることは、単なる妄想である。繰り返すと、(1) 子供のように学ぶことが大人の学習に比べて言語を速く習得できる根拠も証拠もないし、(2) 子供でもどういう環境で習得することが速かったり時間がかかるかは正確な条件が分かっていないのである。

そして、これは実証も論証も必要なく少し考えたら分かることだから、僕のような素人でも議論できることとして次のように考えてみよう。それは、原則として幼児期の言語習得は受動的であり、成人してからの言語習得は(受動的な場合もあるが)能動的だという違いである。先に述べた通り、「英語を流暢に話せる人」と言われたいなどという自意識過剰な動機で英語の勉強を始めるような(そしてたいていは挫折する)人々など知ったことではないが、おおよそ英語に限らず外国語を学ぼうとする人の目的や動機は、言語の習得そのものではない。イタリア料理の本場で教えられていることを学びたい人がイタリア語を学ぼうとするのは、もちろんイタリア料理について知りたいからだ。それが日本語で十分に学べるなら、それに越したことはないだろう。でも、イタリア料理についてイタリアで教えられていることが本当にあらゆる事柄について日本語の本とか資料とかウェブ・ページに翻訳されている保証はないし、熱心に何かを学べば実は誰でもすぐに分かることなのだが、それこそイタリア料理から先物取引や科学哲学にいたる海外で教えられたり研究されたり議論されている色々な事柄は、これだけ毎日のように夥しい翻訳書が発売されたりウェブ・ページとして公開されている国においても、殆ど翻訳なんてされていない。したがって、僕らには外国語を習得して外国で蓄積された知見や知識を学ぶために外国語を習得しなければいけないという理由や動機がいくらでもあるから、それが終わるなどということはない。しかし、それは外国語の習得についても(もちろん母国語についても言えることだが)終わりがないという事実と、同じ意味なのではない。シェークスピアの研究に終わりがないことと、英語の勉強に終わりがないことは別の話である。そんなことくらい誰にでも分かるだろう。

幼児期の言語習得は、簡単に言えば親が話したり自分が親に向かって言葉を発せられないと、何かが生理的に不快だったり生きていけないからだ。お腹が減った。ウンコしたい。そうした欲求をどうにかするために周囲へ発するシグナルの一つが言葉であり、身もだえのような動作であり、しかめっ面のような表情であり、笑い声や笑顔のような反応である。このようなやりとりを通して、「ママ」とか、ママが喋る「糞ジジイ」とか、そういう言葉を学ぶのである。このようなプロセスは、考えてもらえば誰でもわかると思うのだが、大人が真似るようなことではないのだ。あらためて強調しておくが、子供のように言葉を習得するということを外国語の勉強において理想的なプロセスであるかのように錯覚している人々には、次のように言っておきたい。

「言語(母語)を」習得することと、「外国語を」習得することは別である。

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英会話できないという人は、そもそも普段から会話じたいをしていない

2023年5月22日に初出の投稿」という Notes からの転載です。

TOEIC のスコアは900点を越えていても英会話ができないとか、あるいは英検が準1級とかでも話せない人たちがいて、しばしば資格試験を批判するためのネタとして紹介されている。実際に、そういう人は多いのだろう。しかし、僕が思うには、そういう人たちの問題がどこにあるかを指摘するのは簡単である。なぜなら、みなさんが自分の母国語、つまりは日本語なら日本でそもそもみなさんが何を話していないかを振り返れば簡単に分かることだからだ。

朝、出勤するために駅へ向かう途上で同じマンションに住んでいる人たちとエレベーターで同乗したり、あるいは路上ですれ違う際に、みなさんは「おはようございます」と挨拶するだろうか。恐らく、挨拶しない人が大半だと思う。ふだんから見知らぬ相手へ挨拶しない人は、いきなり他人のアメリカ人と会話しろと言われても、日本人にすら挨拶しないのだから、なおさら英語でそもそもそんなことをする必要があると感じないだろう。

それが話せない理由だ。

単語さえ何万と覚えていれば英会話なんてどうとでもなるから、文法なんて勉強しなくてもいいと豪語する人がいる。それは20%くらいは現実に当てはまると言えるけれど、それでも英会話ができるようになる仕組みを8割くらいは理解できていないアドバイスだ。だからこそ、そういう文法を無視した些末で下らない英会話の「ヒント」だの「コツ」だのを何百といった YouTube のビデオを配信している人々がいて、それを飽きもせず熱心に眺めている人々がいるのに、そういう人々は何年もそういうビデオを見続ける羽目になる。あるいは世の中には数多くの英会話学校や英会話のフレーズを集めた本が出回っていて、そもそも他人と話すということの本来の目的や動機とは関係のないフレーズだとか熟語だとかを、それこそ様式美のように延々と教えているだけなのである。そんなことを百年やっても、話せるようになるわけがない。実際、日本はこういうことを戦後から50年以上は続けているけれど、殆ど進展がないと言える。

そして、自然と英語が話せるようになっているのは、皮肉にも英会話の学校や教材なんて使っていない若者たちが、海外サービスの MMORPG とかで必要に迫られて相手とチャットせざるをえないとか、興味のあるプログラミング言語の情報を得るために StackOverflow で英語を使わないといけないとか、そういう事情で英語を自ら使っているような状況が大きなチャンスになっている。それに比べて、同じ若者でも日本で提供されているだけのスマホゲームにハマってるだけとか、あるいは日本で発売されているクズみたいな翻訳とかプログラミング言語の本だけを読んでプログラムを書いているような若者も多い。そして、そういう人たちは、いざ英語を使う必要に迫られても、これまでの「英語ペラペラ」という幻想を追いかけてきた老人たちと同じく、英検2級すらとっていないのに映画を見まくったり CNN のポッドキャストを聴いているうちに話せるようになるだろうという錯覚に陥るわけである。普段から英語やフランス語のポッドキャストを聴いているから言えるが、そんなことは断じてありえない。聞いてるだけで覚えるなんて魔術は、それこそ石川遼君が宣伝していたインチキ教材みたいなもので、ありえないのだ。

ふだんから相手に何か言おうという習慣だとか動機や理由がある人なら、往来で出会った相手に向かって “Hello! How are you today?” などと、役人が作った手順書みたいな一式を覚えていなかったとしても、せめて “Hi!” や “’Morning” くらいは言おうとするはずだ(先頭のアポストロフィに注意。これは “Good morning” のかなり砕けた省略形で、このように “Good” すら省略して “morning” という単語しか喋っていない人もいるが、表記するときはアポストロフィを先頭に付ける)。こういう人は何かを言うことが優先だから話すのであって、いう「べき」ことを単語から文法から準備しなくてはいけないなんてことは思っていない。相手に向かって挨拶することが目的であって、英作文や英会話が目的ではないからだ。でも、何か特に言うことがないとか言葉を発する動機がないという人が、単語を何万覚えていても無駄であろう。それを使う、つまり自分の意思表示として誰かに発するという動機がないのだから。

よって、会話だけ教える学校は日本に多いし、上記のように英会話の秘訣なんてことを延々と自分勝手に喋ってる英語の話者も多いのだが、ご承知のように彼らのように何が大切なのかを理解していない人がどう説明しようと、それは英語を使う事情があって使っているにすぎない無自覚な人からのアドバイスでしかないので、彼ら自身にとってはまことにもっともなことなのだが、そういう事情や動機がない多くの人にとっては効果が低い。僕も中学時代に数ヵ月のコースで20万円くらいかかる英会話学校へ行かされたことがあるけれど、喋る状況を用意されている教室で「ガイジン」と英語で喋るようになっても(残念ながら、或る程度は話せる段階で行ったため、数ヵ月ていどでは殆ど上達しなかった)、それは本当に英語で話したり書く必要がある生活や趣味や仕事とは関係がないのである。いわば、英会話という芝居を演じているに過ぎないからだ。

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続々と復刊される英文法の「名著」について

2023年10月27日に初出の投稿」という Notes を元にした内容です(そのまま同じではありません)。

本日は経営会議を全員で本社へ集まって実施したので、朝から出社していた。昼にジュンク堂の大阪本店へ足を向けて、英語の参考書や辞書の棚を眺めていると、「名著」だの「700万人に教えた」だのと色々なキャッチ・フレーズが付いた英文法の分厚い参考書が何冊も新刊で並んでいる。

出版社には、いい加減にしろと言いたい。その理由はこうだ。

それだけ「名著」が数多くありながら、なんで日本人の大半は昔からまともに英語を読み書きできないのか。それらの本が良く出来た文法書であることは否定しないが、しかし恐らくその理由は、それら「名著」の文法書を色々と読み漁っていたのは、しょせん一部の英語好きや英語の教師だからだろう。莫大な人数の生徒がそれだけの色々な名著を手にして、丁寧に読み続けて、そして「名著」だと評価できるほど英語を習得していたとは、とうてい思えない。大半の人は、そんなもの一冊たりとも読んではいないのだ。いまでこそ大学進学率は7割に達するが、僕らが高校生の頃だと半数近くは高卒で就職していた。もちろん、その中にも英語を丁寧に勉強する人はいたと思うし、大学へ進学する生徒の中には英語の勉強を殆どしない人だっていたとは思うが、だいたいにおいて半数の高校生は、こうした「名著」と呼ばれる参考書なんて書店で手に取ったことすらないと思う(ちなみに「いけないことだ」などとは言っていないし、嘲笑する意図もない。我が国の最高学府である国公立大学の大学院博士課程で、主に英語で書かれた文献で学んだり研究した人間として言うが、英語を学ぶ責任や義務なんて誰にもない。一部のネイティブや方言を使うアメリカ人は英語を話せないし、移民の多くも読み書きできないが、だからといって当局から訴えられたりはせずにアメリカで暮らしている。つまり、アメリカで暮らしているという意味での「アメリカ人」にすら、英語を学ぶ義務なんてないのだ)。

それに、ここ数年で続々と復刊されている「名著」の文法書は、そもそも絶版だったものが殆どだ。ということは、つまるところ売れていなかったということであって、大半の受験生には支持されていなかった証拠ではないのか。実際、昔から多くの生徒に読まれていて売れていた原仙作氏の『英文標準問題精講』(旺文社)なんて、初版が出てから100年近く、現在の内容とほぼ同じに改定されてからでも60年以上が経過するのに、まだ現在も多くの受験生が手に取っている。高水準で詳しい内容であるにも関わらず、ハンディな判型で本体価格も1,000円を切っているという、これこそ「名著」というものであろう。それに比べて、ここ最近になって続々と復刊されたり、ちくま文芸文庫からわざわざ分厚く高額な文庫本として再刊されたりしている英文法の「名著」なんていうキャッチフレーズには実質が伴っていない。要は、英語が得意か好きで何冊も参考書を読み漁った英文学者や作家のノルタルジーにすぎない。

国公立大学の博士課程に進学したり、英語で書かれた書籍やウェブ・ページを読んでシステム開発や情報セキュリティ・マネジメントに携わってきた実務家ないしプロとして、ささやかな実績や才能の限りで言わせてもらえるなら(とはいえ、その「ささやかな」程度ですら、大半の技術者やサラリーマンを遥かに凌駕しているがね)、こういう体系的な参考書というものは、英文法だろうと積分学だろうと科学哲学だろうと、書店で眺めてみて良さそうだと思えたものを一冊だけ購入して、分かろうと分かるまいと、あるいは分かり易かろうと難しかろうと、なんであれ一度は問答する余地なく通読するというトレーニングを自分に課さなくてはいけない。学問の研究実務だろうと勉強だろうと、或る意味ではスポーツと同じであって、一定の訓練や鍛錬を要するからだ。こんなものは、たとえ天才的な才能が生まれたときからある gifted のような人であっても、気楽にやりたいことだけやっていて実績など出せるわけがない(いわゆる「神童」の多くが成長すると全く業績を出せなくなるのは、仕事になったとたんにやる気がなくなるからだ。よって成長しても業績を残しているのは、良い悪いはともかくとして、たいてい大金持ちの子息である)。そうして、分からなかったことや、分かりにくかったところを覚えておいて、再び書店で別の参考書がどう説明しているかを比較してみるとよい。たぶん、その分かりにくいと感じたことを他の参考書が丁寧あるいは的確に説明していようと、今度はその別の参考書には違うところで分かりにくい内容や不十分な記述がある筈だ。要は、いかに体系書であろうと、扱う範囲だとか説明の充実さという点で exhaustive であるような遺漏のない著作物などありえないのである。なぜなら、文法もまた時代によって変化したり進展するし、同じ言語でも使われている地域や国によって違う(そして収録するべき多様性として)特徴をもつからだ。要するに、どれか一冊にコミットして精読することから始めるしかないのである。そして、実はあれこれと浅く読み重ねるよりも、一冊を精読して身につける方が実力がつくのに、中途半端な英語おたくは色々な文法書に手を出して、結局は英語が生活なり生き方の道具として身につかない。そもそも、みなさんは英語の文法書をたくさん読んだ偉い人になりたくて英語の勉強をするんですかという本質的なところを straightforward に考えるべきなのだ。そうするだけで、何冊もあれこれと文法書を読むなどという暇潰しに時間やお金を使うくらいなら、評価の高い一冊を精読する方が効果的であると思い知るだろう。

同じ本が簡単に手に入る保証はないので、僕の昔の経験だけでは情報として不足があろうと思うが、僕は中学生の頃に塾で高校生用の参考書である『マスタリー 高校新総合英語』(長谷川 潔/編、3訂版、桐原書店、1983)を勧められた。これは、いまでも標準的なレベルの勉強をしたいという高校生までには勧められる。現在は手に入らないと思うが、これを元にして桐原書店から後続の参考書が出版されていると思う。なので、復刊などしてもらう必要はないし、同じものをいま古本で求めるべきだとも思わない。それから、社会人や大学生が使うのであれば、それこそ最近は色々な参考書が出ているし、いわゆる英語教育が準拠している文法の用語とか事項とは異なる「実践」とか「実用」といった切り口で解説しているものも増えているので、たぶん大型書店で目移りする方も多いだろう。しかし、既に述べた通り、どれか一つに決めたら丁寧に精読することだ。あれこれと読み比べる暇もなければ、どちらが正しいかを判定する英語力なんて学習している途中の者にはないからだ。仮に、何か間違いや中途半端な解説を覚えこんだとしても、そんな英語を学びたての人間に条約交渉とか海外企業との契約を任せるなんてことはありえないので(僕なら、TOEIC 満点とか英検1級ていどの実績しか無い人間にそんな重大な仕事を任せたりはしない。ちょうど、東大へ入学したばかりの学生に学術誌の編集委員を任せたり博士論文の主査を任せたりしないのと同じことである)、失敗しても影響は軽微であろうから修正すればいいだけである。ということで、『徹底例解ロイヤル英文法』(綿貫 陽/著、改訂新版、旺文社、2000)とか、『英文法解説』(江川泰一郎/著、改訂三版、金子書房、1991)などのロング・セラーとなっている参考書をお勧めする。

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英単語集を買わなくても英和辞典を使えばいい

2024年02月03日に初出の投稿」という Notes を元にした内容です(そのまま同じではありません)。

以前も書いた話だから繰り返しになるが、世の中に出回っている「英単語集」と呼ばれる本の大半は、実は或る条件を決めて英語の勉強を始める人には全く買う必要がない。その条件とは、少なくともアメリカの大学生ていどの語彙をもちたいという目標をもつことだ。言い換えると、アメリカの大学もしくは大学院へ留学して学ぶていどの語彙を身につける必要がある方であれば、多くてもたかだか数千の単語しか掲載されていない英単語集なんて、何冊買おうと重複が多いばかりで非効率な勉強しかできない。そんなものを何冊も買うくらいなら、まずは中高生が学習用に使う英和辞典を買って、それに掲載されている単語を全て覚えてしまうくらいのつもりで勉強する方がいいのだ。

こういう学習用の英和辞典は、どの出版社から出ているものでも、おおよそ5万前後のエントリーで作られている。そして、だいたいアメリカの大学生の語彙数が4万くらいだと言われているので、簡単に言えば学習用の英和辞典を叩き込めば同じレベルの語彙になるというわけである。もちろん、現地の人々は現地で生活しているなりの特別な語彙を身に着けているので、その実状は人によって違っている。方言、スラング、生まれ育ったときに流行していたテレビ番組やコマーシャルのフレーズ、セレブの有名な発言、それから地元の仲間や家族にだけ通じるような、スラングとすら言えない合言葉のようなものは、その大半が日本で発売されている辞書には掲載されない(いや、もちろん Merriam-Webster にすら掲載されない可能性も高い)ので、辞書的なエントリーとして5万の語彙があるとしても理解不能な言い回しはたくさんあるだろう。でも、同じアメリカ人であっても他人のプライベートな言い回しや方言なんてみんな分かるはずがないのだし、これだけの語彙があれば少なくともスタンダードな語彙もない人として扱われずに済むわけである。日本でも、青森弁は分からなくても、青森の人が標準語で話してくれさえすれば何が言いたいのかは分かる人が大半だろう。彼らが標準語を使ったとしても言っていることが分からないというのでは、その人はそもそも日本語としての基本的な語彙がないと見做される。 ということで、英和辞典に掲載されている単語や用法を全て覚えるという単純な目標を設定すればいいなら、他に英単語集なんて買う必要はない。すると、ありえる反論として次のようなものがあるだろう。

よって、これらは文字通り辞書的な英和辞典よりも優れているというのである。しかし、僕はこれら三つの点にはそれぞれ再反論できる。要は英和辞典であろうと使い方しだいで幾らでも活用できるのであって、これらの諸点で標準的な使い方の英和辞典よりも英単語集にアドバンテージがあるとしても、この程度のことは幾らでもリカバリーできるからだ。

まず (1) の、英単語集はコーパスを利用しているから英和辞典よりも優れているという点を考えてみよう。もちろん、特にネットで数多くの用例をデータとして蓄積できるようになった今世紀では、英和辞典もコーパスは利用している。しかし、英単語集は最新のコーパスから最新の結果を利用しているのに比べて、英和辞典は制作なり改定に数年の期間がかかるため、収録する語彙を決定したのが5年前であれば、出版されるまでのあいだに5年という月日が経過してしまう。よって、英和辞典の制作工程がおおむねどこの出版社でもこういうものであれば、英和辞典は常に5年ほど古いコーパスを使っていることになる。これは英単語集と比べて明白な欠点ではないのか・・・

しかし、僕はこういう議論には基本的に幾つかの欠陥あるいは思い込みがあると思う。まず、データベースとしてのコーパスが充実すれば、それに越したことはないという点は認める。集める語彙や用法がくだらない言葉や砕けた用法ばかりであろうと、そこで良し悪しを最初から挟むのは悪しきアカデミズムというものであろう。日本語でも、そのへんでお喋りしている若造や X でヘイトをばら撒いているジジイどもの馬鹿げた言葉遣いばかりデータとして蓄積されていくのは由々しき事かもしれないし、そんなことで充実したコーパスを基準に日本語の辞書など作られては困るかもしれないが、それが「良い辞書」であるかどうかを決めるのは、日本語学者ではなく僕ら自身だ。僕は日頃から権威主義を支持しているが、こういうことにまで無闇に権威を押し付けるつもりはない。僕が当サイトで紹介している「名詞化した動詞連用形の独立的用法」(「試み」とか「ふれあい」とか「気づき」なんていう、薄気味悪い表現)とか「~というかたちで」とか「本格的」とか「関係性」とか「言説」とか、あるいは NHK のアナウンサーが1日に1回は呪文のように口にする「浮き彫り」という言葉遣いが嫌いなのは、個人として不愉快だからであり、日本語の辞書から放逐せよと言いたいわけではない。ともあれ、コーパスにどういう言葉が蓄積されていってもいいわけだが、常に最新のコーパスを利用することが最善の辞書を作るための必要条件であるかと言われれば、それは別の話である。僕は、新しい言葉ほど、新しく使われているその状況での使われ方で学び習得するべきであって、そもそもいま流行している言葉や表現方法を辞書へただちに掲載して学べた方がいいなんて期待するのは間違っていると思う。辞書で学んで習得する言葉というものは、常に一定の期間において使われたという実績がある言葉や表現だけを対象にしているのであって、わずか数週間ほどアメリカのどこかで話題になったというだけの言い回しを、何か新しい表現だからというだけの理由で辞書に収録する「べき」だとは思わない。そして、英単語集の制作であっても必ず時間がかかる以上、仮に最新のコーパスを利用する方が良いという前提を認めたとしても、本当に最新の流行語なんて英単語集であっても収録できないのである。たとえそういうもののウェブ版があるとしても、エントリーされるまでに一定の時間は必要だろう。掲載するという実務にかかる作業としても時間がかかるし、そもそも或る新しい表現が一般に共有するだけの価値や意味があるものなのか、それとも個人の言い間違いや勝手な解釈による派生的な用法なり誤用なのかも見定める必要がある。すると、ウェブ版であろうと或る個人が新しい言い回しを X で使ったとしても、それが数時間後にはオンラインの辞書に掲載されるなんてことが良い辞書の条件であると考えることが迂闊や軽率であることが分かるだろう。

次に (2) は、書店で自然科学系の専門用語だけを集めた英単語集なんてものがあるのを見たことがあるという人もいるだろう。分野別に独特な言い回しや単語を集めた英単語集というものが色々と発売されていて、それこそ我々のような企業人であれば、学習英和辞典には掲載されていない(実際、僕が持っている『ニュースクール英和辞典』には掲載されていない)"rollover"(ファイナンス分野では「短期借入金の借り換え」という意味)のような単語を知っていなくてはならない。なので、英和辞典で5万の語彙を身に着けたとしても、それは5万の言葉を知っている子供が出来上がるにすぎない。実際に僕らが仕事や生活で使っている表現というものは、それらを分野とか用途に応じて組み合わせたり使い分けることで必要な意味合いをもつのであり、辞書的な単語をたくさん知っているというだけでは実生活の役に立つとは限らないのである・・・

この反論には、僕がいま自分で自分に向かって反論を組み立てながらでも感じたように、なるほど説得力がある。しかしこのような反論は英語の表現を英和辞典と英単語集のどちらかだけで習得するという条件があって始めて成立するのであり、僕には比較の条件が不当に思える。たとえば、ビジネス用語の英単語集には “market value”(市場価値)という表現が出ていて、仮に英和辞典には出ていないとしよう(実は出ているのだが、仮にないものとする)。すると、英和辞典を使っている人は “market” と “value” という二つの単語を個別に覚えることになるため、“market value” と言われてもビジネス用語としての「市場(での)価値」だと理解できるとは限らない。もしかすると、「市場というシステムにどれだけの重要性があるか」という意味だと勘違いするかもしれない。でも、だからといって中高生にいきなりビジネス用語の英単語集を使うように薦めるべきだろうか。僕らは “market” と “value” という単語をどちらも既に知っているうえで「市場価値」という言葉の意味も分かっているからこそ、それを英語で “market value” と言うのだと覚えるのであろう。すると、そんな英単語集を使うよりも、たとえ “market” や “value” しか乗っていなくても、そちらを先に学ぶべきであることは言うまでもないはずである。

もちろん、更に再反論する人はいるだろう。たとえば、幼児の言語モデルが最強だ説を頑なに信奉している愚かな人々がそうだ。彼らによると、幼児はフレーズを塊で習得するのだから、“market value” という表現の個々の単語を分割して覚えなくても、「まーけっとばりゅー」という塊で市場価値のことだと理解すればいいのであって、「まーけっとばりゅー」が「まーけっと」と「ばりゅー」に分割できるなんてことは後からでもいいというわけだ。でも、残念ながら僕はこの手の議論をぜんぜん信じていない。なぜなら、こんなことは幼児のように必要最低限のフレーズだけで生きていられる時期にしか通用しないからだ。僕は「まま」とか「くそじいい」みたいな単語しか覚えて発声する必要がない幼児が「まーけっとばりゅー」なんて発生しないと生存の危機に陥るなんて思っていない。よって、幼児にそんなフレーズを習得するインセンティブはないのであり、実際に幼児がそんな表現を記憶したとしても、自分で意味のある脈絡で的確に発音などしないであろう。そういう表現は、その表現を発音して意味のある脈絡に自分が置かれていたり、そういう表現を発して意味がある状況が必要なのである。僕ら大人はそういう状況に置かれているからこそ、いきなり “market value” という表現を(さきほど述べたように、“market” と “value” を既に知っているという前提で)学んでもいいわけだが、幼児にそんな表現を塊として記憶させようと、それは学習ではない。そんなことを外形的に発音できるていどの理由で「学習」などと呼んでいいのは、生物学者だけであり、教育者や親が自分の子供や自分の生徒に対して使うのは錯覚であり過大評価である。

そして最後の (3) 、つまり英単語集は単語の並べ方がカテゴライズされていて工夫されているという点は、英和辞典をそのまま使って「a」から順番に覚えるなんていうパワー・プレイをやるというなら反論にも道理があるけれど、それは英単語集の編集と同じく英和辞典の利用方法を工夫すればどうにでもなる。まず単語がアルファベット順に並んでいると、並んでいる順番で記憶してしまうので、適切な記憶の仕方にならないという反論が考えられる。でも、同じことは英単語集でも言えるのだ。たとえ英単語集が単語をアルファベット順に並べていないとしても、「この単語の次の単語はこういう意味だった」なんていう具合に、順番だけで「答え」を覚えてしまうというリスクは、どういう英単語集でも抱えているのである。それゆえ、単語がランダムに出てきてもちゃんと答えられるようにするには、辞書だろうと英単語集だろうと、自分で単語カードなどに書き出してから、一定の頻度でカードをシャフルして並べ替えるといったことをやらないといけない。実際、僕は神戸大学の博士課程を受験したときにドイツ語の単語を単語カードに書き出して数日ごとにシャフルして覚えなおすということをやって、受験するまでのあいだ2ヶ月だけ働いていた鉄工所で作業の合間に単語カードを使って1,500語くらいを覚えたことがある。単語カードを合計で30束くらい使うので、最後は数千枚のカードをシャフルするなんて並べ直すだけでも時間がかかるから、せいぜいカード5束ぶんくらいをシャフルするていどにしたが、それくらいでもしっかり習得できる。まじめに勉強するなら、何を使おうとこういうことはやるべきであろう。

ニュースクール英和辞典

ということで、それを実行してみて何か成果があればお知らせしよう。昨日、久しぶりに出社したときにジュンク堂で物色していると、学習用の英和辞典は文字が大きくて老眼でも十分に読めることに気づいたのだが、ついでにここで説明しているような活用方法も思い出したので、これを手に入れて実際に英単語の(もちろん僕にとっては大半の単語が復習なのだが)学習に使ってみようというわけである。もちろん中高生が使う学習用の英和辞典は多くの出版社から色々なものが出ている。僕自身が中学生だった頃は、初版が出たばかりの『プログレッシブ英和中辞典』(初版、小学館、1980)を使ったり、あるいは Longman Contemporary Dictionary of English を使ったり、いやそれどころかシャープの電子辞書すら使う小生意気なガキだったわけだが、もちろんそれは「悪い権威主義」の見本でもある。学習用の英和辞典でも用途に応じていくらでも活用の仕方はあるわけで、『プログレッシブ』が悪いと言いたいわけでもないし、あるいは中学生が使わなくてもいいと言いたいわけでもないが、語彙が単に多いとか、あるいは英英辞典だというだけで闇雲に学習用の英和辞典よりも「良い」辞書であると思い込むのは愚かである。ということで、いまは学習用の英和辞典も色々とあるし、正直に言うと語彙の差もないのだから、紙面の見やすさとか語釈など、眺めてみて使いやすそうだと思ったものを使えばいいと思う。

利用の仕方は、もちろん知らなかった単語を手当たり次第にメモ帳へ書き出すというのでもいいし、逆に知ってる単語を塗りつぶしていくのでもいい。こういうものは道具として徹底的に活用するのが望ましくて、後から古本屋に売却するときの査定価格を気にして綺麗に使おうなんて決して思わないことだ。漫画や小説のエピソードみたいに、覚えたページを丸めて飲み込むなんて馬鹿なことは真似しなくてもいいが、それくらいの気合を入れて取り組むべきである。僕は松本道弘氏のような人々が語る「英語道」のようなコンセプトは原則として時代錯誤だと思うけれど、そのマインド・セットには学ぶべきところがあると思う。言葉は、やはり昔から密入国者や商売人が生きていくための手段でもあったわけで、駆け引きで言葉の選択を間違えると殺されるリスクがあったくらい言葉の扱いには慎重さが求められることもあった。「コミュニケーション」などと、外国語の習得を退職後の道楽や暇潰しの一種としてしか見做していない都内の金持ち小僧や上場企業のサラリーマンや官僚なんて気楽な連中に、本当の意味で言葉の運用なんてできないのである。

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YouTube によくいるタイプ

Hina 卍TOEIC満点卍
https://www.youtube.com/watch?v=_zY-cU2iCbY(リンクしない)

英語の勉強というと、YouTube によくいるのが上のようなタイプの人だ。まず、いきなり冒頭で下手な発音で “It is said there are 47,000 English words.” などと言っているが、もちろんこんなことはジュンク堂くらいの書店が近くにあって確かめられるなら子供でも嘘だと分かる。たとえば、僕の手元にある Merriam-Webster's Advanced LEARNER'S English Dictionary の表紙には、“100,000 words & phrases defined” と印刷してあるわけだよ。それから Oxford University Press から出ている Oxford English Dictionary という20巻の古典的な大辞典には、約30万の言葉が収録されている。次に、“And the average native speaker probably knows 15,000 to 20,000.” というのも、いったいどういう統計から言ってるのかもわからないけど、英語学、社会言語学の常識的な統計結果と比較すれば、半分くらい少ない数字をわざと言ってるように思う。たとえば、いまどき Gemini のような生成 AI に質問しても、だいたい2万から4万くらいというのが答えになるし、実際にそうだろうと思う。つまり、このねーチャンは「少ない語彙で英会話できる」というミスリードの伏線を張るために、こういうデタラメを言ってるわけで、こういうことを丁寧に、つまり自分自身でちゃんと調べてみるということをしないバカを相手に YouTube で金儲けしようってわけだよね。YouTube には、こういうクズ野郎がたくさんいるんだけど、まぁ当サイトにアクセスしてるような人は騙されないだろう。

それから、ここで何度も書いているように、語彙が多ければいいというものでもないのは確かだが、しかしだからといって少ない語彙でいいなんていうことを言ってる人は信用しないほうがいい。100個の単語で会話するというのは、要するに子どもの語彙で大人に相手してもらうという甘えた発想でしかなく、このビデオのねーちゃんのように、ちやほやしてくれるスケベな外人相手ならそれで会話なり「なんなり」が成立するからいいんだろうけど、普通の人間はそんなわけにはいかないのだ。「おじちゃん、これからいっしょに、ぼくのかいちゃにとうしできるかどうか、いっしょにおはなししてくれる?」などとアメリカの銀行の投資部門にメールを書いて、まともに取り合ってもらえると思う日本の起業家がいるなら、俺がぶん殴ってやるから連れてこいという話だ。

余談だけど、上の段落で「下手な発音で」と書いた理由を説明しておこう。このねーちゃんの発音が実は大して上手くないのは、もちろんネイティブの発音をたくさん聴いてる人は誰でも分かってると思うけど、要するに「英語発音のカラオケ」になってるからなんだよな。英語の発音っぽく聞こえるだけのカタカナ発音でしかないんだよ。こういうのはね、いまだとラップとかやってる人にもいるんだけど、それらしく抑揚をつけたりすると英語っぽく聞こえるんだよね。でも、ラップにしてもカタカナで歌ってるだけだったりする。実際、日本語で喋ってるときの口の使い方と英語で喋ってるときの口の使い方(音の聞こえ方)がまるで同じなんだよ。だから、英語っぽく聞こえるように発音してるだけの日本人だと分かる。“a lot of” を「アロロオヴ」と(英語として発音できなくても)言うだけで英語みたいに聞こえるんだけど、ネイティヴあるいは普通の英語の会話を見聞きしてる僕らは、そんな「コスプレ英語」に騙されたりしない。

あと、これも余談というかクリティカル・シンキングの授業みたいな話になってしまうけど、この手の(無自覚な詐欺師というか)YouTuber というのは、とにかくミスリードなことを色々と書いたり喋ったりするんだよね。昔なら、営業とかで成績がいい人というのは、もう生まれついてのコールド・リーディングの天才みたいな人なんだよね。息を吐くように嘘をつくとか、もちろんアスペルガーというれっきとした原因があってやってしまう人もいるわけだけど、性格として悪意がなかろうと適当なことを取り繕って言っちゃう人っているんだよね。でまた、これまではそういう人を「かわいい女の人」みたいに描く文学とかマンガとか演劇とか、そういう馬鹿げた風習があったわけだ。なので、必ずしも悪意や下心があるとは限らないのだけど、逆に言えばそういう人は策略がないので引き際を知らないんだよね。悪意がある人は線引ができるから逃げられるんだけど、無自覚な人は逃げようがないので、観てる側はずっと同じところで向上できずにグルグルとミスリードな話に振り回されるわけ。それはお互いに不幸だと思うので、こうやって指摘したりもできるんだけど、もちろん彼女のような英語を話せるというだけの凡人(別に英語が扱えるからといって、東大の博士号を取ったとか、二十代で外資系企業の部長やってますとか、そういう社会的な地位とか何かの実績とかはないわけでしょ)に、僕らのような英語もできて社会的な地位もそれなりにあって、そして国公立大学の博士課程まで進学したというステージの人間が、わざわざスライム相手にイオナズンをぶっ放すようなことを書いてもしょうがないってところはあるんだよね。でも、僕は社会科学の素養もある哲学者として思うのだけど、こういう些細な凡人の罪がない嘘や愚劣な話を放置することで、その膨大な積み重ねが結局は大きな問題になってどうにも対処が難しくなると思ってるんだよね。一人や数人の悪い人が世の中を駄目にするわけじゃないんだよ。そういう、悪い意味での「マンガ的な」国家や世界や社会の理解は、やはり中学を卒業するときに一緒に卒業しようよって言いたい。

ということなので、ここの事例で言っておくと、このねーちゃんは何の証拠があるのか知らんけどユーザ名にも「Hina 卍TOEIC満点卍」とか書いてるよね。すると、動画を観る人の多くは動画で説明してる方法とか手順を実行すれば「TOEIC満点」が取れるんじゃないかと勘違いするんだよね。でも、冷静に考えたら子供でも分かる話だけど、単語を100個しか知らない人が TOEIC で満点なんて取れるわけがないんだよ。仮に彼女が TOEIC で満点を取ったとしても、それは動画の内容とは関係ないんだよね。こういう、因果関係を錯覚させるようなミスリードというのは、僕らも電通を株主にしてるウェブ制作会社の人間なので、情報を発信して(あまり褒められたことではないが)ミスリードする側にもなったりするから熟知しているわけ。なので、こういうのも簡単には騙されないようにしよう。

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英会話スクールに行くべき人は、そもそも会話教室に行ったほうがよい

2024年7月6日に初出の投稿」という Notes を元にした内容です(そのまま同じではありません)。

「英語はネイティヴに習ったほうがいい」とは限らない…英会話スクールの謳い文句にダマされてはいけない理由
「英語はネイティヴに習ったほうがいい」とは限らない…英会話スクールの謳い文句にダマされてはいけない理由

上の記事は著書からの抜粋であり、実質的には sponsored article という広告記事の類だが、半分くらいはまともなことが書かれている。注意は必要だが一読はお勧めできる。

まず、英会話学校のキャッチ・フレーズとして「講師はすべてネイティブ・スピーカー」などと書いているのには注意が必要であり、わずか数日の研修だけで講師となるゴロツキみたいなアメリカ人も多いという。本来、母国語を外国人に教えるのも専門的なスキルというものがあって、現に日本語についても資格がある。実際にみなさんが日本語を外国人に教える必要があるとして、みなさんは日本語の文法を正しく伝えられるだろうか。英語で。それから、日本で生活したり特定の職業に就いたりするのに必要な業界知識の語彙は十分にあるだろうか。英語で日本の制度や施設や習慣をどう英語で表現するかについてという、かなり特殊な知識が必要だ。すると、YouTube で「英語ペラペラ」だの「100語で伝わる」などと言っている人物の大半が、そんな教育スキルもなければ、英語どころか日本語としての一般教養もない人間であることが分かる。つまり、イージーに英語を習得できると宣伝している人々は、その人が言いたいことを英語で言えるというだけにすぎず、そもそも他人にものを教える資格などないのである。

僕は、中学時代に数週間ほど実際に通った経験から、そもそも「英会話学校」というものに通うことはお勧めしないが、ともかく行くのであれば、その「ネイティブ・スピーカー」とやらが ESL (English as Second Language) の教授法を学んだ学位を持っているかどうかくらいは最低限の条件として求めるべきである。アメリカ人やオーストラリア人だからといって、その「凡人ぐあい」なんてものは日本の君ら凡人と変わらないのであって、イギリスで生まれ育ったからといって英語を分かっているとは限らないのだ。

ということで、この記事の前半には同意できる。しかし後半には同意できない。その後半部分には困ったことも書いてあるからだ。

英語を専門としているはずの学者のくせにどうしてこういうミスリードなことを書いているのか、何か別の思惑があるのかと疑わざるをえない。とにかく言えることとして、「映画や会話などの話し言葉は6000~7000語程度、小説・新聞などの書き言葉は8000~9000語程度を知っていれば理解できます」などと平気で書くような記事を信じ込んで、たかだか1万ていどの語彙だけでアメリカで生活できるなどとは思わないことだ。どうも日本には、語彙に関して過小評価しないと英語を学ぼうとする意欲をくじいてしまうと心配したり思い込んでいる人が大学にも多いらしく、わずかこれだけの語彙で話せる、暮らせるなどと書く人が非常に多い。でも、それは言葉の使われ方という意味での英語の実態を正確に説明していないという理由で、インチキに近い説明だと言える。

“The freighter is now spending time in the hole.”

これを中学で習う単語の意味だけで訳せるだろうか。“freight” は「荷物」、“hole” は「穴」だということは知っていると思うが、そんな単語帳的な理解だけでは訳せない。訳せないということは、この表現を文法としては分かっていても理解してはいないということなので、相手からこう言われてもあなたは「意味が分からない」とか「他の言い方で説明してくれ」などと言う以外に答えようがなくなる。どうしてそのようなことになるかというと、“freight” には「貨物」という意味もあり、したがって “freighter” が「貨物列車」とか「運搬車」であることが分からないからだ。そして、“in,” “the,” “hole” という三つの単語を「~に」「それ」「穴」などと辞書的に語彙として知ってはいても、“in the hole” が「(鉄道の)待避線」や「(車道の)待避レーン」であることを知らないからである。こういうことは、いくら単語を語彙としてバラバラに知っていても、決して簡単な類推だけではわからないことであり、単語の一式が使われる状況に応じたコロケーションだとか前後の脈絡とかで習得してゆく他にない。そして、ネイティブが英語を使えるという意味は、こういう経験を積むということでもある。

「わずかこれだけの語彙で話せる」などということを言う人の多くは、いや殆どと言ってもいいが、そうした人々は、こういうイディオム(単語の一式で特別な意味をもつ表現。いわゆる熟語)や句動詞(動詞と前置詞などの組み合わせで特別な意味をもつ表現)や慣用句(映画や大統領演説などの有名なフレーズを元にした、たいていは口語体で使うイディオムの一種)が英語には非常にたくさんあることを軽視しているか無視している。しかも、それらイディオムや慣用句は、性別、地域、社会階層、出自(黒人とアイリッシュ系白人など)、信仰などの事情で、人によって知っている範囲がかなり違ったり、意味合いが違っていたりする。これに加えて、アメリカでは専門用語のための単語というものはラテン語を除けば非常に少ない。どちらかと言えば、多くの人が日常生活で使う単語をイディオムのように組み合わせて用語として使っている場合も多々あり、その分野の知識がないと意味を取り違えることもある。たとえば、僕が専攻している科学哲学では “screen off”(統計的関連性の「遮断」)とか “supervene on”(或る性質に「付随する」。普通の英語だと、逆に「監督する」という意味になる)などという表現がある。

そして最後に、さきほど英会話学校はお勧めしないと書いたので、少し補足しておく。僕は中学生の頃に、確か Osaka Metro の肥後橋駅付近の英会話学校に数週間ほど通ったことがある。当時の金額で30万円ほどの学費だったが、半分も行かずに辞めて親が運営会社と話し合って幾らか減額してもらったという。どうして辞めたかというと、もちろん何週間も通っていて大した効果がないと思ったからだ。せいぜい週に1度か2度、1回で1時間くらいのセッションしかなくて、教材はあるが実質は教員の外国人と世間話をしていただけであったからだ。既に校内では、高松宮杯英語弁論大会へ出たりした後に東大から外務省へ進んでマッキンゼーへ転身した後、いまは色々な会社の役員をやっている W 君という同級生と肩を並べるていどには英語の運用ができたため、その英会話学校では発音も殆ど修正されなかったし、教員に合わせてもらっている自覚はあったが、さほど相手の話していることが難しいという印象もなかった。これでは、嫌な言い方だが、「英語ができる」ことを再確認しているだけであって、勉強にならない。

そして調べてみると、海外の非英語圏には「英会話学校」というものがないことに気づいた。考えてみると分かることだと思うが、

これらは違うことなのである。そして、海外の多くの国で英語を学ぶ人たちは、そもそも英語で会話するかどうか以前に、他人と会話するということにスキルなど必要ないのである。本来、これは日本人であろうと同じだ。みなさんは、起床して親や子供に向かって挨拶するときに、挨拶するべきかどうかで悩んだり(前日に喧嘩した場合はともかく)、そもそも挨拶する必要があるのかどうか考えたりしないだろう。同じく、外国語というか外国人に対して、英語でだろうとエチオピア語でだろうとノルウェー語でだろうと、挨拶するべきかどうか悩んだりもしない。もちろん、その必要もないのに挨拶なんてしない。つまり、日本でことほどさように英語教育が熱心に公的機関でも実施されているのに、殆どの日本人が英語を使えないのは、言ってみれば当たり前のことなのであって、英語で話したり書く必要がないから習得しないだけのことであって、何も恥じるようなことではないのだ。これを、やれ「国際人」だの「英語は共通言語」だのと言っているのは、要するに英語教育で食っている連中のプロパガンダである。もちろん、だからといって日本語だけで生活していればよいというわけでもないし、外国語を学ぶことには多くの利点があるわけで、しょせん言語というものは何であれ物事を理解したり考えるツールとして不完全で偏っているのだから限界があり、それを知るためにも外国語を習得するのは一般論としても良いことだと思う。したがって、僕はここでナショナリズムを語っているわけではない。だが、そのためにとりわけ英語が良いなどと言うべき理由はない。英語は教材が多いので簡単に始められるわけだが、どういう言語を学ぼうとするかは個々人の必要に応じて決まるのであり(もちろん広東語でもいいしズールー語でもいい)、われわれは「国際人」などという、僕に言わせればどこにも(国連にすら)存在しない、奇妙なロール・モデルを目指す必要など無いのである。

そして次に、とりわけ英語で相手と会話するということを、何か特別に教えてもらわなくてはならないスキルのようなものとして前提にしているのが日本の実態なのだが、これは国際的な常識に照らすと異様なことである。海外の大半の非英語圏では、いや英語圏でもフランス語やドイツ語を学ぶにあたっては、誰も「ドイツ会話学校」なんて通わないし、そんなものがアメリカに殆どないことは調べれば分かる。確かに、口語というものがあるため、書き言葉とは異なる運用が必要だという知識は学ぶ必要があっても、それはネイティブ・スピーカーを前にしないと理解できないようなことではない。発音だって、辞書には発音記号が掲載されているし、いまでは YouTube やポッドキャストやテレビ番組で実際の発音をいくらでも聴ける。それに、まったく独学で習得するならともかく、学校で教わっているなら教員が(訛っていようと、多少は間違っていようと)発音するだろう。したがって、日本で英会話学校などで「専門に教えられている」と称するスキルは、実はすべて座学で習得できる知識にすぎず、しかもネイティブ・スピーカーなど必要ないのだ。逆に言えば、金銭や時間、あるいは学校の所在地が遠いといった条件をクリアしないと「英会話」という何か特別なスキルを身に着けられないと言わんばかりの錯覚をバラ撒いている連中が、公学校や教育市場にむかしからいるのだろう。まったく、不届きな連中である。

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どうして TOEIC のスコアが高くても英会話できない人が多いのか

英会話や英語教育に携わる人達の印象として話している事例を見聞きしていると、TOEIC のような「パズル的」と評されている類のペーパー・テストで800とか900といったハイ・スコア(もちろん自称「満点」も含めて)を取っていても、アメリカ人のネイティブとまともに会話できる人というのは、ハイ・スコアを取っている人たちの中ですら、おおよそ3%くらいしかいないと言っていることが多い。具体的な統計や「3%」という数値の根拠は分からないが、ともかく印象として、ペーパー・テストで高い成績を収めていても会話できるとは限らないということらしい。ただし、ここでは一つだけ注意が必要だと思う。

それは、「TOEIC でハイ・スコアを取っても会話できる人は少ない」というフレーズは、実は英会話教育とか英語の学習方法について調べている人なら誰でも見聞きしたことがあると思うが、このフレーズそのものがミスリードを誘いやすいということだ。なぜなら、会話できるかどうかと、英語で書かれた文書を調べたり洋書を読んだりして作業したり仕事に役立てられるかどうかとは、必ずしも同じではないからだ。そういうフレーズを口にしている英会話の教師やネイティブのアメリカ人にとっては、「英会話できるかどうか」が着眼点であり話題の中心なのであるから、ミスリードするつもりがあろうとなかろうと英会話のことしか言っていない。でも、英会話ができなくても文章を読むという作業だけで英語を役立てている人はたくさんいて、僕もおそらくは「英会話ができる」部類の人間ではないと自覚しているけれど、英語の文書を相当な分量として読んできたし、もちろんその成果として哲学の修士号をもっていたり、国公立大学の博士課程に進学できたりしている。英会話の教員から見て僕に英会話が十分に「できる」と評価できるかどうかはともかく、そのていどには英語が使えているのだ。

そして、僕は更に大学を出た後に企業へ就職して、ウェブ・アプリケーションのエンジニアとかデザイナーとか情報セキュリティを担当する部長といった役職を拝命しているが、プライバシーマークを認定してもらうために参照するべき国内の規格である JIS Q 15001 のような文書を除けば、僕が仕事で読んでいる文書の8割くらいは英語のウェブ・ページや電子書籍だ。わずかな例外(PIA で著名な瀬戸さんや「ITリスク学」を提唱されている佐々木さん、あるいは個人情報保護法という日本の法令について書かれた書籍)を除けば、情報セキュリティやプライバシー情報の保護に関する社内規程や研修教材の作成にあたって、僕は日本人が書いた本やウェブ・ページや論文なんて殆ど読んでいない。日本人が書いた文書を無視していても、約20年に渡って情報セキュリティマネジメント(2019年までは ISMS を認証されていた)や個人情報保護マネジメント(現在もプライバシーマークの使用許諾を受け続けている)において大過なく実務を遂行できているし、もちろん電通や博報堂やナショナル・クライアントを初めとする大手企業の実地監査や面談を受けたりアンケートに応じたりし続けていて、何か重大な問題を指摘されたこともない。

したがって、TOEIC のスコアが英会話のスキルに直結しないからといって、英語を役立てられるかどうかまで一概に言えるものではない。僕は TOEIC を受けたことはないが、オンラインのクイズみたいなものを何度か試したことはあって、だいたい800から880ていどのスコアだと評価されることが多い。スコアとしては高い方だと思うが、それでも仕事をしていて英語で相手と会話した経験はわずかだし、街頭で観光客などと会話した経験も少ない(あるいは、自分の方が観光客として香港やソウルで英語で会話したことも多少はあった)。おそらく英会話の経験としては非常に少ないし、そのスキルも低いとは思う。しかし、海外の技術者や企業とのやりとりは、チャットでの問い合わせだとかフォーラムへの投稿などで頻繁に英語でやっているし、さきほども説明したように仕事で扱う資料の殆どは英語の文書だ。ということなので、もし僕が TOEIC で400とか500くらいのスコアしか出せないような人間なら、そもそも仕事や学術研究で英語の文書を読むことすら覚束ないであろうと言えるていどにはテストのスコアとの関連性はあると思う。それでも、読み書きすることに比べれば、スコアは会話とは強い関連性が強くないというだけのことでしかない。TOEIC のスコアと英会話のスキルとは、正確に言えば「想像するほどには比例しない」と言うべきであって、全く比例しないわけでもなければ逆効果であるはずもないのだ。数学の簡単なグラフを思い起こしてもらえばいいと思うが、一次方程式のグラフで直線の傾きが大きいほど比例の度合いは「強い」と言えるなら、TOEIC のスコアと英会話のスキルとは、その比例の度合い、つまり傾きが小さいというだけなのである。

という注意点はあれ、やはり TOEIC のスコアが高いからといって、それだけで英会話がうまくできるわけでもないという事実はあろう。僕は幾つかの会社で、海外などの相手と英語で話している人々が同僚になったことがある。でも、そういう人たちは例外なく TOEIC を受験したことがない。そういう人たちにとって、英語は相手と話すのに必要だから覚えて使っているだけであり、試験のスコアによって英語を使うかどうかを決められるような立場になんて置かれていない人が多いからだ。しかし日本で TOEIC を受けている人の中には、TOEIC のスコアによって自分が英語で話したりものを読み書きする「資格があるかどうか」が決まるかのような錯覚に陥っている人もいる。日本で多くの人が英語で仕事ができなかったり、英会話できなかったりする一つの理由は、そういう思い込みや思い違いにあるのではないか。そして、僕は TOEIC のような試験に関わる多くの人たちが、自覚のあるなしにかかわらず、そういう錯覚を学習者に引き起こしている張本人ではないのかという疑問がある。つまり、日本人の多くが英語を(「生きる術」と言っては大袈裟だろうから、ともかく)生活のスキルとして身につけられない原因には、やはり英語に関わる教育や出版といった制度側の問題が大きいと思う。日本で英語ができるようになった人たちというのは、これも生存バイアスの事例だと思うが、いま程度の拙劣もしくはデタラメな英語教育や英会話指導ですら英語が使えるようになったほど、もともと有能な人たちだっただけなのではないかということだ。そして、YouTube で TOEIC のスコアを宣伝しつつ英会話の指導ビデオを配信している英会話学習系の YouTuber というのは、それこそ YouTuber として表に出られるていどの英会話ができるという自覚があるからこそ、そうやって YouTuber をしているわけなのであって、そういう人が YouTube というメディアに多いからといって、TOEIC でハイ・スコアを取る人が英会話もできるというわけではない。それは、統計的な関連性が弱いかもしれない事柄に強い関連性があるとか、それどころかケースによっては因果関係があると考えてしまうような誤解であったり、あるいはテストと英会話という双方で高いスキルをもつ人だけが結果的に集まっているようなメディアを利用しているせいで引き起こされる生存バイアスという錯覚にすぎない。

TOEIC のようなペーパー・テストに対応するスキルがいくら向上しても、それだけで英会話ができるようになるわけでもない。これは確かだ。なぜなら、ペーパー・テストで正解するという目的は、英語で自分の意図や感情を伝えるという目的とは違っているからだ。簡単な事例を挙げると、小学生の姉妹が一つの部屋で机を並べている状況を想像してもらいたい。妹が “Hey, gimme my hat.”(「ねぇ、帽子取って。」)と言ったときに、姉が “No, I, Don't.”(「い・や・よ!」) と返事したとする。こういう表現は現実のアメリカではごくふつうの言い方だし、映画やドラマでも観る人は多いはずだが、TOEIC の設問にこんな表現はたぶん出てこない。これは、単語を一つずつ区切ってゆっくりと発音することによって、本人の強い気分を表している。こういう表現方法が会話では色々と使われているし、会話はそもそも自分の感情とか意図を相手に向けることが動機や目的なのであって、相手に文法の添削をしてもらうことが目的ではないのだから、はっきり言えば文法として正しいかどうかなんて気にして会話する人なんていない。もちろん、だからといって、外国語教育の指導方法を大学で学んだこともない素人の自称英会話教師のように、「文法なんてどうでもいい」などと言うのは単なるアホである。本人がアメリカで会話しても、相手から未熟だと思われているだけにすぎない(ふだんから移民などと接している多くのアメリカ人は、いちいち相手の文法ミスなど指摘しない)。

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お得情報の積み上げだけで英語力がつくなんて錯覚だ

登録者数49万人超の大人気英語講師YouTuberが書いた、世界一シンプルな英文法書!
『話せる英文法 ネイティブの生きたフレーズで31のエッセンスが脳に染み込む』(2022)

さて、単刀直入に結論だけ言えば、僕はこういう本をお勧めしない

中身は確かに面白いし、役に立つ情報もある。それは著者の YouTube チャネルでもご存知の方がいることだろう。でも、他の英会話系の YouTuber のチャネルと同じく、そして僕に言わせれば朝ドラで有名になった NHK の英語学習番組にも言えることだが、このように場当たり的なお得情報やティップスみたいなことを雑然と見聞きするだけで英会話できるとか英語力がつくというのは、はっきり言えば錯覚であり幻想である。現に、アメリカで仕事をしている人々や英語教育に携わる40代以上の人々の大半は、子供の頃に NHK の番組なんて観てないし、もちろん YouTube どころかインターネットすら存在しなかった。それに対して、現代はこれだけたくさんの番組や教材や無料の YouTube チャネルがあって、もうそんな環境になってから20年は経過しているけれど、アメリカの IT 企業で役員になった日本人は殆どいないし、生成 AI で国際的なスケールで評価される論文を arXiv に投稿した日本人は全くいないし、若手ビジネスマンも、東大や慶応を出ていようと殆どが英語でアメリカ人と交渉できない。要するに、これだけ楽しくて分かりやすいと評判のメディアが無数にあっても、日本の若者の英語力は殆ど向上していないと言える。誰それに何十万のフォロワーがいるなどと宣伝しても、それは配信を観ている側の人たちが英語を使えるようになったかどうかとは関係がないのだ。

僕の見立てでは、上記のような本をありがたがって消費することだけに熱心な人々が、結局はこういうビジネスや教育システムを支えてしまっているという現状が昔からあって、過去の経緯はよくわからないものの(「日本の庶民が英語を使えるようになるとアメリカの国情や戦略を庶民に知られてしまうからだ」といった、安易に陰謀論へ走る人も多いので、敢えてここでは話題にしない)、こういうインチキで劣悪な教育法とか情報とか出版物が横行している現状を、僕は「社会党商法(55年体制商法)」と呼びたい。これは、かつて社会党が自民党に対する「反対野党」という地位を利用して逆に政治的なポジションを固めていったという皮肉な状況をヒントにした言い方だ。つまり、実際には英語で生活したり仕事をする役に立たないか効果が乏しいやりかたを、公教育なり従来の英語教育に対するアンチテーゼなどと称して場当たり的に紹介したり出版したり英語教育に導入して、なにか仕事をしたつもりになっている教師や物書きや出版編集者の思い込みを、55年体制の社会党みたいなものだと揶揄するわけである。そんな場当たり的なやりかたで公教育のスタンダードなメソッドが置き換えられるわけがないことを、最初から知っていて反対意見を述べ続けるという愚劣さが、そういう立場に安住した社会党みたいなものだというわけである。

もちろん個々の教材は、面白いだろうし新しく学ぶべきことが書いてあるかもしれないから、全く無益というわけではない。しかし、そういうことに依存して場当たり的に「お得情報」みたいなものをオーディエンスに放り投げていれば教育や啓蒙になるというのは、まったくの思い上がりだし、分かっていてやっているなら詐欺的だとすら言える。実際に我々の社会の実情をみれば分かることだが、YouTube で英会話のヒントみたいなものを配信する人が登場してからでも10年以上は経つというのに、中学時代から観ている人が二十代になっているとしても、彼らがどのていど英語を使えているのかは、目覚ましい効果なんて全く世の中に現れてはいない(もちろん、僕は個々人の実績なんて知らないが、本当に効果があれば英語を駆使する若者が劇的に増えているはずなので、新聞やテレビが取材したり報道するほどの社会的な実績が出ているだろう。英語力が上がっても実績を出していない若者が多いだけだと反論できるとしても、ビジネスや学問ではなおさらだが、しょせん実績を出さなければ TOEIC で満点だろうと英検1級だろうと「できない」のと同じなのである)。

ここで、「英語の勉強について」という論説でも少し書いていることだが、僕が考えている「英語力」つまり英語で生きる力というものについて、簡単に説明しておこう。そして、何十万のフォロワーがいようと、何万冊の売上があろうと、いまから述べるようなポイントを十分に提供していない YouTube チャネルを眺めたり教材を買ったり英会話教室へ通うことは、僕に言わせれば時間とお金の浪費だ。

まず、僕が考える英語力は三つのポイントで解説できる。第一に文法。第二に英語を使う動機。そして第三に、そもそも本人がもつ生活習慣だ。

まず文法から解説する。言語の習得に関する「赤ん坊最強説」をいまだに唱えている馬鹿な素人のことはさておき(われわれはあらゆる意味で、いまから赤ん坊になったりはできない)、いまだに文法の勉強が不要だと嘯く素人もたくさんいる。そういう連中に限って、こう言っては気の毒だが無学(学歴がない)で、自分ではアメリカで英語を使えたなどと思い込んでいるようだが、実際には現地ではお客さん扱いで、子供や移民に接するような英語でしか応対してもらっていなかったような連中だ。つまり、相手が高いストレスで自分に合わせてくれていたことすら自覚できない馬鹿に限って、100の単語で会話できるだの、あるいはいま盛んに広告が出ている81の文を覚えたら話せるといった、デタラメを日本で振り回すようになる。でも、日本では彼らにわざわざ挑戦するような暇人はいないので、誰も彼らのリアルな英語力を試したり検証したり批評しようとはしないわけである。皮肉にも、そういう「日本的な状況」に依存して、こういう無知無教養な連中は英語や英会話について得意げに語っているわけだ。

次に動機は、何人かの人物が既に英語教育について指摘しているから、本や雑誌あるいはオンライン・メディアの記事で同じような主旨の文章を読んだことがある人はいることだろう。つまり、日本人の大半が英会話できないのは、英語で会話する必要がないからだ。なので、どれだけ学んでも使う必要も使うケースもないので忘れてしまったり、英会話する意欲そのものもなくなる。これは全く単純だが非常に強力なポイントだ。そして、アメリカで生まれ育った人が英会話をしているのは、当然だが彼らには英語で生きるという必要があるし、動機どころか英語ができないと生活できないからだ。つまり、言語というものは「できる・できない」という能力の問題ではなく、「やる・やらない」の問題なのだという事実を日本では軽視している。そして、大半の日本人にとっては、生活するために英語を習得する必要なんて全く無いのだから、必要がなければやらないのは当然なのである。したがって、「日本人の多くは英語ができない」と嘆くのは勝手だが、それはつまり日本が母国語だけで海外も含めた情報へアクセスできたり生活できるという事実の反映でもあるのだ(もちろん、それだけで十分かどうかの議論は別にあるだろう)。よって、英語で生活する必要も動機もない人が何十年と NHK の英会話番組を観たところで英語力はつかないという膨大な事実が蓄積されているだろうし、逆に必要があれば、被爆者団体の高齢者が還暦を過ぎてから英語を学んで観光客へ解説している事例などでも分かるように、さほど年齢に関係なく英語が使えるようになるのだ。

そして三つめが生活習慣だ。これは「英語の勉強について」という論説でも書いたように、そもそも他人と挨拶を交わす生活習慣がない人が、どうしてアメリカに行ったとかアメリカ人が目の前にいるというだけで "Hi, how are you?" などと咄嗟に言えるだろうか。逆に、場所や相手によって言えるようになるなんて人の方が人としておかしいのであって、僕はそういう人とは付き合いたくない。それから、大阪の女子は英語の習得が速いなどと放言を口にする人がいるけれど、それはつまり日本で暮らしている普段から誰とでも気兼ねなく話をするという生活習慣があるかどうかがポイントになっているのであって、大阪人なのか鹿児島人なのかは関係がないのだ。

このように、英語力にとって大切なポイントは以上の三つだと思う。もちろん語彙はたくさんあるに越したことはないし、語彙が少なくてもいいなんていうデタラメには既にたくさんの反論を書いているから、ここでは繰り返さない。だが、本質的には英語を使うかどうかは語彙の問題ではなく、生活習慣や動機という本人の置かれた状況や境遇や考え方や振る舞いの問題にかかわっているのだということを強調したい。

こう考えると、やはり日本には「英会話」という特別な知識やスキルがあるという思い込みがあって、その基礎になっているのが色々な雑学的なお得情報の集積なのだという、東大小僧を頂点とした「暗記」だけを才能の基準にする歪んだものの測り方が横行していると思う。だからこそ、本質的でもなんでもない項目を大量に詰め込んだ参考書などを「名著」と言っては、続々とちくま文庫などで復刊したり新しく出版するという錯覚が出版業界にも蔓延しているわけだ。その果てが、些末なお得情報を延々と垂れ流す YouTube のチャネルであり、現代の流行サービスと、古くからの出版人や教育者に蔓延している錯覚や偏見は、実は繋がっている(あるいはメディアが違うだけで同じことをやっている)のである。

では、そういう日本でも英語ができる人は少なからずいるわけで、僕がその一人なのかどうかはともかく、そういう人たちはどうして英語が使えているのか。一つは、冒頭でも書いたように NHK の番組なんて最初から無視していたり、学校の勉強とは独立の動機をもっていた人がいたのである。たとえば昔ならペンパルだとかハム無線だとかで海外の人々とやりとりしたいという動機をもつ人がいた。いまでも、たとえば MMORPG の海外サーバで遊んでいる人にも、そういう動機を持つ人はいるだろう。僕は、かつて NHK で英語番組を担当した高橋一幸先生(現在は神奈川大学教授)から中学時代に英語を教わった一人なので、当時も授業で NHK の教材を使っていたのだが、僕はそういうものを殆ど有効に活用しなかった。僕がマッキンゼーや MIT に進んだ同級生と肩を並べる英語の使い手として中学時代を過ごしたり、あるいは高校時代には ESS の部長をやっていたていどの英語力になったのは、学校の教材とはぜんぜん関係のない、ダン・コーツという人物の Econocast というラジオ放送の教材をひたすら聴いては、彼の話し方に学んだからだ。いまでは覚えている人が殆どいないと思うが(検索しても政治家のダン・コーツしか出てこない)、相当な早口だ。中学生でこれを真似るのはそれなりにストレスがかかる学習だったのだが、僕にとっては目標とする喋り方や頭の回転であったから、よい教材だったと思う。他にも、Newsweek を購読してもらったり、学校の勉強はさほど熱心にやっていなかったしテストの点数も低かったが、大阪市内で出会った観光客と会話できるのは僕だけだった。つまり、現状の教材とか英語教育でもできる人はできるわけで、そういう人たちが口にする英語の話は単純な生存バイアスである可能性があって、簡単に信用しないほうがいい。もちろん、僕がここで書いている話も含めてだ。

なんにしても、体系的な知識を持たない、つまりは言語教育についてメソッドを大学や専門学校で叩き込まれた経験がなく学位のない人が言語を教えるのは、それなりにリスクがあるということだ。実際、上記の本を書いたニック・ウィリアムソンという人物の経歴を見ると、「オーストラリアのシドニー出身。 シドニー大学で心理学や日本文学を学習。 日本の文部科学省の奨学金を得て在学した東京学芸大学研究生時代に、英語講師を始める。 その後に英会話教室『ニック式英会話』を主宰」などとなっていて、いわゆる ESL(外国人のための英語教育課程)を修めた形跡がない。要するに英語教育の素人であって、自分が英語で話せるというだけで他人に英語を教育できるという、教育程度や見識の低い「ガイジン」によくある錯覚だ。そして、安易に開校した素人の英会話教室で「講師」などと自称しているチンピラ外国人は、たいていこういう連中だ。そしてさらに、「ニック式」などと称しているが、それはつまり、彼に学んでも彼の劣化コピーになるということでしかない。経歴を見ると分かるように、この人物はオーストラリア出身であるから、アメリカに行って住んでいたことがあるかどうかも分からないし、アメリカの言語を正確に勉強したかどうかも不明なので、この人の劣化コピーということは、アメリカ人の大半が「なんだこいつ?」と思うような発音と言葉使いで話してしまう可能性があるということに注意しておいた方がいいだろう。

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単語帳不要論なんていう与太話こそ不要だ


periodの意味、知ってる?単語帳を使わない方が良い理由。

ちょっと海外で生活したり留学したり旅行するだけで、誰でもいっぱしの「英語教師」ヅラできてしまうという典型だ。

余談になるが、他にも、料理研究家とか手芸のありとあらゆるジャンルに、この手の人達がいる。もちろん、うまく立ち回って資格団体を運営するまでになったりする人もいるわけで、それはそれで大したものだとは思うが、しょせん数年もすれば誰もやらなくなるような些事である。僕も色々と趣味をもっているけれど、こんなもん家族、学問、仕事、それから生活そのものに比べたら、実際のところどうだっていいことだ。これから死ぬまでゲームできないとか、映画が見られないとか、音楽を聴けないとか、漫画が読めないとか言われても、家族や仕事を失うことに比べたら「屁」でもないね。要するに、そういう些末なことにしか生き甲斐やアイデンティティを持てないような人が、大量殺人とか幼女の凌辱とか、あるいはカルトの信者とかになるんだろう。

そろそろ、そういう本当はどうでもいいことにこそ生き甲斐があるかのような、スポーツ産業や娯楽産業や博徒業界、あるいは広告代理店、なんなら国民が馬鹿な方が嬉しい国家官僚とか政治家まで含めた連中にとって、自分は「いいお客さん」だけなのかもしれないと立ち止まる機会は自分で作ったほうがいいと思う。ゲームや映画の演出は感動的かもしれないが、そんなもんを何億本とプレイしたり眺めたところで、大半の人は仕事にありつけるわけでもないし、家族を幸せにできるわけでもないのだ。それこそ、そういうことは誰かに教えてもらったり自分で考えるしかないんであって、しょせんは娯楽産業の一つに組み込まれている哲学っぽい読み物なんて何百冊と読んだところで、そういう力は身につかないんだよね。

で、本題に入るとしようか。イギリスで2年ほど働いてきた人物が、なにやら英会話だの英語だのについて他人に教えようということのようだ。だが、これから海外で働いたり学ぼうと思っている高校生の諸君に言っておくと、2年なんてのはせいぜい長期間の旅行にすぎない。このていどで「海外生活していた」なんて言う人は、東大の学卒でマッキンゼーに2年ほど勤めただけで「コンサルタント」だと言い張り、そのあとアクセンチュアとかで炎上案件の燃料を国から何億円と引き出しては、プレジデント・オンラインとかで新卒の平均年収が3,000万円などと紹介されてる輩と同じであって、僕のような真の IT 人材、それから少なくとも国立大学の博士課程に行ったていどの英語力をもつ人間から言えば、こうした人たちは分野がシステム開発だろうと英語だろうと、単なる詐欺師だ(他人からお金をもらっている以上は、ただの妄想にとりつかれた素人というだけでは済まない)。

そして、ここで説かれている持論とやらの根拠と言えば、"period" という単語に単語帳や辞書では不足している色々な用法やコロケーションがあるなんていう針小棒大なことだけである。しかし、そもそも単語帳や辞書という出版物が単語の意味や用法やコロケーションや熟語を完全にカバーしているなんていう幻想を誰が抱いているのか。単語帳や辞書だけではわからないこともあるなんて話は、僕は小学生の頃に『広辞林』(岩波の『広辞苑』ではなく、三省堂が出していた大型辞書)を買った際に、国語学者や国語教師どころか親からですら聞いている。辞書に勝手なハードルを設定しておいて、その条件を満たしていないから単語帳や辞書は役に立たないとか、単語帳や辞書無しで英語を学べるなどとデタラメを書いて回るのは困る。そんなことは、単語帳や辞書で最低でも10万くらいの語彙を身に着けてから言えという気がするね(だいたい現地の大学院生の語彙数に相当する)。

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「和英辞典不要論」不要論、再説

この論説でも取り上げている話題だが、和英辞典は不要だという人がいる。その理由は幾つかあるけれど、まず第一に「リアリズム」の理由として、大半の学校では和英辞典を使わないし生徒に使わせないよう指導することすらあるという。しかし、これは和英辞典が不要であると考える教師がやっていることを鵜呑みにしているだけであって、リアリズムというよりも現状の追認でしかない。そもそも現今に限らず大昔から日本の英語教育に問題があるのは多くの人が指摘するところなのに、その元凶と言える全国の(たいていは英検準1級すら取れるかどうか怪しい)英語教師が和英辞典を使わないから不要だというのは、僕には本末転倒にしか思えない。寧ろ、英語教師の真似をして(あるいは彼らの言いなりに)和英辞典を使わないからこそ英語についての興味が伸びない人だっているのではあるまいか。もちろん、和英辞典さえ使えば現今の「日本人は英語ができない」という問題(僕は実は「問題」だとは思っていない)が解決するわけではないだろうが、少なくともその何割かは英語についての関心を高められると思っている。

そして第二の理由が、更にポピュラーな議論として語られることの多い、そもそも「辞書そのものが不要である」という議論である。これは、既に色々な話題に関連して批判しているが、最も盛んに主張されている根拠が、例の「幼児の母国語習得最強説」だ。こういうナンセンスを口にしている人々は、実際には「最強」という言い方で自分を騙している。なぜなら、最強が「最善」であるとは限らないし、またわれわれ成人どころか中学生や高校生にとってすら最善である保証もないからだ。寧ろ文化人類学や発達心理学などの知見を参考にすれば、幼児は彼らがやるようにして母国語を習得せざるをえないわけであって、そもそも幼児からすれば使いたくても辞書など扱えないのである。よって、幼児が辞書を扱えないというだけの事実から、幼児は辞書を「不要」だと見做しているかのようなインチキ心理学を捏造して、「幼児は辞書を『必要としていない』から辞書は不要だ』などと議論している連中は、はっきり言って幼児並の知性だと言わざるをえない。

そして、やや特殊な第三の理由として、“kaizen” というハンドル・ネームのアマゾンでは有名な人物(調べれば現在は株式会社アテックに所属する小川清氏だとすぐに分かるのだが)が展開されている、自分が知っている単語だけで表現するほうがよく、和英辞典で調べた単語を安易に使うべきではないというものがある。これは一理あって、和英辞典だけではコロケーションやニュアンスの適切さが十分に分からないので、不適切な用法となってしまうことはある。しかし、僕はこういう議論にも賛成しかねる。和英辞典で調べた単語を安易に自分の文章で「使う」ことにはリスクがありえるにしても、自分が日本語で表現している単語を(コロケーションや用法の問題はあろうと)英語で何と言うのかという興味に応えてくれる和英辞典は、単純に英語に対する興味を醸成してくれるツールとして有用だと思うからだ。そうして調べた単語が自分自身の使う言葉として的確に使えるようになるかどうかは、そこから先の問題でしかない。(そもそも、小川氏の議論が簡単に無限後退へ陥ることは明らかである。我がものとしていない単語を使うべきでないとすれば、いったい僕らは「どの単語で表現すればいいのか」という問題にならざるをえず、当然だが全ての英単語について十分に使いこなしていない初学者は単語を一つも使えないという矛盾に行き当たるしかないからだ。実際のところ、多くの初学者、いや何年も勉強している人にとってすら、たとえば “a (an)” すら正確に使えない人は多い。)

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単語や言葉を学ぶということ

先に単語帳が不要だという主張の一つを批判したのだが、しかしだからといって、僕は英語なかんずく英単語を習得するために単語帳の本だとか、あるいは自分で単語ノートを作って運用することが必要不可欠であるとまでは思っていない。言葉はそもそも生活のために必要なのだし、それを習得する環境や条件はさまざまであって、それらに優劣や是非を議論することにはあまり意味がない(行政的なサポートが必要な場合はある)。ただ、インチキな自称英語教師の多くが述べているのは、彼ら自身が英語を学んだ経緯を「方法論」だの「秘訣」だのと言って売りつけているだけであり、他の経緯や手段を否定する根拠にはならないのである。

さて、英単語の覚え方というテーマも昔から色々なことが言われていて、ESL(第二言語としての英語)あるいは外国語の学習なら何であれ、いやそれどころか母国語についても同じことが言えるはずだけど、そもそも言葉なり言語について興味がない人は、何をやろうと無駄だと思うんだよね。つまり、誰でもいいけど相手が話したり書いてることを、正確に知りたいとか、それはつまりもっと知りたいという欲求とか関心とか、もちろん愛でもいいわけだけど、どういう動機や目的や意図や理由であろうと知りたいとか分かりたいと思わない限りは、何十万円で英会話学校へ通おうと、何百時間とオンラインのマン・ツー・マン指導を受けようと、言葉は覚えられないと思うし、東大暗記小僧的な能力だけで数万語を記憶できたとしても使い物にはならないんだよね。実際、海外で暮らしてたり仕事をしている人の統計なんてないだろうけど、旧帝大出身者が大半を占めるなんてことはないわけ。それこそ偏差値が70もないような大学の出身だろうと、あるいは大学すら出てなくて去年までキャバ嬢やってましたなんて人でも、英語を使って暮らしてる人はいる。言葉を使って生きるというのは、ペーパー・テストとか学歴とか関係ないわけで、それは現にアメリカ人として生まれ育った人の6割以上がアイビーリーグどころか大学も出てないという事実で明らかな筈だよね。

それから、話したり読んでいる相手のことを知りたいというだけではなく、自分自身についても言える。自分が果たして言いたいことを正確あるいは的確に話したり書いているのかという不安だとか反省だとかをする機会はあると思う。相手に誤解されたとか、上手い言い方が出てこないとかだ。ということは、相手の使っている言葉を知らないというだけではなく、自分自身も自分の言ったり書きたいことを伝えるべき言葉が足りていないという意味で、他に何かいい表現とか言葉がないかという興味をもってもいいわけだよ。つまり、外国語の勉強だけの問題じゃないんだな。どちらにしても、そういう不安を感じないで暮らしている人にとっては、そもそも日本語すら学ぶ必要を感じないんだから、そら英語なんて余計に必要ないわけで、口先で「映画をテロップなしに観たい」だの「フランス人と文通したい」だのと言ってみたところで、外国語を自由に操っているボク・ワタシなんていう妄想でしかない。でも、アメリカで生まれ育って英語を使っている人たちにそんな妄想はまったくないし、日本からアメリカへ移って暮らしている人たちにも、そんな妄想はまったくないわけだ。彼らにしてみれば、英語が使えなければそもそも生活できないし、街中でウンコしたくなってもどうしようもないという致命的なことになる。映画や文通なんてそういう切実さに比べたらどうだっていいわけだ。これは何も精神論を言っているわけではないけれど、要するに英単語を覚えられない人の最大のポイントは、本当のところ英単語を覚える切実な動機がないってことだろうと思う。もちろん、「ポイント」と書いたように、それは欠点とか弱点というわけではない。別に非難されるようなことじゃないからだ。だって、アメリカ人の大半はスワヒリ語を覚えなくてはいけないなんていう動機がないだろうけど、そんなこと誰にも非難される謂れはないだろう。それと同じで、別に日本人が英語を知らなくたって誰かに非難されたり笑われる筋合いのものではない。外国語を学ばなくても暮らしていけるなんてことは、ごく当たり前のことであって、そもそも外国語に通じている人なんていうのは、昔は交易商人か外交官でもない限り、たいてい犯罪者だったわけだよ。

なので、記憶力アップがどうとか単語帳の作り方とか、そういう本質的でないことにあれやこれやと手間暇をかけるのは、僕は愚かなことだと思っている。そして、本当の理由や原因を自分でもわかっていない連中が YouTube とかでせっせと配信している語学系のチャネルなんてのも、はっきり言って観る値打ちも効果もないと思うんだよね。彼らは、自分自身についてすら正確かつ冷静に英語を使えるようになった理由や原因を分析する学識がない、単にどういうわけか英語が使えるようになった人たちでしかないわけで、信用するには値しない。ここで説明した重大なポイントが欠落したまま、彼らが配信しているようなことを真似ても、大して意味はないと思う。

ほんの一例だけど、僕の同級生から聞いた話をご紹介しておく。まぁ僕の Facebook のアカウントを知ってる人は既に知ってると思うけど、この人物は僕と中学・高校の同級生で、高校を出てからの経歴は東大 → 財務省 → MIT修士課程 → マッキンゼー → 国内の上場企業の役員や CEO などを歴任している、それこそ絵に描いたようなエリートだ。かといって学識や才能をひけらかすような人ではなく、熱心に陸上競技の練習に打ち込んでいたり、英語についても他の教科についても、自分が知らないことは、僕らみたいな偏差値が80もない人間にだって「教えてくれ」と尋ねてくるような真面目あるいは誠実なところがあった。特に英語は、お恥ずかしながら中学・高校時代は僕と彼が朗読や発音では双璧だったので、彼がどういう勉強をしていたのかに興味があって聞いてみたことがある。

まず、彼はいわゆる単語ノートというものを作っていなかった。これは一部の英語教育者が勧めていることでもあるが、とにかく多読、しかも同じ本を繰り返して読むというタイプの多読で言葉を覚える。これは聞いたときに強烈なショックを受けた。ふつう多読と言われたら、いわゆる英語教材用の副読本として販売されているシリーズをあれこれと読むことだと思っていて、僕は実際に Ladder Series という副読本を読んでいたのだけれど、彼はまず何よりも自分が知りたいとか読みたい本を手に取る。そして、それを何十回でも読み直すわけである。もちろん、副読本として制作されているわけではないから、対訳がないので「正解」も分からないし、訳語もないから自分で一つずつ知らない言葉は辞書をめくる必要がある。でも、単語帳を作らないのだから、辞書を引いて調べた意味を忘れると、再び同じ単語を調べる必要がある。もちろん、実際に忘れたら辞書を引き直すのは当然だ。でも、それを繰り返すことで覚えるわけだし、また忘れたら「これ、また忘れたな」ということは覚えているので、そういうエピソードで逆に覚えやすくなったりするらしい。そして、そういう本が或る歴史的な出来事の解説書や研究書だったりすると、何度も読むうちに自分が興味をもって読んでいる内容についても多くを知るようになるので、副読本のように自分では興味のない人物の事績を覚えるムダもない(正直、何の興味もない人物の生まれや育ちを副読本で覚えて何になるのか)。そして、重要なのは単語を学んだり本を読んでいる当人の強い目的や動機があるということだ。これが単に「英語のお勉強」にすぎないなら、長くは続かないかもしれないし、大して効果がないかもしれない。でも、それを読む動機や興味があるのだから、内容が分かるまで何度も読むのは当たり前である。そして、300ページ前後の単行本を読み込んでいくと、それだけで実は大学受験に必要な6,000程度の単語は覚えてしまうのである。それを何冊か、3年間にわたって繰り返して何十回も読んでいるのだから、語彙が確実に定着するのは当たり前というものだろう。

こういう事例を紹介すると、言葉の使い方が著者の癖や習慣に引きずられてしまうからよくないといった「客観主義」や「純粋主義」や「形式主義」や「不偏主義」や「包括主義」という理由で疑問を呈する人がいるんだけど、そんなことを心配する暇があったら英語で何か業績を出す方が重要だと思うんだよな。そういう自称英語教育者とか教育評論家なんて、実際には英検1級すらもってないか、アメリカで上場企業の役員級とか大学で教えた経験がない「丘訓練の鬼教官」にすぎないんだよ。

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体系的な文法の知識もなく、経験と雑学だけを積み上げた「エキスパート」

[初出は当サイトの「落書き(Notes)」ですが、リンク等の関連付けは割愛します。]

【英会話】I knew about it って言ったら、首を振られた。なんで?

know は状態の動詞なんで、情報を得た という意味では使えないんです。情報を持っている という場合に使うんですねぇ。

【英会話】I knew about it って言ったら、首を振られた。なんで?

いやぁ・・・その説明もおかしいよ。

こんな動詞の分類も知らないで「エキスパート」とか言ってるの、恥ずかしいよねぇ。でも、雑学のエキスパートらしいからしょうがないか。そして、こういう情けない事例を見ても分かるように、英文法が必要ないと言ってるのは、だいたいにおいて英文法も知らずに幸運な生活を送ってきただけの怠け者や身の程知らずだということである。英文法を知らなくても相手が気遣って話を合わせてくれているだけなのか、あるいは相手に何か下心がある(ビジネスの相手だったり、もちろんスケベ根性だったり)からではないのかと疑って、ネイティブが果たして本気で(あるいは自然に)自分と話しているのかどうかを考えてみた方がいい。

“knew” は、“know” つまり何かを知った時点から、それを「知っている」とは言えなくなる時点まで、「知っていた」と言うために使う、つまりは一定の期間におよぶ一貫した状況だとか経緯を表現する動詞だ。或る時点や短時間の状態(ステータス)を表す動詞ではない。なので、“I know 1 plus 1 is equal to 2.” と言う場合、これは習ったときからずっと知っていることであり、これを「いまこのとき知っている」などというニュアンスで発言してはいけない。したがって、“I knew 1 plus 1 is equal to 2.” などと言うと、ニュアンスとしては「1+1が2であることを、これまでずっと知っていた」という妙な発言になる。これ、どういう意味だと思う? 明日から1+1は3になるの? それとも、実は1+1が5であることを、いままで知らなかったと言ってるの?

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英語で生きる人と、「英会話」する人の違い

「英会話」は未熟な丘訓練にすぎない

この議論は既に述べているのだが、学習者は仕方ないとしても、教育者と出版業界あるいは文部行政がいつまで経っても同じことの繰り返しをしているように思うので、やはり繰り返して述べておく必要があろう。昨日も出社してジュンク堂の英語教材が並んだ棚を眺めていると、あいかわらず100語で話せるとか、中学英語で話すとか、その手の(英語話者にとっては無礼としか思えない)デタラメなことを書いてる連中の本が一掃される気配はない。

僕が、これから「英会話を勉強したい」と思っている方々に、まずお勧めしたいことがある。それは、アマゾンで「洋書」のカテゴリーを探して、“English as a Second Language” (ESL) というサブ・カテゴリーを御覧いただきたいのだ。ESL は留学生や移民あるいはビジネスで英語圏へ滞在する人たちなど、英語を母語としない人々が英語を学ぶための教育分野を指していて、それらで使う教材の意味もある。なので、このジャンルの教材はアメリカ人やイギリス人にとっての「国語」ではなく、あくまでも非英語圏に生まれ住んできた人々が英語を学ぶために活用する教材として制作されている。こういう教材が必要な理由は幾つかあって、たとえば、英語圏で生まれ住んでいるなら知っていてあたりまえのことを移民や留学生には背景知識として求められない。何か手順として親から必ず教えられて育っているような人にとって当然の知識は、ESL の教材で当然のように前提されることはないのである。アメリカ人なら中学生ですら過去の大統領を知っていて、彼らの有名なフレーズを口にすることもあろうが、そんな知識を移民に求めることはできないのである。また、イギリス人なら多くの人が知っているシェークスピアのセリフだとか、各国で放映されている過去の有名なテレビ・コマーシャルやドラマの決め台詞なども、外国人には分からない。それから、女性的とされるフレーズや助動詞の使い方を男性がわざわざ口にしても、それは状況によっては解釈が難しい(ガチで LGBTQ の人だったりする)ため、こういうことも ESL の教材には出てこない(まぁ、いまならネイティヴの教材にも使えないと思うが)。

さて、その ESL の教材は色々とあるのだが、圧倒的に多いのは文法の本かフレーズの本であり、日本で「英会話」に相当する本は、ビジネス・シーンや街頭・家庭でのシーンを想定した会話の教材であろう。大学の出版局や教育出版社が手掛けているものもあるにはあるが、素人が Amazon KDP かアメリカの印刷屋から independently published(自費出版)で発行している本も多い。しかし、日本以外の国で英語を学ぶ人々は、たいていこういう本は使わない(Ryuko, Kubota, “Learning a foreign language as leisure and consumption: Enjoyment, desire, and the business of eikaiwa,” International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, Vol.14, Nol.4 (July 2011), pp.473-488, DOI:10.1080/13670050.2011.573069)。教育関連の研究者から見れば、日本における「英会話」とは英会話の勉強をしているという自意識を確立するための消費財つまり娯楽であって、英会話スクールとは、いわゆる「ガイジン」を見物するためのレジャーランドだとさえ言えるらしい。

つまり、TOEIC でスコア900を出していようと大半の人が英語で話したり仕事ができない、つまり英語でコミュニケーションができないのは、「英会話」の勉強をしているからなのだ。他の国で英語を学ぶ人々にとっては、英語を習得することが英語圏なり英語を使う職場での生活なり仕事に直結しているため、相手と「英会話」のような型ができていればいいというものではない。実質的な成果が重要なのである。それに比べて、「英会話」しか求めていない日本人がアメリカに行くと、便所がどこにあるかを尋ねるフレーズを発するだけで終わってしまう。相手に何か説明されても、自分の足で便所まで行ってウンコできる人なんて殆どいないわけで、結局はアメリカ人に連れて行ってもらう人が大半なのだ。こんなことでは、ウンコすらできないようなやつが英語圏で生活できるわけはないので、英語というよりも英語圏で生きる術を身につけていないということなのである。これは、言葉が使える使えないという以前に、社会人としては最悪最低だ。

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「口語」や「英会話」という特別な英語があるかのようなミスリードで誰が徳をするのか?

市橋氏の辞典には余計な表現が多い

市橋氏の「話すためのアメリカ口語表現辞典」というタイトルの本は、ぜんぶで3種類が発行されている。僕が持っているのは上に紹介している最も大部の初版(2007年)である。そして、次に「普及版」(2013年)という小型の判形で再刊され(ただし表紙がハード・カバーなので、逆に扱い辛い気がする)、それから更に、収録されている表現の中で使われていない表現をリストから削除した「エッセンシャル版」(2024年)というのも出た。どれを買うべきかは、人によって基準が違うと思うけれど、僕は「エッセンシャル版」をお勧めする。アメリカ人の多くが使わない表現を覚えたところで、そんなもん間違い探しがうまくなるだけだ。もともと初版を編集する段階で、そんなものはカットしておくべきだったろうと僕は思う。

そして、「エッセンシャル版」ですら、僕は収録されている文例が無駄に多いと思っている。もちろん、「中学英語で十分」だの「100語で話せる」だのという御託を口にするような連中は論外だが、かといって市橋氏が本書に収録している表現を熱心に覚えたらいいというものでもない。

He is a real idiot.

こういう表現が収録されている。でも、僕はこんなもの覚える必要はないと思うので、この手の表現を無造作に続々と収録している本書は、はっきり言って無駄が多すぎると思う。理由として、"idiot" の意味を知ってたら、こんなことくらい普通の英文法の知識だけで言えるからだ。「英会話」なり「口語」の辞典に教えてもらう必要なんてないはずである。

どうして他の国には、こういう英会話用の分厚い辞書や口語辞典がないのかというと(事実、ない)、会話で話している大半の表現は、「英会話」などという特殊な文法や慣用句を使っているわけではないからだ。日本では、とにかく「英会話」を英語の別ジャンルか別の言語であるかのように扱いすぎている。でも、実際には学校で習ったとおりの文法、そして覚えたとおりの語義に従って単語を扱って会話しても相手に通じるのだ。そらそうだろう。日本語でも、文語体で話す人の表現は確かに奇妙な話し方に聞こえるけれど、何を話しているのか分からない日本人なんていない。そして、言葉を使う目的は相手に自分が言いたいことを伝えるということであって、「英会話」することではないのだ。

それから関連する話をしておくと、よく書店に「ビジネス英会話」の本があって、もちろん会社とか商店で話すという想定で書かれているわけだが、大学時代に第一外国語の英語で同じクラスだった人たちの話している様子を聞いていたときに、どうも「ビジネス英会話」というものを誤解しているようだった。つまり、ビジネス用の英語というものがあって、専用の文法だとか特別な言い回しを覚えなくてはいけないと思っているのだ。もちろん、英語はありふれた単語の組み合わせで慣用句だけではなく専門用語も表現していることがあるから、全くの間違いというわけではない。しかし、こういう理解が強すぎると、学校で教わった英語に加えて「ビジネス英語」なる第二の英語を学ばなくてはいけない(よって、それ専用の本を買わなくてはいけない)ということになる。出版社にしてみれば好都合な錯覚や思い込みなのであろうが、こういうことを放置するからこそ、多くの人は途中で挫折してしまう。そして、出版社や教育者は情報の非対称性で飯を食っているのだから、どれだけ挫折する人が出ても知らん顔である。なぜなら、彼ら出版社や英語教育者は、何もせずに鼻くそをほじっているだけで、自動的に次の世代が本を買ってくれたり学校で英語を一から勉強してくれるからだ。よって、日本の英語教育の問題は、寧ろ積極的に放置されていたのではないかと勘繰りたくもなる。

だが、実際にはビジネスの現場だろうと観光旅行だろうとベッドの上であろうと、それが英語と呼ばれている言語でのコミュニケーションである限り、基本は同じである。そういう余計なことに神経やお金を浪費するのはやめて、堅実に基本的な文法を学び、愚直に単語を覚えていくだけでよいと思う。そして、具体的にそれでみんながどう書いたり話しているかは、現実の使い方を眺めたらいいだけなのだ。こういうことは、受験という期日のある範囲で学ぶときには効率が悪いため、教育現場では推奨されないのだが、受験で点数さえとれたらいいわけではないのは、TOEIC の得点が高くても話せない人が圧倒的に多いという現実によって分かる。だが、中等教育までの教師にとっては、そんなことどうでもよいのだろう。

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『英語教育幻想』を読む (1) 「英語」とは何のことか?

久保田竜子『英語教育幻想』 久保田竜子『英語教育幻想』(ちくま新書、筑摩書房、2018)

ここで公開している論説の内容を自己点検しようという意図もあって、このような本を手に入れた。実は既に久保田氏の論文を当論説で紹介しているので、全く未知の人物というわけではないのだが、自分の主張に都合がいい論文だけを拾い上げていると思われても困るので、同じ著者が僕の主張と反対の意見や議論を展開していれば、積極的に参照して吟味することが望ましい。

こういう態度は、思い込みこそ保身や安心の術だと二重に思い込んでいるようなネトウヨやリベラルのような無知無教養な諸君からすれば、一見するとただのマゾヒストに見えるかもしれないが、少なくとも大学院の博士課程へ進むのであれば必要な態度だ。修士課程(修士と博士で一貫教育のようなことをしている大学では、「博士課程前期課程」と言ったりする。僕が修士号を受けた関西大学もそうだ)までは、はっきり言えば自分に都合の良い論文で身を固めても日本の大学院ていどならディフェンス(修士課程や博士課程前期課程の修了試験でもある口頭試問で、修士論文の主張を擁護することを「ディフェンス」という。もちろん博士課程でも使う言葉だ)になるが、いくら日本の大学でも博士課程では通用しない。必ず、自分の主張に反対あるいは疑問をもつようなアプローチや立場を想定して、「壁打ち」あるいは「鉄を熱いうちに叩く」ようなことをやらなくてはいけない。もっとも、僕の論説は公開してから何度も書き加えたり訂正を加えて、かれこれ7年になるので、それまでのあいだにも色々な本やウェブ・ページを参照しながら内容を再考したり訂正している。

さて、本書の第一章は「幻想1 アメリカ - イギリス英語こそが正統な英語である」という見出しで、英語にはインドや中国あるいは日本でも使われているローカルなバリエーションがあり、アメリカやイギリスなどの話者よりも圧倒的に人数は多い。もし海外で英語を使ってやりとりするのであれば、その相手はアメリカやイギリスで生まれ育った人物であるとは限らず、寧ろ移民や留学などでアメリカにいる人も含めて、母国語を英語としていない人々であろう。こうした、英語話者の「中心」とされるアメリカやイギリスの英語しか知らないと、いざ中国人と英語で話したり、アフリカ人と英語で文書を交わすときに、相手の発音をうまく聞き取れなかったり、アフリカで使われるような言い回しを理解できなかったりするリスクが生じる。これでは、英語を使っているとは言えない。実際、このような状況で相手に「君の英語は標準的ではない」などと文句を言っても無意味である。僕は、しばしばインド人の発音にウンザリさせられるけれど、しかしいまやアメリカでもインド人の発音している英語は多くの企業で聞かれるであろう。何と言っても、多くの巨大 IT 企業のトップはインド人か中国・台湾人である。

ここまでは、既に当論説でも書いていることと殆ど同じだ。繰り返して強調するほどのことではないし、更にはアメリカやイギリスにおいてすら、地域や職業や出自や性別や人種や世代によって慣用句の扱いや単語の発音あるいは助動詞の使い方などが微妙に違っていて、誰もが共通に習得すべき「標準英語」なんてものを話したり書く人はいない。そして、それは当然ながら日本語においても同じである。いまや NHK のアナウンサーが使う「~というかたち」とか「浮き彫り」なんていうフレーズの多用・乱用は目に余るし、大手新聞社の記事なんて編集上の制約や印象操作のために発達しただけの、クズみたいな日本語であることは、僕らが小学生の頃から進学校では教員や生徒の常識だった。少なくとも僕が通っていた大阪教育大学付属の小学校から高校まで、NIE(教育に新聞を)などというスローガンや企画が誰の授業にも採用されず鼻で笑われていたのは、妥当な判断だと言える。

しかし、だからといってわざわざインド人の英語を学ぶ必要なんてないと僕は思う。この手の、社会学者や社会評論系の心理学者とか言語学者によくある、人生色々みたいな話は、公平で慎重な態度を醸し出すわけだが、僕は単なる相対主義や無責任でしかないと思う。では、明日から英語を学ぶのにどうするのか。パキスタン人とアメリカ人とで、パキスタン人を選ばなくては、何か社会的なミスなり不道徳なことをやったことになるのか。そうではあるまい。どう考えても英語はアメリカ人やイギリス人が書いたり話していることを基準に学ぶべきなのであって、インド人とだけ英語で働いたり暮らしていくならともかく、どこかスタンダードなところから学ばなくてはいけないからには、やはりアメリカやイギリスで使われたり教材が作られている英語を学ぶのが妥当だろう。そして、これは簡単な揚げ足取りになってしまうが、そもそも「世界英語」などという英語こそ、「標準的な日本人」などと同じで、どこにも存在しないのである。

著者である久保田氏も、このような問題は理解していて、「世界英語」というコンセプトには限界があると指摘する。そして、英語を母語としない人々どうしのコミュニケーションでは文法のミスや言葉の選択などにブレがあっても許容されるという実情をふまえた「共通語としての英語」(English as a lingua franca)というコンセプトも紹介している。だが、これも僕が既に述べた通り、「あれもあるし、これもある」式の社会学をやっているならともかく、現実にはおかしな発音の英語を話す人は警戒されることも多い。国によっては不法移民だったり、テロリストである可能性だってあるからだ。言語学的なスローガンをまくしたてたところで、相手に通用しなければ意味がない。相手は英語教育の是非を議論するつもりで、あなたと英語で話しているわけではないだろう。したがって、皮肉なことに英語の多様性を指摘するだけでは何も解決しないか、逆にスタンダードな英語の必要性を裏書きしてしまうことになるのだ。このような難しさも、久保田氏は強調している。

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『英語教育幻想』を読む (2) 「ネイティヴ話者」とは誰のことか?

次に、「幻想2 - ことばはネイティブスピーカーから学ぶのが一番だ」という議論になりますが、ここでも久保田氏は「世界英語」と ELF という批判的な観点を紹介して、「ネイティブ」という観念が各人にとってのアイデンティティや自意識に関わることなのに、日本では何らかの客観的に判断できる資格であるかのように見做していると指摘する。確かに、日本でも「純粋日本人」などという妄想を口走るのは、たいていネトウヨなどの自意識過剰な人々であり、何か特権的な資格や身分であるかのように思い込んでいるようだが、実情ではそれ以外に取り柄がないかのような悲惨さを醸し出している。なんにせよ、社会言語学などの見立てでは、「ネイティブ」であるかどうかというのは多分に自意識の問題であって、固定的な条件で誰がそうなのかを言い当てられるような資格や身体的な特徴などではない。

加えて、市橋敬三氏の口語辞典を紹介した落書き(Notes)で書いたことがある話をここでもご紹介しておこう。しばしば辞書や単語集あるいは英文法や英会話などの本で「ネイティブが監修している」などと謳っている本の多くが、他人様に売りつけるには値しない品質の、英語が話せるというだけの未熟で文法の知識が乏しいアメリカ人による、落書きに近いものとなっていたりする。こういう実情について、市橋敬三氏の『話すためのアメリカ口語表現辞典』(研究社、2007)の冒頭に掲げられている「本辞典の特色と、利用上の注意点」で詳述されていることとして、採用する表現なり文例をネイティブに「インフォーマント」としてチェックしてもらうにあたって、従来の辞書は非常に安易で拙劣な人選やアンケートの取り方を選んでいたと指摘しているのが参考になる。そして、市橋氏がインフォーマントとして採用する基準としては、たとえば日本に長く住んでいる人物は採用しないとか、若すぎたり年寄りすぎる人物は採用しないとか、有力新聞や有名な雑誌の記事あるいは有名人の発言などを示して評価させるのは愚策であるとか(誰でも自分が無教養だと思われたくないので、こういう記事や発言には否定的な評価がし辛くなる認知バイアスがかかる)だ。よって、時間と費用をかけてインフォーマントを選び、そして或るていどは訓練する手間をかけない限り、六本木や渋谷でブラブラしてるチンピラ外人に、いきなり示した英語表現をどう思うか尋ねるなんてことをしても、東アジアの辺境国家なんかにわざわざビザを取得してやってくる人間の基準で判断されるのがオチなのだ。それに比べたら、生成 AI のセマンティックな計算で、或る英語表現が fluent であるかどうか、natural であるかどうかを自動判定させるほうが、英語を読み書きできるていどの凡人でしかないようなレベルの自称「ネイティブ」がもつ感覚よりも遥かに信頼性が高い。

そして久保田氏が説明するところでは、話が自意識の問題であるからして、実はアメリカ人やアメリカで暮らしている移民にも似たような妄想、つまりネイティブ話者とはこれこれこういう人だ(これこれこういう人ではない)という思い込みがある。端的に言えば、彼女ら英語を母国語としていない教員がアメリカで教えると、アメリカで生まれ育った教員よりも低い評価を受ける。そして、その理由は「英語力」だったりするらしい。そこで、英語を母語としない人々に対する差別的な思い込みだとか、授業評価の偏りについて、提言しているらしい。ただ、そうした議論の枠組み自体がポストコロニアル理論だの「南の理論」だのという、かなり雑な二分法だとか短絡的な左翼思想に振り回されているような印象はある。言語にかかわる議論の多くがイデオロギーに関わるという指摘は正しいと思うのだが、それにイデオロギーの批評を加えることで何かが解決するわけでもないのは、現今のトランプ政権にアメリカの社会科学が完全に無力であるという事実からも簡単に見て取れる。いまだに、アメリカの社会科学者や学術団体が、何らかのメッセージを広く発したり、あるいは新聞に意見広告を出したという話は聞かない(これは、僕が単に知らないか情報を積極的に探していないだけで、既にアメリカでは色々なことが起きているというかもしれない。でも、日本のような文化的後進国ですら、やれ9条の会だとか、柄谷行人や平野啓一郎らが何か発表したとか、つまんないことでも報道されるのだから、アメリカで何かあれば報道されるはずだ。あるいは日本でトランプ政権に批判的な社会科学者が代わりに自分のブログやメディアの記事で取り上げるはずだと思う。しょせん、こういうことは結果がすべてなのであって、学者や物書きといえどもパブリシティで負ければ何もしていないも同然なのだ)。

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『英語教育幻想』を読む (3) 言語に関する CRT (critical race theory)

以上のような経緯で、次に議論されている「幻想3 - 英語のネイティブスピーカーは白人だ」という一章も、同じ話が展開されている。正直、幻想1~幻想3、とりわけ幻想2と幻想3は殆ど同じ話をしているので、わざわざ分ける必要がないと思うのだが、編集の都合から「ちょうど10章」にしようとすると仕方がなかったのかもしれない。ともあれ、ここでも「ネイティブ話者」としてのステレオタイプが白人(男性)であることなどを差別として捉えて議論している。そして、これはもはや幻想という過失なり不完全義務の話ではなく、差別という完全義務(つまり避けなくては非難されるようなこと)の話になっているので、どうも英語教育や英語の学習というテーマからはズレているように思う。

だが、僕は英語を学ぶ人がロール・モデルとして想定する「ネイティブ・スピーカー」が白人であろうとなかろうと、そんなのは些末なことだとしか思えない。それは、メディアなどによる偏った扱い方によって多くの人が抱いてしまっている、できれば改めたほうがよい偏見なのかもしれないが、しょせん「白人の誰それになりたい」なんていう歪んだ動機で英語を学ぶ人間が挫折しようと、あるいは歪んだ英語を身に着けようと、それで人生にどういう結末が待っているのであれ、英語の教育者は関知しなくてもいいはずだ。それは、英語や英語教育の問題ではないからである。

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『英語教育幻想』を読む (4) 言語は文化の条件であり反映でもある

著者のスタンスは、あるていど明確になっている。したがって、「幻想4 - 英語を学ぶことは欧米の社会や文化を知ることにつながる」という一章においても、「国際化」だの「国際人を育てる」だのというスローガンで進められている英語教育の実態は、単に WASP のフォロワーになることでしかないという批評として展開される。だが、いまやアメリカで働くときにインド系や中国系やメキシコ系といった人々との共同作業や交渉なしには多くの事業が進められないし、現に日本の文科省や英語教師が妄想している「典型的なアメリカ人」としての WASP なんてのは(もちろん WASP という条件だけではなく、或るていどは不安のない収入や暮らしをしている家庭に限って言えば)、アメリカのデモグラフィーで言えば 5% ていどだ。なるほど、この 5% が大きな影響力をもってはいるが、しかし 5% の人々を理解すれば「アメリカの社会や文化を知る」ことになるのかと言えば、もちろんそんなことはありえない。したがって、現今の英語教育が著しく視野狭窄に陥っているという著者の指摘は納得できるし、どさくさで「属国」だのなんのと政治評論まで展開せざるをえない心情も理解できる。もちろん文科省が関わることであればなおさら、英語「教育」というものは政策つまりは政治の問題でもあるからだ。そして、現在はこうした視野狭窄が逆向きに、つまり偏向した「日本文化」の発信として展開されており、ニンジャ・ゲイシャ・フジヤマから任天堂・アニメ・性風俗にいたるまで、結局は欧米人の一部の人々が喜んでいるにすぎないもの(アメリカの産業とぶつかり合う自動車や鉄鋼の成果物や技術などではなく)を提供することに躍起となっている。これは、社会批評としてはアメリカの high culture に対する low culture としての抵抗でもあり、つまるところディズニーに対立させるべきは establishment を志向してしまった手塚治虫ではなくエロ漫画ということになろう。

僕も、日本で発売されている教材の多くが偏っているという指摘には同意する。それだけではなく、僕が専攻している哲学においても、「英米哲学」などと雑に語られてきたものは、結局のところ経験主義であろうと分析哲学であろうとプラグマティズムであろうと、あるいはアイン・ランドのような素人社会思想にいたるまで、しょせんは WASP やユダヤ人が普及させてきたものだけである。アメリカに住んでいる黒人やネイティヴ・アメリカンの思想は、哲学ではまともに扱われておらず、文化人類学や民族学や文芸評論などが扱ってきたという事実がある。したがって、僕は科学哲学という分野の中で、敢えて論理実証主義とランド研究所(冷戦構造)だとか、哲学なり思想と政治や社会や文化やテクノロジーとの関わりについて関心をもってきたし、いわゆる「分析哲学」や「科学哲学」と称するスタンスがそれらとの関わりを無視しては正しく評価したり「活用」つまりはコミットできないものだと主張してきたわけである。こんなことは、デリダやフーコーを読んでいた人間なら誰でも考えることだが、現実には学術的な業績として殆ど出てこないし着目もされず、せいぜい雑誌のエッセイやブログ記事として書かれているにすぎない。なので、著者らの主張を別の脈絡や分野でサポートすることは、何らかの意義があろうと思う。

ただし、このような理解は誰にでも求められるものだろうか。これからアメリカへ移住して、アメリカで生きていく人にとってはともかく、カジュアルに映画を字幕無しで楽しめるようになりたいといった(実は、たいていの人が挫折する高度な目標なのだが)気楽な動機で英語を学ぶ人々にまで、自分たちの学んでいる「英語」が一部の境遇にある人々の使う限定的な言葉遣いにすぎないと言ってみたところで、さほど効果的とは思えないわけである。なんと言っても、英語に限らず、大半の凡庸な人々が英語を学ぶ理由は凡庸であり、そしてさほど切実でもない。自分が偏見をもっていることを知って反省するために英語を学ぶ人なんて殆どいないだろうし、そんなことは動機や目的がなんであれ、まず手持ちの教材で学んでから、実際に英語を使って恥をかいたり失望すればよいのではあるまいかと思う。そうならないために、「良い英語教育」だとか「正しい英語教育」の何たるかを議論し、採用・導入することも必要ではあるけれど、なんだかんだ言っても言葉の習得を含めた「生きるためのすべ」を会得するのに、あらかじめ是非を論じたり気にしているようでは、負ける(競争ではなくても、たとえば制度や自然環境に対応できないという意味で)と思うのだ。日本人の英語や英会話への接し方が、根本的に「ヌルい」と思うのは、それがなくては生きていけないという切実さが全く無いからだというのが僕の持論である。

したがって、さきほど述べた科学哲学という研究分野の「偏向」についても、スタンダードな研究成果を学ぶことなく、いきなり社会批評家や STS の学者まがいに哲学の勉強もしていない者が学んだり研究したり、あるいは議論したり語るなんてことをしても大して重要な成果は挙げられないと思う。偏っていようと、まずは現に多くの人々がコミットしている分野とかテーマに取り組んだうえで、その限界や偏りを理解するためならともかく、量子力学や進化論の学部レベルの知識すらない大学1年生が安っぽい好奇心や正義感のようなものを理由に「科学哲学の偏向を研究したい」なんて言ってこようと、僕はそんなものは題材として勧めないし、指導教官なら突き返すだろう。

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『英語教育幻想』を読む (5) 文化の独自性について

次に著者は「幻想5 - それぞれの国の文化や言語には独特さがある」というテーマで議論している。これは、従来からよくある「英語は論理的で、日本語は非論理的」という茶飲み話や思い込みや、欧米文化と日本文化の比較など、一見すると学術研究の成果みたいに見えるが、実際には殆ど社会調査の裏付けがない著者の思い込みだったりする議論も含めて、言語や文化についてのデタラメな議論を排していく話であって、原則としては全く問題がない内容だと思う。さらに続けて、久保田氏は文化を理解するにあたって有益な「4Dアプローチ」を紹介している。これは、“discription,” “diversity,” “dynamism,” “discursiveness” という四つの概念を中心にしている。第一に、文化を正確に記述・記録することを重視し、文法や慣習から逸脱した話し方や言葉の扱いも修正せずに書き留める。第二に、文化の多様性を理解し尊重する。第三に、言葉や文化は移り変わるものであって、永続しないということ。歴史学の学識もない人々が口にする「伝統」などというものは、たいてい数十年か百年ていどの歴史しかないものだ。それから第四に、或る地域や国の「文化」として語られているものは社会的に構成され共有されて決まるのであって、客観的な事実の集積ではないということ。それゆえ、第一の概念で説明されるように、とりわけ政治やマスコミにおいて語られる「文化」の内容からはみ出す事実を記述していくことが大切だとされる。

もちろん、岸(政彦)くんら日本の社会学者がこうしたことを熱心にやっているのは知っているし、たびたび英米圏で博物学者に例えて揶揄するのと似たような冷笑を浴びせることもあるわけだが、こうした記述をこととする活動をにわかに否定するつもりはない。だが、これが僕らの英語の勉強と何の関係があるのかと言われると、やはり困惑せざるをえない。人生色々、みたいな話をされたところで仕方ないわけであって、僕らは色々な人の生活や言葉の使い方を知るために(英語についてのルポを書いて本を出版したり、あるいは社会言語学や文化人類学や社会学の博士号を取りたくて)英語を学んでいるわけではないのである。もちろん、黒人が喋っている言葉も英語だろうし、移民の中国人が喋っているのも英語であろう。だが、それぞれに経緯があって、どれも尊重に値するというのであれば、もちろん国連やアイビー・リーグで使われている英語も尊重にあたいするのであって、逆にこうした相対主義こそが「スタンダードな英語」を学ぼうとしたり偏重する傾向に竿を差して助長してしまうのではないだろうか。

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『英語教育幻想』を読む (6) 英語で誰とでも意思疎通できる?

次の「幻想6 - 英語ができれば世界中だれとでも意思疎通できる」は、英会話スクールの営業じゃあるまいし、こんなフレーズを真に受ける大人がいるとは思えない。したがって、これは「幻想」などと言い立てること自体がおかしいのであって、架空の敵を作るような話だし、藁人形論法のように思える。実際、みなさんが仮に英語で会話できるとして、電車に乗ったときに隣の人へ英語で話しかけてみれば一目瞭然だと思う。アメリカですら、英語で受け答えできない人が隣にいる可能性があると思う。中国の企業へ派遣されるなら中国語を学ぶ(あるいは学ぼうとする)のが当然だろうし、ケニアへ移住するなら、英語が使える人も一部にはいると思うが、やはり公用語であるスワヒリ語を学ぼうとするのが適切だ。いや、アフリカの場合は国内でも色々な部族があったりするので、住んで生活する場所に応じた言葉を学ぶのが有効だろう。周囲の人々に伝わらない言語を習得したところで、そんなものが無意味であることくらい子供でも分かるはずだ。

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『英語教育幻想』を読む (7) 成功とは何か、言葉の選択や練度の効力は?

そして、次が「幻想7 - 英語力は社会的・経済的成功をもたらす」については、あなたがアメリカの IT 企業で出世したいのであれば、なるほど英語を熱心に勉強するのもよいだろうとは思う。ただし、博士号をとれるていどのコンピュータ・サイエンスと数学の素養か、あるいはアイビー・リーグの法科大学院を出たくらいの口八丁や手練手管で、アメリカの大手企業で経営に参加してきた実績なしには不可能だと思うがね。そして、ここまで読めばおわかりのとおり、「英語力」などというものは必要最低限の条件であって、アメリカではナイフを手にしたチンピラやホームレスでも英語を話すのだ。こんなことくらいで何かが急に有利になったりはしない。では、日本ではどうだろうか。既にこの論説で事例をご紹介しているように、YouTube で数多くのチャネル登録者を集めている「TOEIC満点」をアピールしている女性は、いったいどこの大学教授や取締役なのだろう? もちろん、大学教授や企業経営者になることだけが社会的・経済的成功ではないが、常識的に考えて、長野県の山奥でクラウド・ワーカーとして子供を気楽に育てている夫婦とかの「成功談」が(負け惜しみとまではいかなくても)言葉の彩に過ぎないことくらい、中学生でも知っている。

そして、久保田氏が指摘しているように、「英語で成功・出世する」という話は、大多数において短絡的な事例にすぎない。つまり、こういう事例の大半は、既に社会的・経済的には成功している社会階層の人々、もっと具体的に言えば上場企業の社員の話だったりするのだ。伊藤忠や丸紅の現地駐在員にとって「英語力」がどれほどのものであろうと、彼らはそういう企業に入った時点で、新卒でも中小企業の部長である僕らの遥かに上をいく年収を得ていて、たぶん億単位の新築一戸建てなら数年程度の遊興費を我慢すれば買えてしまう。そうした人々の何割が「英語で成功した」などという些末なストーリーを日経BPや東洋経済のライターに話すのかは知らないが、どのみち成功した人間だけが取材に応じるであろうから、生存バイアスの見本みたいなストーリーを集めた本や記事が出来上がるのは目に見えている。また、海外で仕事をするうえで重要なのは TOEIC などのペーパー・テストのスコアではなく、多くの経験者が口を揃えているように、コミュニケーションの能力だ。そして、これは実は必ずしも特定の言語を運用する能力だとは限らず、相手に理解してもらいたいとか、自分が理解したいという動機や意欲などという心理的な問題だったりするので、語学の勉強や試験ではどうにもならない場合もある。これは、既に本論説でも他のセクションで説明したとおりの話だ。「英会話」という何かの型を演技したり、パントマイムでも演じるかのごとき振る舞いをやっていてもしょうがないのであって、英会話のフレーズを口に出すことだけでは、そもそも会話にならないのだという自覚がなくてはいけない。そして、そういう自覚がない人の逸話とか勉強の話をどれだけ並べられても、役には立たないのである。彼らが仮に伊藤忠の部長だったとしても、彼らは他の(寝技や策謀など)色々な理由で昇進したのであって、英語なんか殆ど関係ないのだろう。

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『英語教育幻想』を読む (8) 英語を話せるだけの凡人を育てる方法

「幻想8 - 英語教育は幼少期からできるだけ早く始めた方がよい」についても、既にこの論説で幾つかの箇所では議論しているから、僕が言いたいことは既に見出しに書いてある。言葉というものは、それに対応する概念の理解なしに覚えても使えない。というか、概念をもっていないのだから、使う必要性を感じないであろう。たとえば、分析哲学の用語として “supervenience” という言葉があり、ふつうの英語としては「付随」とか「(病気の)併発」という意味だが、哲学では、或る性質に対して、別の性質が付随している(そして前者が同じままなら後者も変化しない)ことを指す。感情は脳の電気化学的な状態に付随しているし、芸術的な評価は作品と評価する者との物質的な状態や関係に付随している。さて、では5歳児が “supervenience” という単語を覚えたとして、何か有効に使えるだろうか。あるいは使おうとするだろうか。もちろん覚えたての言葉を色々な状況に当てはめるという遊びはすると思うが、やがて使わなくなって忘れる筈だ。生物の記憶とはそういうものであって、寧ろ覚えたことを手当たり次第に記憶に止めていたのでは、全てのデータが同じウェイトを持っている状態で使える言葉を記憶から引き出すような話だから、逆に効率が悪いのである。

それから、久保田氏も疑問を呈しているように、この手の英語教育の話で最も怪しいのが、「早くから英語を学ぶと外国で積極的に話すようになる」という、殆ど何の根拠もない与太話を思い込みだけで語る連中だ。そもそも、こういうことは生活習慣や家庭環境の問題でもあって、朝の挨拶もせずロクに会話もしない親に育てられたり、マンション住まいで近隣の住人すら知らないような場所で育った人が、英語を勉強しただけで他人と積極的に会話するなんていうことはありえないのである。外国語教育は発達心理学や社会学の応用ではないのだ。そして、言語の習熟度はモチベーションなど色々な条件に依存している。エロ漫画を読みたい一心のフランス人、日本の社会保障制度を利用して気楽に生活したい中国人、こうした強いモチベーションのない大半の日本人にとって、外国語、なかんずく英語を学ぶ意欲というものは切実さが決定的に足りない。

そして、子供の頃から英語を学ぶと発音がうまくなるという話もある。確かに、実証研究でそういう傾向があるのは事実らしいが、これも過大評価するべきではない。成人してから学び始めて、十分に現地で通用する発音で話せる人はたくさんいる。そもそも、そのアメリカで、軍隊などが海外へ人材を派兵するときに、あらかじめ数週間で集中して現地の言葉を訓練しているわけだが、成人してから入隊した兵士の多くが現地で活動している(それこそ軍人として正確に意思の疎通ができなくては危険である)。多くの国で子供が英語を学んでいるのは、敢えて言えばそれが生活や仕事の手段となるからであって、日本のように「国際人を育成する」などという安っぽい理想論など関係がない。あるいは、子供が英語を学んでいる多くの国は後進国や発展途上国であり、道具が必要な STEM 系統の科目を教える実験室もパソコン・ルームもないから、語学を教えているという事情だってある。人文・社会系の科目ですら、資料や教科書がないと成立しない。それに比べて言語は、それこそ教師が適当に話せれば授業が成立する。いずれにしても、有名なポッドキャストのセッションで、冒頭に “connection not perfection”® というフレーズを使っているように(商標登録していたのは知らなかった)、発音が流暢であることと話している中身がまともであるかどうかは関係がない。何度も言うようで恐縮だが、アメリカには英語を流暢に話す性犯罪者がたくさんいるのだ。

加えて、久保田氏が紹介している調査によれば、小学生と中学生とで英語を学び始めた時期が異なるという条件で、英語の習熟度を長期に渡って調べたところ、英語を学び始めた時期と習熟度に大きな差はなかったという。これは、学校教育の範囲で週に数時間しか学ばないという「教育」の範囲では、学び始める年齢が小学校であろうと小学校であろうと差がないということでもある。実際、或る研究者によれば、幼児が母語としての言葉を5年で習得する内容は、同じだけの内容を学校教育で学ぶとすれば、なんと90年分に匹敵するという。つまりは、どういうカリキュラムであろうと、学校でお勉強している時間と内容だけであれば、幼稚園からやろうと高校からやろうと、大して変わらないのである。しばしば、「日本人は中学から大学まで、長ければ十年間に渡って英語を学んでいるのに、どうして英語が使えないのか?」などと言われるが、進学校ですら英語の授業なんて一日に3コマあるかないかだ。年数がいくら長くても、実質的に英語と向き合っている正味の時間が少なすぎるのだ。

このセクションの最後に、英語を幼い時期から学ぶと日本語を習得する邪魔になるという、インチキな保守とかが言いそうな批判があって、これには妥当な根拠がないと久保田氏は論じている。ただし、僕は、このような議論は条件によって結果が違うという意見をもっていて、久保田氏が紹介している「言語的相互依存仮説」という、いかにもチョムスキー学派のようなことを言っている学説には簡単に従えない。確かに、日本語と英語で共通の何らかの言語的な能力というものがあれば、どちらの言語を学んでいようと「共通部分」の習熟にとって役立つため、英語を学ぶからといって「共通部分」の習熟を邪魔することにはならないのだろう。でも、我々が議論しているのは、そのような本当にあるのかどうか分からない「言語能力の共通部分」の話ではなく、それを基礎にした各国や地域で使われている現実の言葉なのだ。いくら共通部分の習熟にとって問題がなくても、現実の言葉である日本語の語彙を学ぶ時間は確実に英語の授業で削り取られてしまうのだから(先に述べた「幼児が母語としての言葉を5年で習得する内容」を削っていることになる)。

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『英語教育幻想』を読む (9) 「英語で考える」べきか

「幻想9 - 英語は英語で学んだ方がよい」は、簡単に言えば英和辞典よりも英英辞典を使うほうが「良い」といった意見や、英語の本によくある「英語で考えろ」といったアドバイスについて問うています。結論から言えば、一概に有効だとも無効だとも言えず、学ぶ人の事情や環境によって対応は異なるし、異なって良いし、場合によっては異なるべきだとすら言える。これは、著者が「英語で教える」とか「英語で理解できるようにする」という目標を一種の「同化主義」となる場合があると見做しているからだ。そして著者のような社会批評という脈絡や動機がなくても、僕も同じことを主張すると思う。僕は中学時代から LDOCE (Longman Dictionary of Contemporary English) を使っているが、だからといって英和辞典が不要だなんていう意見には同調しない。なんと言っても、英英辞典は「日本語で何と言えばいいか」は教えてくれないからだ。

それから、文法書で頻繁に見かけるのが「英語で考えろ」というアドバイスだ。しかし、そもそも母語でない言語で思考するなんてことができるのだろうか。実際には、心のなかで英語で思考しているようであっても、それはつまり心の中で翻訳しているだけではないのか。そもそも、大多数の場面において、たいていの人は「考えてから話す」なんてことはしていない。単に話しているだけだ。話しながら、相手が何を思っているのかを想像したり、そうした意味で考えることはあるだろうが、いちいち相手から何かを聞いたあとに、返事をするまでのあいだ、自分が何を言うべきかを推論したり吟味してから話すなんてことはないだろう。そもそも、日本語でふだんから話しているときですら、考えてから話すなんてことはしていないわけで、こういうアドバイスは根本的に思考とか会話とかについての認知モデルが間違っていると思う。

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『英語教育幻想』を読む (10) 自意識のために英会話する迷惑なやつになるな

最後の「幻想10 - 英語を学習する目的は英語が使えるようになることだ」も、あまり有益な議論だとは思わないので、手短に取り上げる。こんな動機でしか英語を学ぶつもりがない人間にアドバイスする必要なんてないからだ。さっさと挫折して、反米右翼にでもなって近所の迷惑な爺さんや婆さんとして死んでいけばいい。当論説でも何度か書いているが、「英語ペラペラ」みたいな自意識だけが理由で英語を学んだところで、その反響や効用が感じられなくなれば、すぐにやめてしまうだろう。でも、英語を習得するべき切実な事情だとか真面目な目的がある人たちの多くにとっては、英語は学ぶべきことではあるけれど、それに費やす時間やコストは、どちらかと言えば仕方なく払っている代償あるいは必要悪のようなものであって、決してそれ自体を楽しんでいるとは限らない。英会話を、誰も彼もが楽しんで、自ら喜んで学んでいるなどという幻想こそ、英語の教育において、あるいは英語教育を語るにあたっては取り除くべきであろう。

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