英語の勉強について

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

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First appeared: 2019-02-23 22:25:05,
Modified: 2019-04-11 10:29:38,2019-04-16 15:53:41,2019-06-30 00:53:02,2021-09-21 09:02:45,2021-11-22 17:33:11,2022-05-11 07:02:44,2022-06-06 07:36:01,2022-08-23 07:45:27,2022-08-29 10:24:59,2022-10-11 08:50:50,2022-10-24 13:23:01,2022-11-18 21:55:09,2023-03-14 08:21:01,2023-05-22 12:13:17,2023-10-29 11:18:19,2024-02-03 15:58:20,2024-06-01 11:59:43,2024-07-09 11:42:55,
Last modified: 2024-09-09 08:00:30.

はじめに

本稿は、英語の勉強について色々なテーマを取り上げる。そして、取り上げているテーマの多くは中学から大学まで英語を勉強した人なら誰でも口を挟めるような話題ではあるものの、その多くが本人の僅かな経験に頼る偏った議論にすぎないので、ここでの議論も僕自身の経験が限られていることを理解したうえで、誰にでも当てはまるとは限らないという前提を置く。そして、本稿の目的は、僕が英語を勉強してきた方法をつまびらかに列挙したり勧めることでもなく、その是非を決めることでもない。僕は、英語のユーザとしては全くの平凡な人間なので、自分の経験が誰かの役に立つかもしれないとは思うが、僕のやってきたことに賛同したり従ってもらいたいなどとは思っていない。

なお、本稿は別のページや記事で書いた文章を追加したり、後から新しく書き足しているため、それぞれ文体が違っている。このページへ転載するにあたって表記を改めてもいいのだが、些末なことに時間を使う必要を感じていないため、本稿はそういうものだと割り切って読んでもらいたい。

松本亨さんの話

もう松本亨さんと言われても知らない人が大半だろうし、そもそも僕と同じ年代の人々でも英語の勉強に特別の関心がなければ知らない人も多いとは思う。それに、松本亨さんは僕が中学に入って英語の勉強を始めた1981年には亡くなっていたのであり、彼が長らく務めたという NHK ラジオの『英会話』というプログラムも聴いたことがないから、彼が英語の話者としてどう喋っていたのかすら僕は知らない。しかし、それでも僕は松本亨という人物には一定の影響を受けている。なぜなら、僕は彼が書いた『英語の新しい学び方』(講談社, 講談社現代新書52, 1965)という本の愛読者だったからだ。他にも、中学に入って英語の勉強について色々と調べたり試していた頃に、同じく英語教育の本では著名な松本道弘さんの著書にも触れて、「なるほど、僕はまだ*級の使い手か」などと感じては奮起させられたものであった。(それは、僕が幼かったからだろう。松本道弘さんの著書や主張については、他の話題として書き改めることとしたい。僕は、松本道弘さんのアプローチはロジックや語彙や文法にこだわりすぎていて内容を見失っていると思う。)

松本亨『英語の新しい学び方』

英語を学んでいるときに影響を受けた人物としては、他にも塾の先生がいた。お名前は忘れてしまったが、一時期だけマンツーマンで指導してもらい、そのときに桐原書店の高校の参考書を使い込んだことがある。先生曰く、中学生であっても文法を体系的に解説している高校の参考書を使って勉強した方が効率が良いとのことだった。これは、僕がプログラミング言語を仕事で勉強するときにも従ってきた方針だ。実際、「〇〇を作りながら覚える**言語」のような、書いている側はシンタクスの必要事項を網羅するように構成して書いているのだとは思うが、それをわざわざ場当たり的にストーリー仕立てにしたり具体的な目標を立てて解説しなくてもよいと思う。逆に、機能を使うコンテクストを具体的に決められてしまうような説明だと先入観ができてしまう。数学でもそうだが、いつまでも鶴亀算をやっているだけでは方程式を解いたり解析学の定理を証明できるようにはならないのである。そして、自分の知識や経験や技能を役立てる有効な手段というものは、結局のところ物事を体系的・抽象的・形式的に理解する訓練と、それを色々な場面で応用してみるという好奇心やチャレンジの組み合わせなのである。前者があって初めて信念を持てるし、後者があって初めて理解は向上したり洗練するものだ。

Mastery 高校 新総合英語 3訂版

そして更に、この先生から勧められて使い始めたのが、松本亨さんも勧めている、いわゆる英英辞典だ。どの英英辞典がいいと具体的には勧められなかったが、(なんと言っても中学生だったので)LDOCE の基本単語集を買って一通りの勉強をしてから、当時は一色刷りだった Longman Dictionary of Contemporary English の初版を手に入れた。いまでこそ多くの辞書に採用されているが、その当時は語義の語彙数を制限して記述するという辞書が目新しかったので、語彙が少ない中学生が最初に使うのに最適だと思ったからだ。覚えている方もおられると思うが、昔の英英辞典は語義の記述がそもそも難しくて、特に Webster の辞書は語義を理解するために英和辞典を使わないといけなかったほどだった。それに比べて LDOCE は語義を別の辞書で読み解く必要がない。中には、語彙が限定されているからか回りくどい言い回しの語義もあるにはあるが、それで LDOCE や英英辞典を放り投げる理由になどなるまい*

Longman Dictionary of Contemporary English

*確かに、語義を説明されて何のことかは分かるとしても、それを日本語でどう言うのかを知らなければ、英語で生活はできても翻訳家や通訳にはなれない。したがって、回りくどい表現で語義を理解するよりも英和辞典に書いてある日本語の方がすぐに分かることもあるし、他人である日本人に伝わりやすいことも多いので、英和辞典にも有利な点がある。しかし、学校で無理やりに教え込まれるのとは違って、多くの人が自ら英語を勉強する目的は、英語を他人のために日本語へ訳すことではないはずなのだ。これも松本亨さんの著書に出てくる指摘であり、英語教育において何度も指摘されてきた話題だ(つまり学校教育では英語《を》訳すテクニックを教えており、英語《で》理解したり、英語《で》表現することを教えていない)。

次に、松本亨さんの著書から僕が影響を受けて実際にやっていることをご紹介しよう。まず、次の一節を引く。

辞書をひいたら,その単語にしるしをつけておきます。2度目に同じ単語をひいたときは,それを最後にするつもりで,notebook に書きうつします。この notebook は,book of shame と思って,内ポケットに忍ばせておいて,電車の中で,こっそり復習するために使います。ただし,そこに記入する words には,日本語の訳もなにも書きません。ただそれだけを書いておいて,最初から順々に暗記していきます。

松本亨『英語の新しい学び方』(講談社現代新書), p.193.

上記をヒントにして、単語集を作るときに僕が守っているのは、訳語を書かないというルールだ。知らない単語だけを赤字で書いておき、それが出てくる文を書くと、脈絡とセットになって単語が登場する。こういう単語帳を使い始めた当初は、その脈絡が単語の意味を思い出すヒントになってしまったり、単語の意味を限定する先入観になるのではないかと心配したのだが、そういう心配は英語で生活できるレベルの人間がすればいいことなのである。「学習」している段階の人間は、四の五の言わずに詰め込むことこそ勉強においては王道なのだ。もちろん無味乾燥な作業に耐えられない人も多いので、自分なりの工夫はした方がいい。しかし、いずれにしてもやることは「覚えこむ」という意味において同じであり、なんやかんやとやる前に自分で不安材料を見つけたり欠点をあげつらうのは、要するに勉強したくない人間の言い訳にすぎない。

僕の使ってた単語帳

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「英語ペラペラ」という幻想

英語の勉強がしたいという人はたくさんいるし、好き嫌いはともかく必要だという人も多いが、そうした人たちがたいてい誤解しているのは、(1) 日本で学べるのはあくまでも日本で流通している範囲の情報にすぎないという当たり前の事実を分かっていないということと、(2) 自分たち自身の日本語の運用能力や、自分たち自身の素養・知識についての思い込みがあるということだ。

まず (1) については、英語を勉強する人々の中で、現地で生活するために必要だとか、あるいは業務で習得しなくてはいけないという切実な事情がある人は、既に英語を使わざるをえない状況に置かれている立場であるからには、何をどう勉強してもいい。まずはがむしゃらに勉強しないとどうしようもないのであり、それは他の国へ足を踏み入れる行商人や犯罪者らが遠い昔から延々とやってきたことなのである。それに比べて、学校教育のお勉強だの、字幕を見ないで映画が観たいだの、アメリカに旅行して話したいだのという、言わばカジュアルな動機で英語を勉強する人の殆どは、もちろんアメリカやイギリスへは行ったこともなければ、実はアメリカやイギリスについて、歴史だろうと行政システムだろうと、あるいは歩いていてウンコしたくなったらどこへ行けばいいかすら学んだことがない人たちであろう。或る言葉をアメリカで現地の人たちが気軽に話しているのを聞いて理解するための、実生活という経験もゼロである。もちろん僕らにも言えることだが、現地で流行っているテレビ番組のセリフや広告のキャッチフレーズをもじった表現などは、現地で生活していないと理解できないし、まず相手に言われてもピンと来ない。確かに Philosophy of Science に掲載される学術論文に出てくることはないから仕方のない話だが、映画を字幕なしで観たいとか、現地で話してみたいといった、カジュアルな勉強をしている人たちが思い描いている実生活で使われる表現として、こうしたフレーズは膨大な数に上る。そして、そういうものは決して日本で発売されている辞書の類には掲載されないし、辞書の語義を眺めているだけで語釈が正確に分かるものでもない。スラングを集めたような本を片っ端から読んでいる人などもいるようだが、そんなことで南部の黒人が話す訛りまで分かるものでもなかろう。現実に使われる言語というものは、これはスラング、これは訛り、これは業界用語などと区別して相手が使ってくれるという保証などないのであって、その多くの原因は英語のネイティブであるアメリカ人も、その多くは (2) で挙げたように、母国語の能力が欠けているからなのである。(TPO に合わせて言葉が選べない人なんて、日本で日本語を使って会話している大人でもたくさんいるのは誰もが知っているだろう。それに気づかないなら、それはあなた自身の日本語の運用能力が低いからなのだ。)

ということで (2) について話を進めると、これはしばしば英語の幼児教育に反対する人々の根拠にもなっているとおりである。きわめて簡単に言えば、相対性理論を(ブルーバックスを読んだというていどにすら)理解していない人が「そうたいせいりろん」という単語を覚えたところで、そんな語彙は役に立たない。自分で何かを考えるためのツールとしても役に立たないし、相手に「あれは相対性理論に照らしたら起きない筈のことだ」と言われても理解できないだろう。あるいは子供に “administration” という単語を教えたところで、子供にはそれがどういうことなのかという概念がないのであって、“to perform executive duties” と言い換えたところで同じである。更に、“to manage us like your teacher” などと子供に分かる範囲で説明しなおしたとしても、それではニュアンスが全く伝わらない。たぶん、そう説明された子供は、大統領も学級委員も、あるいはテレビのリモコンを握るおとーさんも “administration” していると思ったり言うだろう。或る意味ではそうだと言えるのも確かだが、そういう雑な語釈をつかむだけで言葉を習得していくと、母国語であれば周りとの会話で早期に修正したり調整するチャンスがあるけれど、外国語を独学したり試験問題だけで学ぶ場合は調整不能と言ってよく、現地で使い始めても相手からは「変な英語を喋る人」として扱われたままだ。ちょうど、僕らが留学生の日本語をいちいち修正したり調整などしないのと同じで、アメリカ人も相手の英語をいちいち指摘などしないし、リベラルな人が多いと言われる西海岸地域ですら英語の扱いが下手だと差別の対象になって、指摘どころか全く相手にされなくなるのである(これは強調しておくべきだと思うが、アメリカはあらゆる種類の差別の先進国である)。したがって、英英辞典の語義では《それがどういうことなのか》を理解するにはニュアンスや制約条件が足りず、結局は教えるべき人が(いればの話だが)的確な状況で使って見せるしかない。しかし、英語を学びたいという人の多くは単独で勉強しているため、そんな的確な語釈を示してくれる相手などいない。すると、英英辞典の語義を眺めて過不足なく語釈を記述しているかどうかを自分で判断しなくてはいけないという英語の能力を、英語の学習者が要求されるなどということは無茶な話だと分かるだろう。

もちろん、どこまで準備すれば英語を学ぶだけの知識や経験があると言えるかは分からない。しかし、上に紹介したとおりのミスマッチが見過ごされたまま英語の幼児教育が普及して、日本語も英語も半端な能力しかなく、それどころか日本と英語圏の生活や知識についての理解も不十分と言える、日本の成人としても英語圏の成人としても半端な人々が育っているように思う。そして、実のところ日本の社会や企業の大半は、日本で英語が使える人間を評価などしていないし採用する必要も感じてこなかったし、それで十分だったのである。実際、テレビでの扱いを見れば分かるように、英語が話せるというのは「芸」の一つにすぎない。沖縄出身、横浜出身でインターナショナル・スクールに通っていましたとか、オーストラリア出身とか、母親がアメリカ人だとか、その手のプロフィールはアイドル歌手や俳優の「オプション」であり、その人物の個性でもなければ強みでもなんでもないのである。もちろん、アメリカの帰国子女だというアイドルに、アメリカでレコーディング・スタジオを使う際の契約書を読ませたところで、彼女らはその当否について何も分からないだろう。そして、当然だが芸能プロダクションは現地のエージェントや日本人の弁護士に依頼して契約書をチェックさせるに決まっている。それは、英語を読み書きできるということと、契約書面の法的なリスクを判定できるということは、全く異なる知識や経験が必要だということを、ぜんぜん英語が話せなくてもまともな大人は理解しているからである。

したがって、そろそろ英語を運用するということについての間違ったロールモデルの典型である、「英語ペラペラ」という馬鹿げたイメージをばら撒くのはやめてもらいたい。馬鹿は、たとえ英語で話していても、馬鹿なことを英語で話しているだけなのである

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単語集をつくる人々へ

単語集や文法の本は、本当にたくさん出版されている。学校の試験や受験だけではなく TOEFL や TOEIC や英検などの qualification にも対応する色々な編集方針の書籍が出ている。僕がそろそろ英語の勉強でも始めようかと思い始めた頃から40年が経過しても、その傾向は全く変わらない。もちろん、そのあいだには幾つかの名著や定番と言われる著作物もあって、文法では多くの人たちが江川泰一郎さんの『英文法解説』(金子書房, 1991)を挙げるだろう。また、英単語では「豆単」と呼ばれた赤尾好夫さんの『英語基本単語集』(旺文社, 1995。アマゾンのレビューで「豆『短』」と変換して推敲すらしてない人が意外と多いのは何か皮肉な印象を覚える)や「シケ単」「でる単」と呼ばれた森 一郎さんの『試験にでる英単語』(青春出版社, 1997。赤尾さんの単語集もそうだが、これらは復刻版なので1990年代の出版となっている)が有名らしい。「らしい」というのは、僕はこれらの単語集を一度も使ったことがないからだ。いや、これらどころか、僕は大学を出るまで英語では単語集を使ったことがないので、ここ数年は初めて単語集を色々と買ってみて教えられるところも多い。

僕が単語集を使わなかった理由は、かなり単純だ。辞書には「重要語」として見出しに星マークが付いていたり別の色で見出し語が印刷されていたりするものだ。そういう目立つ単語から順番に抜き出してノートへ書いていけば、重要な単語だけを集めたノートになる。何もわざわざそれを別の本を買ってやる必要などない。昨今は多色刷りが当たり前になって中華料理屋のメニューかと思うような辞書ばかりが並ぶようになったが(こういう書籍の版下デザイナーは “Nascar effect” という言葉をプロとして聞いたことすらないらしい。あるいは英語学者というのは素人の分際で紙面のデザインにも口を出すのだろうか)、昔は重要な単語の見出し語は文字が大きくなっていたり太字になっていて、それだけでも区別はできた。もう現在の子供は見出し語にラメ入りのインクでも使わないと、重要な見出し語を区別できないのではあるまいか・・・当てつけはともかくとして、単語集を買う人というのは、そういう作業の手間や時間を惜しんで書籍を買っているのだろうとは思ったのだが、実はその当時から、その手間こそが単語を覚えるために必要なプロセスなのだと思っていたため、単語集を漫然と読んでいるだけの人は何度も繰り返して復習しなくてはならなくなり、全ての単語を身に着ける所要時間は大して変わらないのではないかと思っていたのだ。であれば、自分でノートを作った方が安上がりだし、なにより自分の好きな体裁でノートを作れる。B5 ノートで作りたければそうできるし、A7 の非常に小さいコクヨノートでも作れる。あとからメモを書けるように下の5行分だけ空けておくといった工夫もできる。もちろん、これは自分のやり方が最善だという思い上がりにもよるわけだが、しかし勉強において大切と思える一つのポイントは押さえていると思う。

そして色々な種類が出ている単語集、とりわけ奇妙な編集方針をセールス文句にしたものを敬遠していたのは、やたらと文字のサイズや色をたくさん使い分けてみたり、動物などの漫画テイストにしたりという手法を、作っている人々が自分の勉強に使ってきた形跡がまるでないからだ。つまり、或る手法で単語集を編集するという方針に何の実証も論証も存在しないなら、それは単語集の著者が「こうやれば覚えやすいだろう」と思い込んでいるだけの話かもしれないのである。それが、いかに東大の英語学の教授であったり、英字新聞の元編集者だったり、アメリカ在住ウン十年の人だとしても、的確な教材を作る能力があるという保証は何もない。僕は、大阪教育大学の附属小学校から附属高校まで、色々な教諭の教育手法のモルモットになってきて、そういうことはよくわかっていた。学習や教育というのは、正直なところ大半が個人的な経験という貧弱な支えしかない、プライベートな試行錯誤の積み重ねであって、信頼できる理論とか思想というものは(もちろん21世紀の現在でも)殆どない。

単語集をつくる人は、一度でもいいから自分が知らない分野や言語について、自分が提案する手法で自分自身が初めて学び始めてみて習得しやすいかどうかを、自分で勉強して確かめてから出版していただきたい。そうすれば、単語集の本質なんて「どの単語を選ぶか」だけが重要であり、そしてそのていどのことであれば既に辞書があるし、オンラインでは English-Corpora.org のようなコーパスを無料で利用できるし、こうした巨大なデータベースを使った無料のアプリケーションも続々と出ている。これまでの惰性や思い付きの目新しさだけで単語集など作り続けていても、そのうち単語集どころか、オンライン・サービスによって英語の教員すら不要という時代になるかもしれないのだ。

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音声データの提供方法

特に資格試験の教材や英会話の教材では、会話やスピーチとして実際に発せられている様子をヒアリングすることに大きな効果がある。そのため、幾つかの方法で音声データが提供されているのだが、今回は残念ながら購入しても有効に音声を活用できないと思える失敗例を二つご紹介しておく。

失敗例1

まず、『ALL IN ONE』という総合テキスト(文法、単語集・・・第一候補で「丹後州」と出たが、Microsoft の人間は日本にこんな行政区があると思ってるのかな? ・・・あるいは読解の内容を兼ね備えたもの)で知られる高山英士さんという方が作った『ALL IN ONE TOEICテスト 音速チャージ!』という単語集だ。これは、もともと『新TOEIC TEST英単語・熟語高速マスター』という黄色い本として発売されていた冊子から多くの例文が引き継がれているので、改訂版と言ってよいものだが、改訂版は例文が減った代わりに文法の解説などが加わって、単語に比重を置いた『ALL IN ONE』だと考えられる。ただ、そうなると従来の「ALL IN ONE』とも重なることになる。実際、この方の出す本はプロダクト・デザインという観点から言っても、装丁に統一感が全く無いため、直感的にどの本がどういう目的で、どういうレベルの人に向けたものなのか、装丁では殆ど分からない。受験参考書のチャート式のように、色だけで「センター試験レベル」とか「理系難関レベル」などと分かるような明解さが欠けているし、英語の教材としても不必要かつ人を混乱させる無駄なフレーズが多い。英語の運用者としての実力はあるのかもしれないが、いささか悪い意味でのマーケティングに走りすぎている人という印象がある。

それはそれとして、僕がこの『ALL IN ONE TOEICテスト 音速チャージ!』を買って失敗したと思った理由は、既に Messages に書いたとおり、音声データを利用するために専用のアプリケーションをインストールしなくてはならず、もちろんユーザ登録が必要なので個人情報とのバータになり、しかもアプリケーションの運営会社は中国系だという。購入者にこれだけの手間をリスクを負わせないと音声データひとつ提供できないなら、出版する側は音声データが自由に MP3 ファイルなどで第三者にコピーされたりすることを恐れているということである。ということは、英語でもよく言う “the next logical step” として推論できるように、この手の教材の本質は、実は冊子ではなく音声データの方にあり、音声データを繰り返して聴いていれば冊子の教材なんかなくても単語を習得できるということである。英語と日本語でスキットがまとめられているのだから、音声データだけで自立した教材だと考えても違和感は無い。よって、音声データを簡単にコピーさせないように、専用のアプリケーションにユーザ登録しなければいけないという牽制をかけているものと思われる。

しかし、問題はそのアプリケーションだ。開発元が中国人の経営する、別に教育事業を専門にしているわけでもない、何の志があるのかも不明な都内のベンチャーが作ったイージーなアプリケーションで、いまどき教材配信や電子書籍の配信に特化した SDK を使えば中学生が数時間で作れてしまうようなものである。そして、このアプリケーションは、直感的にどう操作すればいいのかまるで分からないにも関わらず、ヘルプが一切無い。スマートフォンに音声データをダウンロードする機能はあるようだが、UI だけではどうやればダウンロードできたことになっているのか、何の notification も indicator もない、いまどき HAL など専門学校の学生が卒業制作で作るアプリケーションよりもレベルが低いと言える(実際、ファイルマネージャで該当するフォルダを見てもファイルが何も無い)。よって、Wi-Fi が使える環境でストリーミングで音声を聞くしか方法がない。これでは気軽に好きなときに勉強するわけにも行かず、また教材そのものも実質的には旧版を改善したものなのかどうかも判断し難い内容なので、僕はこの改訂版は放置して、旧版だけを引き続き使って、旧版の場合は教材の発売元である Linkage Club のサイトから MP3 ファイルとしてダウンロードできるので、それらをスマートフォンに入れて使っている(それほど難しい単語集ではないので、どちらかと言えばヒアリングや英語を聴く環境を維持するために使っているのだが)。そもそも収録されている単語は殆ど同じなので、黄色い旧版を持っている場合は買わなくていいと思う。

ちなみに、後からあたためて audiobook.jp へユーザ登録して、シリアル・コードを入力してから、MP3 ファイルを全てダウンロードできた。結局、Android のアプリケーションなどインストールする必要はなかったのだ。まったく不要なので、サイトに記載してある手順は無視して audiobook.jp にアクセスする方がよい。

失敗例2

そして次に、つい先日の給料日にジュンク堂で買ったのが、『CD3枚付 英語で話す力。141のサンプル・スピーチで鍛える!』というスピーチの教材だ。40年近く前に都内の三流学生や三下サラリーマンに流行した「ディベート」と同じく、一つのテーマについて Yay, Nay, そして中立的な立場からのスピーチを集めたもので、会話とかヒアリングの教材ではない。内容を読むと、この教材でヒアリングや、いわゆる「英会話」の力をつけるのは、殆ど不可能だと思うので、もしアメリカ人やオーストラリア人と話す機会に備えたいといった理由で教材を求めているなら、これはぜんぜん主旨が違うので、お勧めしない。

内容はともかく、この教材で問題があるのは、附属している CD-ROM の音声データだ。いまどきの CD-ROM のデータにプロテクションがかかっていて、単純に WAV ファイルや MP3 ファイルが記録されているわけではないだろうという予想はつく。しかし、購入者まで使い辛いと感じるようでは、やはりプロダクトの設計としては問題があるだろう。そもそも、いまだに英語関連の雑誌では当たり前のように CD-ROM を付録にしているが、いったいいまどき誰が CD プレイヤーなんて持ち歩くというのか。あるいは、CD-ROM から音声データをいちいち吸い出してスマートフォンに転送するためのアプリケーションを探したり、そういう手順を調べたりする購入者が、どれくらいいるだろうか。CD-ROM などという、記録媒体としても、それから利用するためのデバイスとして、およそ汎用性がなくなっていると断言していいものに頼っている時点で、全くもって旧来の出版社や印刷屋の「マルチメディア」という古臭い認識でしかものを作っていないということがわかる。

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本当のところ、辞書って使ってる?

辞書、引いてますか? 敢えて勉強や趣味として「英語の勉強をしている」と人前で言えるくらいの人であれば、それこそ毎日のように Longman や Webster's を手にしているのかと思いますが、実際にはそんなことないですよね。どうしてでしょうか。辞書を引かなくても、英単語や熟語を覚えるのに、いまでは夥しい数の単語集が発売されていたり、単語の意味が書いてある雑誌が出ていたり、ラジオの教材があったり、あるいは単語を覚えるのに利用する電子書籍やスマート・フォンの学習アプリケーションが出回っているからでしょうか。いや、これらが少なかった時代でも、僕らは英語の授業が明日あるから予習しなきゃいけないという理由でもない限り、英語の辞書を一日に何度も手にすることはなかったはずです。英語の勉強が好きだろうと嫌いだろうと、それは殆ど同じだったと思います。

では、みなさんは国語辞典を使っているでしょうか。あなたが最後に国語辞典で言葉を調べたのはいつですか? 僕は自宅の机に『明鏡国語辞典(携帯版)』(初版第三刷、大修館書店、2005)を置いていますが、これで言葉を最後に調べたのは、たぶん5年以上は前だと思います。正確な年数どころか、もう何という言葉を調べたのかすら覚えていないほどです。でも、もともと子供の頃から国語辞典を毎日のように開いて言葉を覚えていったわけではありませんよね。

文法なり言葉を覚えるとは言っても、机の前に座って、それこそ「辞書と首っ引き」などと表現されるような仕方で外国語を勉強した人なんて、実は殆どいないでしょう。そしてそれは、言葉の意味を字義という別表現として記憶することと、その言葉が《どういうことを意味しているのか》という概念を会得することが違う経験だからだと言われます。「りんご」という言葉を僕らは辞書で覚えたりはしなかったでしょうが、辞書には「多く紅色・黄緑色の甘酸っぱい果実を食用とするバラ科の落葉高木。また、その果実。」と書かれています。そして、恐らく「りんご」という言葉を正確に使える人々の多くは、林檎がバラ科の樹木であることを知らないでしょう。それでも「いましがた、お隣の奥様からりんごをいただいたのよ、おほほ」などと言えるし、その人物が何について言っているのか(言外のニュアンスはともかくとして)分かる・・・ということが言語の哲学や言語学として、本当に正しい理解なのかどうかはともかく、僕らが辞書によって殆どの言葉を覚えたわけではないという事実は間違いのでしょう(もちろん、そういう人がいてもいい)。もちろん、辞書が必要ないなどと言いたいわけではありません。

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小型辞書の話

辞書そのものについては上記に書いたので、今回は特に小型辞書について書いておきます。

中学時代から幾つかの小型辞書を使ってきました。過去に僕の家では薬店を営んでいて、薬剤師の免許をもつ方に来てもらっていました。店主が薬剤師の資格をもっていなくても、有資格者を店の顧問やスタッフとして在籍させていれば営業できるからです。そして、週に何回か来てもらっていた薬剤師の有資格者は高齢の男性で、あまり話をした記憶はないのですが、僕の中学への進学祝いとして、革製の表紙が使われた『旺文社 小英和辞典』(初版:1967年、重版:1982年)という小型の英和辞典をくれました。これが初めて手にした小型の辞書です。

旺文社の小型辞書 1982年にもらったもの。革製の表紙なので、皮肉にも殆ど使わなければ40年近くが経っても美麗な装丁だ。

他にも、英英辞典や和英辞典も含めて、色々な小型辞書を買ってきたように思うのですが、定着したものはありません。一つの大きな理由として、いまでこそ老眼となってはっきりと自覚していますが、もともと子供の頃からですら、僕は小さな文字を読むのがあまり好きではないのです(もしかすると、生活するのに困らないため診察してもらったことはありませんが、軽い乱視なのかもしれません。実際、ヒトの眼のレンズは完全に正確な形状や屈折率を維持しているなどということはありえないので、誰にでも軽微な乱視はあるといいます)。

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英会話のフレーズ集は参考ていどにしかならない

英会話のフレーズを大量に集めた本が発売されています。英語に限らず、他の言語でも「観光」とか「ビジネス」とかシーンごとに頻出するとされるフレーズを集めた特殊な本も数多く発売されているのもご存知でしょう。しかし、こうした本は英語で話したり聞いたりする参考にしかなりません。もっと簡単に言えば、こういう本に集められた膨大なフレーズを何十回、何百回と眺めたり口に出して言ってみても、英語で〈話す〉ことはできないと言えます。

その理由は、僕自身が数ヶ月ほど使ってみた経験からも言えますが、もっと単純に考えたら買ってみるよりも前に分かる話でありましょう*。つまり、自分が同じセリフを自分の生活、すなわち日本の実生活で使うのかと考えてみればいい筈です。親しい人と出会って「やぁ、今日の調子はどうだい?(Hellow, how about you today?)」なんて聞く人が日本にどれだけいるでしょうか(その良し悪しを言っているわけではありません。挨拶くらいはした方がよいでしょう)。また、同じ意味の表現を英会話のフレーズ集では数多く取り揃えていますが、自分自身のふるまいを思い返してみれば、そんなに色々な種類で受け答えしているわけでもありません。そして、英単語の意味を正確に理解していればフレーズとしていちいち覚える必要のないものも、数多く列挙されています(たとえば「ご飯ですよ(Dinner is ready)」とか「前向きに考えよう(Think positively)」なんて、いちいち一つのフレーズとして暗記するようなものなのでしょうか)。要するに、あなたが何をどう言いたいのかを決めて、それを英語でどう言うのかさえ幾つか調べて決めておけば十分でしょう。他の選択肢があることは、確かに他人の発言を理解するために必要な知識ではありますが、それこそ人の数だけフレーズのパターンがありえます。フレーズを虱潰しに覚えるよりも、文法の勉強をする方が大切です。

*お金を使って買うよりも前に納得して別の手段を選べるなら、その方が〈絶対に〉有益です。お金と時間の無駄遣いは、たとえ何百円でも〈絶対に〉あなたにとって有害であり、こういう害悪を「蕩尽」などと称して先進国の豊かな文化や生活習慣であるかのように、広告代理店と一緒に嘘をついていたポスト・モダンの大学教授や評論家や建築家や文化人は、こう言ってよければ「文化的な犯罪者」でありましょう。

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〈これだけ本〉は自己満足の気休めにすぎない

日本で発売されている英単語集や英会話の本で目立つのが、たった1,000語、いやそれどころか100語で「会話できる」などと称している本です。この手の本を〈これだけ本〉と呼ぶなら、正直言ってアメリカの大多数の人々に対して非常に失礼だし、現実に役に立たず生活や応対なんてできない、それこそ自己満足の気休めでしかないと断言できます。こんな本を買うのは、絶対にやめましょう。

まず、客観的な事実から言うと、“An average 20-year-old American knows 42,000 words, depending on how you count them” のような論説では平均的な二十歳の若者で42,000語を知っている(使ってるかどうかは別として)とされ、少なく見積もっている事例でも20,000から30,000語と紹介しています。そうした論説のおおよそ中間を取るとしても、平凡な大学生と同じていどでも30,000語は必要というわけです。これを日本語で置き換えると、「日本人の語彙量(理解語彙、使用語彙)調査を行うにあたっての基礎的研究」によれば、こちらも成人で40,000語と推定していて、オンラインでやりとりするていどの目的なら8,000語で済むと述べています。このように、まず事実として他人とやりとりするための言葉として1,000とか100なんていう語彙で済むわけがないという点はお分かりかと思います*。つまり、1,000語なんて語彙で他人とやりとりするということは、相手にしてみれば3歳児と喋るようなものであって、何が言いたいのかを推し量る負担を相手にかけることとなるのです。こんな横柄な態度をとっている自覚もなしに、相手と「コミュニケート」できるなどと吹聴するのは、ネイティブに対して人として失礼な話だと思いませんか。それに、新しい言語を習得するということは、それまで知らなかった生活文化に参加しようとすることでもあります。そんなリスクのあることについて(もしあなたが未開の集落へ迷い込んだのであれば、殺される可能性だってあるのです)、わずかな労力だけで〈望ましい〉結果を出そうなんて都合のいい話があるわけないでしょう。どれだけ他の民族や文化や環境を舐めてるんですかという話です。みなさんは通訳なしで観光したいとか、ビジネスの相手と交渉したいとか、自分にとって好ましい結果だけを考えて英語の勉強をするつもりなのかもしれませんが、相手をするネイティブにとっては、サービスとして応対するとか知り合いや新しい家族になるといった特別な事情でもない限り、いい歳をした外見の人間が言葉も知らずに他人の仕事場や生活に踏み込んでくるのですから、これほど不愉快で失礼な話はありません。

*少し議論を補足しておきたい。(初出は、2022年5月14日の落書き

世の中には英単語集と呼ばれる本がたくさんあって、実際のところこれほど色々な種類の単語集を、日常会話用とかビジネス用とか TOEIC 対策とか色々な用途に出版しているのは、はっきり言って英語教育が半世紀以上にわたって未熟と言われている日本だけであると言っていい。つまり、この実態こそが日本人の多くが英語をまともに使えない原因からもたらされた結果なのだ。単語集が充実していないとか、あるいは単語集を熱心に使う人が少ないことが日本人の「英語下手」の原因などではない。寧ろ、こんなものを無暗に使うことが英語の学習を効果的かつ十分に進められない元凶なのだと思う。実際、僕も幾つかの英単語集を使ってみたが、やはり辞書には到底およばないし、効果的に使おうとするなら現状のような闇雲に暗記していくような用法しか伝えないのでは不十分だ。海外でも、単語集とは編集方針が違うけれど、同じように語彙を増やす目的で出版されている "Word Power" の類があり、もっと扱い方を丁寧に解説しているし、必ず self check の方法を取り入れている。結局、試練なり検査つまりは「試験」というプロセスを怖がるようなことでは物事を習得することなどできない。

上記で議論した話は、要するにアメリカの平均的な大学生が語彙として扱える単語とかイディオムの類は3万ほどあるというものだ。したがって、ここから直ちにわかるように、世に出回っている殆ど全てと言ってよい単語集の類は、最低でもアメリカの大学生レベルの語彙と比較すれば圧倒的に足りないのだ。すると、アメリカの大学生と同じ語彙を身に着けるには、たいていの単語集は3,000語ていどしか掲載されていないので、単純に計算しただけでも10冊の単語集をマスターしなくてはいけない。しかし、これも既にご存じだと思うが、TOEIC の過去問とか用例のデータベースから弾き出したなどと称して、たいていの単語集は単語を重要度順に、つまり用例の多さから順番に収録しているので、1冊で3,000語の単語を収録している10冊の単語集を買ったとしても互いに収録語が重複していて、それら10冊の単語集が全体でカバーしているのは、3万どころかせいぜい1万もあればいいほうだ。つまり、どれだけ単語集を買って、それだけを使って単語を覚えていっても全く足りないのである。よって、こういうものをどれほど買っても非効率きわまりないのだ。これは、おそらく英会話のフレーズ集とか、場面や用途ごとの用例集、あるいは句動詞・イディオム・慣用表現・ことわざなどを雑多に扱った読み物についても同じことである。日本で発売されている教材を使った英語の学習は、つまるところ無駄な繰り返しや出費だけが多くて効率が悪く、しかも何故その単語を覚えなくてはいけないのかという動機と何の関係もない言い回しや単語を無暗に暗記することになるため、要は使えない情報を頭に入れているだけなのだ。これでは言語として使い物にならないのは当然である。

英語が不得手だから語彙を増やすために単語集を買うという発想は止めるべきだ。逆である。使いもしない単語を詰め込むのに、単語集を買ってお金や時間を浪費してるから、いつまでたっても英語を〈自分のために〉使える道具として身に着けられないのである。

で、なんで日本ではこういう無駄なことが行われているのかというと、実は英語だけでなく他の教科や分野でも似たような方針や考え方が蔓延していることにも関連がある。それはつまり、雑多に、力業で大量の事項を暗記しておけば、〈後で役に立つかもしれない〉という想定あるいは思い込みが多くの分野の学者や教育者にはびこっているのである。僕が思うにこれの元凶は、日教組だというのが言い過ぎなら、ソヴィエト教育学を日本の出版業界や教育行政に持ち込んだ連中のせいだと思っている。かつて、ソヴィエトの教育心理学では、この手の「後で役に立つかもしれない」という理由で大量の事項を暗記させる詰め込み教育が称揚された。中国やソ連のような国では、そういう愚かな方針や教育であっても試験的に多くの生徒や学生に実施され、ついてこれない生徒は当たり前のように切り捨てられるだけだった。よって、彼らの「教育理論」の成果は、当然だが愚かな教育でも乗り切って成功した一握りの有能な(しかし何のために勉強しているのかも自覚がないロボットのような)人間たちによって「立証」されてゆく。典型的な生存バイアスなのだが、生き残ったものだけが国家の礎になればよいという、あからさまな成果主義や弱肉強食を自覚して実行しているのだから、これに道徳や福祉という脈絡で反論することは難しい。

要するに、こういう闇雲な暗記を押し進めていくやりかたは、それに適応できる人々、つまり物事の良し悪しを考える前に進んでロボットのように何でも実行し続けられる忍耐力があって、価値観を保留しても気にならないし後から補正できると思えるような人々が、結果として成果を上げてきたという事実によって説得力をもっている。そしてそういう事実jに支えられた教育というのは、そこからドロップ・アウトした人々は関知しないという社会でこそ有効なのである。みんなで仲良くキャバクラだろうと地獄だろうと万歳突撃していく「平等」な日本の教育や出版の啓発事業で、そんなことを実行しようとしてもうまくいくはずがない。

それと似たような話だが、「東大生が教えるなんとか」とか「東大生を3人育てた母が語るどうのこうの」という、典型的な生存バイアスでも、当人にとっては他にやりようがなかったしやらなかったのだから、他の仕方を説明するわけでもない限りは「事実を述べているだけだ」という理由で、いくらでもこういう結果論を本に書いたりセミナーで語れるわけである。しかし、これらは全て結果でしかない。大半の人々はこういう勉強方法に適用できないからこそ、何冊も単語集や英会話の本を買い続けなくてはいけなくなるし、朝ドラの主人公らのように勉強する意欲や動機があっても NHK の英会話ラジオを何年も聞き続けないと会話すらできないわけである。(あれは英語で結果的に成功できた人々のお話にすぎない。3年や5年を費やさないと英語で会話できるようにならなかったという筋書きそのものは、単に日本が大昔から非効率で馬鹿げた英語教育や啓発活動を続けてきたという事実を物語っているにすぎないのだ。)

それに、こう言っては教育とか英語の教材そのものについても大きな疑問を呈することになるけれど、冷静に考えてみてほしいのだが、小学校も出ていない人物ですら不法移民としてアメリカに入ってから生活して英語を話せるようになるのだ。東大生の子供を何人育てようと、そんなことと英語を習得するための条件とは関係がない。英語も含めてお勉強ができたというだけの、いわば十分条件を満たしているだけの結果論で必要条件を語ることはできないのだ。そして、東大生の大半は学部を出てから大して社会に貢献も出世もしていないし、官僚や政治家になっても上場企業から小銭を巻き上げたり、せいぜいヒルズの一室で芸能人の卵を接待の乱交パーティで弄ぶのが関の山だ。

色々とやっておけば、後で役に立つかもしれない。それは一般論として間違いではないが、そのためだけに費やすコストを日本の学習者はかけすぎであり、そのせいで本来やるべきことに時間や労力を費やせていないと思う。英単語は3万どころか何十万もあるし、慣用句やイディオムを入れると更に多いが、各人が生活なり仕事で必要とする単語や経験から身に着けた表現(口癖のようなものも含めて)には偏りがあって当然である。僕は、服飾デザイナーと比べて哲学の用語を彼女らよりも多く知っているかもしれないが、ファッション業界で使われる用語は彼らよりも知らないだろう(もちろん、哲学科出身で僕と同じだけ哲学用語を知ってるデザイナーがいてもいいし、僕が知ってる数と変わらないくらいしかファッション業界の用語を知らないデザイナーがいてもいい)。そして、誰でも知ってるような the とか and といった単語もあるだろう。しかし、それ以外の単語は英語で生活して身に着けたり必要に応じて学ぶのが原則であり、何の意味も脈絡もなしに「supervene は付随するということ…」などと繰り返して記憶したところで、そんなものは使わないのだから役に立たないので、結局は身につかない。身も蓋もない言い方だが重要なこととして、あなた自身の生活や仕事や興味と関係のない言葉を身に着けて何の意味があると思うのか。確かに自分が何かの欲求や意見を口にするためだけに言葉は習得するものではないが、仮に他人の言っていることを理解するためでもあるにせよ、それはまずもってあなた自身の生活や仕事にかかわりがある他人の意見や連絡やメッセージを受け取るためであるはずだ。単語集を使った勉強は、まったくの無意味だとは言わないにしても、日本で英語を学ぶ人々はそういうことに時間を使いすぎていると思う。

〈これだけ本〉のパターンとして、たとえば have や get を使った慣用句とか熟語を駆使すればいいなどとデタラメを言っている人たちがいます。でも、そういう人たちが、実際に have や get の慣用句を多用してネイティブのアメリカ人と渡り合っている様子を目にした人なんて、実は一人もいないのです。いまどき動画すらないのですから、信用に値しません。加えて、仮に一方的にそういう表現をどんどん会話の中で使えたとしても、それこそ真面目に英語を勉強している人なら即座にニュアンスとして分かってくる筈ですが、聞いているネイティブにしてみれば「なんとバカな(ぞんざいな、あるいは横柄な)言葉遣いをするんだろう」と呆気にとられてしまうはずです。要するに、give や get や go などを多用する表現は、そもそも言い回しとして無礼なのです。そして、「学習途上の人間は恥のかき捨てや無礼があってもいい」などとアドバイスを書く人もいますが、もちろんこんな態度こそ無礼というものです。

したがって、語彙数という点で何らかの目標をもつのであれば、いま書店に並んでいるバカ専用の〈これだけ本〉など無視して、きちんと人として相手に接する努力をするに足りるだけの語彙を習得するよう望みましょう。僕もそうしています。先にご紹介したように、まず最初の目標は30,000語というのが目安だと思います。大学院を出ているような人であれば、おおよそ120,000語という数も紹介されている場合があります。すると、学術書に出てくる語彙は100,000語とまでは行かなくても、学術書を書いている著者と議論するのであれば、もっとたくさんの語彙が必要でしょう。日本の平均的な成人でも40,000語を知っているわけですから、せめてそれくらいの語彙をもっていなくては、みなさんの周辺で生活している人たちよりも少ない言葉しか知らずに生活することになります。そういう人が、もしあなたの周りにいたと想像すれば、交渉したり何かを連絡するのに、相手が「商工会議所」だとか「通学レーン」といった言葉の意味がわからないわけですから、困惑させられるに違いありません。それを思えば、平均的な語彙すらもたずに相手とやりとりすることが、どれほど迷惑なことかも分かると思います。

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Amazon.co.jp のレビューについて

FT氏のカスタマー・レビュー

例えば、仮に、週に4時間の英語の授業を8年受けたとすれば、通算すればどれだけの時間になるだろうか。しかも、授業には普通は宿題が出されるし、予習や復習をしている学習者も多いだろう。中には塾などでも英語を学び、ラジオなどの講座も聴いている学習者もいるだろう。だが、そうやって努力を積み重ねても、現実は簡単な会話すらうまくできないことが多いのである。これはやはり学習時間の問題というよりも、教育の仕方の問題ではないのだろうか。学校の通常のカリキュラムに沿って勉強してもまともな外国語会話など出来るはずはない、と長年大学教授であった編者が言い切ってよいものであろうか。

悪しき語学教育の見本

この「FT」と称する人物は、とりわけ語学書と翻訳書について手厳しい(が、大半は正当に思える)レビューを書いている。中国語検定の自習用として出ている本書(上記の引用でリンクしているカスタマ・レビューは、『CD付 学習者の間違いから学ぶ! 中国語スーパートレーニングブック 中検2級レベル編』という著作物に付されている)については、上記のとおり編者の見識を問うている。そして、アラビア語から古代ギリシア語に至るまで、相当な数の外国語を習得している方のようであり、他の著作物についてFT氏が書かれたレビューを参照しても教えられる点が多い。ただ、上記の個所は論旨を理解しかねる。

本書の編者である上野惠司氏は、本書で語学の習得について章末のコラムみたいな文章を掲載しているらしい。そして上野氏によると、日本人は何年もかけて中等教育までみんなが英語を学ぶのに全く使えるようにならないと不平を口にするが、何年やろうと会話なんてできるようにはならないという。文章の筋を追うと、要するに上野氏は学校で週に数時間ていどの授業をやっても、ましてや社会人が週に1回ていどの英会話レッスンを受けたところで使えるようになんてならないと言っている。そして、僕はまさにそのとおりだと思う。要するに文科省のカリキュラムや英会話スクールの課程は、言語を身に着けるという、人が生きるために切実な欲求として道具を習得するというプロセスについて舐めているのだ。現代の中等教育における外国語(別に英語でなくてもいい)のカリキュラムは、外国で生きるとか、日本国内でも言葉が通じない相手(本来は、何も外国語を使うアメリカ人やドイツ人である必要はない。沖縄弁や津軽弁しか話せない親類でも同じことが言える)とやりとりするとか、あるいは着任した土地でスパイ行為に携わるのに必要な手段を身に着けるという目標にとって、文字通り子供騙しとしか言いようがないレベルだと思う。

たいていの留学生や犯罪者や移民や外交官などが、切実に現地で生活したり仕事をしたい、つまりは〈生きたい〉という動機をもって、それこそ東南アジアや韓国や中国や中南米やアフリカや中東など非欧米圏の人々が年齢に関係なく hard work をこなしているのに比べて、日本の生徒や学生は「腑抜け」と言ってもいい勉強しかしていない。よって、現行の英語教育や英会話スクールのレッスンを何年と受けていようと、大多数の日本人は英語を話せたり使えるようにはならないと上野氏が指摘しているなら、それはまったくもって正しい。逆に、(エロ)アニメや(エロ)漫画が好きで日本語を勉強しているんですなどと、YouTube の Vlog やニューズ番組のインタビューなどで日本語で受け答えしている外国語話者の若者たちが、日本語を各国の学校だけで週に4時間程度しか受けていないとか、あるいは自宅で更に勉強を積んでいても週に数時間しか費やしていないとか、そんな舐めた勉強をして日本語を僕らが分かるレベルで話せるようになると想像できるだろうか。正確な統計や調査の結果は知らないが、そんなことはありえないだろうと思う。日本人の英語学習に費やす時間の量は、はっきり言って10年続けようと暇潰しや気晴らしの類でしかないのだ。それゆえ、僕が当サイトの落書きで、朝ドラ(『カムカムエブリバディ』)で主人公らが何年もかけて英語を使えるようになったなんて設定は、英会話ラジオの有効性を立証したり弁護するようなものではなく、寧ろそういう学習方法の未熟さや不適切さを示しているだけなのだと書いたのは、同じ理由による(とは言え、このドラマでは外国語の学習で有効だとされている shadowing の様子を描いているのは良かった)。

ということなので、FT氏が上に引用した箇所で書いている話は上野氏と全く主旨が同じであり、この方は何を批判しているのか不明だ。仮に、上野氏が教育方法を批判するのではなく、寧ろ生徒の学習意欲がないとか、あるいは学習に自らの意志で費やしている時間が少ないと批判しているなら、FT氏が言うように「学習時間の問題というよりも、教育の仕方の問題ではないのだろうか」と上野氏の議論を批判できるだろう。でも、上野氏は(少なくともFT氏が引用している範囲だけで判断すると)そんなことまで言っているようには思えない。日本人が英語の学習に費やす時間は他の国の学習者と比べて短いと書くだけなら、それは恐らく単なる事実でしかない。これが学習者の怠慢によるものなのか、それともカリキュラムとして設定している所要時間が少ないからなのかは、「日本人が英語の学習に費やす時間は他の国の学習者と比べて短い」という日本語の一文だけでは判断できない。

そして、上記の引用では最後に「学校の通常のカリキュラムに沿って勉強してもまともな外国語会話など出来るはずはない、と長年大学教授であった編者が言い切ってよいものであろうか」と書かれている点については、カリキュラムの設計や学校での指導方法だけで十分に外国語を習得できるという見込みがあれば、確かに外国語の教員が「カリキュラムだけでは不十分だ」と言うのは不見識だと見做されるかもしれない。FT氏が書いているように、まず学校教育を正してから、そういうことを言うべきだろう。しかし、現実にはそういうことは難しい。もし外国語をカリキュラムの範囲だけで十分に習得できるようにしたいなら、現行の英語の授業時間だけでは全く足りないだろう。最低でも、毎日6時間ていど、つまり学校の授業をすべて英語の授業にするくらいでなければ、生活の手段として使える言語なんて習得できるものではない。こういう点については、数多くの言語や数学の分野を習得しているFT氏の個人的な経験とか基準は参考にならないだろう。有能な人間を基準にして凡人を評価したり責めても、理想論としては意味があるにせよ教育としては無効であろう。

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真似してはいけない勉強の仕方

直に英語の「勉強法」を指南するような本は言うまでもなく、他にも英語の参考書や読み物で、著者が自ら書いていたりインタビュー形式で掲載されていたりする「私の勉強法」とか「私の英語遍歴」みたいな文章があります。もちろん、嘘をついていたり見栄を張っているわけではないという前提があったとしても、それらの文章は大多数の人にとって参考にはなっても真似するようなものではないと言えます。

その理由は、英語で成功した人々のストーリーや方法だから、つまり成功した人たちがたまたまやっていたにすぎない方法だからです。こういう人たちは自分のやった経験で成功したというだけであり、数多くの方法を試してみたうえで有効な方法に到達したわけではありません(予備校の講師は競争があるので多くの人が試行錯誤していますが、学校の教師ですら、そんな実験はまじめにやっていません)。そして、そういう経緯や方法の多くは、大半のわれわれ凡庸な人間がなぞっても効果があるかどうかは定かではなく、もともとできる素養があった人がその程度のことしかやらなくても成功できたというだけのことにすぎない、効果が低いか凡庸な方法である可能性が高いからです。場合によっては、無効どころか有害な方法だったかもしれません。それでも有能な人は、凡庸な方法だけでなく有害な方法を無自覚に実行していてすら、もともと持っている記憶力や要領の良さや割り切った性格などの特別な才能が凌駕するので、結果的に成功してしまうのです。しかし、凡庸な人間が凡庸なことをしても凡庸な結果に終わります。そして、たいていの人が何の成果も得ずに英語をまともに使えないのは、もちろん最大の理由は英語を使う動機も理由もないからなのですが、それに加えて、実際には大半の凡人は凡庸な方法ですらやろうとしないからでもあります。当サイトで僕が良いと思って紹介している方法は、そういう凡庸なことが大半を占めていますが、やるかやらないかで大きな違いがあると思っています。どこかの予備校の講師が好むフレーズに、「やるなら、いまでしょ!」という名言がありますが、まさしくこのフレーズはやろうとする方法が正しいかどうか分かっていようといまいと、どのみちやらなければ結果は出ないという真理を教えてくれているわけです。

簡単な話をしますが、仮に英語で有名な予備校の講師となったり有名な本を次々と翻訳したり、あるいは国連や英語圏の官公庁で重要な職に就いたり、アメリカで大企業の重役に抜擢されたりイギリスの大学教授になったといった、英語を高度に使えなければ到達できない成果を上げている人が「どんな勉強をしてきたのですか?」というインタビューに答えて、「高校時代は平均的な成績だったのが、予備校へ1年ほど通って猛勉強の末に東大へ入りました」と言ったとします。多くの人は何気なく読み流すと思いますが、既にこの時点で日本の高校生としては上位の 2% 以内にいる人の話なわけです。なぜなら、まずその「高校時代」と言っても、偏差値が40くらいのどこにでもあるような公立高校なのか、それとも開成高校や灘高校なんでしょうか。そこまで極端ではないとしても、出身高校で中位ていどの平凡な成績の高校生が「猛勉強」したくらいで1年や2年の浪人で東大に入ったということは、たとえ下位の成績で東大へ入れたとしても、その人物は恐らく相当な見込みで偏差値70以上の高校生だと思います。「ビリギャル」は実話だとしても珍しいからこそストーリーになるわけであって、現実には偏差値50の高校生が猛勉強したくらいで東大どころか慶応にも入れるわけがありません。

あるいは、そういう人たちの多くは高校時代や浪人時代にあれこれの参考書を使ったとか予備校に通ったという話をなにげなくするものですが、そこでは参考書を(もちろん大学受験をパスするには、英語の勉強だけやってりゃいいというわけではありません)全ての教科でなくても何冊と買えたり、予備校に通ったり、地方の高校生なら予備校へ通うために大都市で下宿するといったことも珍しくありません。そのお金は自分でアルバイトしているのでしょうか。そうではありません。昨今、東大生の大半が高額所得者や資産家などの子息で占められているという統計があり、結局のところ勉強法として一定の効果があることでも金がなくてはどうしようもないやり方をしたという人も多くいます。参考や真似をしようにも多くの家庭では難しい方法を当たり前のように口にする人もたくさんいます。

もちろん、だからといって金持ちしか英語の勉強はできないのかというと、そういうわけではありません。既に述べたことですが、アメリカでは殺人犯やレイプ犯やテロリストでも英語を流暢に話したり書いています。高校を卒業していないウェイトレスやゴミ収集車を運転する移民でも、語彙が5万語を超える人だっていることでしょう。言葉を使えるようになるということは、言語の運用にかかわる脳の機能さえ異常がなければ、親の地位や資産や通っている学校や性別や民族や性癖など何の関係もありません。それゆえ、凡庸でも堅実な方法を実行することに意味があって、アメリカやイギリスではそれを生きるためにやらざるをえないという事情で、誰でもやるのです。日本人の多くが英語を習得できないと言われるのは、言語の能力とは何の関係もありません。習得できないのではなく、日本では英語の勉強なんかしなくても殆どの人が問題なく生きていけるので、そもそも英語に限らず外国語を学ぶという強い動機や事情や切実さがないのです(そして、それは「悪いこと」だとは限りません)。凡庸な方法であっても勉強するかしないかの違いは、そういう切実さに由来するわけです。

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「観るだけ」・「聴くだけ」

「観るだけ」・「聴くだけ」 【逆効果?】一生英語力が伸びない人の特徴と解決策

どんな学習や勉強、あるいは学問や仕事でも当たり前のように言えることだが、一朝一夕に習得したり、他人さまからお金がもらえる仕事ができるようになるなんて魔術はない。逆に言えば、入社して明日からでも何十万と稼げますなんて言ってるのは、高度にマニュアル化されていて誰でもできるように設えられている(そして失敗しても「黒幕」にはリスクがない)詐欺まがいの商法とか営業トークとか、コピペだけで出鱈目な記事を量産できる「メディア」配信業などだ。つまり、速成でモノになるのは、それにかかわろうとする人々がバカだからであって、バカでもできるようにセット・アップされた手順にロボット同然に従っているだけなのである。もちろん、ロボットに高額な給与など保証されるわけがないので、そういう仕事の多くは完全歩合だったりする。

英語の勉強でも結局は同じだ。単語を覚えたり、イディオムや慣用句の意味や由来を知ったり、文法を学んで表現の仕組みを理解するといった、原則や基礎を丁寧に継続して固めてゆくことなく、気が付いたら英語が話せるようになっていたとか、いつのまにか海外のドラマを観てわかるようになったとか、適当にやってたらプリンストン大学の博士号をもらってましたとか、そんなことはありえないのである。上で紹介している動画でも、イカサマの学習法として紹介されているが、覚えている方もおられるようにプロゴルファーの石川遼氏が広告に登場していた「スピードラーニング」なるイカサマ学習法は、とっくに事業が終了している*。そして、この手のイカサマ学習法は、実は大昔から何度でも媒体やデバイスをいろいろと替えて、何度でも現れては短期間に荒稼ぎして終わる。それはちょうど、役にも立たない英語学習本の類が何冊も毎年のように出版されては売れてゆく(そして大半は即座に古本屋へ流れてゆく)のと同じであり、そうした流行から文科省が英語の教育手法を見直したなんて事例は全くない。もし或る勉強方法に劇的な効果があって確かな証拠が積みあがっているなら、そういうものは100年くらい前の旧制高校時代から色々と提案されているのだから、既に考案された手法の中でどれかが採用されて、既に何十年も中学や高校で実行されている筈だ。現に、効果があると学術的にも検証されている手法として「シャドーイング」がある(正確には “prosodic shadowing” というタイプの、聞いている言葉の解釈を伴わないシャドーイング)。これは、中学の無知な英語教師が “Repeat after me!” などとやっている「リピート音読」とは違って、喋っている途中から追いかけて同じように喋るという、リピート音読よりも集中力が求められる負荷の高い方法だ。通訳者を養成する場所では昔から導入されてきた方法だが、どういうわけか専門職の養成向きだと思い込んでいる人が多いらしく、中学校や高校で導入している事例は少ない。だが、シャドーイングは効果的な方法として既に70年以上の実績がある。

*そして、皮肉なことにスピードラーニングを手掛けていた企業であるエスプリラインは、現在は広告制作業に事業転換している。つまり、彼らが即座に事業転換できるほど社内に蓄積してきた広告・宣伝のテクニックを使えば、出鱈目な学習方法でも効果があるように見せかける方法などいくらでもあるということだ。僕は、電通や博報堂の案件に従事してきたウェブ制作業界のプロのデザイナーないしエンジニアとして広告の役割を否定するつもりはないが、しかし技術であろうと広告手法であろうと、悪用すればいくらでも他人を騙せるという一例だろう。

ただし、2022年8月30日に audiobook.jp 運営事務局が配信したメールで、エスプリラインは再びスピードラーニングのサービスを復活させているらしい。過去を知らない新規顧客に改めて販売するというのは、営業手法としてはうまいやりかただ。過去の結果を知らないということは顧客の落ち度ではないが、販売する側が事前に教える義務もない。

上記の動画で詳しく説明されているとおり、聞き流すだけで英語が上達するなんてことはありえない。それは、僕らが小学生の頃に日本で流行した「睡眠学習法」と呼ばれる出鱈目な学習教材の事案と同じく、何の効果もない(そして、たぶん検証することも難しいので、詐欺的だと思うが有罪にするのは難しい)。実は僕も中学生の頃に睡眠学習法を取り入れたという、スピーカーが内蔵された枕を買って、3分用の「エンドレス・テープ」という特殊な作り方になっているカセット・テープに、覚えたい単語を録音していたものだった。しかし、そんなことをしても覚えられるわけがないし、効果がいくらかあったとしても、その原因はエンドレス・テープを聞いていたことではなく、テープに録音する行為だとか、日課のように繰り返して英単語を扱う習慣をつけたことだろうと思う。また、自分で録音する以外にも、上記の動画で話題となっているように、映画とか、いまで言えばインターネット・ラジオやポッドキャストや YouTube の動画などを漫然と聞き流していれば、「英語に慣れてくる」とか「リスニング力が上がる」などと言っている人が、大学教員にすらたくさんいるのが実情だ。これでは、いつまでたっても同じままである。つまり、逆効果のやりかたであっても一定の成果を上げられるくらい出来る人しか上達しないという、効力のあるなしとは関係のない生存バイアスの英語学習法が繰り返して宣伝されるだけだ。つまり、自分の経験を客観的に見て、やったことに本当に効果があったのか、それとも効果がなくても自分はできてしまっただけなのかを冷静に見極められるという、英語の能力とは別の能力をもっている人でなければ、単に英語が使えるというだけの人たちが口にする「体験談」や「僕の勉強法」は、多くの他人にとっては危険だと言わざるをえない。(したがって、このページで書いている内容にも同じことが言える。)

大繩道子

2018

「外国語教授法としてのシャドーイング活動の効果――リスニング力、英文復唱力、プロソディの観点から」, 『石巻専修大学研究紀要』, No.29 (March 2018), pp.73-82.

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「和英辞典不要論」について

何度か見かけた議論なのだが、そろそろ愚かなことを書く人が増えてきているようなので、ここでも取り上げておこうと思う。結論から言うなら、道具は使いようによって効用は異なるのだから、「不要」と言っている人々は和英辞典がないことで正当化できる効果とか実績を示さなくてはいけない。それができないなら、和英辞典が不要であるという話は単なる思い込みや錯覚、あるいは自分自身の好みや経験だけで語るような「マンション・ポエム」と変わらない空語にすぎない。僕は、和英辞典には効用も適切な使い方もあると思う。見ている限り、「不要」と言っている人々の多くは、不要なりのくだらない業績しかあげていないし、英語を使った業績すら何もあげていない予備校講師とか英語教育関連の物書きといった、マスターベーションをしているにすぎない英語ペラペラ馬鹿が大半だ。

無名の人間や馬鹿を取り上げて叩くのは簡単だから、とりあえず一定の範囲で有名な人物の意見を取り上げてみよう。まずは、アマゾンで “kaizen” というユーザ名をもつ膨大な蔵書と読書量を(自分でも控えめに)誇っている、名古屋市工業研究所の小川清氏の意見だ。

和英が不要な理由は、日本語を英語に変換する際には、自分の知っている単語だけで言い換えて文を作るように教えられたためです。和英辞典を調べて文章は作るなと。単語に頼るのではなく、知っている単語だけで説明する力が大事だと。

英和辞典

実は、僕も高校時代までは和英辞典など必要ないと思っていたし、母校(大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎)の英作文の授業では、常に作文に使うことを期待されているイディオムや慣用句を使わずに、自分が知っている単語や熟語だけを使って表現するということを繰り返して、教師と毎日のように〈対決〉していた。もちろん、期待されている言い回しを使って作文するように予習して来いと怒られるからだ。引き籠っていたわけではないのだが、当時は殆ど授業に出ていなかったという事情もあり、通知簿なんてずっと赤点である。たとえば “dictionary” という単語くらいは知っているけれど、それをわざと “a book by which we find a meaning about foreign word or phrase” などと書いていた。当時は、こういう力こそが「英語力」なのだと思っていたのだけれど、それは現実のアメリカやイギリスでは通用しないと知った。それは東京で雑誌の編集者をしていたときに、その出版社の取締役を自称するチンピラみたいなオッサンから「そんなことも一語で言えないなんて、相手に音として意味がすぐに伝わるわけないだろう」と叱られたものだった。つまり、たとえ同じ意味になると思って自分が使える単語で表現しても、それは〈英語ができない人〉として周囲が保護してくれない限りは、アメリカでも差別の対象になるという話である。その人物から35年ほど前に聞いた時点でも、アメリカは差別大国であり、民主党員だろうと口先で自由だ平等だと言っていても、そういう連中の大半は絶対にどこかで条件を保留している。ゆえに、〈われわれと〉平等に扱われるべきなのは、〈われわれと〉同じ程度に英語が使える人に限るといった制約をもっているのだ。無条件に誰でも受け入れる人なんて、スラム街の教会にすらいない。よって、そういう自分勝手な英語の運用は、英語を生活や仕事で〈普通に〉使う環境では周囲から「無知」(もっと酷ければ犯罪者予備軍)というレッテルを貼られる。しかし、自分では「表現」できているという勘違いをしたまま生活してしまえる人が多いため、新しい単語を覚える必要がなくなってしまう。それを、「英語力」があると勘違いすれば、もう周りから諭してもらえない限りは悪循環である。

これは、実はわれわれの母国語である日本語を使う状況でも同じことが言えるのだ。日本語話者であっても、彼らのツイートなりブログ記事、いやそれどころか行政文書や学術論文ですら、未熟で語彙が貧弱で議論も傲慢であるのは、要するに自分が知っている範囲の言葉や知識や概念だけで済ませてしまう、つまり現時点で自分がやれるだけの範囲でものごとを理解したり説明しようとするからなのである。大学教員の大半が教員免許状を持っておらず、バイトで塾の講師をやったことすらない、〈教える側の素人〉であることを理解すれば、そんな人々がいきなり講義をしたり、それどころか教科書を書くなんておかしいと思える常識があれば、こういうことは母国語と外国語との違いには関係のない話であることが分かるだろう。馬鹿は日本語を話していようと、英語を流暢に話していようと、馬鹿なのだ。

自分が言いたいことをどう言えば〈相手によく伝わるのか〉という観点を大切にするなら、自分の知っている単語や熟語だけでいいなどという態度が無礼にもほどがあることくらい分かるだろう。そして、そういう傲慢さを回避するための道具として和英辞典を活用してもいいことは誰にでもわかるはずである。和英辞典がなければ、では誰が自分の知らない英語の表現を代わりにいつまでも付きっ切りで教えてくれるのか。高校時代の英作文の教師が自分の家で隣にずっと座ってたり Zoom でつながっているなんてありえない(そもそもキモい)し、そんなサービスを契約できる余裕も大半の人にはない。また、TOEIC でスコアが900を超える人たちでも語彙はせいぜい10,000前後と言われている。中型の和英辞典だと収録語数は50,000くらいだから、誰かに聞くよりも辞書を引く方が良いのは明らかだし、質問サイトで答えてもらうなんてことに慣れてしまうのは勉強の方法としても、それから人として成長するためにも良くない。

これに加えて、英語の「上級者」とか語学研修学校の教員には、和英辞典は要らないと言うばかりか、英英辞典を使う方がいいから英和辞典は要らないと言ったり、更には辞書を使う必要すらそもそもないという持論を展開する人もいたりする。特に辞書だけでなく本というものが少ない辺境国家や元植民地などで英語を習得した帰国子女の類が、こういう暴論を日本でばらまいていたりする。そして、実は日本でまともな英語教育が考案されたり普及しない一つの理由として、こういう出鱈目でプライベートなメソッドを、個人的に信奉していたりする英語教師がたくさんいるという事情もあったりするのだ。文科省に規制されていない範囲であれば、教員の裁量で任されているがゆえに、英語ができない教師に限って〈にわか英語学者〉にでもなったかのように、自分が宇宙の真実を発見したとでも思いこんで、そういう帰国子女が書きなぐっている奇抜な「わたしの英語勉強法」の信奉者になったりするのだ。そして、日本の教育というのは、そういう個々の教師の実情を第三者が検証したり評価する手段がないため、子供から親へ、そして PTA から教育委員会へと伝わるだけで握りつぶされているのが実情だ。教育委員会なんて、学校で起きることならなんでも事実を握りつぶすのが仕事みたいなものだ。どのみち定年前のジジイが大半であるから、何か失敗しても頭を下げるだけでいい。そのあとは形だけの責任をとって辞めさせられても年金はもらえるし、実名をどこかで報道されることもないから、気楽なものである。そして、そういう辞書が要らないと言う連中が常に理由として掲げるのは、「子供は辞書なんて使わずに言葉を覚える」という馬鹿の一つ覚えだ。

しかし、既に本稿の他の一節で書いた通り、このようなインチキ文化人類学やデタラメ言語学に耳を貸してはいけない。子供は自然に言葉を覚えるというが、それはつまり子供が習得して運用するレベルでいいという、甘えた目標を設定すること自体が、日本語でも英語でも言葉で生活する意欲や見識が低い証拠だろう。言葉の扱いは、すなわち概念や知識の扱いでもある。つまり、それが子供として習得する範囲や内容やレベルでいいなんて言うのは、わたしは子供として生きますと宣言しているのと同じなのだ。子供には概念がないため、先に発音や文字として言葉をぼんやりと覚えて、使い方という脈絡の中で意味を探るしか方法がない。これに対して大人は既に(馬鹿でなければ)日本語として概念をもっているのだから、子供と習得する実情や方法が違うのは当たり前なのである。それがアメリカの言葉で意味する概念と比べて違っていることはあろう。“God” と言われて、アメリカ人が把握することと日本人が(日本語に置き換えて)把握することでは違いがあるし、日本人が英語として把握していてすら、どこかに僅かな経験上の違いがあったりする。しかし、なんにしても全く知らないアメリカや日本の子供が “God” だ「神」だと言われてから言葉を学ぶのとでは、学識のあるなしとは関係なく、言葉として見聞きしたり使ってきた脈絡があるという経験だけでも大きな違いがある。

長年にわたって使われてきた道具には、それなりの効用や役割がある。そして、それを使うことで獲得できた利便性というものが語られる以上は、そういうものが全くなくても同じ結果を上げられるという意見に反対はしないが、敢えて手にできる状況を軽視したり、それどころか不要論などと称して否定したり侮蔑するまでの根拠など、たいていの人はもっていないはずである。和英辞典などなくても東大に入れた、和英辞典などなくてもノベール賞を受けた、和英辞典などなくても元坂道アイドルと結婚できた、和英辞典などなくても投資で数十億を手に入れた、和英辞典などなくても良い病院に入って最期を迎えられた。それはそうかもしれないが、論理的にはどうでもいい話でしかない。それらがどれほど都内の愚劣な人々にとっての安っぽい成功や幸運だろうと、和英辞典が不要かどうかを論証する根拠にはならないのである。

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「無能な人の英語学習法TOP3」について

2022年10月02日に初出の投稿」という Notes からの転載です。

無能な人の英語学習法TOP3 【絶対にやめて】無能な人の英語学習法TOP3

なかなか今回も興味深い話だった。先に内容を紹介してしまうが、彼女が説明している三つの無駄な英語学習法とは、(3) 単語帳を使う、(2) 文法を勉強する、(1) 英語の先生に質問する、というものだ。それぞれの理由は動画を観ていただき、それぞれで判断していただくとして、ここでは僕から幾つか反論させていただく。

まず、単語帳は市販の単語帳であれ自分でノートに書き溜めてゆくものであれ、要するに使い方によって有効にもなるし無効にもなる。これは、当サイトの「英語の勉強について」というページで和英辞典の是非について述べている話と同じく、simpliciter なテーマではなく、条件によって正否が異なるのである。もしこんなことを simpliciter つまり無条件に誰にとっても無駄なことであるとわかっていれば、明治時代から学校教育に英語を取り入れてから150年間も無駄な教育をしていたなんて話になる。それほど教育というものは単純ではない(そしてそれゆえ、たいていの教師の「教授法」なんて個人的な経験、教師生活35年にわたる「経験」であろうと、そういう矮小な事実から得た感想を言っているだけの御託でしかないという事例も多いのだが)。そして、彼女も単語帳を使うべきではない段階の学習者がいるという前提で話をしているのであるから、動画の演出として極論を口にするのは仕方ないとしても、やはり極論を言いすぎると、従来の英語教師と同じく個人的な経験(その大半は、やめていった生徒ではなく記憶に残る成功した生徒と接した経験である)だけで生存バイアスに陥ることとなろう。何度も言うようで気の毒だが、成功者を100名輩出したのは結構だけど、あなたの英語教室を1レッスンだけで止めた人や、1年ほど通っても英検2級すら合格できない生徒は、他にどれだけいるんですかと聞きたい。ていうか、そもそもレッスンの受講者を募る時点で何らかのハードルを設けてる可能性だってありそうだ(受講料がそれなりに高額であるとか、そもそも英検2級ていどは合格してないと申し込めないとか)。

そして次の文法についても、僕の評価は同じである。また、彼女自身も、単語帳の話と同じく動画では文法を学ぶ良しあしについて全く無意味だとか無駄だと言っているわけではない。実際、彼女が言っているようなタイプの批評やアドバイスは、彼女の独創でもなければ最近の話でもなく、はっきり言えば僕らが学校で英語を勉強し始めた頃から色々な本や雑誌で指摘されていたことであり、或るていどの説得力はあるが無条件に同意してよい話でもない。みなさんも英語の勉強について、いちどくらいは「赤ちゃんは言葉を覚えるのに文法の教科書なんて読まない」などという、僕に言わせれば「減らず口」としか言いようがないセリフを読んだり聞いたことがあると思う。もちろん、発達科学や認知言語学という研究分野でヒトの個体が言語を習得するプロセスという話をしているなら正当な話であるし、それが事実というものであろう。いや、そもそも「文法を理解していない幼児が日本語で何かを表現するために文法書を読む」という表現そのものが論理的におかしい。文法がわからないのに、どうやって文法書という本を読んで理解できるというのか。しかし、中学生や高校生ならともかく、一通り初歩的な勉強をしている大学生や社会人が英語を学ぶときは、既に母語としての日本語という最低でも一つの言語体系について理解し運用している体験が備わっているのであり、その状況で異なる言語を習得するという条件は、未熟児が言葉を覚えるのとでは話が違う。そして、文法は要らないという、格好はいいが無責任なフレーズをまくしたてる連中の大半は、発達科学や認知言語学どころか、英語教授法について学部レベルの勉強すらしていない素人であるから、結局のところ自分の身の回りで起きた結果論で喋っているだけにすぎず、大半の大人や社会人には通用しない、都合の良い事例だけで固めた話をしているのである。また、これも「英語の勉強について」というページで書いている話だが、「幼児みたいに英語を習得する」というのは、要するに社会人が幼児並みの理解で言葉を使ってもいいという傲慢な話をしていることに気付くべきである。知りもしないのに、"theory of relativity" という言葉を口から発音できるというだけで何事かを「自己表現」しただの英語で話しているだのという妄想に陥ることは、英語や言語を習得するという以前に、社会の一員つまりは人として避けるべき自己欺瞞に陥るということなのである。

たとえ英語で流暢に喋れるようになろうとも、自分勝手に物事を理解して言葉にするような人間になってはいけない。

そして三つ目についても、無条件で言えるような話ではない。こう言っては身も蓋もないが、僕が中学時代に英語を教わった先生は高橋一幸という人物で、現在は神奈川大学外国語学部英語英文学科の教授だが、1980年代は僕の母校(大阪教育大学教育学部附属天王寺中学校。現在は名称が違う)で英語の教員をされていたし、僕が中学2年のときは担任でもあった。発音がいいかどうかは正確に覚えていないが、短期間だけ補助教員として招いていたネイティブのアメリカ人とも全く問題なく会話していた。また、英語のスピーチでは僕と一時だけ競っていた(そしてすぐに僕が全く追いつけないレベルに行ってしまった) W 田君という同級生(外務省から MIT の修士課程を経てマッキンゼーに移り、そのあとは何社かの取締役をやっていた)にも英語のスピーチを丁寧に教えていたくらいはできた先生である。要するに、これもこう言っては身も蓋もない話だが、それなりのレベルの学校ならまともな英語教員なんていくらでもいるわけで、「まともな英語教員」が少ないのは僕も同意できるが、それは彼女が動画でも言うように、まさに中学と高校の話であるから、社会人になって英会話の教員を「客」として自分で選べる立場になれば幾らでも改善の余地はある。

それから、ここまでの僕の反論でも薄々感じられると思うが、彼女は自分のアドバイスが当てはまる相手を、社会人だったり中高生だったり都合よく置き換えてしまうのだ。こういうトリックにも注意したい。僕はもちろん社会人として一通りの授業を中学や高校で受けた経験がある人を想定して、彼女のアドバイスが適切であるかどうかという観点で反論している。

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「100%成果の出る英単語学習法を紹介します」について

2022年10月08日に初出の投稿」という Notes からの転載です。

100%成果の出る英単語学習法を紹介します 【爆伸び注意】100%成果の出る英単語学習法を紹介します

また例の英語講師のビデオを紹介する。今回は、英単語を覚える効果的な方法ということで、それなりに筋が通っていると思う方法を紹介していたから、ここでは否定的な扱いはしない。彼女が紹介している方法は5つのプロセスで列挙されているため、ひとまずそれを要点として紹介しておこう。

彼女の解説にいくつか補足させてもらいながら説明しよう。まず教材は、もちろん自分の知らない単語が掲載されている学習用の単語集を選ぶのだが、あまりにも難解な単語ばかり掲載されているものはやめた方がいい。たとえば中学生が大学院入試用の、概念としてそもそも理解していない物理や社会科学の専門用語が掲載された単語集を使っても、はっきり言って無意味である。当サイトで何度も言ってることだが、口先だけで日本語の「相対性理論」とか英語の "theory of relativity" を発音できたところで、内容を理解していない人間がこんな語句をもてあそぶのは、何かの言語の話者という以前に人として不誠実に育つだけだ。繰り返して強調するが、英語がペラペラのテロリストや、日本語を流暢に話すネトウヨになりたいかということである。文法を理解して言葉を発音できるというだけで犯罪や無知無教養から逃れられるなんて錯覚だ。

なお、彼女が旺文社のターゲットを選定した理由は、ネイティブの音声データをダウンロードできるということらしい。でも、これだけだと選定理由として不十分だと思う。なぜなら、この単語集は書名のとおり約2,000語の単語を収録しているが、2,000語なんて中卒レベルの語彙でしかないからだ。実際、僕は中学時代に LDOCE を使い始めたときの準備として語義を理解するために必要な基本単語を2,000個だけ掲載した LDOCE 専用の単語集で勉強した。LDOCE の設計がまさに物語っているように、なるほど基本単語の2,000語を習得すれば LDOCE に出てくる単語の語義を理解できるのだから、それはつまり LDOCE に掲載されている単語なら基本単語2,000語だけで言い換えられる(表現できる)ということだ。であれば、辞書の説明みたいな回りくどい言い方となることすら問題なければ、LDOCE に掲載された単語を使って表現できる文章は、全て基本単語を使った言い回しに置き換えてもいいということになる。しかし、それはまさに「中卒」と言ったように、的確な表現をするための単語を知らない子供の未熟な表現で、大学生や社会人が押し通すということでもある。以前も書いたことだが、サラリーマンが海外で交渉するのに、いくら言語学的に文法や意味としては間違いなく伝達できるからといって、中学生が話すような英語で話すなんて、いったい相手はどう思うだろうか。明らかに、交渉や議論の相手としては信頼できないと思うだろう。そういう英語話者は社会人として間違いなく「未熟」と判断できるからだ。交渉相手である企業の取締役に向かって、「ねぇおじさん、僕たちのえらいひとがつくったプログラムを買っておくれよ」と言ってるも同然の英語で喋ることが表現だと思っているなら、英語を勉強する前に、自分がそもそも日本語ですら馬鹿げた文章を書いていないか、周りの大人に読んでもらう方がいい。

(3) の音声練習は何も言うことがない。単語集にはネイティブの発音を確認できる付録があるものを選ぶのが、僕も良いと思う。どう発音するかも正確に分からない単語なんて、絶対に使えるようにならないのだから、覚えるわけもないからだ。また、いくら英語の教師だろうとインド人や日本人が喋っている動画とか音声データも絶対に使わない方がいい。また教師でなくともアメリカで生活して何十年とか、そんなことは発音が的確かどうかの証拠にはならない。

(4) それから苦手を克服するために覚えられない単語で book of shame(松本亨氏の呼び方)を作るのも、僕は良いアドバイスだと思う。これも、当サイトの「英語の勉強について」というページで僕の使っている単語帳を紹介してある。そして、動画の英語講師がどう教えているかは分からないが、この手の自分の単語帳を作るときに注意もしくはお勧めしたいのは、単語の意味を単語帳に書いてはいけないということだ。その単語帳に掲載されている時点で意味を思い出せという、或る程度のプレッシャーがかけられなくてはいけない。すぐに語義を見られるようにしてしまっては、覚えるというよりも思い出すというプロセスにとって悪影響がある。

(5) そして最後の実践演習は、単語を覚えた後に長文読解なんてやるなという話である。字面で勉強するという方法には、英語をアウトプットするインセンティブがまるでないため、単語を自分の言葉として使う練習にならない。そして、自分の言葉として使うときに大切なのは、"are" と "you" と "kidding" と "?" という個々の単語や記号を「ひょっとして」「あんたは」「冗談言ってる」「の?」などという日本語からの再構成によって表現するのではなく、"Are you kidding?" という一つのフレーズとして表現する訓練をすることだ。このフレーズを一つの発出として表に出すということが表現なのであり、言葉とはそれを相手に発するための手立てなのである。僕らは、相手から聞いたことが信じられないという「意味合い」を相手に自分の感想や感情として伝えるために "Are you kidding?" と表出したいのであって、自分が "are" とか "kidding" という単語を知ってますとか覚えてますとか、あるいは "are" を先頭につけて疑問文を作れますとか、"Are you kidding?" という疑問文が反語表現として使えることを知ってますなどと、相手にそんなことを伝えるために "Are you kidding?" と発音するわけではないだろう。彼女は、おそらくそれを言っているのだろう。そして、そういう趣旨で彼女が「フレーズとして覚えよ」とアドバイスしているのであれば、彼女はまったく正しいと思う。翻訳や通訳に携わる人々は、それをわかっているからこそ、"Are you kidding?" を即座に「まさかね!」と自分の日本語として表出できるのである。

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僕らのような素人のアドバイスは話半分に受け止めること

語学習得は若いほど有利、年齢を重ねてからではもう無理と諦めていないだろうか。確かに脳細胞の数は年とともに減るが、脳細胞の「成長」となると、それとは別だ。習慣を見直せば、まだ脳は育つ。オトナならではの賢い学び方、それとは逆に、やってはならない学び方とは。「プレジデント」(2022年4月29日号)の特集「『英語』レッスン革命」より、記事の一部をお届けします。

オトナになってからの英語学習で、絶対にやってはならない「7つの悪習慣」

日本で英語を学ぶ人の多くが何十年やっても英語をまともに〈使える〉ようにならない陋習や原因には幾つか指摘されている。そして、その一つがまさにこういう素人のアドバイスだ。この手の受験秀才が書く英語学習本とか体験談の記事が、英語学者やネイティブや英語で実務に携わっている人々のチェックも経ずに、市場へ氾濫しすぎていることにあるのだ。この人物のプロフィールを見るとわかるように、脳科学の専門家でもなければ(脳神経内科というのは脳で起きる筋肉痛や神経痛の医療分野にすぎない。科学ですらないのだ)、英語の専門家でもない(この人物が英語でアメリカの学会に参加したりアメリカ人と意見を交換している証拠など一つもない)。しかし、医者だとかどこそこ大学を出てるなどと紹介されると、英語の学習意欲だけではなく学歴コンプレックスがある多くの人は、この手の人々が書くものを妄信したり、あるいはむやみに反発して無視しようとしてしまう。

もちろん40歳や50歳になっても英語は習得できる。というか、英語を使う土地で生きていくために「可能かどうか」なんて調べたり考察したり議論する暇など、たいていの人にはないのだ。そうしなくては生きていけないからこそ英語を身に着けるのであって、たいていの英語を習得している人たちは、字幕なしで映画を観たり原書のエロ小説を読むといった暇潰しや娯楽のために英語を身に着けるわけではない。日本語の標準語さえ使えたら国内のどこへ行ってもコミュニケーションでの苦労がなくて、外国人や外国語と接するチャンスが殆どない島国で生活しているため、外国語を習得して生きていかなくてはいけないという境遇を、とにかく日本人は舐めすぎている。これも、英語の習得ができない理由の一つだ。たいていの日本人は、英語どころか外国語を学ぶ切実な理由なんてそもそもないのである。

上記の記事で紹介されている「やってはいけない7つの『悪習慣』」(他人からの伝聞や著作物のタイトルでもなく、あるいは強調表現とも思えないのに、どうして括弧で囲むのか。日本語の正確な運用能力もない人間に英語を語る資格があるとは思えないがね)を見てみると、

  1. (1) 教材の1ページ目から勉強
  2. (2) つまらない教材をやりきる
  3. (3) 英文の「返り読み」をする
  4. (4) 発音を気にしすぎる
  5. (5) 団体ツアーで海外旅行
  6. (6) 文法を「記憶」する
  7. (7) 部屋が散らかったまま

となっているが、生きるための手立てとして言語を身に着けるという切実で真面目で真剣なスタンスを前提にするなら、(1) と (2) なんてどうでもいい話だ。楽しく勉強する、逆に言えば楽しくなければ勉強しなくてもいいなどという、空虚な「モチベーション」などという錯覚にしがみついて言い訳や正当化を作ろうとするからこそ、そういう正当化そのものに失敗すると勉強しなくてもいいという自堕落な言い訳を自分で作り上げてしまうことになる。

(3) は僕も正しいと思う。言語を習得するのは、たとえば「道草」といったサイトにクルーグマンの論説を違法翻訳して自分が何か世のため人のためになっているなどと承認欲求を満たすためではない。日本語に置き換えるべきときは、それを日本語の概念として理解するときに〈しっくりいく〉と実感できるときだけでいい。しばしば「英語で考える」などと言われたりするが、英語を〈生きる手立て〉として習得しているときには、そういう自覚すら不要な認知プロセスで済むはずなのである。“Stay!” と誰かに叫ばれたら、「止まれ!」と翻訳する必要どころか、英語として〈何かやってることを止めるという意味〉だと理解する必要すらない。ただ単に自分の行動や行為を止めたらいいだけのことなのだ。

そして (4) については、英語の講師やアメリカで生活している人たちが口を揃えて言うように、「発音なんてどうでもいい」なんてことを言う人間に限って、その多くは留学経験もない、日本にわざわざやってくる外国人だけを相手にしている暇人であるか、あるいは自分の聞き取り難い発話が相手からどう思われているかに頓着しない無礼者なのである。しっかり相手に誤解なく伝えなければ、生きていくために致命的な失敗を犯す可能性がある。これくらい、アメリカで何か月か生活するだけで馬鹿でもわかる話だというのが、実際に英語を使って生きている人たちの実感だろう。「L と R の違いなんて気にしなくていい」などと言う連中は、来客へ出す料理に塩と砂糖を入れ間違っても気にしないような奴のことだ。

もう詰まらない話にかかわるのはこれくらいにしておくが、最後に一つだけ書いておくと、日本で英語を習得できない人が多い理由の一つとして、これも市井にあふれている素人や塾講師などの英語本とか雑誌記事でさんざん嘘っぱちを書かれていることだが、文法を後回しにして英会話のフレーズばかりを機械的に暗記する人が非常に多い。でも、当サイトの記事で書いているように、英会話本のフレーズがそのまま使える場面なんて、あなたの人生には殆どないのだ。よって、そういう ready-made なフレーズを骨組みとして自分の置かれている状況へ当てはめるために必要なのは、語彙と文法の力なのである。これがない単純なフレーズを繰り返すだけの人は、朝ドラのように何十年と続けていても、現実にはアメリカの青少年にすら匹敵しない AI 以下の運用能力しかないと言ってよい。

とは言え、ごく当たり前に言葉を習得する仕方について誰でも経験しているように、言葉の習得に perfection などない。そもそも自分たちが使う母国語ですら、相手と正確かつ厳密かつ適切に意志を疎通している保証など全くないのである。あるいは言語哲学として考えても、言語による〈意図〉や〈意味〉の共有とかやりとりに「十分」とか「完全」なんてありえないのだ。なぜなら、その基準が全くないからである。したがって、言語の習得について自らであろうと英語教師であろうと会話の相手であろうと、「~でなければいけない」などと言われる筋合いは全くないのだが、しかし会話が適切であるかどうかの判断は、半分は彼らにもゆだねられている。これがコミュニケーションや伝達の(おそらく原理的な)難しさなのであろう。よって、英和辞典を1ページから最後まで覚えたら〈英語ができる〉ようになるなどというのは幻想でしかないわけだが、だからといって英語のテキストを好きなところだけ読んでいいなどというバカげたアドバイスはすべきでない。このバランスやニュアンスがわからない人間に、他人へ英語の勉強の仕方を教える資格などないのである。

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TOEIC の是非について

21日の『ABEMA Prime』に出演した茂木氏は、改めてTOEICのリスニングとリーディングのサンプル問題に触れ「地獄のようにつまらない。くだらなすぎて、最低最悪。もう砂をかむようだ。マウンティングしているように聞こえるかもしれないが、はっきり言う。僕は『TED』のメインステージで最初の日本人の一人として喋ったし、ケンブリッジ大学にも2年留学した。その俺に言わせると“面白い英語”というものがあるし、ETSというアメリカのテスティングサービス会社が作った、日本人を永遠に“二流以下“の英語話者にとどめるための策謀だと思う」と切って捨てた。

「愛国者として、日本人の英語力をこのままにしておくことに耐えられない」茂木健一郎氏が“脱TOEIC”、“脱ペーパーテスト”を呼びかけ

英語の勉強についてページを公開している都合から、この手の話題に少しは興味があるのだけれど、上記のような議論を読むと、英語の習得とか勉強について大前提として言っておきたいことがある。それは、昔ながらの商売人とか運搬事業者とか移民とか越境者とか漂泊者が新しく行き来する国の言葉を覚える経緯などをモデルにして外国語を習得する理想的なプロセスであるかのようなことを言う議論には、何かセンチメンタルなものを感じてしまうということだ。また、幼児が言葉を習得するプロセスを自然だの理想だのと言いつつ、大人も同じプロセスを追うべきだなどと迷惑なことを言う人々も、はっきり言って外国語の習得とか教育について、口を挟まないでいただきたいという気がする。しかし、かといって昨今の English as the second language (ESL) というアプローチのもとで普及している教材とかセミナーとか TOEIC / TOEFL / IELTS のような試験が有効なのかどうかも、実はよく分からない。なので、いくら Abema が「テレビ朝日が制作するネトウヨ放送」という画期的なエンターテインメントだからといっても、わざわざ明け透けに「愛国者」とか「策謀」とか言わなくてもいいのにと思うが、いずれにしても茂木健一郎氏の言わんとする趣旨は分からなくもない。

実際、次のような反論があるようだが、僕にはくだらないとしか思えない。「TOEICも受け続けている英語講師のもりてつ氏(武田塾English取締役)は『そもそもTOEICは教養を問う試験ではなく、英語圏で生活ができるかどうかを測る試験だ。茂木さん、1回受けてみてはどうか。俺と一緒に受けてみないか』と反論している。」これの何がくだらないかというと、こういう英語で飯を食ってる連中には、そもそも TOEIC を擁護するインセンティブがあるので、茂木健一郎氏に反論する資格など最初からないのだ。「トイッカーとも呼ばれる、TOEICを本当に心から楽しんでいる人もいる」・・・バカか。そんなもの、どうでもいいよ。TOEIC なんて英語の能力試験というよりも一種のゲームであることは多くの教育者や体験者が指摘していることなのだから、そんなゲームを楽しみたい人間は勝手にやっていればいいのだ。入社や入学あるいは昇進の評価基準にするなど笑止もいいところだ。

そして、この手の話をする人間にいつも説得力がないと感じる決定的な理由は、「じゃあ、おまえら英語はいいとして、それでいったい何をしたの? 実績、学位、年収は? いまの会社での職位は?」と質問すれば終わってしまうからだ。つまり、英語教育にかかわる既存のサービスを擁護する連中の大半は、英語については人様に教えるていどには詳しくても、要するにそれだけのことでしかないという事実を超えるものを持っていないのである。しかし、英語を習得して僕らがやることは、アメリカで大学に入ったり、交渉したり、あるいは弁護士や医者になるということだ。正直、英語の勉強なんて最低限でしかなく、そこを何十年も改善できておらず、他の国に比べて英語を学ぶ人数も年数も引けをとらないのに英語が使えない人間を輩出し続けている既存の英語教育や英語関連のサービスは、簡単に言えば決定的に何かが足りないのだ。

もちろん、それが英語の教育や教材や教師だけに責任があるとは思っていない。なぜなら、他の国と比較して日本人の大半は英語を習得しないと職にありつけないとか、専門的な技能や知識が学べないとか、そういう脆弱性がない国に住んでいるので、そもそも英語を学ぶ必要なんてないからだ。これは、おそらく日本人と比べても英語が使えない人が圧倒的に多いであろう、モンゴルとか、ロシアとか、あるいは大多数のアフリカや中東の国々と事情は同じである。そうした国々は、逆に英語ができようとできまいと政情が不安定だったり貧しすぎて仕事じたいがなかったりするため、別の意味で英語を学ぶ必要性がない。韓国人や中国人や台湾人(中国の愛国者には気の毒だが、別の国だ)は、日本人に比べて英語を習得する人が多いと言われるが、それは別に彼らが〈英語習得遺伝子〉のようなものを持っていたり、外国語を習得しやすい生活習慣とか文法とか文化をもっているからではなく、やはり決定的なのは動機だと思う。なので、彼ら他の国の人々のようにギラギラとした欲望とかキラキラとした希望とか、そういう強い動機もなくて、たとえば洋画を字幕なしで観たいだの、「国際人」になりたいだの、MMORPG の国際サーバでアメリカ人と語りたいだの、そういう純朴で無害ではあるが、しょせんは恵まれた境遇の人間が思いつくていどの安っぽい動機で、英語の教科書を眺めたり、(放映中の朝ドラを批判したいわけではないが)英会話のラジオ番組を親子3代に渡って聞いていようと、そんなことではどうにもならないわけである。

そして、パックンが TOEIC にも一定の価値はあると反論した際にも、茂木氏は「そもそも日本企業がTOEICを使っているのは自分たちで英語力を判断できないからであって、そも日本人の英語力がなんでそのレベルにとどまっているのかを問題にしなければならない。それはやはり教育の中で英語劇やスピーチ、ライティングをしていないからだ」と述べていて、これについても僕は茂木氏の方に賛成したい。資格試験の勉強に一定の価値があるのは確かで、たとえば体系的な勉強をすることで我流の勉強による偏向を是正できるといった効用があるにはある。しかし、スコアだけで判断する企業の大半は、これは何度も言ってることだが、人事に人を評価する見識もなければ経験もなく、ましてや人事に関連する学位ももっていないのだら、簡単に言えば素人でも評価できるために TOEIC のスコアが役に立っているだけのことなのだ。そんな連中に評価されたところで、客観的には意味がない。大学生が幼稚園レベルの英語を使えるようになったと、英語もロクにできない大企業の人事部などに評価されて、それで彼らの英語が入社してから本当に役に立つのかという話である。そして、大学受験と同じく、多くの人々は評価される機会を終えたら勉強しなくなってしまう。明らかに〈文化的な下方圧力〉だ。

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口語辞典の「名著」

2022年11月18日に初出の投稿」という Notes からの転載です。

『日米口語辞典』

上記はエドワード・サイデンスティッカー氏と今年の3月に亡くなった松本道弘氏との共著である。僕が手に入れたのは初版だが、いまでも初版ですら評価が高い。現在は2021年に最新版が出ていて、ぞろぞろと英語の語彙を暗記するしか才能がなさそうな業績のない馬鹿どもが宣伝して回っている。確かに読む辞典として編纂されただけのことはあって、読んで理解するというアプローチにはそれなりの利点もあろう。

しかし松本氏には気の毒だが、「英語道」などと称してみたところで、言語の本質は記憶した単語の数や流暢な発音や自然なコロケーションではなく、あくまでも内容なのだということを、クソみたいな発音のインド人が教えてくれるのが現代のわれわれが置かれている圧倒的な差だ。日本人で、アメリカの IT 企業の経営者どころかボード・メンバーに入ってる者すら殆どいまい。内容を無視して、いつまでもこういう辞書を「名著」などと言っていると、英語を使った業績を上げられないばかりか、それこそ老害となじられよう。たとえば、いまでも数多くのレビュアーが絶賛している初版を手にして驚いたというか呆れてしまったのが、数々の女性蔑視としか言いようがない例文や解説文の山である。

などと、冒頭から10ページにも満たない間に続々とこんな表現が出てくる。僕は、何度も言うがフェミニストなんかではない。でも、このような文例が山のように書かれた辞典を「名著」と叫んでいるレビュアーが例外なく男である(少なくとも文体からすれば女性が書いてるレビューとは思えない)という事実から言っても、やはり愚かな精神論を言語の教育に組み込んでしまった人々のエコーチェインバーでは、批判的な観点も身に着かなくなってしまい、ひたすら「英語ペラペラ」というバカの一つ覚えだけを目標にする無能な口先野郎が再生産されるばかりなのだろう。

そら、インド人や中国人に負けるわけだよ。

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マスコミの典型的なネタとしての「語学の天才」

genius as a role

英語、日本語、ロシア語にスペイン語……。カナダ人の言語学者スティーブ・カウフマンさん(77)は、20の言葉を操ることができると言います。しかも、「60歳になってから学んだものも多い」とか。「誰でも語学は習得できるから、諦めないで」と日本語で自信たっぷりに話します。

真田嶺「語学習得『文法より大事なのは…』20カ国語を操る言語学者の勉強法」, March 9th, 2023, https://www.asahi.com/articles/ASR2X454XR2FUHBI01R.html, retrieved on March 14th, 2023.

こういう記事は、大昔から新聞や雑誌、それから現在ならメディアと呼ばれるウェブサイトに何度でも掲載される。そして、だいたいにおいて一致しているのは、その分野で殆ど目覚ましい業績を打ち立てたわけでも何でもない「語学の天才」に秘訣を適当に尋ねるイージーなインタビューというパターンである(世界規模で賞賛されるような業績を出していないという点では、もちろん僕も科学哲学者として同じていどに無能なのであろう)。しかし、このような世間話を真面目に読む必要はない。なぜなら、彼は自分自身の専門である言語学としてすら殆ど根拠のないことを話しているからだ。そして、この手の「語学の天才」という例外的な人物を見つけ出しては記事のネタにしてきた報道機関や出版社の性癖と言ってもいい愚劣な習慣に騙されるのも止めにしたいところである。

日本にも、この手の語学の秀才なり天才と呼ばれている(そして、たいがいにおいて何の目立つ業績も上げていない)人々はたくさんいて、何かあればマスコミが見つけ出してくれる。あるいは自分からソーシャル・メディアなどでアピールしたりもするのだろう。その手の連中は、ともかくたくさんの国の言葉を読んだり話せるということしか取り柄がないので、そういうネタについて売り込むくらいしかできないわけである。しかし、たとえばフランス料理について学びたいあなたは、フランス語の天才に料理を学びたいわけではないだろう。ゲーテの書いたことをドイツ語の原文で読みたいと思う学者は、ドイツ語の教師にゲーテについて教えてほしいわけではあるまい。結局、手段と目的を取り違えさせて、手段であるにすぎない言葉の運用なり習得こそ目的であり、フランス語さえ話せたらフランス料理が作れるとか、英語さえできるようになれば MIT の大学院に入学できるかのような錯覚をばら撒いているのが、自分たち自身では殆ど外国語で業績を上げたりものを熱心に学んだこともない人々が書いている「天才の勉強法」という聞き書きなのである。まだ学び始めたばかりで外国語を流暢に扱えない人たちであっても、このようなデタラメに騙されない程度に大人としての見識を持ち合わせてから、英語であろうとイタリア語であろうと学び始めたいものである。

僕らは、そもそも英語を流暢に話せる人だとか、ましてや外国語を幾つも扱える天才と呼ばれたいがために英語を学ぶわけではない筈である。こういう例外的で何の経験的・理論的な根拠もない、個人的な昔話の類を「勉強法」だの「英語術」だのと吹聴しているような暇人に喋らせた談話を読んでいる暇などなくてもよい。確かに、七か国語が扱えると言われる舛添要一氏は東京都知事にまでなった。これは一つの業績であり、誰かが目指してもいい地位や仕事かもしれないが、では東京都知事はフランス語ができないとなれないのだろうか。ましてや都知事として「良い仕事」をするにはドイツ語を話せる必要があるのか。こんな質問は、小学生時代の僕にすら鼻で笑われるような愚問であろう。

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子供のように言語を容易く習得するという錯覚

このページでは繰り返して強調している話題なのだが、外国語の学習者に蔓延していると言ってもいいデタラメな議論の代表は、子供の言語習得を外国語学習の理想であるかのように思い込む錯覚だ。しかし、事実として僕らは既に(こんな記事が読めるていどには)言葉を習得している成人であって、認知的な条件として子供の状態に戻ったり人為的に子供になることは不可能である。そして、そもそもそんな必要などないことは、大人になってから外国語の勉強を初めて実際に使っている人がいくらでもいるという事実で十分に理解できるだろう。すると、そういう人たちは苦労して外国語を習得していたのであり、もしも子供のように習得していたなら、もっと速く習得できたのであろうという、何の実例も根拠もないことを言い出す人がいたりする。しかし、一般的に言って言葉の習得は、まさしく子供の様子を見れば分かるように個体差がある。発話についても、あるいは表には見えなくても概念として習得することについても、それからそもそも自分が考えたり感じていることを言葉にするとかアピールするということは言語習得の能力だけではなく人格とか生育する環境とか人間関係にも左右されるため、単純に何をすれば速いとか遅いとは言えないものである。そして、そういう色々な条件を合わせて言語を習得していく様子を何年にも渡って十分な数の事例を追跡調査した研究成果など、実は一つもないのである。よって、この話題については学術的なレベルでも仮説の範囲にとどまり、ましてや素人や予備校講師のようなアマチュアが思い込みで話したり書いていることは、単なる妄想である。繰り返すと、(1) 子供のように学ぶことが大人の学習に比べて言語を速く習得できる根拠も証拠もないし、(2) 子供でもどういう環境で習得することが速かったり時間がかかるかは正確な条件が分かっていないのである。

そして、これは実証も論証も必要なく少し考えたら分かることだから、僕のような素人でも議論できることとして次のように考えてみよう。それは、原則として幼児期の言語習得は受動的であり、成人してからの言語習得は(受動的な場合もあるが)能動的だという違いである。先に述べた通り、「英語を流暢に話せる人」と言われたいなどという自意識過剰な動機で英語の勉強を始めるような(そしてたいていは挫折する)人々など知ったことではないが、おおよそ英語に限らず外国語を学ぼうとする人の目的や動機は、言語の習得そのものではない。イタリア料理の本場で教えられていることを学びたい人がイタリア語を学ぼうとするのは、もちろんイタリア料理について知りたいからだ。それが日本語で十分に学べるなら、それに越したことはないだろう。でも、イタリア料理についてイタリアで教えられていることが本当にあらゆる事柄について日本語の本とか資料とかウェブ・ページに翻訳されている保証はないし、熱心に何かを学べば実は誰でもすぐに分かることなのだが、それこそイタリア料理から先物取引や科学哲学にいたる海外で教えられたり研究されたり議論されている色々な事柄は、これだけ毎日のように夥しい翻訳書が発売されたりウェブ・ページとして公開されている国においても、殆ど翻訳なんてされていない。したがって、僕らには外国語を習得して外国で蓄積された知見や知識を学ぶために外国語を習得しなければいけないという理由や動機がいくらでもあるから、それが終わるなどということはない。しかし、それは外国語の習得についても(もちろん母国語についても言えることだが)終わりがないという事実と、同じ意味なのではない。シェークスピアの研究に終わりがないことと、英語の勉強に終わりがないことは別の話である。そんなことくらい誰にでも分かるだろう。

幼児期の言語習得は、簡単に言えば親が話したり自分が親に向かって言葉を発せられないと、何かが生理的に不快だったり生きていけないからだ。お腹が減った。ウンコしたい。そうした欲求をどうにかするために周囲へ発するシグナルの一つが言葉であり、身もだえのような動作であり、しかめっ面のような表情であり、笑い声や笑顔のような反応である。このようなやりとりを通して、「ママ」とか、ママが喋る「糞ジジイ」とか、そういう言葉を学ぶのである。このようなプロセスは、考えてもらえば誰でもわかると思うのだが、大人が真似るようなことではないのだ。あらためて強調しておくが、子供のように言葉を習得するということを外国語の勉強において理想的なプロセスであるかのように錯覚している人々には、次のように言っておきたい。

「言語(母語)を」習得することと、「外国語を」習得することは別である。

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英会話できないという人は、そもそも普段から会話じたいをしていない

2023年5月22日に初出の投稿」という Notes からの転載です。

TOEIC のスコアは900点を越えていても英会話ができないとか、あるいは英検が準1級とかでも話せない人たちがいて、しばしば資格試験を批判するためのネタとして紹介されている。実際に、そういう人は多いのだろう。しかし、僕が思うには、そういう人たちの問題がどこにあるかを指摘するのは簡単である。なぜなら、みなさんが自分の母国語、つまりは日本語なら日本でそもそもみなさんが何を話していないかを振り返れば簡単に分かることだからだ。

朝、出勤するために駅へ向かう途上で同じマンションに住んでいる人たちとエレベーターで同乗したり、あるいは路上ですれ違う際に、みなさんは「おはようございます」と挨拶するだろうか。恐らく、挨拶しない人が大半だと思う。ふだんから見知らぬ相手へ挨拶しない人は、いきなり他人のアメリカ人と会話しろと言われても、日本人にすら挨拶しないのだから、なおさら英語でそもそもそんなことをする必要があると感じないだろう。

それが話せない理由だ。

単語さえ何万と覚えていれば英会話なんてどうとでもなるから、文法なんて勉強しなくてもいいと豪語する人がいる。それは20%くらいは現実に当てはまると言えるけれど、それでも英会話ができるようになる仕組みを8割くらいは理解できていないアドバイスだ。だからこそ、そういう文法を無視した些末で下らない英会話の「ヒント」だの「コツ」だのを何百といった YouTube のビデオを配信している人々がいて、それを飽きもせず熱心に眺めている人々がいるのに、そういう人々は何年もそういうビデオを見続ける羽目になる。あるいは世の中には数多くの英会話学校や英会話のフレーズを集めた本が出回っていて、そもそも他人と話すということの本来の目的や動機とは関係のないフレーズだとか熟語だとかを、それこそ様式美のように延々と教えているだけなのである。そんなことを百年やっても、話せるようになるわけがない。実際、日本はこういうことを戦後から50年以上は続けているけれど、殆ど進展がないと言える。

そして、自然と英語が話せるようになっているのは、皮肉にも英会話の学校や教材なんて使っていない若者たちが、海外サービスの MMORPG とかで必要に迫られて相手とチャットせざるをえないとか、興味のあるプログラミング言語の情報を得るために StackOverflow で英語を使わないといけないとか、そういう事情で英語を自ら使っているような状況が大きなチャンスになっている。それに比べて、同じ若者でも日本で提供されているだけのスマホゲームにハマってるだけとか、あるいは日本で発売されているクズみたいな翻訳とかプログラミング言語の本だけを読んでプログラムを書いているような若者も多い。そして、そういう人たちは、いざ英語を使う必要に迫られても、これまでの「英語ペラペラ」という幻想を追いかけてきた老人たちと同じく、英検2級すらとっていないのに映画を見まくったり CNN のポッドキャストを聴いているうちに話せるようになるだろうという錯覚に陥るわけである。普段から英語やフランス語のポッドキャストを聴いているから言えるが、そんなことは断じてありえない。聞いてるだけで覚えるなんて魔術は、それこそ石川遼君が宣伝していたインチキ教材みたいなもので、ありえないのだ。

ふだんから相手に何か言おうという習慣だとか動機や理由がある人なら、往来で出会った相手に向かって “Hello! How are you today?” などと、役人が作った手順書みたいな一式を覚えていなかったとしても、せめて “Hi!” や “’Morning” くらいは言おうとするはずだ(先頭のアポストロフィに注意。これは “Good morning” のかなり砕けた省略形で、このように “Good” すら省略して “morning” という単語しか喋っていない人もいるが、表記するときはアポストロフィを先頭に付ける)。こういう人は何かを言うことが優先だから話すのであって、いう「べき」ことを単語から文法から準備しなくてはいけないなんてことは思っていない。相手に向かって挨拶することが目的であって、英作文や英会話が目的ではないからだ。でも、何か特に言うことがないとか言葉を発する動機がないという人が、単語を何万覚えていても無駄であろう。それを使う、つまり自分の意思表示として誰かに発するという動機がないのだから。

よって、会話だけ教える学校は日本に多いし、上記のように英会話の秘訣なんてことを延々と自分勝手に喋ってる英語の話者も多いのだが、ご承知のように彼らのように何が大切なのかを理解していない人がどう説明しようと、それは英語を使う事情があって使っているにすぎない無自覚な人からのアドバイスでしかないので、彼ら自身にとってはまことにもっともなことなのだが、そういう事情や動機がない多くの人にとっては効果が低い。僕も中学時代に数ヵ月のコースで20万円くらいかかる英会話学校へ行かされたことがあるけれど、喋る状況を用意されている教室で「ガイジン」と英語で喋るようになっても(残念ながら、或る程度は話せる段階で行ったため、数ヵ月ていどでは殆ど上達しなかった)、それは本当に英語で話したり書く必要がある生活や趣味や仕事とは関係がないのである。いわば、英会話という芝居を演じているに過ぎないからだ。

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続々と復刊される英文法の「名著」について

2023年10月27日に初出の投稿」という Notes を元にした内容です(そのまま同じではありません)。

本日は経営会議を全員で本社へ集まって実施したので、朝から出社していた。昼にジュンク堂の大阪本店へ足を向けて、英語の参考書や辞書の棚を眺めていると、「名著」だの「700万人に教えた」だのと色々なキャッチ・フレーズが付いた英文法の分厚い参考書が何冊も新刊で並んでいる。

出版社には、いい加減にしろと言いたい。その理由はこうだ。

それだけ「名著」が数多くありながら、なんで日本人の大半は昔からまともに英語を読み書きできないのか。それらの本が良く出来た文法書であることは否定しないが、しかし恐らくその理由は、それら「名著」の文法書を色々と読み漁っていたのは、しょせん一部の英語好きや英語の教師だからだろう。莫大な人数の生徒がそれだけの色々な名著を手にして、丁寧に読み続けて、そして「名著」だと評価できるほど英語を習得していたとは、とうてい思えない。大半の人は、そんなもの一冊たりとも読んではいないのだ。いまでこそ大学進学率は7割に達するが、僕らが高校生の頃だと半数近くは高卒で就職していた。もちろん、その中にも英語を丁寧に勉強する人はいたと思うし、大学へ進学する生徒の中には英語の勉強を殆どしない人だっていたとは思うが、だいたいにおいて半数の高校生は、こうした「名著」と呼ばれる参考書なんて書店で手に取ったことすらないと思う(ちなみに「いけないことだ」などとは言っていないし、嘲笑する意図もない。我が国の最高学府である国公立大学の大学院博士課程で、主に英語で書かれた文献で学んだり研究した人間として言うが、英語を学ぶ責任や義務なんて誰にもない。一部のネイティブや方言を使うアメリカ人は英語を話せないし、移民の多くも読み書きできないが、だからといって当局から訴えられたりはせずにアメリカで暮らしている。つまり、アメリカで暮らしているという意味での「アメリカ人」にすら、英語を学ぶ義務なんてないのだ)。

それに、ここ数年で続々と復刊されている「名著」の文法書は、そもそも絶版だったものが殆どだ。ということは、つまるところ売れていなかったということであって、大半の受験生には支持されていなかった証拠ではないのか。実際、昔から多くの生徒に読まれていて売れていた原仙作氏の『英文標準問題精講』(旺文社)なんて、初版が出てから100年近く、現在の内容とほぼ同じに改定されてからでも60年以上が経過するのに、まだ現在も多くの受験生が手に取っている。高水準で詳しい内容であるにも関わらず、ハンディな判型で本体価格も1,000円を切っているという、これこそ「名著」というものであろう。それに比べて、ここ最近になって続々と復刊されたり、ちくま文芸文庫からわざわざ分厚く高額な文庫本として再刊されたりしている英文法の「名著」なんていうキャッチフレーズには実質が伴っていない。要は、英語が得意か好きで何冊も参考書を読み漁った英文学者や作家のノルタルジーにすぎない。

国公立大学の博士課程に進学したり、英語で書かれた書籍やウェブ・ページを読んでシステム開発や情報セキュリティ・マネジメントに携わってきた実務家ないしプロとして、ささやかな実績や才能の限りで言わせてもらえるなら(とはいえ、その「ささやかな」程度ですら、大半の技術者やサラリーマンを遥かに凌駕しているがね)、こういう体系的な参考書というものは、英文法だろうと積分学だろうと科学哲学だろうと、書店で眺めてみて良さそうだと思えたものを一冊だけ購入して、分かろうと分かるまいと、あるいは分かり易かろうと難しかろうと、なんであれ一度は問答する余地なく通読するというトレーニングを自分に課さなくてはいけない。学問の研究実務だろうと勉強だろうと、或る意味ではスポーツと同じであって、一定の訓練や鍛錬を要するからだ。こんなものは、たとえ天才的な才能が生まれたときからある gifted のような人であっても、気楽にやりたいことだけやっていて実績など出せるわけがない(いわゆる「神童」の多くが成長すると全く業績を出せなくなるのは、仕事になったとたんにやる気がなくなるからだ。よって成長しても業績を残しているのは、良い悪いはともかくとして、たいてい大金持ちの子息である)。そうして、分からなかったことや、分かりにくかったところを覚えておいて、再び書店で別の参考書がどう説明しているかを比較してみるとよい。たぶん、その分かりにくいと感じたことを他の参考書が丁寧あるいは的確に説明していようと、今度はその別の参考書には違うところで分かりにくい内容や不十分な記述がある筈だ。要は、いかに体系書であろうと、扱う範囲だとか説明の充実さという点で exhaustive であるような遺漏のない著作物などありえないのである。なぜなら、文法もまた時代によって変化したり進展するし、同じ言語でも使われている地域や国によって違う(そして収録するべき多様性として)特徴をもつからだ。要するに、どれか一冊にコミットして精読することから始めるしかないのである。そして、実はあれこれと浅く読み重ねるよりも、一冊を精読して身につける方が実力がつくのに、中途半端な英語おたくは色々な文法書に手を出して、結局は英語が生活なり生き方の道具として身につかない。そもそも、みなさんは英語の文法書をたくさん読んだ偉い人になりたくて英語の勉強をするんですかという本質的なところを straightforward に考えるべきなのだ。そうするだけで、何冊もあれこれと文法書を読むなどという暇潰しに時間やお金を使うくらいなら、評価の高い一冊を精読する方が効果的であると思い知るだろう。

同じ本が簡単に手に入る保証はないので、僕の昔の経験だけでは情報として不足があろうと思うが、僕は中学生の頃に塾で高校生用の参考書である『マスタリー 高校新総合英語』(長谷川 潔/編、3訂版、桐原書店、1983)を勧められた。これは、いまでも標準的なレベルの勉強をしたいという高校生までには勧められる。現在は手に入らないと思うが、これを元にして桐原書店から後続の参考書が出版されていると思う。なので、復刊などしてもらう必要はないし、同じものをいま古本で求めるべきだとも思わない。それから、社会人や大学生が使うのであれば、それこそ最近は色々な参考書が出ているし、いわゆる英語教育が準拠している文法の用語とか事項とは異なる「実践」とか「実用」といった切り口で解説しているものも増えているので、たぶん大型書店で目移りする方も多いだろう。しかし、既に述べた通り、どれか一つに決めたら丁寧に精読することだ。あれこれと読み比べる暇もなければ、どちらが正しいかを判定する英語力なんて学習している途中の者にはないからだ。仮に、何か間違いや中途半端な解説を覚えこんだとしても、そんな英語を学びたての人間に条約交渉とか海外企業との契約を任せるなんてことはありえないので(僕なら、TOEIC 満点とか英検1級ていどの実績しか無い人間にそんな重大な仕事を任せたりはしない。ちょうど、東大へ入学したばかりの学生に学術誌の編集委員を任せたり博士論文の主査を任せたりしないのと同じことである)、失敗しても影響は軽微であろうから修正すればいいだけである。ということで、『徹底例解ロイヤル英文法』(綿貫 陽/著、改訂新版、旺文社、2000)とか、『英文法解説』(江川泰一郎/著、改訂三版、金子書房、1991)などのロング・セラーとなっている参考書をお勧めする。

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英単語集を買わなくても英和辞典を使えばいい

2024年02月03日に初出の投稿」という Notes を元にした内容です(そのまま同じではありません)。

以前も書いた話だから繰り返しになるが、世の中に出回っている「英単語集」と呼ばれる本の大半は、実は或る条件を決めて英語の勉強を始める人には全く買う必要がない。その条件とは、少なくともアメリカの大学生ていどの語彙をもちたいという目標をもつことだ。言い換えると、アメリカの大学もしくは大学院へ留学して学ぶていどの語彙を身につける必要がある方であれば、多くてもたかだか数千の単語しか掲載されていない英単語集なんて、何冊買おうと重複が多いばかりで非効率な勉強しかできない。そんなものを何冊も買うくらいなら、まずは中高生が学習用に使う英和辞典を買って、それに掲載されている単語を全て覚えてしまうくらいのつもりで勉強する方がいいのだ。

こういう学習用の英和辞典は、どの出版社から出ているものでも、おおよそ5万前後のエントリーで作られている。そして、だいたいアメリカの大学生の語彙数が4万くらいだと言われているので、簡単に言えば学習用の英和辞典を叩き込めば同じレベルの語彙になるというわけである。もちろん、現地の人々は現地で生活しているなりの特別な語彙を身に着けているので、その実状は人によって違っている。方言、スラング、生まれ育ったときに流行していたテレビ番組やコマーシャルのフレーズ、セレブの有名な発言、それから地元の仲間や家族にだけ通じるような、スラングとすら言えない合言葉のようなものは、その大半が日本で発売されている辞書には掲載されない(いや、もちろん Merriam-Webster にすら掲載されない可能性も高い)ので、辞書的なエントリーとして5万の語彙があるとしても理解不能な言い回しはたくさんあるだろう。でも、同じアメリカ人であっても他人のプライベートな言い回しや方言なんてみんな分かるはずがないのだし、これだけの語彙があれば少なくともスタンダードな語彙もない人として扱われずに済むわけである。日本でも、青森弁は分からなくても、青森の人が標準語で話してくれさえすれば何が言いたいのかは分かる人が大半だろう。彼らが標準語を使ったとしても言っていることが分からないというのでは、その人はそもそも日本語としての基本的な語彙がないと見做される。 ということで、英和辞典に掲載されている単語や用法を全て覚えるという単純な目標を設定すればいいなら、他に英単語集なんて買う必要はない。すると、ありえる反論として次のようなものがあるだろう。

よって、これらは文字通り辞書的な英和辞典よりも優れているというのである。しかし、僕はこれら三つの点にはそれぞれ再反論できる。要は英和辞典であろうと使い方しだいで幾らでも活用できるのであって、これらの諸点で標準的な使い方の英和辞典よりも英単語集にアドバンテージがあるとしても、この程度のことは幾らでもリカバリーできるからだ。

まず (1) の、英単語集はコーパスを利用しているから英和辞典よりも優れているという点を考えてみよう。もちろん、特にネットで数多くの用例をデータとして蓄積できるようになった今世紀では、英和辞典もコーパスは利用している。しかし、英単語集は最新のコーパスから最新の結果を利用しているのに比べて、英和辞典は制作なり改定に数年の期間がかかるため、収録する語彙を決定したのが5年前であれば、出版されるまでのあいだに5年という月日が経過してしまう。よって、英和辞典の制作工程がおおむねどこの出版社でもこういうものであれば、英和辞典は常に5年ほど古いコーパスを使っていることになる。これは英単語集と比べて明白な欠点ではないのか・・・

しかし、僕はこういう議論には基本的に幾つかの欠陥あるいは思い込みがあると思う。まず、データベースとしてのコーパスが充実すれば、それに越したことはないという点は認める。集める語彙や用法がくだらない言葉や砕けた用法ばかりであろうと、そこで良し悪しを最初から挟むのは悪しきアカデミズムというものであろう。日本語でも、そのへんでお喋りしている若造や X でヘイトをばら撒いているジジイどもの馬鹿げた言葉遣いばかりデータとして蓄積されていくのは由々しき事かもしれないし、そんなことで充実したコーパスを基準に日本語の辞書など作られては困るかもしれないが、それが「良い辞書」であるかどうかを決めるのは、日本語学者ではなく僕ら自身だ。僕は日頃から権威主義を支持しているが、こういうことにまで無闇に権威を押し付けるつもりはない。僕が当サイトで紹介している「名詞化した動詞連用形の独立的用法」(「試み」とか「ふれあい」とか「気づき」なんていう、薄気味悪い表現)とか「~というかたちで」とか「本格的」とか「関係性」とか「言説」とか、あるいは NHK のアナウンサーが1日に1回は呪文のように口にする「浮き彫り」という言葉遣いが嫌いなのは、個人として不愉快だからであり、日本語の辞書から放逐せよと言いたいわけではない。ともあれ、コーパスにどういう言葉が蓄積されていってもいいわけだが、常に最新のコーパスを利用することが最善の辞書を作るための必要条件であるかと言われれば、それは別の話である。僕は、新しい言葉ほど、新しく使われているその状況での使われ方で学び習得するべきであって、そもそもいま流行している言葉や表現方法を辞書へただちに掲載して学べた方がいいなんて期待するのは間違っていると思う。辞書で学んで習得する言葉というものは、常に一定の期間において使われたという実績がある言葉や表現だけを対象にしているのであって、わずか数週間ほどアメリカのどこかで話題になったというだけの言い回しを、何か新しい表現だからというだけの理由で辞書に収録する「べき」だとは思わない。そして、英単語集の制作であっても必ず時間がかかる以上、仮に最新のコーパスを利用する方が良いという前提を認めたとしても、本当に最新の流行語なんて英単語集であっても収録できないのである。たとえそういうもののウェブ版があるとしても、エントリーされるまでに一定の時間は必要だろう。掲載するという実務にかかる作業としても時間がかかるし、そもそも或る新しい表現が一般に共有するだけの価値や意味があるものなのか、それとも個人の言い間違いや勝手な解釈による派生的な用法なり誤用なのかも見定める必要がある。すると、ウェブ版であろうと或る個人が新しい言い回しを X で使ったとしても、それが数時間後にはオンラインの辞書に掲載されるなんてことが良い辞書の条件であると考えることが迂闊や軽率であることが分かるだろう。

次に (2) は、書店で自然科学系の専門用語だけを集めた英単語集なんてものがあるのを見たことがあるという人もいるだろう。分野別に独特な言い回しや単語を集めた英単語集というものが色々と発売されていて、それこそ我々のような企業人であれば、学習英和辞典には掲載されていない(実際、僕が持っている『ニュースクール英和辞典』には掲載されていない)"rollover"(ファイナンス分野では「短期借入金の借り換え」という意味)のような単語を知っていなくてはならない。なので、英和辞典で5万の語彙を身に着けたとしても、それは5万の言葉を知っている子供が出来上がるにすぎない。実際に僕らが仕事や生活で使っている表現というものは、それらを分野とか用途に応じて組み合わせたり使い分けることで必要な意味合いをもつのであり、辞書的な単語をたくさん知っているというだけでは実生活の役に立つとは限らないのである・・・

この反論には、僕がいま自分で自分に向かって反論を組み立てながらでも感じたように、なるほど説得力がある。しかしこのような反論は英語の表現を英和辞典と英単語集のどちらかだけで習得するという条件があって始めて成立するのであり、僕には比較の条件が不当に思える。たとえば、ビジネス用語の英単語集には “market value”(市場価値)という表現が出ていて、仮に英和辞典には出ていないとしよう(実は出ているのだが、仮にないものとする)。すると、英和辞典を使っている人は “market” と “value” という二つの単語を個別に覚えることになるため、“market value” と言われてもビジネス用語としての「市場(での)価値」だと理解できるとは限らない。もしかすると、「市場というシステムにどれだけの重要性があるか」という意味だと勘違いするかもしれない。でも、だからといって中高生にいきなりビジネス用語の英単語集を使うように薦めるべきだろうか。僕らは “market” と “value” という単語をどちらも既に知っているうえで「市場価値」という言葉の意味も分かっているからこそ、それを英語で “market value” と言うのだと覚えるのであろう。すると、そんな英単語集を使うよりも、たとえ “market” や “value” しか乗っていなくても、そちらを先に学ぶべきであることは言うまでもないはずである。

もちろん、更に再反論する人はいるだろう。たとえば、幼児の言語モデルが最強だ説を頑なに信奉している愚かな人々がそうだ。彼らによると、幼児はフレーズを塊で習得するのだから、“market value” という表現の個々の単語を分割して覚えなくても、「まーけっとばりゅー」という塊で市場価値のことだと理解すればいいのであって、「まーけっとばりゅー」が「まーけっと」と「ばりゅー」に分割できるなんてことは後からでもいいというわけだ。でも、残念ながら僕はこの手の議論をぜんぜん信じていない。なぜなら、こんなことは幼児のように必要最低限のフレーズだけで生きていられる時期にしか通用しないからだ。僕は「まま」とか「くそじいい」みたいな単語しか覚えて発声する必要がない幼児が「まーけっとばりゅー」なんて発生しないと生存の危機に陥るなんて思っていない。よって、幼児にそんなフレーズを習得するインセンティブはないのであり、実際に幼児がそんな表現を記憶したとしても、自分で意味のある脈絡で的確に発音などしないであろう。そういう表現は、その表現を発音して意味のある脈絡に自分が置かれていたり、そういう表現を発して意味がある状況が必要なのである。僕ら大人はそういう状況に置かれているからこそ、いきなり “market value” という表現を(さきほど述べたように、“market” と “value” を既に知っているという前提で)学んでもいいわけだが、幼児にそんな表現を塊として記憶させようと、それは学習ではない。そんなことを外形的に発音できるていどの理由で「学習」などと呼んでいいのは、生物学者だけであり、教育者や親が自分の子供や自分の生徒に対して使うのは錯覚であり過大評価である。

そして最後の (3) 、つまり英単語集は単語の並べ方がカテゴライズされていて工夫されているという点は、英和辞典をそのまま使って「a」から順番に覚えるなんていうパワー・プレイをやるというなら反論にも道理があるけれど、それは英単語集の編集と同じく英和辞典の利用方法を工夫すればどうにでもなる。まず単語がアルファベット順に並んでいると、並んでいる順番で記憶してしまうので、適切な記憶の仕方にならないという反論が考えられる。でも、同じことは英単語集でも言えるのだ。たとえ英単語集が単語をアルファベット順に並べていないとしても、「この単語の次の単語はこういう意味だった」なんていう具合に、順番だけで「答え」を覚えてしまうというリスクは、どういう英単語集でも抱えているのである。それゆえ、単語がランダムに出てきてもちゃんと答えられるようにするには、辞書だろうと英単語集だろうと、自分で単語カードなどに書き出してから、一定の頻度でカードをシャフルして並べ替えるといったことをやらないといけない。実際、僕は神戸大学の博士課程を受験したときにドイツ語の単語を単語カードに書き出して数日ごとにシャフルして覚えなおすということをやって、受験するまでのあいだ2ヶ月だけ働いていた鉄工所で作業の合間に単語カードを使って1,500語くらいを覚えたことがある。単語カードを合計で30束くらい使うので、最後は数千枚のカードをシャフルするなんて並べ直すだけでも時間がかかるから、せいぜいカード5束ぶんくらいをシャフルするていどにしたが、それくらいでもしっかり習得できる。まじめに勉強するなら、何を使おうとこういうことはやるべきであろう。

ニュースクール英和辞典

ということで、それを実行してみて何か成果があればお知らせしよう。昨日、久しぶりに出社したときにジュンク堂で物色していると、学習用の英和辞典は文字が大きくて老眼でも十分に読めることに気づいたのだが、ついでにここで説明しているような活用方法も思い出したので、これを手に入れて実際に英単語の(もちろん僕にとっては大半の単語が復習なのだが)学習に使ってみようというわけである。もちろん中高生が使う学習用の英和辞典は多くの出版社から色々なものが出ている。僕自身が中学生だった頃は、初版が出たばかりの『プログレッシブ英和中辞典』(初版、小学館、1980)を使ったり、あるいは Longman Contemporary Dictionary of English を使ったり、いやそれどころかシャープの電子辞書すら使う小生意気なガキだったわけだが、もちろんそれは「悪い権威主義」の見本でもある。学習用の英和辞典でも用途に応じていくらでも活用の仕方はあるわけで、『プログレッシブ』が悪いと言いたいわけでもないし、あるいは中学生が使わなくてもいいと言いたいわけでもないが、語彙が単に多いとか、あるいは英英辞典だというだけで闇雲に学習用の英和辞典よりも「良い」辞書であると思い込むのは愚かである。ということで、いまは学習用の英和辞典も色々とあるし、正直に言うと語彙の差もないのだから、紙面の見やすさとか語釈など、眺めてみて使いやすそうだと思ったものを使えばいいと思う。

利用の仕方は、もちろん知らなかった単語を手当たり次第にメモ帳へ書き出すというのでもいいし、逆に知ってる単語を塗りつぶしていくのでもいい。こういうものは道具として徹底的に活用するのが望ましくて、後から古本屋に売却するときの査定価格を気にして綺麗に使おうなんて決して思わないことだ。漫画や小説のエピソードみたいに、覚えたページを丸めて飲み込むなんて馬鹿なことは真似しなくてもいいが、それくらいの気合を入れて取り組むべきである。僕は松本道弘氏のような人々が語る「英語道」のようなコンセプトは原則として時代錯誤だと思うけれど、そのマインド・セットには学ぶべきところがあると思う。言葉は、やはり昔から密入国者や商売人が生きていくための手段でもあったわけで、駆け引きで言葉の選択を間違えると殺されるリスクがあったくらい言葉の扱いには慎重さが求められることもあった。「コミュニケーション」などと、外国語の習得を退職後の道楽や暇潰しの一種としてしか見做していない都内の金持ち小僧や上場企業のサラリーマンや官僚なんて気楽な連中に、本当の意味で言葉の運用なんてできないのである。

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YouTube によくいるタイプ

Hina 卍TOEIC満点卍
https://www.youtube.com/watch?v=_zY-cU2iCbY(リンクしない)

英語の勉強というと、YouTube によくいるのが上のようなタイプの人だ。まず、いきなり冒頭で下手な発音で “It is said there are 47,000 English words.” などと言っているが、もちろんこんなことはジュンク堂くらいの書店が近くにあって確かめられるなら子供でも嘘だと分かる。たとえば、僕の手元にある Merriam-Webster's Advanced LEARNER'S English Dictionary の表紙には、“100,000 words & phrases defined” と印刷してあるわけだよ。それから Oxford University Press から出ている Oxford English Dictionary という20巻の古典的な大辞典には、約30万の言葉が収録されている。次に、“And the average native speaker probably knows 15,000 to 20,000.” というのも、いったいどういう統計から言ってるのかもわからないけど、英語学、社会言語学の常識的な統計結果と比較すれば、半分くらい少ない数字をわざと言ってるように思う。たとえば、いまどき Gemini のような生成 AI に質問しても、だいたい2万から4万くらいというのが答えになるし、実際にそうだろうと思う。つまり、このねーチャンは「少ない語彙で英会話できる」というミスリードの伏線を張るために、こういうデタラメを言ってるわけで、こういうことを丁寧に、つまり自分自身でちゃんと調べてみるということをしないバカを相手に YouTube で金儲けしようってわけだよね。YouTube には、こういうクズ野郎がたくさんいるんだけど、まぁ当サイトにアクセスしてるような人は騙されないだろう。

それから、ここで何度も書いているように、語彙が多ければいいというものでもないのは確かだが、しかしだからといって少ない語彙でいいなんていうことを言ってる人は信用しないほうがいい。100個の単語で会話するというのは、要するに子どもの語彙で大人に相手してもらうという甘えた発想でしかなく、このビデオのねーちゃんのように、ちやほやしてくれるスケベな外人相手ならそれで会話なり「なんなり」が成立するからいいんだろうけど、普通の人間はそんなわけにはいかないのだ。「おじちゃん、これからいっしょに、ぼくのかいちゃにとうしできるかどうか、いっしょにおはなししてくれる?」などとアメリカの銀行の投資部門にメールを書いて、まともに取り合ってもらえると思う日本の起業家がいるなら、俺がぶん殴ってやるから連れてこいという話だ。

余談だけど、上の段落で「下手な発音で」と書いた理由を説明しておこう。このねーちゃんの発音が実は大して上手くないのは、もちろんネイティブの発音をたくさん聴いてる人は誰でも分かってると思うけど、要するに「英語発音のカラオケ」になってるからなんだよな。英語の発音っぽく聞こえるだけのカタカナ発音でしかないんだよ。こういうのはね、いまだとラップとかやってる人にもいるんだけど、それらしく抑揚をつけたりすると英語っぽく聞こえるんだよね。でも、ラップにしてもカタカナで歌ってるだけだったりする。実際、日本語で喋ってるときの口の使い方と英語で喋ってるときの口の使い方(音の聞こえ方)がまるで同じなんだよ。だから、英語っぽく聞こえるように発音してるだけの日本人だと分かる。“a lot of” を「アロロオヴ」と(英語として発音できなくても)言うだけで英語みたいに聞こえるんだけど、ネイティヴあるいは普通の英語の会話を見聞きしてる僕らは、そんな「コスプレ英語」に騙されたりしない。

あと、これも余談というかクリティカル・シンキングの授業みたいな話になってしまうけど、この手の(無自覚な詐欺師というか)YouTuber というのは、とにかくミスリードなことを色々と書いたり喋ったりするんだよね。昔なら、営業とかで成績がいい人というのは、もう生まれついてのコールド・リーディングの天才みたいな人なんだよね。息を吐くように嘘をつくとか、もちろんアスペルガーというれっきとした原因があってやってしまう人もいるわけだけど、性格として悪意がなかろうと適当なことを取り繕って言っちゃう人っているんだよね。でまた、これまではそういう人を「かわいい女の人」みたいに描く文学とかマンガとか演劇とか、そういう馬鹿げた風習があったわけだ。なので、必ずしも悪意や下心があるとは限らないのだけど、逆に言えばそういう人は策略がないので引き際を知らないんだよね。悪意がある人は線引ができるから逃げられるんだけど、無自覚な人は逃げようがないので、観てる側はずっと同じところで向上できずにグルグルとミスリードな話に振り回されるわけ。それはお互いに不幸だと思うので、こうやって指摘したりもできるんだけど、もちろん彼女のような英語を話せるというだけの凡人(別に英語が扱えるからといって、東大の博士号を取ったとか、二十代で外資系企業の部長やってますとか、そういう社会的な地位とか何かの実績とかはないわけでしょ)に、僕らのような英語もできて社会的な地位もそれなりにあって、そして国公立大学の博士課程まで進学したというステージの人間が、わざわざスライム相手にイオナズンをぶっ放すようなことを書いてもしょうがないってところはあるんだよね。でも、僕は社会科学の素養もある哲学者として思うのだけど、こういう些細な凡人の罪がない嘘や愚劣な話を放置することで、その膨大な積み重ねが結局は大きな問題になってどうにも対処が難しくなると思ってるんだよね。一人や数人の悪い人が世の中を駄目にするわけじゃないんだよ。そういう、悪い意味での「マンガ的な」国家や世界や社会の理解は、やはり中学を卒業するときに一緒に卒業しようよって言いたい。

ということなので、ここの事例で言っておくと、このねーちゃんは何の証拠があるのか知らんけどユーザ名にも「Hina 卍TOEIC満点卍」とか書いてるよね。すると、動画を観る人の多くは動画で説明してる方法とか手順を実行すれば「TOEIC満点」が取れるんじゃないかと勘違いするんだよね。でも、冷静に考えたら子供でも分かる話だけど、単語を100個しか知らない人が TOEIC で満点なんて取れるわけがないんだよ。仮に彼女が TOEIC で満点を取ったとしても、それは動画の内容とは関係ないんだよね。こういう、因果関係を錯覚させるようなミスリードというのは、僕らも電通を株主にしてるウェブ制作会社の人間なので、情報を発信して(あまり褒められたことではないが)ミスリードする側にもなったりするから熟知しているわけ。なので、こういうのも簡単には騙されないようにしよう。

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英会話スクールに行くべき人は、そもそも会話教室に行ったほうがよい

2024年7月6日に初出の投稿」という Notes を元にした内容です(そのまま同じではありません)。

「英語はネイティヴに習ったほうがいい」とは限らない…英会話スクールの謳い文句にダマされてはいけない理由
「英語はネイティヴに習ったほうがいい」とは限らない…英会話スクールの謳い文句にダマされてはいけない理由

上の記事は著書からの抜粋であり、実質的には sponsored article という広告記事の類だが、半分くらいはまともなことが書かれている。注意は必要だが一読はお勧めできる。

まず、英会話学校のキャッチ・フレーズとして「講師はすべてネイティブ・スピーカー」などと書いているのには注意が必要であり、わずか数日の研修だけで講師となるゴロツキみたいなアメリカ人も多いという。本来、母国語を外国人に教えるのも専門的なスキルというものがあって、現に日本語についても資格がある。実際にみなさんが日本語を外国人に教える必要があるとして、みなさんは日本語の文法を正しく伝えられるだろうか。英語で。それから、日本で生活したり特定の職業に就いたりするのに必要な業界知識の語彙は十分にあるだろうか。英語で日本の制度や施設や習慣をどう英語で表現するかについてという、かなり特殊な知識が必要だ。すると、YouTube で「英語ペラペラ」だの「100語で伝わる」などと言っている人物の大半が、そんな教育スキルもなければ、英語どころか日本語としての一般教養もない人間であることが分かる。つまり、イージーに英語を習得できると宣伝している人々は、その人が言いたいことを英語で言えるというだけにすぎず、そもそも他人にものを教える資格などないのである。

僕は、中学時代に数週間ほど実際に通った経験から、そもそも「英会話学校」というものに通うことはお勧めしないが、ともかく行くのであれば、その「ネイティブ・スピーカー」とやらが ESL (English as Second Language) の教授法を学んだ学位を持っているかどうかくらいは最低限の条件として求めるべきである。アメリカ人やオーストラリア人だからといって、その「凡人ぐあい」なんてものは日本の君ら凡人と変わらないのであって、イギリスで生まれ育ったからといって英語を分かっているとは限らないのだ。

ということで、この記事の前半には同意できる。しかし後半には同意できない。その後半部分には困ったことも書いてあるからだ。

英語を専門としているはずの学者のくせにどうしてこういうミスリードなことを書いているのか、何か別の思惑があるのかと疑わざるをえない。とにかく言えることとして、「映画や会話などの話し言葉は6000~7000語程度、小説・新聞などの書き言葉は8000~9000語程度を知っていれば理解できます」などと平気で書くような記事を信じ込んで、たかだか1万ていどの語彙だけでアメリカで生活できるなどとは思わないことだ。どうも日本には、語彙に関して過小評価しないと英語を学ぼうとする意欲をくじいてしまうと心配したり思い込んでいる人が大学にも多いらしく、わずかこれだけの語彙で話せる、暮らせるなどと書く人が非常に多い。でも、それは言葉の使われ方という意味での英語の実態を正確に説明していないという理由で、インチキに近い説明だと言える。

“The freighter is now spending time in the hole.”

これを中学で習う単語の意味だけで訳せるだろうか。“freight” は「荷物」、“hole” は「穴」だということは知っていると思うが、そんな単語帳的な理解だけでは訳せない。訳せないということは、この表現を文法としては分かっていても理解してはいないということなので、相手からこう言われてもあなたは「意味が分からない」とか「他の言い方で説明してくれ」などと言う以外に答えようがなくなる。どうしてそのようなことになるかというと、“freight” には「貨物」という意味もあり、したがって “freighter” が「貨物列車」とか「運搬車」であることが分からないからだ。そして、“in,” “the,” “hole” という三つの単語を「~に」「それ」「穴」などと辞書的に語彙として知ってはいても、“in the hole” が「(鉄道の)待避線」や「(車道の)待避レーン」であることを知らないからである。こういうことは、いくら単語を語彙としてバラバラに知っていても、決して簡単な類推だけではわからないことであり、単語の一式が使われる状況に応じたコロケーションだとか前後の脈絡とかで習得してゆく他にない。そして、ネイティブが英語を使えるという意味は、こういう経験を積むということでもある。

「わずかこれだけの語彙で話せる」などということを言う人の多くは、いや殆どと言ってもいいが、そうした人々は、こういうイディオム(単語の一式で特別な意味をもつ表現。いわゆる熟語)や句動詞(動詞と前置詞などの組み合わせで特別な意味をもつ表現)や慣用句(映画や大統領演説などの有名なフレーズを元にした、たいていは口語体で使うイディオムの一種)が英語には非常にたくさんあることを軽視しているか無視している。しかも、それらイディオムや慣用句は、性別、地域、社会階層、出自(黒人とアイリッシュ系白人など)、信仰などの事情で、人によって知っている範囲がかなり違ったり、意味合いが違っていたりする。これに加えて、アメリカでは専門用語のための単語というものはラテン語を除けば非常に少ない。どちらかと言えば、多くの人が日常生活で使う単語をイディオムのように組み合わせて用語として使っている場合も多々あり、その分野の知識がないと意味を取り違えることもある。たとえば、僕が専攻している科学哲学では “screen off”(統計的関連性の「遮断」)とか “supervene on”(或る性質に「付随する」。普通の英語だと、逆に「監督する」という意味になる)などという表現がある。

そして最後に、さきほど英会話学校はお勧めしないと書いたので、少し補足しておく。僕は中学生の頃に、確か Osaka Metro の肥後橋駅付近の英会話学校に数週間ほど通ったことがある。当時の金額で30万円ほどの学費だったが、半分も行かずに辞めて親が運営会社と話し合って幾らか減額してもらったという。どうして辞めたかというと、もちろん何週間も通っていて大した効果がないと思ったからだ。せいぜい週に1度か2度、1回で1時間くらいのセッションしかなくて、教材はあるが実質は教員の外国人と世間話をしていただけであったからだ。既に校内では、高松宮杯英語弁論大会へ出たりした後に東大から外務省へ進んでマッキンゼーへ転身した後、いまは色々な会社の役員をやっている W 君という同級生と肩を並べるていどには英語の運用ができたため、その英会話学校では発音も殆ど修正されなかったし、教員に合わせてもらっている自覚はあったが、さほど相手の話していることが難しいという印象もなかった。これでは、嫌な言い方だが、「英語ができる」ことを再確認しているだけであって、勉強にならない。

そして調べてみると、海外の非英語圏には「英会話学校」というものがないことに気づいた。考えてみると分かることだと思うが、

これらは違うことなのである。そして、海外の多くの国で英語を学ぶ人たちは、そもそも英語で会話するかどうか以前に、他人と会話するということにスキルなど必要ないのである。本来、これは日本人であろうと同じだ。みなさんは、起床して親や子供に向かって挨拶するときに、挨拶するべきかどうかで悩んだり(前日に喧嘩した場合はともかく)、そもそも挨拶する必要があるのかどうか考えたりしないだろう。同じく、外国語というか外国人に対して、英語でだろうとエチオピア語でだろうとノルウェー語でだろうと、挨拶するべきかどうか悩んだりもしない。もちろん、その必要もないのに挨拶なんてしない。つまり、日本でことほどさように英語教育が熱心に公的機関でも実施されているのに、殆どの日本人が英語を使えないのは、言ってみれば当たり前のことなのであって、英語で話したり書く必要がないから習得しないだけのことであって、何も恥じるようなことではないのだ。これを、やれ「国際人」だの「英語は共通言語」だのと言っているのは、要するに英語教育で食っている連中のプロパガンダである。もちろん、だからといって日本語だけで生活していればよいというわけでもないし、外国語を学ぶことには多くの利点があるわけで、しょせん言語というものは何であれ物事を理解したり考えるツールとして不完全で偏っているのだから限界があり、それを知るためにも外国語を習得するのは一般論としても良いことだと思う。したがって、僕はここでナショナリズムを語っているわけではない。だが、そのためにとりわけ英語が良いなどと言うべき理由はない。英語は教材が多いので簡単に始められるわけだが、どういう言語を学ぼうとするかは個々人の必要に応じて決まるのであり(もちろん広東語でもいいしズールー語でもいい)、われわれは「国際人」などという、僕に言わせればどこにも(国連にすら)存在しない、奇妙なロール・モデルを目指す必要など無いのである。

そして次に、とりわけ英語で相手と会話するということを、何か特別に教えてもらわなくてはならないスキルのようなものとして前提にしているのが日本の実態なのだが、これは国際的な常識に照らすと異様なことである。海外の大半の非英語圏では、いや英語圏でもフランス語やドイツ語を学ぶにあたっては、誰も「ドイツ会話学校」なんて通わないし、そんなものがアメリカに殆どないことは調べれば分かる。確かに、口語というものがあるため、書き言葉とは異なる運用が必要だという知識は学ぶ必要があっても、それはネイティブ・スピーカーを前にしないと理解できないようなことではない。発音だって、辞書には発音記号が掲載されているし、いまでは YouTube やポッドキャストやテレビ番組で実際の発音をいくらでも聴ける。それに、まったく独学で習得するならともかく、学校で教わっているなら教員が(訛っていようと、多少は間違っていようと)発音するだろう。したがって、日本で英会話学校などで「専門に教えられている」と称するスキルは、実はすべて座学で習得できる知識にすぎず、しかもネイティブ・スピーカーなど必要ないのだ。逆に言えば、金銭や時間、あるいは学校の所在地が遠いといった条件をクリアしないと「英会話」という何か特別なスキルを身に着けられないと言わんばかりの錯覚をバラ撒いている連中が、公学校や教育市場にむかしからいるのだろう。まったく、不届きな連中である。

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どうして TOEIC のスコアが高くても英会話できない人が多いのか

英会話や英語教育に携わる人達の印象として話している事例を見聞きしていると、TOEIC のような「パズル的」と評されている類のペーパー・テストで800とか900といったハイ・スコア(もちろん自称「満点」も含めて)を取っていても、アメリカ人のネイティブとまともに会話できる人というのは、ハイ・スコアを取っている人たちの中ですら、おおよそ3%くらいしかいないと言っていることが多い。具体的な統計や「3%」という数値の根拠は分からないが、ともかく印象として、ペーパー・テストで高い成績を収めていても会話できるとは限らないということらしい。ただし、ここでは一つだけ注意が必要だと思う。

それは、「TOEIC でハイ・スコアを取っても会話できる人は少ない」というフレーズは、実は英会話教育とか英語の学習方法について調べている人なら誰でも見聞きしたことがあると思うが、このフレーズそのものがミスリードを誘いやすいということだ。なぜなら、会話できるかどうかと、英語で書かれた文書を調べたり洋書を読んだりして作業したり仕事に役立てられるかどうかとは、必ずしも同じではないからだ。そういうフレーズを口にしている英会話の教師やネイティブのアメリカ人にとっては、「英会話できるかどうか」が着眼点であり話題の中心なのであるから、ミスリードするつもりがあろうとなかろうと英会話のことしか言っていない。でも、英会話ができなくても文章を読むという作業だけで英語を役立てている人はたくさんいて、僕もおそらくは「英会話ができる」部類の人間ではないと自覚しているけれど、英語の文書を相当な分量として読んできたし、もちろんその成果として哲学の修士号をもっていたり、国公立大学の博士課程に進学できたりしている。英会話の教員から見て僕に英会話が十分に「できる」と評価できるかどうかはともかく、そのていどには英語が使えているのだ。

そして、僕は更に大学を出た後に企業へ就職して、ウェブ・アプリケーションのエンジニアとかデザイナーとか情報セキュリティを担当する部長といった役職を拝命しているが、プライバシーマークを認定してもらうために参照するべき国内の規格である JIS Q 15001 のような文書を除けば、僕が仕事で読んでいる文書の8割くらいは英語のウェブ・ページや電子書籍だ。わずかな例外(PIA で著名な瀬戸さんや「ITリスク学」を提唱されている佐々木さん、あるいは個人情報保護法という日本の法令について書かれた書籍)を除けば、情報セキュリティやプライバシー情報の保護に関する社内規程や研修教材の作成にあたって、僕は日本人が書いた本やウェブ・ページや論文なんて殆ど読んでいない。日本人が書いた文書を無視していても、約20年に渡って情報セキュリティマネジメント(2019年までは ISMS を認証されていた)や個人情報保護マネジメント(現在もプライバシーマークの使用許諾を受け続けている)において大過なく実務を遂行できているし、もちろん電通や博報堂やナショナル・クライアントを初めとする大手企業の実地監査や面談を受けたりアンケートに応じたりし続けていて、何か重大な問題を指摘されたこともない。

したがって、TOEIC のスコアが英会話のスキルに直結しないからといって、英語を役立てられるかどうかまで一概に言えるものではない。僕は TOEIC を受けたことはないが、オンラインのクイズみたいなものを何度か試したことはあって、だいたい800から880ていどのスコアだと評価されることが多い。スコアとしては高い方だと思うが、それでも仕事をしていて英語で相手と会話した経験はわずかだし、街頭で観光客などと会話した経験も少ない(あるいは、自分の方が観光客として香港やソウルで英語で会話したことも多少はあった)。おそらく英会話の経験としては非常に少ないし、そのスキルも低いとは思う。しかし、海外の技術者や企業とのやりとりは、チャットでの問い合わせだとかフォーラムへの投稿などで頻繁に英語でやっているし、さきほども説明したように仕事で扱う資料の殆どは英語の文書だ。ということなので、もし僕が TOEIC で400とか500くらいのスコアしか出せないような人間なら、そもそも仕事や学術研究で英語の文書を読むことすら覚束ないであろうと言えるていどにはテストのスコアとの関連性はあると思う。それでも、読み書きすることに比べれば、スコアは会話とは強い関連性が強くないというだけのことでしかない。TOEIC のスコアと英会話のスキルとは、正確に言えば「想像するほどには比例しない」と言うべきであって、全く比例しないわけでもなければ逆効果であるはずもないのだ。数学の簡単なグラフを思い起こしてもらえばいいと思うが、一次方程式のグラフで直線の傾きが大きいほど比例の度合いは「強い」と言えるなら、TOEIC のスコアと英会話のスキルとは、その比例の度合い、つまり傾きが小さいというだけなのである。

という注意点はあれ、やはり TOEIC のスコアが高いからといって、それだけで英会話がうまくできるわけでもないという事実はあろう。僕は幾つかの会社で、海外などの相手と英語で話している人々が同僚になったことがある。でも、そういう人たちは例外なく TOEIC を受験したことがない。そういう人たちにとって、英語は相手と話すのに必要だから覚えて使っているだけであり、試験のスコアによって英語を使うかどうかを決められるような立場になんて置かれていない人が多いからだ。しかし日本で TOEIC を受けている人の中には、TOEIC のスコアによって自分が英語で話したりものを読み書きする「資格があるかどうか」が決まるかのような錯覚に陥っている人もいる。日本で多くの人が英語で仕事ができなかったり、英会話できなかったりする一つの理由は、そういう思い込みや思い違いにあるのではないか。そして、僕は TOEIC のような試験に関わる多くの人たちが、自覚のあるなしにかかわらず、そういう錯覚を学習者に引き起こしている張本人ではないのかという疑問がある。つまり、日本人の多くが英語を(「生きる術」と言っては大袈裟だろうから、ともかく)生活のスキルとして身につけられない原因には、やはり英語に関わる教育や出版といった制度側の問題が大きいと思う。日本で英語ができるようになった人たちというのは、これも生存バイアスの事例だと思うが、いま程度の拙劣もしくはデタラメな英語教育や英会話指導ですら英語が使えるようになったほど、もともと有能な人たちだっただけなのではないかということだ。そして、YouTube で TOEIC のスコアを宣伝しつつ英会話の指導ビデオを配信している英会話学習系の YouTuber というのは、それこそ YouTuber として表に出られるていどの英会話ができるという自覚があるからこそ、そうやって YouTuber をしているわけなのであって、そういう人が YouTube というメディアに多いからといって、TOEIC でハイ・スコアを取る人が英会話もできるというわけではない。それは、統計的な関連性が弱いかもしれない事柄に強い関連性があるとか、それどころかケースによっては因果関係があると考えてしまうような誤解であったり、あるいはテストと英会話という双方で高いスキルをもつ人だけが結果的に集まっているようなメディアを利用しているせいで引き起こされる生存バイアスという錯覚にすぎない。

TOEIC のようなペーパー・テストに対応するスキルがいくら向上しても、それだけで英会話ができるようになるわけでもない。これは確かだ。なぜなら、ペーパー・テストで正解するという目的は、英語で自分の意図や感情を伝えるという目的とは違っているからだ。簡単な事例を挙げると、小学生の姉妹が一つの部屋で机を並べている状況を想像してもらいたい。妹が “Hey, gimme my hat.”(「ねぇ、帽子取って。」)と言ったときに、姉が “No, I, Don't.”(「い・や・よ!」) と返事したとする。こういう表現は現実のアメリカではごくふつうの言い方だし、映画やドラマでも観る人は多いはずだが、TOEIC の設問にこんな表現はたぶん出てこない。これは、単語を一つずつ区切ってゆっくりと発音することによって、本人の強い気分を表している。こういう表現方法が会話では色々と使われているし、会話はそもそも自分の感情とか意図を相手に向けることが動機や目的なのであって、相手に文法の添削をしてもらうことが目的ではないのだから、はっきり言えば文法として正しいかどうかなんて気にして会話する人なんていない。もちろん、だからといって、外国語教育の指導方法を大学で学んだこともない素人の自称英会話教師のように、「文法なんてどうでもいい」などと言うのは単なるアホである。本人がアメリカで会話しても、相手から未熟だと思われているだけにすぎない(ふだんから移民などと接している多くのアメリカ人は、いちいち相手の文法ミスなど指摘しない)。

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