2018年08月08日に初出の投稿

Last modified: 2018-08-08

中曽根第二臨調・行政改革攻撃の中で、民(私)営化攻撃、公務員攻撃、老人攻撃が展開され、その老人(医療)攻撃のキャンペーン・デマ宣伝を背景に、この老人保健法が制定されたのです。 

老人保健法25年をふり返る

記事の冒頭で「批判的に検証しておきたい」と書かれているように、「批判」という言葉は既に「糾弾」とか「非難」と同じく他人の人格や意見を否定する意味合いしかなくなっている。どこかの元芸能人国会議員が口走ったように、これでは「批判は良くないと思いまーっす」という発言が出てくるのも仕方のないことだ。それに、実は英語でも "critic" は否定的なニュアンスで物事を評価する意味の方が優勢になっているため、あながち日本人だけに言えることでもない。もちろん、もともとはギリシア語の "κρίνω"(私が判断する)という言葉を起源としていて、"criticism" もふつうは肯定的な評価も含めて「評論」や「論評」と訳している。これを「批判」と訳すときにだけ否定的なニュアンスをこめるようになったのは、誰のせいなのかは分からないが、恐らく日本では左翼学生が使っていた「自己批判」という言葉が「総括」などと同じく懺悔のような意味だったことから、元凶は半世紀くらい前の左翼だったのだろう。そういう次第で、いまでも "critical thinking" のようなアプローチを嫌がって「寝技」だけが交渉のテクニックだと考えているような手合いは、この "critical" という言葉を否定的な意味にだけ捉えて、他人の揚げ足取りであるかのように理解するようだが、もちろんそうではない。(したがって、僕がクリシン教育を批判しているのは、もちろん「批判」なので肯定的な意味で効用も認めるが、哲学の役割はこういうものではないと考えるからだ。同じく、David Papineau らが書いているような、哲学の「道具」といったお仕着せの手順やステレオタイプを撒き散らす行いも、はっきり言って僕は愚かなことだと思う。哲学というものは、あらゆる可能な点でフリーハンドであることが唯一の特徴なのであって、それゆえ時として「キチガイ」あつかいされることはあるが、特定の疾患としてパターンがある精神病とも違うのだ。)

それにしても、この「なんとか攻撃」という雑な言葉遣いには呆れる。しばしばこの手の文体はイデオロギーに凝り固まった高齢者に見受けられるものだが、最初から「だめだ、嫌だ」という感情をたくさんの昔話で投げつけているだけである。個々の文の根拠もなければ、その内容を証拠立てることもしない。もちろん、被爆者の聴き取りのように当人の体験だけで十分という場合もあるが、社会学をやっていれば誰でも学ぶように、当人の発言だからといって何から何まで信用していいわけではない。それがたとえ、アウシュビッツ・サバイバーでも原爆の被害者でもだ。

あと、民間人が行政や制度を語る場合に、素養がないのは仕方ないとしても、なぜいつも政争の話ばかりするのだろうか。例えば、後期高齢者の医療費を無料にするということならそれでもいいが、それを実現するために必要な財源とか税制措置とかはどうするのか。共産党のように、自衛隊をなくして、お金持ちと大企業から云々などといつまでも実現しない(ゆえにいつまでも政治家ができる)寝言を口にしていても、まだいまの世代の多くの老人は「逃げ切れる」という酷い皮肉な状況にある。

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