2019年10月14日に初出の投稿

Last modified: 2019-10-14

シンギュラリティや不老不死の話題に関連して、意識の「アップロード」とかいう喩え話を見かける。もちろん単なる喩え話にすぎず、その具体的な方法など SF マニアの妄想ていどにしか語りえない代物だ。そういう前提で与太話に付き合ってみると、それがまず可能だとしても、せいぜい何らかの大型機器か、せいぜいチップの集合体に「アップロード」されるのだろう。民生品であろうとなかろうと、技術として確立した当初から小型化など無理がある。

すると、そこに「アップロード」された意識なるもの(もちろん《それ》が意識である保証などないが、これも仮定として許してみよう)は自立していない。言わばその操作をした人間がスイッチを切れば簡単に消失しうるコンテンツであり、言わばヤクザに手足を縛られて大阪港に沈められるようなヘマをした会計士や弁護士や政治家の秘書や IT ベンチャーの社長みたいなものだ。それはさすがいに想像するだけでも恐ろしい。身動きがとれない状態で活火山の火口まで連れてこられて、いつ火口へ突き落されるのか分からない状況と、リスクは殆ど同じであろう。これが嫌なら、つまりは「アップロード」した受容器についても自立しなければ安心はできない。よって、ロボットのごとく自律的に移動するような入れ物、そしてそれについて限りなく自分自身でコントロールできるという、人体よりも更に自立した能力を求めることになろう。

つまるところ、いくら意識を別の媒体に保全できたとしても、《それ》を自律的に制御する入れ物がない限りは意味がない。『攻殻機動隊』のようにネットを自由に移動するなどというファンタージで《入れ物》とか特定の媒体という概念に制約されないという可能性も議論はできるだろうが、もうそこまで来ると意識に関する論点先取も甚だしい。

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