2019年01月09日に初出の投稿

Last modified: 2019-01-09

会社で昼休みに『経済ジェノサイド』という新書を読んでいて、終盤にさしかかるとドラッカーの話が出てきている。多くの人々は、ピーター・ドラッカーと言われると「経営の神様」だとか『もしドラ』のドラッカーという印象が強いと思う。また、昨今はアメリカの大学でパズル解きのような経営学をやっている人々による「まとめブログ」みたいな本が幾つか出ており、その中で現代の経営学者はドラッカーどころかポーターすら無視していると豪語するありさまだ。もちろん、それはその人々が些末なパズル解きをしていればテニュアを獲得できるようなゲームをしているからにすぎないのであって、ポーターはともかくドラッカーのような「経営学」の範疇に収まらない人物の著作を読まなくても、特に驚くべきことではない。そういう人々は、恐らくアダム・スミスもマルクスも読まないのだろう。

ドラッカーという人物は、ことほどさように在野の経営コンサルの親玉みたいな扱い方をされているわけだが、彼はもともとはカール・ポランニーや栗本慎一郎といった人々とも付き合いがあり、広い意味での(経済)思想家だと言える。したがって、たとえば『もしドラ』を「高校野球部のマネジメントとして説明すれば分かり易くなる」という意味で読んでいるなら、そういう人たちにはマネジメントなど全く分からないだろうと思う。なぜなら、『もしドラ』がどういう主旨の本なのかは知らないが、もともとドラッカーが『マネジメント』で主張していたのは、マネジメントというコンセプトは企業経営だけの問題ではないという話だったからだ。それゆえ、女子高生が「マネジメント」の担当者としてドラッカーのアイデアを採り入れるというのは、もともとドラッカーの志向に沿ったことであり、ただの「わかりやすさ」のためだけに高校の部活という状況を使ってスカートの短い女子高生でスケベ親父を釣っただけの本であれば、これは完全にドラッカーの意図を取り違えた通俗書だということになる。そして、そういう本でも日本では売れてしまう。

しかし、高校の部活のマネジメントなら分かり易く説明できるとか、野球のチームを題材にすれば簡単だという思い込みを著者と読者で幸福に共有していたのだとすれば(日本の通俗書ではよくあることだ)、それは完全に錯覚である。高校野球の部活よりも東芝や三井住友銀行をマネジメントする方が簡単であるという経営理論上の根拠などなく、そんな錯覚があるなら、まさに読者として飛びついた人々がマネジメントというものを舐めている証拠である。そして、ドラッカーが『マネジメント』で強調したのは、企業経営にとどまらず数多くの分野にも当てはまる考え方であるからこそ、どういう分野でも妥当と言えるような知見が必要なのであり、それを実地に応用するのは、ITベンチャーの経営に応用するのであれ、医療保険制度の運営に応用するのであれ、あるいは自分たちの家庭をうまく築くのであれ、等しく難しいのだ。

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