2018年08月14日に初出の投稿

Last modified: 2018-08-14

僕はどちらかと言えば保守的な人間ではあると思う。しかし、人種差別には強い憤りを感じるし、いわゆるネトウヨと称する無知無教養な連中の「病理」にも深い哀愁を覚える。世の中で「保守」を自称している物書きや政治家や「思想家」などという連中は、政財界・出版・マスコミ業界の中での位置取りだけを考えている小賢しい知的ゴロツキに過ぎないと考えており、大学教員ですら多くは本業の実績がない無能が学内での地位を保つためにパフォーマンスを演じているにすぎない(気の毒に、その多くは学術研究者としての無能ゆえか無自覚なのだが)。しかし、こう書いてあらゆる凡俗をなぎ倒して自分だけが「真の保守」だなどと傲慢なことを言いたいわけではない。恐らく、僕はまだ「保守」なるものをよく理解してはおらず、せいぜい「革新」といった観念との比較において自分が近しい考え方を選んでいるにすぎないのだろう。よって、自分自身で「保守思想」を奉じているなどと言うつもりもなければ、自分だけが真の保守を理解しているとか体現しているなどと言うつもりは全くない。寧ろ、僕は自分が(こう言ってよければ、良い意味でも悪い意味でも)哲学者であるという自覚はもっているので、果たして保守という何かを一つの体系立てた思想として実際に組み立てられるものなのかどうか疑わしいと思っているし、理想的な条件が仮に整ったとしてもそうすべきなのかどうかも自明ではないと思っている。

そういうわけで、やはり哲学者としてのフリーハンドを活かして色々なことを検討してみている。たとえば、今でも日本やアメリカやヨーロッパ・・・つまりは世界中で人種差別にかかわる様々な事件や懸案事項が数多くあることを取り上げてみよう。「保守的」と呼ばれる思考なり思想としての体系においては、これまでの歴史を顧みると保守的な人間は人種差別を惹き起こしたり看過してきたように思えるが、果たしてそれは思想や思考の発達として不可避だったのだろうか。保守的な思考や思想が何らかの段階において差別というものを伴わないような経緯で発達したり展開するような歴史も可能だったのではないか、もしそういう可能性があれば、それはどういう条件によってなのかと思う。もちろん、そのためには「保守」を一定の範囲で定義しておく必要があるだろう。さもなければ、保守にとっての条件 A, B, C から、「A がなければ保守的な人間は差別することはなかった」「B がなければ保守的な人間は差別することはなかった」「C がなければ保守的な人間は差別することはなかった」・・・と、A, B, C の全てを取り去ってしまえば、既にそれは保守でもなんでもなくなるからだ(そして、差別的でないことが A, B, C の全ての条件の否定を必要条件とするなら、modus tollens によって A, B, C は差別的であることを帰結する)。

もし、保守と呼ばれる思考や思想から任意の特徴を選んだときに、それが上記と同じように差別的な結論や思考を導くのであれば、もちろん喜んでそんな思想へのコミットメントは拒絶したい。もとより僕自身の考え方や思想が「保守」と呼ばれたり、そう呼ばれる一定の特徴を許容したり肯定しなければいけない必然性などないし、僕が許容する一定の特徴に人種差別を帰結するようなものがあれば、それは改めるべきである(得てして愚かな連中は、自らの思考や偏見を悔い改めないこととか古来から続いてきた風習を単に変えないことが「保守」だと錯覚しているようだが。それゆえ、左翼に限らず他人から批判されると、自らの人格が否定されたかのような被害妄想に陥るのだろう。子供じみた心地よさを保ちたいがために思想にすがるのであれば、大仰に思想などと口にせず揺り籠で寝ていればよい)。

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