2017年10月08日12時37分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-10-08 13:55:03

これは書店で数多くの書物を色々な分野で眺めている経験から思うことなのだけれど、生命科学や倫理学でこれだけ「死」という話題が無視されたり、あるいは出版を避けられているのは、日本独特ではないだろうか。試しに大型書店で「生命科学」や「生化学」あるいは生物学全般の棚をご覧いただければ、柳澤さんや養老さんを始めとする、通俗的でセンチメンタルな読み物を量産していれば死を避けられるとでも思っていそうな、はっきり言って「悲惨」という印象しか受けない(それゆえ、僕は哲学者として全く手に取る気になれない)科学者のエッセイは腐るほど出ているが、ヒトの生体としての死を一章に取り上げている生命科学の教科書は皆無と言って良い。

自然科学者であろうと、幼少期から学問を志すまでの生活習慣なり周りの人間関係や報道・教育などによる影響からは逃れられないので、日本にはとりわけ人の死を回収する強力な宗教がないという事情が、このような「死に対する無関心や忌避」として現れているのではなかろうか。そして僕が思うに、生命科学者が育つ日本というところには実のところ土俗的なアニミズムに類する「宗教的な概念スキーム」が存続しているだけであり、つまりは粗雑で体系立っておらずご都合主義的なストーリーを集落や地域ごとに勝手に作り上げているにすぎず、いわゆる神道や仏教のような制度化された宗教は多くの人にとっては気休めであって、しばしば言われる「葬式仏教」といった表現は揶揄ではなく、ユーザから見た正確な用途を語っているだけではないのかとも思える。そして、大半の日本人は中国人のようなリアリズムも消化できず、厳粛な事実に向き合うのを恐れる大多数の人は、自分自身がまともに「死」と向かい合ったときに引き起こすであろう錯乱や絶望を避けて生きるというニヒリズムを処理する代行業者として宗教家という「生贄」を維持しているのではないか。これは、首尾一貫した生活や思想や伝統を維持するのが面倒臭い人々によって、「天皇」という生贄が維持されている事情と似ていると思う。

こうしてみると、僕は日本という国は哲学者として生きるには過酷だと思う。しかるに隠遁して「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」などと書かざるをえない人が多いのだろう。

I will not read books about life and death by Japanese scientists, because most were written with sentimentalism just from thanatophobia. Their main task should be a study of thanatophobia as a phenomenon which is explicable in the scientific framework, not a self-healing.

なので、生命科学者は生命科学としての「死を」語るべきであって、精神医学や看護学も修めていない人が「科学者」などという便利な架空の観点を持ち出して自分の「死について」あれこれエッセイを書いても、もちろん個人としては同情すべきことではあるけれど、哲学者あるいは出版文化について考えている人間として言えば、気の毒な言い方になるけれど、それは自分がもうすぐ死ぬという強迫観念によって錯乱している人物の与太話や自己欺瞞だと思う。確かに、そういう文章に救われるという人もいるとは思うので、そういう本を出版するのは止めなさいとまでは言わないけれど、僕はそういう理由で柳澤さんや養老さんの書く死生観のような文章は全く読む気になれない。

ちなみに、キューブラー=ロスの本が死生学の定番なのは分かるけど、彼女の主著を開くと、いきなり、人は無意識では死なないと思っているなどと説明していて困惑させられる。いや、そうじゃなくて双曲割引で将来起きる事を過小評価してるだけだろうというのは、恐らく彼女が知らない理論による後知恵だから不当な批判になるかもしれないが、それでもキューブラー=ロスという人物は、生命科学や医学や看護学という観点から死を満足に議論できるだけの素養をもっていた人なんだろうか。

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