他ならぬ凡人である僕の読書方針について

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 2013-02-19 22:25:30;
Modified: 2013-04-05 22:40;
Last modified: 2015-04-17 15.26.

論文と本とでは分量が違うので同列に扱えないと思うかもしれませんが、本は「言いたいこと」を正当化したり経緯や根拠を説明するのに、それだけの分量を要しているだけだと考えます。したがって、「たったこれだけを主張するために本を書いたのか」という結果もあれば、「これだけのことを主張するのに論文ていどの議論しかできないとは」という逆の結果もあるでしょう。こういう単純な方針を採っている理由は、まず僕が大して記憶力のない人間であるということです。もちろんノートを録ったり専用の読書カードを作ったりもしましたが、「自分の考え」をかたちづくるための素材になるのは強く留めている記憶です。何か議論するたびにメモ帳をめくっているようではいけません。

そして、論文であれ本であれ、何か主張したいことがあって書かれているのですから、そこには著者の言いたいことが最低でも一つはあると言えるでしょう。著者の言いたいことが複数あることを否定するものではありませんが、複数あれば、その中で最も言いたいこと(だと自分が理解した論点や主張)を拾い上げておけば、その著作物を読んだ効用が確実に一つはあると言えます。それが、評価という段階において最後は否定される主張であろうと構いません。そもそも、「最終的に自分が肯定すべき議論だけを最初から読んだり学ぶようなプロセス」を、学問の研究において誰が誰に要求できるというのでしょうか。そういう都合のよい手順が最初から決まっていて、誰かが教えてくれるとか、どこかの本に書いてあるとか、要するに何らかの方法で「自分にとって無駄のない研究プロセスを保証してくれる道筋」を知りうるような学問は、どこにも存在しません。誰であれ、多かれ少なかれ回り道をしながら学んだり研究するものです。

論文であれ、本であれ、著者が訴えようとしている議論を一つだけ拾い上げるという作業には、時間がかかります。少なくとも僕は、自称速読家のように1冊の新書を数十秒で読む人間ではありませんし(何度か表明したように、僕は速読というのは単なるザッピングだと思っています)、サヴァン症候群の患者のように書かれている字面を全て記憶に留めるような人間でもありません。恐らく1冊の新書を読むのに、僕は4時間ていどの時間を要すると思います。いま社会人として働きながら勉強している状況では、昼休みに30分くらいずつ新書を読み進めているので、せいぜい新書を1週間に一冊くらいしか読めません(帰宅したら他の勉強をしたり、こうして文章を書いたりしているので、一日のうちで寝たり働いたり小便している時間の他に読書しかしていないなどという生活をしているわけではありません)。これでは、1週間に一つの議論を記憶に留めることしかできないので、効率は非常に悪いと言えます。学生時代は、アルバイトもしていましたが、もっと勉強に集中できる時間はあったので、読書の速さは大して変わらないにしても、一日に新書を二冊読むといったこともありました。したがって、いま限られた時間(残りの人生という意味でも)の中で効率よく学んでゆくためには、色々なことをここで書いているように割り切る必要があります。もちろん知的研鑽なるものは割り切りよりも一種の「こだわり」を必要としますが、方針を改善するなり洗練すれば切り詰められるはずのことがらにこだわり続けて悲哀を装うのは学術的な態度とは言えず、単なる自意識やセンチメンタリズムというものでしょう。

上記で述べた内容は学生時代からの方針ですが、学生時代であれば「こんなものは読まなければよかった」という読書でも構いませんでした。しかし、そのような読書による時間の浪費は、オッサンになると耐え難く感じられるようになります(笑)。そのために、自分が大学で学んだという経験を活用しなくてはなりません。最も有効に活用できる経験は、自分が抱えている当該の研究プログラムや思索のテーマにとって、或る文献を優先して読むべきものかどうか、あるいはまともな科学哲学の著作であるかどうかを(独断であるにせよ、少なくとも)選り分けるということです。

そのような選別には誤りもあるでしょう。例えばマイケル・ポラニーの著作は、現代思想やポストモダン思想あるいはニューアカデミズムなどと言われた思潮に関心を持つ人(かつて僕も栗本慎一郎の著作を熱心に読んでいたので、その一人でした)、あるいはアメリカでも一部の研究者に読まれていましたが、はっきり言って分析哲学・科学哲学のメインストリームに位置する研究者たちからは黙殺されていました。現在でも、ロイ・バスカーなどと共に、そうした「傍流」の人々の著作は、科学哲学において一種の気晴らしとして読まれているにすぎません。そういう大勢が誤りであるかどうかは、個々の研究者の判断を「いつ判定するのか」にも依存するでしょうから、誰にも分からないでしょう(なぜ、そういう判定に歴史的な制約があるのかは、いまこの時点でポラニーやバスカーの著作が分析哲学・科学哲学のメインストリームにおいて「刺激的で面白い読み物」ていどの扱いしか受けていないという現状、そしてそういう現状が大勢として正しいかどうかを疑えるという事実によって説明できます)。

もちろん、僕はポラニーやバスカーの著作が(分析哲学や科学哲学の著作がもつスタイルから外れているという違和感を覚えるにすぎないので)まともな成果でありうると思っていますが、しかし科学哲学の研究において他を差し置いても丹念に検討すべきであるとまでは思っていません。つまり、僕も彼らの著作はせいぜい「メインストリームから外れた面白い読み物」だと見做しています。また、科学哲学だけに限った話ではありませんが、東欧やロシアやアフリカの著作を掘り出してきて代弁者を気取ったり、たかだか大学院で数年ほど本人の授業を受けたていどのことで翻訳の優先権があるかのようにふるまうような人々など、せいぜい大阪の裏路地を歩きまわって「ディープな大阪」を発見したとわめいている、三流ジャーナリストや左翼の社会学者みたいなものだと思っています。非常に粗雑な基準かもしれませんが、僕にはかつて分析哲学や科学哲学を学んだという経験から、「どれがまともな著作なのか」という嗅覚のようなものが備わったはずだと仮定しています。よって、書店で哲学の書棚に「超訳」とか「野生の科学」とか「フクシマ」とか「禅と誰それ」とか「わかりやすい」とか「完全読解」などという文言があれば、その手の本をわざわざ時間とお金を割いて読む必要はないと断定してよいという方針を採ります。繰り返しますが、そのような断定が「間違っているかどうか」などというのは、実は哲学的にはどうでもよいことです。そういう断定をしたのであれなかれ、その末に自分で納得のゆく成果を出してみて、学会誌に投稿するなりブログ記事として掲載するなりして世に問えばいいわけです。現状では十分に納得できないときに、或る人物の著作を参照すればよいという明快な見通しを立てられたら、その後で当該の人物の著作を読めばよいでしょう。最初から、あらゆる哲学者の著作を読んでいなければ「よい研究」ができないなどと考えてしまう人に、「私は哲学をやらなければならない」という本物の動機があるとは思えません。

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