「研究ではない」なら、ただのお喋りではないのか

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 2013-02-19 21:23:28,
Last modified: 2013-03-30 13:56.

研究ではない哲学」というコンセプトを掲げた催し物があったというが、そもそも「研究ではない」というコンセプトは、大学でやっている学術研究が「哲学すること」の典型あるいは基本だと見做してアンチテーゼを立てるということだ。したがって、このようなアプローチはコンセプトからして、哲学するということを暗に権威主義的に捉えているということでもある。もちろん、だからといって素人や現象学の研究者が茶店でお喋りすることにも何らかの意味で同等の価値があるなんてことを言いたいわけではないし、権威なり正統性そのものを否定して「在野」に真実があるなどとほざく評論家や作家も論外だ。

広く認められた一定のプロセスあるいはその成果に、擬制だろうと何だろうと権威や正統性を与えることは正常な判断である。これを、いたずらに「革命家」よろしく口先だけで否定するような連中は、昨今の IT 文化に関するアマチュア社会学者やサブカル評論家と同じだ。そうした手合いが口にする批判なり論評というものは、政治から親鸞あるいは量子力学に至るまで何を語っていようと、要するに専門的な訓練や試問あるいはピアレビューもなくお手軽に出版業界でヘゲモニーを握りたいと言っているだけであって、まことに醜悪だ。かつて宮台真司さんが指摘していたように、「文壇」や「論壇」なる出版業界のコネだけで構成されたものが思想を形成する舞台であるかのように扱われているのは、世界中でも殆ど日本だけである。そして、評論はいいとしても、何の知的訓練も受けていないゴロツキが全共闘・全学連の時代につくった出版業界人とのコネだけでものを書けるのも、日本の特殊事情と言ってよい。

そういう瑣末な連中はよいとして、ファシリテータの「卓越した技術」だとか、「どのようにアプローチすれば "哲学的" に語ることができるのか」といった表面的な観点で哲学の議論を(あろうことか哲学の専門の研究者が肯定的に!)とらえている時点で、既にそうした茶飲み話はクリティカルシンキングによる突っ込み競争とか、中学生のホームルームを超えるものではない。仮にファシリテータが、現象学だろうと臨床哲学だろうと一定の素養をもって議論をリードしたにせよ、では出席している人たちはファシリテータこそがもっている哲学的な仮定(敢えて「偏向」とは言わないでおこう)を、どのように見つけ出して相対化できるのか。哲学の議論をするということは、「哲学っぽいテーマについて哲学っぽくお喋りする」ことなどではないのだ。

そもそも、この東大のブログはこの手の茶飲み話を何度となく取り上げているが、子供に哲学を教えるとか、Philosophy for everyone とか呑気なことを言ってる人たちは、もっと中島義道さんが書いているような切り口、たとえば「どのみち自分は死んでしまう」とかいったテーマで、徹底的に自分自身を追い込むようなところまで哲学を実践して見せたり強いてはどうか。哲学をするとは、要するに末期癌で余命が3ヶ月だと宣告されても『純粋理性批判』を紐解きながらノートを取り続けようとするようなものだ。それに耐えられないと思うなら、中高生や素人は「『研究』ではない哲学」などと言って、日本の腐った評論家がよくやる「権威をおとしめて在野の自分がヘゲモニーを握る」といった倒錯したアプローチに陶酔するのをやめて、ただちに受験勉強や仕事に打ち込むべきである。

とりわけ阪大で茶飲み話を主催するのがお好きな人々は、箱庭でハムスターを飼うように哲学の学説を扱ったり、「どのようにアプローチすれば "哲学的" に語ることができるのか」などと徹底的につまらない観点をもつことが臨床哲学だと思っているらしいが、そのようなものは先進国で何不自由なく暮らしている人間の道楽にすぎない。せいぜい自分たちの学長と連れ立って買い物にでも行き、コムサデモードを着たら自分がどう見えるかという「身体論」でも語っているがよい。

少なくとも、僕が90年代後半にイスラエルのカウンセリング哲学の研究者から「日本で紹介してくれ」と言われてウェブページを作ったときの理解では、こうした哲学を援用したアプローチがまずもって危険であり、医療行為やカルトとの線引きをしておかなければ簡単に素人診療や自己啓発セミナーと化すのだということを、研究者は自覚していた。学生やアマチュアあるいは専任講師ていどのキャリアの人間が、気軽に中学生や素人に教えたり、相手に応用するようなものではない。それとも、最近の哲学科の学生や非常勤レベルの研究者は、「動機は純粋で目的が善良なのだから許される」などと戦前の右翼みたいなことを言ったり、「ダメならやり直せばいい、Improvement First! Web 2.0!」とか言うんだろうか。

[2013-03-02]

再び考えてみたのだが、自分で哲学に関心があるとか、何か関心のあるテーマを考えたいという動機があれば、それについて概説書や古典を読むとか、そこまでしなくても「考えておく」のは当然だろうと思う。喫茶店や適当な書店の一角で、阪大の学生にその場で指導されただけで哲学に関心をもつとか、哲学的にものを考えるきっかけになるとか、そういうのは「天才待望論」の一種であって、何度かイベントをやっていれば哲学史に名を残す天才が現れるであろうという御伽噺にすぎない。

僕が「子供に哲学を教える」とか、その手のアプローチに胡散臭いものを感じるのは、いま述べた「天才待望論」のように低俗な動機が伺えるという理由に加えて、スケベ根性というか、左翼的な下心があるのではないか(既存の権威や権力に対する「批判精神」を醸成するという名目で)という理由もある。そしてそれ以外にも、とりわけ大阪大学を中心にやっている臨床哲学やカウンセリング哲学の影響を考慮すれば、(彼らが言っている意味での)臨床や教育との境界線が不明確なままカウンセリング志向のイベントが開かれていて、これは「子供に対する自己啓発セミナー」か、あるいは良くても素人カウンセラーによる「哲学的な人体実験」ではないのかという気がしている。

阪大の講師や学生へそろそろストレートに言いたいが、君たちには自分たちがオウム真理教や統一協会と同じことをやっているかもしれないという自覚はあるんだろうか。エポケーなりノエシスなり、あるいは他の用語でもフレームワークでもよいが、そうした用語や考え方の枠組みを使ってさえいれば無害だろうとしか思っていないなら、君たち自身が学部にでも戻って、あらためて哲学の勉強をやりなおした方がよいと言いたい。どれほどドイツ語やフランス語に堪能だろうと、生き方としての学問を考えていない(したがって、ポストモダン風に言えば、学術成果や学説を伝えようとすることが一種の「暴力装置」であることを理解していない)人間が他人に哲学を教えようとしてはいけない。

もちろん、僕は「鷲田門下だけじゃなくて分析哲学の人間も参加すればいい」などとは思っていない。ギリシアやイスラムから認知哲学や実験哲学まで、まんべんなく集めたらいいという話ではなく、「指導したり教えることで学ぶような『哲学情報』は、あとからでもよい」と言いたい。そもそも、現象学的であれ科学哲学的であれ、ものごとを自分が納得ゆくまで考えたいという動機をもつ子供なら、実際にそうするのであって、ものを根気よく考え続けるために、中之島でせっせと開催されている茶飲み話のセミナーが必要かと言えば不要だし、科学哲学の教科書も不要である。僕が言いたいのは、グラスルーツの連中に対する苦言と同じであり、ヘタレ社会学者がよく言う、教えるー教わるのケンリョク関係をフラットにすればものごとが解決するといった徹底的にレベルの低い議論を、そもそも哲学に応用するなという話だ。ともかく、アカデミズムを前提にした学生像だけに限らず、およそ哲学にかかわるような子供がたくさん現れるように自分たちで何かをコントロールしたいというのは、例によって田吾作メンタリティに特有の「善意」ではあるかもしれないが、どうしようもないほどパターナリスティックで傲慢なことだと思う。そのような啓蒙など、実は何の意味もない。『ソフィーの世界』が流行したのはもう何十年も前になるが、それでいったい何が起きたというのか。

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