『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 2013-02-28 22:57:31;
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本稿は、松田卓也さんの『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』(松田卓也/著、廣済堂、2012)の批評である。

philsci.info に『医学と仮説』に関するノートと同じ体裁で批評を掲載しようかと思ったが、科学哲学のサイトで詳細に扱うほどの価値はないと思うので、こちらで少しずつ書き足しながら内容を拡充していくつもりだ。ちなみに当サイトはブログだが、僕は過去に書いた記事をアップデートしない限り、学術的な価値があるわけでもないブログ記事というものは簡単に陳腐化したり、将来においては不適切となるかもしれない内容を公開し続けることになる危険性があると思う(特に、僕が会社員として従事している情報セキュリティにおいては明らかにそうだ)。もちろんそのような心配は、公開された時期を確認して「その時代に書かれたものだ」という正確な理解をもった読者ばかりなら杞憂かもしれないが、インターネットというものは学術研究者だけで利用しているわけではないし、学者であろうとなかろうと書かれていることを慎重に読み取る人だけが利用するものでもないので、なるべく書いた当人がメンテナンスするべきだろうと思う(したがって、著者が死んだら、保存する価値のないコンテンツは削除してネット上から痕跡を抹消すべきである)。

さて本書は、僕も中高生の頃に講談社ブルーバックスの翻訳書などでお世話になった松田卓也さんが書かれた、「技術的特異点technological singularity)」に関する啓蒙書である。松田さんは、現在は神戸大学を退官されて「NPO法人 あいんしゅたいん」という団体で研究を続けられているらしいが、専門の宇宙物理だけではなく技術的特異点についても、長年にわたる個人的な関心があったようだ。そういう思い入れもあってか、「はじめに」では次のように書かれている。

2045年問題について述べている人は、日本では私以外にほぼ皆無だといってよいでしょう。たとえばいまグーグルで検索してみても、専門家のページでヒットするのは、私のブログだけです。日本の知識人の多くは、この問題をほとんど認識していないか、知っていてもオカルトサイエンスやSFの類いのひとつだとして、真剣に考察していない節があります。(松田,2012:8)

啓蒙書としては翻訳を除けば国内で初めての著作であるから、まずは本書を読むことに大きな問題はないと思う。ただ、啓蒙書なので過度な水準を求めるべきではないかもしれないけれど、啓蒙書だからといって、正確に書けることを不正確に書いてもいいとは思えないという感想をもった。もちろん僕は Google+ で technological singularity に何度も言及しているし、他に言及している日本人も数多くいる。もし松田さんが「専門家」の「ウェブページ」にだけ絞って調べているなら、「日本では私以外にほぼ皆無」などという過度に単純化した表現は、単なる自己宣伝だと受け止められるだろう。リタイアした学者が人生の最後に(残念ながら、松田さんの余生のあいだに不老不死が実現する可能性は全くないと思います)名声を残そうとして馬鹿げたプロパガンダをぶち上げるというのは、よくある話だからだ。とはいえ、そういう些事はともかくとして、技術的特異点が真面目に検討されてよいテーマであるという点では松田さんは正しい。

以下、本書で気になった点を挙げる。(後から更新する可能性あり)

第一に、type I error, type II error(第一種過誤と第二種過誤、擬陽性と擬陰性などともいう)の話が出てくるのだけど (p.106f.)、これを最初に述べたのはネイマンら昔の統計学者であって、最近の科学ライターではない。確かに、「シャーマーはこれを『タイプ I のエラー』と呼びます」という表現はリテラルにはそのとおりだが、通常は言外に「その人物が世界で初めて提唱した」という含みをもつので読者に誤解を与える。

第二に、自説として意識は「人間の脳に浮かぶ、ぽわーんとしたパターンのこと」だと書いておきながら (p.118)、「HALは意識をもっています」などと SF の設定にすぎない事柄を事実(または達成可能・実現可能)であるかのように、各所でそのまま論述に乗せている。「ぽわーん」としているのは、意識ではなくてご自身の思考ではないのか?

第三に、基本的にカーツワイルの所説をベースに書かれているので、そういう趣旨の本だという前提で読めば、足掛かりとしては悪くないのかもしれない。しかし、もともと技術的特異点の議論そのものにある弱点だと思うが、「どういう条件で指数関数的・爆発的に進展するのか」が分からない以上、

のどちらかでしかなく、簡単に言えば前者から後者を導く議論が欠落していて、SF と殆ど同じレベルの飛躍した議論に終始している。

無論彼らは「それが分からないということが、まさに特異点が特異点であるゆえんだ」と言うかもしれないが、ふつうは論理的な可能性として「特異点などない」とも考えられるわけで、その可能性を排除する議論もして、初めて「特異点はまもなくやってくる(the singularity is near)、でもいつなのかは分からない」と言えるのではないか。

いま述べた批評に対して前者と後者をつなぐために有効と思える一つの反論としては、「既に人類の技術は指数関数的に発展してきている」というものがある。つまり前者の歴史的な叙述がまさに指数関数的な発展を示していると述べることである。しかし、これは論点先取だと思うし(これから指数関数的に知能や技術が進展していくのかどうかを検証しているのであって、前提しろなどと言った覚えはない)、既に指数関数的に発展していることが明白であれば、わざわざ論証する必要などないのではあるまいか。

また技術の発展という話になると、例によってムーアの法則が登場してくるわけだが、残念ながら、それだけでは彼らにとっての超知性がありえると(どういうわけか前もって)論証するには不十分だ。例えば技術や計算能力については短い期間の統計で急激な成長が言えても、人工知能に関しては技術的にも理論的にも、これまで急激な進展などしていない。

第四に、技術的特異点にまもなく到達すると述べる人たちに顕著なのは、そういう特異点に達して人の手を借りずに発展する知性が、意識や主観的経験をもつという、別の議論を混在させることである。しかし、これから何世代後かの iPhone が情報処理能力において松田さんのパフォーマンスを超えるとしても、「それ」が意識をもつかどうかの議論に対しては、論理的に全く関係がない。もし技術的特異点のコンセプトとセットにして意識や知性を論じたいのであれば、

これらのどちらかを文句なしに論証できない限りは、どれほど機械がビット列を速く処理しようと、それだけで知性があるとは言えない。ましてや意識については何をかいわんやであって、松田さんたちの議論は単に哲学的ゾンビを作る議論でしかないという可能性が残り、哲学的ゾンビに関する果てしなくつまらない分析哲学の議論と同じで、どこかに意識の概念を含意するような特性を残して論点先取に陥るしかないだろう。また、カーツワイルは技術の発展が S 字カーブを描くと主張しているが、これから S 字カーブのモデルで言う「停滞期」へ移行していかないという保証はないのである。

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