自転車の一時停止

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

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First appeared: 2018-12-26 13:10:41,
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公道を歩いていて昔から感じていることだし、僕自身も自分で当事者として難しいと感じていたことなのだが、自転車という乗り物は一時停止しやすいように(いや、少なくとも一時停止できるように)最初から設計されているのだろうか。僕も20年くらい前までは、高校時代に組んでもらったロードレーサーを愛用していた。組んでもらったのは、全国区でも有名な大阪市天王寺区の「トモダサイクル」という店だ(いまでも広告を出しているのかどうかは知らないが、バイク雑誌に細かい手書き文字でびっしりと商品情報が書かれた一面広告を出している、あの店だ。ちなみにロードレーサー乗りにとって「バイク」とはロードレーサーのことであって、YAMAHA や HONDA から出ている「エンジン付きバイク」のことなどではない)。こういうバイクに乗り始めて、スピードが出ることに強い印象を受けたと共に、やはり適正な制動ができないと怖いと思った。脇道から飛び出してくる子供、前方を走っていて急に止まる自転車(だいたいの人は、自転車に乗っているときは自分がいちばん速いと思い込んでいるので、後ろから自分に迫って来る自転車がいるとは想像もしないものだ)、幅寄せしてくるトラック(もちろん悪意のあるクズ野郎もいるが、見えていない場合もある)などに対応するためには、速度を上げて通り抜けるという方法では限界があり、減速や停止によって対処しなくてはいけない場合もある。しかし、正確かつ急激に減速したり止まるのは、それぞれ自分の自転車で試してみればいいと思うが、意外と難しいものだ。そして困ったことに、世の中には学校や家庭で自転車の基本的な乗り方や制動について誰からも教えられた経験がないという人がたくさんいるので、ブレーキングの基本を全く知らない人々が自転車、それどころかマウンテンバイクやロードレーサーに乗っていたりするので、まず最初に確認しておこう。

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制動機構(ブレーキ)の確認と運用

まず、ブレーキングの基本は制動機構の確認である。バイクにまともな制動機構が組み込まれているかどうかを見よう。もちろん、街中の店で売っているママチャリにデュラ・エースやカンパニョーロが組み込んであるわけがないので、制動機構が「まとも」かどうかをメーカーやモデルといったブランドで判断するのは愚かである。

自分の自転車に取り付けられている制動機構がまともかどうかを確認するための第一のポイントは、どういう形式のブレーキであろうと、制動機構一式にあたる各部品がフレームにしっかり取り付けてあるかどうかだ。もちろん、取り付けてあるネジの周りが錆びていたりするなら、錆びを落としたり、ネジが根元などで錆びていたり破損していないかどうか、いったん抜いて確認した方がよい。特に、ブレーキの効き具合を調整するための調整ネジが付けられている箇所は、強く硬く締め付けることが目的のネジではないため、どうしても隙間が空いてネジの中に雨水が侵入しやすいから、錆びには注意したい。

第二のポイントは、動くべき部位は正しく動かないといけないので、滑らかに動くべき箇所がゴミや錆などのせいで動き辛くなっていないかどうかを、ブレーキを動かしながら目と手の感触で確かめることだ。なお、多くの自転車に使われているサイドプル・ブレーキで、アーム同士の隙間にオイルを注入したり吹き込むという解説を見かけるが、もしアームが内側で錆びていたり、アーム同士の間隔がおかしな調整になっているなら、そういう表面材質や構造の不具合を解決しない限り、動きを滑らかにするという目的だけで漫然とオイルを吹き付けるというメンテナンスは対処療法にすぎず、事態を放置して悪化させる恐れがある。

第三のポイントは、ブレーキ・シューやブレーキ・パッドの摩耗度合いを見ることである。交換する目安は明快で、ブレーキ・シューについている溝がなくなりそうだったら換えればいい。普段から減り具合を見ていれば、移動手段の一つとして自転車に乗る機会や距離に大きな変化がない生活をしている限りは、おおよそ何か月でどのくらい減って来るかは、おおよそ分かるようになる。シマノのような大手メーカーのブレーキ・シューですら、交換部品は2個で 1,500 円前後で売っているのだし、5,000 円くらいで買った中古のママチャリに乗っているとしても、事故に見舞われないためには適正な状態の部品を使いたい。

第四のポイントは、大半のブレーキで使われているワイヤー(インナーとアウターの二種類ある)を端から端まで見て、撚り合わせてあるワイヤーの一部が途中で切れていないかどうか、あるいはワイヤーが錆びていないかどうかを確かめる。錆びていたりワイヤーの一部が切れていたら、見えていない内部でも何らかの破損が生じている可能性があるため、放っておくと走行中にいきなりワイヤーが切れて制御不能に陥る危険がある。ブレーキが効かなくなっても綿菓子屋に突っ込めば嬉しい人はいるかもしれないが、そんなのはマンガの中だけの話だ。大抵は数時間後に葬儀屋の世話になったり、突っ込んだ先から相当な金額の賠償金を請求されるのが現実である。もちろんブレーキの整備は乗っている本人の責任なので、自転車屋さんやブレーキの製造元は何も補償してくれない。何度も強調するが、三輪車やママチャリだろうと、インプレッサやカマロなどと同じく、法的にはメンテナンスが義務付けられている「車両」なのだ。

第五のポイントは、部品をそれぞれ確認したら、自分でブレーキをかけて効き具合を確かめることだ。軽くレバーを握るだけでブレーキが強くかかるような堅い効かせ方から、しっかり握らないとかからない緩い効かせ方まで色々とあるが、基本は堅く効かせるべきである。なぜなら、ブレーキは曲がったり減速したり止まるときしか使わないのだから、いざ使うときにしっかりブレーキがかからないと危険だからである。とは言っても、少しレバーを握るだけでブレーキ・シューがリムにきつく当たるのはやりすぎだし、それでは徐々に減速するといった制動ができなくなって、別の意味で危ないから、目安としてはレバーを 1/3 ていどの割合で握ったときにブレーキ・シューがしっかり当たるように調整すればいい。本当に急激に止まろうとするときは、もっとレバーを強く握るはずであり、そういう場合にのみ急激に大きな摩擦をブレーキ・シューとリムで生じるようになっていればいい筈だ。しかし、レバーを目いっぱい握らないといけないような調整の仕方では遅すぎる場合があるため、2/3 くらいの割合で握れば、それ以上は硬くて握れないというくらいにしておくのがいい。つまり、握っていない状態から目いっぱいで握った状態までというスケールでブレーキの効き具合を調整してはいけないのである。(堅く設定しておいて、ブレーキを軽く効かせたいときにポンピングする人もいるが、僕はそんな悠長なブレーキングを要求する設定の仕方はお勧めしない。)

この他にも、自分でブレーキの効き具合を調整したり部品を交換する手順なども、いまでは動画などで解説してくれるサイトが幾らでもあるから、いちいち本や雑誌を買わなくても情報は豊富にある。そして次には、制動装置の状態に問題はないとして、それをどう使うかである。

バイクで走行しているときに一時停止しようとするなら、あるていどの制動距離を走行してゆっくり止まる場合と、それなりに急激な止まり方をする場合がある。どちらにしても、自転車で走行しているときのブレーキングの基本は、後方ブレーキから効かせるということだ。「後 → 前」という順番は鉄則である。なぜなら、逆の順番で停止する癖がついていると、急激に止まるときに前方のブレーキが効くと前輪だけロックした状態で自転車全体の慣性が前方へかかるので、後輪が持ち上がって「つんのめる」という状態になるからだ。実際のところは、後方のブレーキから効かせたときでも、走行していること自体によって生じる慣性によって車両全体は必ず後輪が持ち上がってしまう。よって、後輪と前輪とでは、同じ程度の堅さに設定していても、常に後輪ブレーキの効きの方が悪くなるのである。よって、後輪のブレーキをわざと前輪のブレーキよりも堅く調整する場合はあるが、極端な差をつける必要まではないと思う。

次に、バイクのブレーキ・レバーには左右のレバーが前後のブレーキとどう対応しているかが、国やバイクの用途によって違う場合があるということを知っておかないといけない。人によっては、自分が乗っているバイクと同じ設定をママチャリでも組み直し、国内で売っているママチャリとは逆の組み方にしている人もいるので、そういう人から自転車を借りてブレーキの制動を確認しないまま乗ってしまうと、いざというときに左右のレバーが効くブレーキの前後が違うので混乱する恐れがある。日本では JIS によって規定されているため、大半の自転車は左のレバーで後輪のブレーキをかけ、右のレバーで前輪のブレーキをかけるようになっている筈だが、輸入のバイクを使っている人はアメリカのように逆の仕様になっている(これもアメリカ国内の規格でそうなっている)ため、それに慣れていることから国内で買った自転車の仕様を自分で変えてしまっている可能性がある。そのため、他人の自転車に乗るときは、走行する前にブレーキの効き具合を確認するのはもちろんだが、どちらのレバーが後輪のブレーキを制御しているのかも確認した方が良い。特に、輸入バイクを買ってまで乗っているような人の自転車を借りるときは注意が必要だ(たぶん、これは良い悪いの問題や違法ではないはずだが、所有者はそういう改造をした自覚があるなら事前に相手へ忠告した方がいいのは確かだ)。

自転車で走行しているときに、前方の人や自転車に強い違和感を引き起こす原因として、ブレーキングの際に「キキーッ」などと異音を立てるというものがある。音そのものが喧しいだけではなく、ブレーキが壊れていて止まれないのではないかという不安を周囲の人へ与える場合もあるし、人によっては大きな音を出して止まるという動作を大仰なことと捉えて、走行している者が「おまえのために止まってやっている」と偉そうに振舞っているかのように見做して反感を抱く場合もあるらしい。実際、そのような状態の自転車に乗り続けていて意にも介さない人物というのは、そういう音が聞こえていない老人だったりするわけだが、老人のそうした振る舞いが周囲の人にとって傲慢だと反感を引き起こすことはよくある。高齢者にブレーキの部品を交換してもらうのは難しいことなので、少なくとも自分の自転車でそういう異音がする場合は、ブレーキ・シューに小石や金属片が刺さっていないかどうかを確認したり(もちろん、あれば取り除く)、リムの側に汚れが無いかどうかを確認したい。

それから、自転車関連のサイトでは殆ど書かれていないことなのだが、スピードがそれほど出ていない状況で咄嗟に停まる必要があるなら、ブレーキだけに頼るのではなく、自分の足を地面に着けることも一つの方法として選択肢に入れるべきである。もちろん、スピードによっては足に強い負荷がかかるし、ブレーキと同時にやるのは難しい(足を着けることに神経を使うと、ブレーキングが疎かになりやすい)のだが、握力が弱いとか、手を怪我しているとか、色々な理由でブレーキングに不安がある状態でなぜか自転車に乗らないといけないなら、そういう応用力も身を守る(そして、下手をするとぶつかるかもしれない他人の身を守る)ためには必要だ。必要なら、自転車から飛び降りて自転車をわざと倒すという手段もあるが、これは一時停止するべき状況という範囲を越えているので、ここでは議論しない。

とりわけロードレーサーのようなバイクは、もちろんどれほど安物のフレームやギアで組んでいようとスピードが出るので、制動装置(ブレーキ)にお金をかけて丁寧に整備したり、適正な運用方法で調整したり、効果的に扱うのがバイク乗りの常識である。スピードを出すときは自分の足で勝手に漕げばいいだけだが、止まるときや曲がるときはブレーキが正しく効かないと大きな事故に直結する。簡単に言えば、死にたくなければブレーキに金をかけろというのが、アマチュアを含めたロードレーサー乗りの鉄則である。

なお、ペダルで減速するなどという奇妙な仕組みのノーブレーキピストという「欠陥自転車(もちろん競技で勝手に使ってるのは構わない。F1カーと同じで、それで死のうと競技者というのは自業自得でやっているからだ。スポーツとは、生命に関してもシビアな世界であり、本質的には陸上競技だろうと耐久レースだろうと、いまだに人権侵害すれすれの見世物なのだという自覚が必要である)」を平気で販売している業者、僕は車の違法改造をしている整備業者に匹敵すると思っているが、こういう業者のせいで公道をこういう自転車で走るバカがいたこともある。しかし、そもそも、ブレーキを備えていない自転車は「車両」として公道を走行すると道路交通法違反(制動装置不良)である。したがって、公道でノーブレーキのピストバイクに乗っているプロがいたら、どれほど強い選手であろうとも、競技トラックと公道を混同している「社会的無能」と言ってもいい。アマチュアでも常識を弁えている人間は、ブレーキがなくて特殊な制動を覚えないと乗れない、つまり別の条件では勝手が違うので応用が利かないバイクなど公道で乗るわけがないのだ。

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自転車にとっての一時停止

さて、ここまで書いてきたようやく本題に入るのだが(笑)、自転車という車両あるいは器具は、本当に一時停止しやすく設計されている乗り物なのだろうか。

三輪車のように大してスピードが出ない乗り物であれば、幼児が見知らぬ大人に突っ込んでいっても、幼児と三輪車の重量(合計で 20 kg 前後)が衝突したり足に乗り上げるくらいで大けがをする人は滅多にいないが(足の指を骨折したり爪を割る可能性はあるが)、大人の乗る自転車はそうはいかない。いまどきは、自転車に乗りながらスマートフォンでゲームや SNS や地図の画面を眺めたり、ハンズフリーで通話しながら走っている人も多い。実はハンズフリーで通話している人の大半も、イヤホンをして誰かと話しているだけではなく、その人物に道案内をしてもらっていることが多いため、前方を見ているようでも注意が非常に散漫になっているので、前を見て自転車に乗っているようでいて、実は全く周囲を気にしていないのである。こういうバイクなり自転車が歩行者や他の車両にぶつかって、現在は重過失になる場合も増えたため、相手に怪我を負わせた本人や家族の一生が台無しになることなど、はっきり言ってどうでもいい。そんなことは、犯罪者に対する社会的な制裁の結果として当然のことだから、何の問題もない。しかし、ぶつかられた方は単なる災難であり、しかも何らかの仕方で相手が事前に事故を防げたことなのに被害を受けるのだから、全くの不幸だ。しかし、公道での車両の通行が自由である限り、いつの時代も法律を軽視したり無知な人々、あるいは知る意欲も動機付けも家庭でのしつけも不足している人々というものは、社会階層や地位や人種や年齢やジェンダーや学歴や出身などに全く関わりなくいるものなので、決して脅威としてはなくならない。いつの時代も地震や火事や台風がなくならないのと同じであり、われわれは少なくともこういう人々がいるという脅威について知っており、そして自分たち歩行者自身の脆弱性についても考えようとしているのだから、情報の対称性という理屈から言っても、リスクがあると分かっている側、しかも被害を受けるかもしれない側であればなおさら、歩行者の方こそ率先して対処するのが妥当だろう。

恐らく、一時停止するための制動機構はあるから、停止するということは重要な機能の一つとして考慮されているとは思う。しかし、自転車に乗っている人々の多くは、僕には「一時停止する」という選択肢が全くないまま乗り続ける経験を重ねてきているように思う。もちろん、踏切や横断歩道で停止するといった、物理的に停止せざるを得ない状況では誰でも止まるわけだが、それ以外の状況で一時停止する人は殆どいないように思える。まるで、泳いでいないと死んでしまう類の魚(泳いでラム換水という方式の呼吸をし続けないと酸欠で死ぬ)のように、走行し続けないといけないかのような人たちが大勢いて、そういう人たちは左側通行だろうと右側通行だろうと、あるいは歩道だろうと車道だろうと、走り抜けられる隙間があればどこでも走り抜けようとする。恐らく、周りの大半の歩行者に対して圧倒的な移動性能をもつ自転車に乗っているということで何らかの全能感に陥るためかもしれないが、それゆえ全能だろうと神だろうと従うべき法律とか社会常識というものがあることを軽視する回路が働くようになり(僕は、こういう回路が凡俗の風習や生活スタイルにもともと備わっていると思っている。いわゆる民俗学的なハレにおける祭りのようなものは、こういう回路を定期的に働かせてガス抜きするために行われるのだろう)、自分が走行するにあたってどこをどう走りたいかということしか考えなくなるのかもしれない。要するに、これは一種の恍惚ないしは心神耗弱と言ってよいかもしれない精神状態であり、実は自転車に乗るというていどのことが、多くの人たちにとっては自尊心を保護したり増幅するためのきっかけになっている可能性があると思う。簡単に言えば、自転車で走行するという行為で自分が何者かになったかのように「舞い上がってしまう」のだ。よく、自転車に乗るだけで何かガンダムかバルキリー(事例が古くて申し訳ない)を操縦しているかのような気分になってしまう人がいるだろう。その手の連中と同じである。

こういう状態の人々に、他人どころか自分自身の安全にとってさえ必要だと一時停止するように諭すのは、実際のところ難しい。無理に狭い隙間を通り抜けようとするなと言ったところで、脳内では「ひゃっはー!」という状態になっている(もちろん実際に心の中ですら叫んでる人なんていない)人にとっては、自分自身でそういう無茶をしないという方針を立てるような人でもない限りは、抑制が難しい。かといって、自転車という車両に人の行為を抑制するような仕組みを実装するのは無理であろう。(公道に自転車しか走れないレーンを設けて、自転車がそこだけを走るように強制することはできるだろうが、そのための行政コストは莫大なものになる。)よって、歩行者としてのサバイバルにおいては、まず第一に、自転車に乗っている状態の人は軽い恍惚状態に陥っている可能性があると弁えて、社会常識に沿った判断がしにくくなっているというリスクを理解することが望ましい。そして第二に、自転車もまた車両であるからには、たとえ一時停止するとしても一定の制動距離が必要なのであり、そして大抵の人は一時停止の必要があると判断するまでに時間がかかるため(そういう判断の遅さについて、車を運転しているときよりもリスクが低いと思い込んでいる、つまりは舐めている人が多いからだろう。免許がない人においては、比較するものがないのでなおさら判断は遅くなる)、実際には止まらないと思った方がいい。また、人によっては、一時停止すると後ろから来ているかもしれない別の自転車に衝突されると思っている人(あるいは、他人に責任を押し付けて自分がか弱く善良な抑圧側を演じるという、田吾作に特有の卑怯な思考をする人)がいるかもしれない。

このようにして、自転車は基本的に一時停止できる車両ではあるが、一時停止しようとする習慣なり判断基準を持つ人が殆どいないために、実際には一時停止は励行されていないと見做して対処した方が良い(それどころか車ですら、車両が入る隙間さえあれば歩行者の間を縫って左折しようとするのだから、そんな連中に何を説いても時間の無駄であり、手に負えない。そして、そういう連中が人の親になったり企業の管理職になったり教師や役人になるのは自由なので、民度の悪循環は簡単には改善しない)。すると、走行してきた自転車とすれ違うときに、どちらがどちらに避けるべきなのかという問題が生じる。これは、道幅によって異なり、道幅が広いと自転車が避ける傾向にあるし、道幅が狭いと人が避けなければ自転車が通れないということになりやすい。ただ、自転車が速く走っている場合は、どういう状況でも歩行者が避けないといけない場合もある(そして、こういう経験の積み重ねで、自転車に乗るということが何かの「社会的な特権行為」であるかのように多くの凡俗を恍惚の状態へ移行させてしまうのだろう)。ましてや、そういうことを小さな自転車に乗った子供と一緒に毎日のように繰り返していると、子供は当然のように「自転車通行権」のような特権が自分にあるかのように勘違いして育ってしまう。そういう人々に法や道徳を説いても、たいていは矯正が難しい。自分自身で知り、考え、そして決断し、実行しない限りは、このように多くの場面でありふれた、しかし重大な事案について社会全体というスケールが何かが変わるなどと期待することは非常に難しいと思っておく方がいい。

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