ブログがメジャーな「表現」手段になる日? 冗談だろ。

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 2009-05-23 00:00:00.

例外的なアルファーブロガーというのはいることはいるが、梅田が期待したような、「不特定多数無限大」として1000万人程度の表現する人々は出現していないように思える。

via d.hatena.ne.jp

既に他でも論評されているから、書き出したのは数日前なのだが便乗記事と思われてもアレなんで放置していたのだけれど、ひとまず違う論点かもしれないので再掲しておく。

何度か書いたことはあるが、ともかく日本の多くの IT サービス(ゲームから SNS からソーシャルブックマークに至るあれやこれや)を使っているのは、圧倒的に 40 歳以下の人々だ。この表現は、サイトのインターフェイスから説明文のわかりにくさからビジュアルデザインに至るまで 40 代以上の人たちの視力やリテラシーなどを考慮していないと思われるため、ほとんど同語反復に近い。また40歳以上の人たちは会社でしかパソコンを使わないケースも多く、そもそも「ユーザ」ですらないと言える。以前、在宅ワーカーを志望する人たちのアンケートを集計したが、ネットを利用する仕事という目標をもっていそうな人たちですら、40歳以上となると、パソコンを使うのは週に5時間以下とか、メインで使ってるのはパソコンではなく携帯という様子だった。しかも携帯で mixi を使っているわけでもなく、もっぱら利用するのは携帯そのもののメール機能を使っての業務連絡である。

世の殆どの仕事をしている社会人は、誰も自己表現のためにパソコンを使う必要など感じていないし、それが偏りのない健全な文化的生活の姿であろう。つまらない自尊心を保つためだけに、自分が得意だというだけのコンピュータ遊びは、あらゆるものの表現の場として特権的な位置にあると夢想してしまう、愚かなプログラマやデザイナに分け与えておけばよい。粘土細工を趣味にしているひとがブログで作品を公開するというサイクルに絡め取られた中でしか趣味を続けられなくなるとしたら、村上龍でなくても「そんな趣味ならいらん」と言いたくなる。

もちろん、いまの40代以下の人々がジジイやババアになったら、いまのジジイたちよりもっと使うのかもしれないが、ひとまず道具としての取っつきやすさという点で、いきなり中高年が使うには敷居が高いものだというのは確かだろう。海外には、例えば Twitter にもジジイのユーザがいたりするのだが、まぁ海外の人々はもともとタイプライターを使うわけだし、キーを叩くことにそれほど違和感はないだろう。日本人がいきなり konnnahuuni nyuuryokushinakereba bunnsyougautenaitoiunotodeha wakegatigau。ちなみに、業務用 OASYS のオペレータをしていた人なら、ローマ字入力の非効率さは頭にくると思う。英語だけでブログを書いていた方が、入力のストレスはなくなると言いたいくらいだ。

で、そういうネットサービスの利用状況が「いけないこと」なのかどうかは、正直言ってまだはっきりと言えない。したがって、上記で引用した話に対する論評は、事実認定で正しくても、その先はにわかに同意しかねる。というかあんなホラ話、まだ信じてる人がいたのかというのが率直な感想。こういう業界通信と称した煽り文章は、皮肉を込めて “Silicon Valley oracle” と呼んではどうだろうか。

俺はまだ40代ではブログに書いてる方だと思うし、実際に何かまとまったものを書こうとするといかに大変かが分かるので言うが、逆にどうしてそんなに暇な人間が増えると思い込めるんだろう?

もちろん、書くという行為で自分自身が理解を深めるということはある。だから、ブログエントリーを書くということには、たくさんの人にお薦めできる効用はあるのかもしれない。にしても、当然ながら自由に書けるのだし、たいていのブログエントリーやつぶやきは、単純に言って上記のような人々が期待するような何かの「論説」「演説」「プレゼンテーション」とか、各人が考えたり調べたことを説明したり説得するようなものではなく、漫然と「書いてるだけ」である。いわゆる「自己表現」ってやつだ。

それも結構だが、仕事や学校から帰宅して、就寝までの数時間を家族やら友だちやら誰かと会話するよりブログ書いてるような人間が増えればいいのかという話をすればどうだろうか。そういう人間が何千万人と増殖していないだけマシではないのか。いや、こういう反論の仕方だと「古き良きアメリカ」式のネットフォビアみたいだから別の言い方をすると、同じくくりで「ネット」と言われるが、まだネトゲで誰かとチャットしてたり一緒にクエストしてる方が、これはこれでまともだとは思えないが、まだマシだと思う。

ああした文章を見ていて漠然と思うのだが、ただの機械や通信技術に(根拠があればともかく)、コンプレックスや願望を投射するのはやめた方がいいんじゃないかと思う。技術はあくまでも技術であって、そういう技術があるという事実だけでものごとが予定調和的に「よき方向」へ動いていくなどというのは、全くの幻想である。

世界中で暇さえあればみんなブログや Twitter とかに書き込んでるのがふつうのライフスタイルになった社会とかって、ちょっと寒いものがある。パブリッシングソフトなりメッセージサービスなりは、ツールとしてはもちろん便利なものであるには違いないし、一部のテクノロジー好きだけが使えたらいいというものでもない。しかし、まだみんなツールどころかネットとの距離の取り方を模索している段階ではないかと思う。なにせ、新卒で入社してから定年(というのもヘンだが)までとか、物心ついてから死ぬまで、ずっとネットサービスを使い続けてきた社会人というのが、まだ世界中に一人もいないわけだし。恐らく2~3世代は回って親が子供に教えたりしていないと、フィードバックも乏しいので、どういう扱いが「まとも」で、どういう扱いが「ヘン」なのかも分からないだろう。だから、入れ上げられる人たちが思いきり時間を潰して入れ上げている段階でしかないと思う。

先の僕の文章が、ネットに対するアレルギーじみた叫びのように見えてしまうといけないので、少し補足しますと、オンラインのサービスは僕自身がよく利用しています。うちは、連れ合いもウェブ制作の仕事をしていて(いま隣でネットゲームやってますが)、家族との会話が「はてブ」のコメントをきっかけに始まったりします。ですので、熱中している人がいたり、そこそこ適当な距離感で使っている人がいたり、色々な付き合い方をしている人がいることは、重々承知しています。

使う人だけでなく、ブログホスティングをはじめ、ウェブでサービスを提供している人たちは、それが好きだとか、人生それに費やそうと思って張り切って頑張っている人たちもたくさんいます。中には同業者として尊敬できる人も多いです。なので、使うにしろ作るにしろ運用するにしろ、総じてネットサービスが大好きな方に異論があるわけではありません。それは、BMWや楽天イーグルスやウォーターマークの万年筆のファンに異論をもっていないのと同じことです。また、エンジンや釣り竿や耳かきを作っている人たちに何も文句がないのと同じことです。ウェブで提供されているサービスを利用することは、僕にしても既に生活の一部になっています。僕のあの文章は、決してそれが何かの堕落であるとは言っていません。しかし、他のものを措いて優先すべきことだとも思わないので、否定的な書き方をしました。いや「否定的」というよりも、シンプルに突っ込んでみたというくらいの意味合いの文章です。

引用した元々の文章を書かれた方が述べている「表現」とは、何も文学者や政治運動家が言うような意味合いではなかろうとは思いますが、かといって毎日の献立をブログに書いたりすることを「表現」と言うのは大袈裟にも思うので、やはりどこかで何か「これまでの生き様」とか、「なんとか一筋80年」とか、あるいは世の中に物申す的な文章のことを念頭に置かれているようには見受けます。すると、国民の1割がバードウォッチングをする「社会」になればよいと述べることが異様であるように、国民の1割がブログを利用してせっせと「表現」している「社会」が望ましいと期待することも異様に思えます。僕には。

いろんな世代の人の話を読みたい・・・それだけのことならあんな文章は書かないでしょう。それに願望なら、1,000万人といった具体的な数字を予想したり、その予想が当たったとか外れたと議論することに何の意味があるというのでしょうか。

ただの一時的な流行であれば、既にあれやこれやのブログホスティングで公開しているユーザ数を合算すれば、とっくに日本の人口の1割など突破している筈です。かの文章を書いた人々が、流行について誰でも言えるような雑感を述べているのではなく、何事かを真面目に論じているのだとしたら、彼らは1,000万人の人たちがブログで何かを発言する「社会」、つまり特殊な時代や世代の流行ではなく、なんらかの仕組み(まぁ「システム」と言ってもいいんでしょうが・・・)に支えられた状態が共同体において継続すること(部分的であれ何かの正統性がなければ継続はしない)、を期待して文章を書かれたはずです。そして、僕はそういう「社会」がよいという理屈には納得できないし、そもそも 1,000 万だったらなんなんだという意味合いで、先の文章を書いたわけです。

手軽にアクションを起こせる道具として、ブログをはじめ非常に優れたサービスがネットには多いということは紛れもない事実ですが、何であれまずネットにアプローチすることからはじめるという姿勢が、多くの人にとって自然で正常と見做される「社会」を待望するなんてことは、どういう理屈で可能なのでしょう。そうであればこそ、40代以上の人たちがブログやライフストリームに消極的に見えるということが、彼らにしてみれば残念なことなのです。

もちろん、ネットにアプローチすることしか有効な方法(あるいは事情によっては「避難場所」となることもあるでしょう)がなく、それ以外は従来のアプローチだとコストがかかりすぎたという事例もあるでしょう。精神的な悩みを解消するために、ブログで何事かをぶちまけたいとか。あるいは、海外にいきなり身の回りの事情を紹介して、それこそ政治的な外圧を期待するというアプローチも考えられてしかるべきです。そういう人たちは、他に有効な方法がないかもしれない。昔とは違って、いまはあるのだから、使って何が悪いのか。もちろん、それはそうです。しかし、そういう差し迫った何かのために何事かをネットで発信したいという人々は、彼らにとっては、もともと想定されていないでしょう。なぜなら、そういう事情を抱えた人がネットをもっと活用できるようになればよいという理屈は、世代とは何の関係もなく主張できるし、またそうすべきだからです。

なんとなく同じ趣旨のことを繰り返し述べているように思いますが、書いたときに思ったのはそんなところです。

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