2017年09月29日10時35分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-09-29 10:35:54

A “right to repair” movement tools up

工学的に修繕可能かどうかという点だけに限らず、とにかく最近は「自分の仕事道具」について本当に無関心な人が増えたという印象がある。特に Mac 使いのデザイナーで UNIX の勉強してる人なんて皆無だろう(言い過ぎだけど、わざと言ってる)。とは言え、最初に「工学的に」という言葉の前に「物理的・」と書いていたのを消したわけだけど、よく考えてみれば自分の仕事道具だからといって、何から何まで自分自身で制御できるわけではない。昔の農民が、自分の鍬や鋤を作るために、自分で鉄鉱石を採掘するところからやっていたわけでもなかろう。いま現在、コンピュータと呼ばれる機械製品のあらゆる部品について製造に携わっている人々の誰一人として、自分が従事していない部品を製造する手段は持っていないと思う。CPU のメーカにいる人は自分が使っているマウスを自分の手持ちの道具では作れないだろうし、その逆も真だろう。したがって、自分の仕事道具だからといって何から何まで自分の力で支配できるかのような「仕事人」や「産業人」なるものを目標にすることは、現実的でもなければ有害ですらあろう。

ヒトが種族や民族として集団で生活系を維持したり発展させているからには、色々な分業が起きるのは「自然」なことだと思える。それぞれの構成員が全く同じことをしているだけなら、集団で何かをするメリットは、単純に「集団でいること」という自明な点に限られる。アリが分業せずに、めいめいで大きな生物の死骸を食べるというだけなら、そこにあるメリットは死骸が早くなくなることによる何かだけだろう。もし死骸が、全ての個体が食事にありつける量でなかった場合は、全ての個体が全く同じことしかしない集団では、食事にありつく順番だけで個体が生き残るかどうかが決まる。そして、そこには偶然以外の何の要素もないので、アリは何かを工夫する必要もないし、そうせざるを得ない状況でも何もしないだろう。工夫するには一定の意志が必要だが、「そうせざるを得ない」状況ですら何もしないというのでは、後天的に獲得される文化のようなものは全く発生しないし発展もしないだろう。

同じことは学術研究にも言える。哲学は自分自身がもっている課題について、原理的には本を読まずに探究できるし、誰とも会話しなくても考察を進められる。しかし、それが主観的に自分で納得のゆく結論だからといって、正しいとは限らない。その結論に従ってものを考えたり生活し続けても、自分が生活している範囲では問題ないかもしれないが、単純に外国へ行くだけで全く通用しなくなるかもしれないし、別の時代には公の権限で罪に問われたかもしれないのである。そして、そういう通俗的な意味での一般性すらない結論に、普遍性などない。よって、それは哲学っぽい印象を人にもたらす議論や考察の結論みたいなものではあっても、しょせんは広告代理店とのブレストで適当に新卒が思いついたアイデアていどのものと本質的には同じであろう。そういうものに人を説得する力はないし、恐らくは哲学者であるべき人間にとっては、自分自身を説得する力もない筈である(だから、そういうもので「納得」してしまっている時点で、その人は哲学などしていないとも言える)。古典に学んだり(そのために、外国語の習得をはじめとして「古典『を』学ぶ」必要があるのは確かだ)、同時代の人々と意見を交わして、地域や時代をまたぐ分業とも言えるものが学術研究にも望まれるのは、そうした理由にもよると思う。

いずれにせよ、集団としてのヒトの社会や産業なるものにおいては分業が有効であることは確かだし、だからといって依存し過ぎることにも一定のリスクがあるということだ。そして、恐らく上記のような記事が示しているのは、分業の否定ではなく、そうした分業のリスクに無関心でいることは分業体制を安定的に維持することを逆に妨げるのではないかという話であろう。

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