2017年05月09日10時08分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-05-09 10:08:12

ここではお馴染みだが、僕はかなりのあいだ「凡庸さ」とか「自意識」といったものをキーワードにしている。それらのキーワードで解釈される事柄は、僕らの身の回りにあるありふれた光景や他人のあらゆる言動だ。、そして、もちろん僕ら自身も凡人であるほかはないのだから、僕らにもこれらのキーワードが当てはまるだろう。そうした凡庸な人々のつくる集団においては(これまでの理屈から言えば、これを「あらゆる集団においては」と言い換える余地もあるわけだが)、集団を構成する大多数の成員がもつとされるような、身の丈に収まる価値観を逸脱するような言動は忌避されたり排除される。そして、社会学の「排除型社会」などというフレーズを待つまでもなく、昔からこのような指摘はたびたび出てきた。

しかし、このような集団のしくみは「集団主義」のように見えて、実は個々の価値観はただのエゴによるのだから、エゴを正当化する装置(そして、何か間違いがあった場合は人身御供)としての観念あるいはスローガンだと考えた方がいいのではないかと思う。たとえば、「日本人として」というフレーズは、いかにも集団主義を奉じる人たちが言いそうなフレーズではあるが、実はそういうことを言っている自民党の代議士や右翼の誰一人として、人類学の素養など持ち合わせてはいまい。しかるに、このようなフレーズは彼らにとって何か好ましい感情との連合を維持するノードとしての観念をぼんやりと共有する道具と言ってよいわけだが、一人一人の意味合いは違う(そして、実際にはどういう言葉もそうであるし、意義だけが変動して意味は変動しないという古典的な分析哲学の理屈も、せいぜい仮説と言うべきものであり、悪ければただの素人言語学だ)。よく「自民党には内部に与党や野党があるから、二大政党制なんていらない云々」と言われたりするが、それはとりもなおさず、彼ら自身が自分たちで何を共有しているのか合意せずに政党を維持していると言っているに等しい。

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