2017年03月12日13時27分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-03-12 13:27:37

世の中に数多ある宗教というものは、自分に降りかかる災難や不幸や脅威、そしてその極致と言える死を克服するために生まれたのだと思っている。そして、とりわけ仏陀の通俗的な伝記が示しているように、「原始的」と呼ばれる呪術や卜占や祈祷の段階を脱した宗教は全て我々自身の意識を変える・・・端的に言うと自意識を消し去ってしまうことで辛苦を克服できると教えるのが眼目だ。キリスト教にしても仏教にしても膨大な数の文書が残っていて、その解釈についても続々と文書が書かれ続けているが、宗教の成立する理由と到達点は非常に単純な事実への自覚であり、そしてそれを自覚し理解することは非常に簡単であるがゆえに、我々の誰もが逃れられない。ひとたび自分にふりかかる可能性がある悲劇やその極限である死を想像し始めると、大多数の人は強迫観念につきまとわれたり精神衰弱へと行き着くような強いストレスにさらされる。これを適度に自覚させて、同時に処方箋なり解毒剤としての、はっきり言えば「気晴らし」としての肉体的・精神的な対策を用意しているのが(気晴らしとして)優れた宗教というものであり、制度化された宗教とは、そうした気晴らしの壮大な厳密化や体系化や組織化であろう。

しかし、皮肉なことに意識を変えたり自意識を消し去る修練というものは、そもそもヒトが自意識というしくみを獲得してしまったがゆえに必要となってしまったことなので、「悟り」によって獲得できる到達点とは、つまるところ「そういう意味でのヒト」であることをやめてしまうことに他ならない。そうすれば、色々な苦しみや恐怖、そしてその果てにヒトが否応なく「意識」せざるを得ない自分自身の死というものを端的に無視できるばかりか、金銭や地位や名誉や諸々の欲求など頓着に値しなくなる。

しかし、そうしたプロセスによって得る到達点とは、よく通俗的な物書きが「外道」とか「人でなし」と自虐的に呼ぶような安っぽいライフスタイルの変革とか清貧の思想などではなく、自らの意志による精神崩壊という可能性もあろう。しかし、その場合の「崩壊」とは、もちろん我々のように自意識をもちながら、仏像の鑑賞やマーケティング・リサーチやセックスや猪狩りや豊洲市場の地下水調査や料亭の懐石料理やヒルベルト空間の研究といった夥しい数の些事に取り囲まれている(もちろん、その中には恐らく宗教組織の運営も入るのだろう。なぜなら自意識の問題は他人の言葉や読み物によってどうにかなるものではないからだ)人々の価値観なり、あるいはまさに自意識との比較によって「崩壊している」と見做しうるだけのことでしかない。もともとそうした自意識が無ければ崩壊するも何もないのは当然であって、(どういう意味にせよ)恐らく自意識がないであろうハエやウツボカヅラにとっては崩壊するも何もないし、「そのこと」が言いか悪いかなどという価値観すらないし、そのこと自体に是非など語るのは端的に言って愚かな思想・哲学だと思う。

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