2017年01月27日22時19分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-01-27 22:19:47

性器イコール猥褻だとは思わないけど、他方で性器を使った殆どの「作品」とやらが、僕のセンスでは駄作で話にもならん愚鈍なものでしかないというのは、少なくとも僕にとっては動かしがたい事実だ。

したがって、ダレノガレだかスプートニクだか知らないが、MIT のタレント学者が何を言おうとも駄作は駄作だし、そもそも或る表現が芸術作品であるかないかを決めるのが芸術家や芸術学科の教授だとは限らないという点からしても、僕はああした作品を見たくないという人が多ければ社会から排除されるのは当然だろうと思う。芸術家や哲学者だけが世間の常識や法的なシステムから特権的に保護される理由などない。

そして、そういう「作品」を無視して見なかったからといって、僕の人生や感受性において何かが決定的に欠けたり過つとは思わない。要するに、宇宙論的なスケールから言えば「無」に等しく、裁判や世情によってああいう「作品」が猥褻と認定されて消え去ろうとも、僕にとってはどうでもよいことだ。

そして、そういうものを潜在的な可能性としてであっても保護し維持することが「多様性」であり、なにやら社会を善くする手段だと妄想している人々が非常に増えていて、これはこれで由々しきことだと思う。こういうシステムは、もちろんリスクという観点から見て多様性を維持したほうがいい場合もあるというのは分かるが、他方で無能や馬鹿げた結果を問答無用で排除する仕組みも同時に備えていなければ、社会や文明としての防衛機能が低下して脆弱となる。どういう意味においてであれ、「システム」というものは都合のいい働きだけで成果を出すものではないのだ。多様性の保持というしくみは、好きなまま放っておいても世の中の毒にも薬にもならない記念切手の収集とはわけが違うのである。

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