Scribble at 2024-07-06 07:46:55 Last modified: 2024-07-06 08:56:18

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海外でも通用する英語力とはどんなものか。立教大学異文化コミュニケーション学部の中田達也教授は「ネイティヴ・スピーカー並みに話せるようになることに憧れる人は多いが、その必要はない。世界では外国語として英語を話す人のほうが、母語として話す人よりもはるかに多い」という――。

「英語はネイティヴに習ったほうがいい」とは限らない…英会話スクールの謳い文句にダマされてはいけない理由

著書からの抜粋であり、いわゆる sponsored article の類だが、半分くらいはまともなことが書かれている。注意は必要だが一読はお勧めできる。

まず、英会話学校のキャッチ・フレーズとして「講師はすべてネイティブ・スピーカー」などと書いているのには注意が必要であり、わずか数日の研修だけで講師となるゴロツキみたいなアメリカ人も多いという。本来、母国語を外国人に教えるのも専門的なスキルというものがあって、現に日本語についても資格がある。実際にみなさんが日本語を外国人に教える必要があるとして、みなさんは日本語の文法を正しく伝えられるだろうか。英語で。それから、日本で生活したり特定の職業に就いたりするのに必要な業界知識の語彙は十分にあるだろうか。英語で日本の制度や施設や習慣をどう英語で表現するかについてという、かなり特殊な知識が必要だ。すると、YouTube で「英語ペラペラ」だの「100語で伝わる」などと言っている人物の大半が、そんな教育スキルもなければ、英語どころか日本語としての一般教養もない人間であることが分かる。つまり、イージーに英語を習得できると宣伝している人々は、その人が言いたいことを英語で言えるというだけにすぎず、そもそも他人にものを教える資格などないのである。

僕は、中学時代に数週間ほど実際に通った経験から、そもそも「英会話学校」というものに通うことはお勧めしないが、ともかく行くのであれば、その「ネイティブ・スピーカー」とやらが ESL (English as Second Language) の教授法を学んだ学位を持っているかどうかくらいは最低限の条件として求めるべきである。アメリカ人やオーストラリア人だからといって、その「凡人ぐあい」なんてものは日本の君ら凡人と変わらないのであって、イギリスで生まれ育ったからといって英語を分かっているとは限らないのだ。

ということで、この記事の前半には同意できる。しかし後半には同意できない。その後半部分には困ったことも書いてあるからだ。

英語を専門としているはずの学者のくせにどうしてこういうミスリードなことを書いているのか、何か別の思惑があるのかと疑わざるをえない。とにかく言えることとして、「映画や会話などの話し言葉は6000~7000語程度、小説・新聞などの書き言葉は8000~9000語程度を知っていれば理解できます」などと平気で書くような記事を信じ込んで、たかだか1万ていどの語彙だけでアメリカで生活できるなどとは思わないことだ。どうも日本には、語彙に関して過小評価しないと英語を学ぼうとする意欲をくじいてしまうと心配したり思い込んでいる人が大学にも多いらしく、わずかこれだけの語彙で話せる、暮らせるなどと書く人が非常に多い。でも、それは言葉の使われ方という意味での英語の実態を正確に説明していないという理由で、インチキに近い説明だと言える。

"The freighter is now spending time in the hole."

これを中学で習う単語の意味だけで訳せるだろうか。"freight" は「荷物」、"hole" は「穴」だということは知っていると思うが、そんな単語帳的な理解だけでは訳せない。訳せないということは、この表現を文法としては分かっていても理解してはいないということなので、相手からこう言われてもあなたは「意味が分からない」とか「他の言い方で説明してくれ」などと言う以外に答えようがなくなる。どうしてそのようなことになるかというと、"freight" には「貨物」という意味もあり、したがって "freighter" が「貨物列車」とか「運搬車」であることが分からないからだ。そして、"in," "the," "hole" という三つの単語を「~に」「それ」「穴」などと辞書的に語彙として知ってはいても、"in the hole" が「(鉄道の)待避線」や「(車道の)待避レーン」であることを知らないからである。こういうことは、いくら単語を語彙としてバラバラに知っていても、決して簡単な類推だけではわからないことであり、単語の一式が使われる状況に応じたコロケーションだとか前後の脈絡とかで習得してゆく他にない。そして、ネイティブが英語を使えるという意味は、こういう経験を積むということでもある。

「わずかこれだけの語彙で話せる」などということを言う人の多くは、いや殆どと言ってもいいが、そうした人々は、こういうイディオム(単語の一式で特別な意味をもつ表現。いわゆる熟語)や句動詞(動詞と前置詞などの組み合わせで特別な意味をもつ表現)や慣用句(映画や大統領演説などの有名なフレーズを元にした、たいていは口語体で使うイディオムの一種)が英語には非常にたくさんあって、しかも性別、地域、社会階層、出自(黒人とアイリッシュ系白人など)、信仰などの事情で、人によって知っている範囲がかなり違ったり、意味合いが違っていたりする。これに加えて、アメリカでは専門用語のための単語というものはラテン語を除けば非常に少ない。どちらかと言えば、多くの人が日常生活で使う単語をイディオムのように組み合わせて用語として使っている場合も多々あり、その分野の知識がないと意味を取り違えることもある。たとえば、僕が専攻している科学哲学では "screen off"(統計的関連性の「遮断」)とか "supervene on"(或る性質に「付随する」。普通の英語だと、逆に「監督する」という意味になる)などという表現がある。

そして最後に、さきほど英会話学校はお勧めしないと書いたので、少し補足しておく。僕は中学生の頃に、確か Osaka Metro の肥後橋駅付近の英会話学校に数週間ほど通ったことがある。当時の金額で30万円ほどの学費だったが、半分も行かずに辞めて親が運営会社と話し合って幾らか減額してもらったという。どうして辞めたかというと、もちろん何週間も通っていて大した効果がないと思ったからだ。せいぜい週に1度か2度、1回で1時間くらいのセッションしかなくて、教材はあるが実質は教員の外国人と世間話をしていただけであったからだ。既に校内では、高松宮杯英語弁論大会へ出たりした後に東大から外務省へ進んでマッキンゼーへ転身した後、いまは色々な会社の役員をやっている W 君という同級生と肩を並べるていどには英語の運用ができたため、その英会話学校では発音も殆ど修正されなかったし、教員に合わせてもらっている自覚はあったが、さほど相手の話していることが難しいという印象もなかった。これでは、嫌な言い方だが、「英語ができる」ことを再確認しているだけであって、勉強にならない。

そして調べてみると、海外の非英語圏には「英会話学校」というものがないことに気づいた。考えてみると分かることだと思うが、

・相手と話す動機や状況があるか

・相手と英語で話すスキルがあるか

これらは違うことなのである。そして、海外の多くの国で英語を学ぶ人たちは、そもそも英語で会話するかどうか以前に、他人と会話するということにスキルなど必要ないのである。本来、これは日本人であろうと同じだ。みなさんは、起床して親や子供に向かって挨拶するときに、挨拶するべきかどうかで悩んだり(前日に喧嘩した場合はともかく)、そもそも挨拶する必要があるのかどうか考えたりしないだろう。同じく、外国語というか外国人に対して、英語でだろうとエチオピア語でだろうとノルウェー語でだろうと、挨拶するべきかどうか悩んだりもしない。もちろん、その必要もないのに挨拶なんてしない。つまり、日本でことほどさように英語教育が熱心に公的機関でも実施されているのに、殆どの日本人が英語を使えないのは、言ってみれば当たり前のことなのであって、英語で話したり書く必要がないから習得しないだけのことであって、何も恥じるようなことではないのだ。これを、やれ「国際人」だの「英語は共通言語」だのと言っているのは、要するに英語教育で食っている連中のプロパガンダである。もちろん、だからといって日本語だけで生活していればよいというわけでもないし、外国語を学ぶことには多くの利点があるわけで、しょせん言語というものは何であれ物事を理解したり考えるツールとして不完全で偏っているのだから限界があり、それを知るためにも外国語を習得するのは一般論としても良いことだと思う。したがって、僕はここでナショナリズムを語っているわけではない。だが、そのためにとりわけ英語が良いなどと言うべき理由はない。英語は教材が多いので簡単に始められるわけだが、どういう言語を学ぼうとするかは個々人の必要に応じて決まるのであり(もちろん広東語でもいいしズールー語でもいい)、われわれは「国際人」などという、僕に言わせればどこにも(国連にすら)存在しない、奇妙なロール・モデルを目指す必要など無いのである。

そして次に、とりわけ英語で相手を会話するということを、何か特別に教えてもらわなくてはならないスキルのようなものとして前提にしているのが日本の実態なのだが、これは国際的な常識に照らすと異様なことである。海外の大半の非英語圏では、いや英語圏でもフランス語やドイツ語を学ぶにあたっては、誰も「ドイツ会話学校」なんて通わないし、そんなものがアメリカに殆どないことは調べれば分かる。確かに、口語というものがあるため、書き言葉とは異なる運用が必要だという知識は学ぶ必要があっても、それはネイティブ・スピーカーを前にしないと理解できないようなことではない。発音だって、辞書には発音記号が掲載されているし、いまでは YouTube やポッドキャストやテレビ番組で実際の発音をいくらでも聴ける。それに、まったく独学で習得するならともかく、学校で教わっているなら教員が(訛っていようと、多少は間違っていようと)発音するだろう。したがって、日本で英会話学校などで「専門に教えられている」と称するスキルは、実はすべて座学で習得できる知識にすぎず、しかもネイティブ・スピーカーなど必要ないのだ。逆に言えば、金銭や時間、あるいは学校の所在地が遠いといった条件をクリアしないと「英会話」という何か特別なスキルを身に着けられないと言わんばかりの錯覚をバラ撒いている連中が、公学校や教育市場にむかしからいるのだろう。まったく、不届きな連中である。

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