Scribble at 2022-05-05 10:18:43 Last modified: 2022-05-05 10:32:28

読みたい本や、単純に欲しい本を買うと、もちろん幾らでもお金がかかる。それに、置く場所も必要になるし、読む時間もたくさん必要となる。どういう意味であれ有限でしかない僕らの能力や生活の事実においては、どこかで諦めたり妥協する必要がある。

他ならぬ凡人である僕の読書方針について

上記で引用した議論を別の脈絡で考えてみよう。それは、標準的な収入や学歴あるいは何かへの関心とか素養をもつ人物を想定してみて、その人物が30歳で何かを心に決めて学び始めて色々な本を買って読み進めてゆくと想定することだ。そして買った本を通読して丁寧にノートをとったり知らない用語やエピソードや人物について調べたり、あるいは書かれている内容について幾つかの段落を読み終えるたびに自分で考えを敷衍したり反論を当ててみたりするという、いわゆる critical reading を実行してゆく。つまりは手にした著作物を十分に利用したうえで、次の著作へ読み進めてゆくという手順をたどるものとしよう。これは、特に人文・社会系の学問では当たりまえにプロパーも実行する実務の一つであって、何らかのテーマについて学んだり研鑽するやり方として、特に何か未熟だったり愚かだったり勘違いしているわけではない。

いま想定している人物を、仮に偏差値60ていどの四年制大学を卒業して中小企業の総務部に勤める女性だとする。彼女が標準的な分量の著作物(仮に300ページの A5 版の単行本として「『本』」と呼ぶ)を上記で説明したとおり丁寧に読んで〈消化〉なり〈処理〉するのに1日1時間を使えるとすれば、『本』が平均して30ページ(10章)で構成された著作物だとすると、せいぜい1章分を読んで調べたり考えたりノートにまとめるだけで終わるだろう。すると、単純に言って『本』を十分に活用するだけで1ヵ月を要する。このような生活を80歳まで続けられる人は殆どいない(恐らく学術研究者ですら少ない)が、賞賛すべきことに、この人物が大学を出て50年以上の年月を勉学に費やせたとする。そして、ここまでの想定から言えば、この人物が生涯を費やして〈処理〉した著作物は、単純に計算すると 12×50 で600冊ほどということになる。

600冊の本を十分に咀嚼したり活用してゆくのは大変なことだ。実際、学術研究者であっても専門書をこのように(ノートをとったり段落ごとに熟考しながら)扱うのは、金銭的な意味は別としても難しい。僕も読書用のカードをオリジナルのレイアウトで印刷してもらって使っていたことがあるし、古典的な著作物のノートを作っているが、何百冊もない。正直、ノートを丁寧に作って読み直したり、後から追記して拡充していくといった作業を加えるほどの著作物は殆どないと言っていい。ともあれ、ここでは学術研究の実務について話をしているわけではないから、本の話に戻そう。

いま述べてきたような、或る意味では例外的な(これが社会科学者たちの求める理想的な現代人の暮らしの姿なのかどうかは知らないが、少なくとも現在のウクライナや北朝鮮やソマリアでは難しい暮らしだろう)境遇の人物が実行してきた研鑽なり勉学の成果を見てすら、生涯にせいぜい600冊の本を丁寧に扱えるだけである。それこそ大金持ちでもなければ学者でもなく、あるいは速読や多読しか能がない元ゲーム開発者とか元 SE を名乗る若手「思想家」のように知的な暇潰しで若者たちから小銭を巻き上げる物書きどもでもない人物であるから、本を買ったり読むお金や時間が有り余っているわけではないが、堅実に積み重ねてゆくとこれだけの成果にはなる。500冊を超える著作物に目を通して細かい議論を少しずつ組み立てたり吟味した成果であるから、場合によっては実質的に(形式的には、こういう人物が学術誌に論文として自分自身のケーパビリティを公にすることはないし、そんな必要も責任も理由も欲求もないだろうから)無能なプロパーを凌ぐ見識を身に着けていると考えてもいい。

このような想像から、幾つか言えることはあろう。まず、真面目に著作物を扱えば、標準的な時間や能力や金銭の範囲で言って、人ができることの限度が分かる。もちろん、ここから即座に「この程度にすぎない」と否定的な話をする必要はない。なぜなら、これは情報処理の分量という話でしかなく、人類の叡智から個々の人物が生活する見識に至るまで、これに何の意義があるのかは、もちろん何事かを学んだり自分で考えた末に、その人物が何をするか(あるいは何をしないか)によるからだ。読んだりノートをとった本の分量という〈数〉に、つまりはその数を測る尺度として何か社会科学的な点で言って良いの悪いのと判断できる基準が最初からあると思い込むのは、まずもって愚かであるし、別の言い方をすればセンチメンタリズムとすら言える。そしてもちろん、その逆に何百冊かの本を読んでノートをとったというだけで、何かが変わるわけでもないし、それ自体が何か「凄い」とも限らない。否定的であれ肯定的であれ、ただの数(つまりは人が勝手に設えた尺度)に何か本質的な価値や意味があるかのような議論は、全てセンチメンタリズムでしかない。

そして、いま述べたような想定は正直なところ大多数の人々や家庭においては実現しないだろう。もちろん、人は読書するために生まれてくるわけでもなければ、ノートをとるために生きるわけでもないのだから、それ自体を憂えるのは悪い意味の知性主義やアカデミズムというものだ(そして逆に、それが事実であるからといって、その事実そのものを是とするような連中、たとえば自称リアリストとか偽の保守主義者とか、あるいは「民衆の知」などを倒錯した権威として述べ立てる妄言を唱道する輩も愚かとしか言いようがない)。かような話は、やるべきことをやるという節度をもっておけば冷静に進められる。つまりは、人が生涯において十分に玩味できる書物などせいぜい数百冊もあれば多いほうだ。しかも、そのうちの何冊かは幾度も読み返すべき価値のあるものだとすれば、なおさらその数は少ないし、それでいけないことなどあろう筈もない。少なくとも大学院の博士課程で学術研究という道へ通じる門前に立った者として明言させてもらうが、何千冊の著作物を〈情報処理〉しても、しょせん無能は無能である。それは日本の膨大な数のプロパーの業績(の無さ)が証明しているし、日本の無数の物書きが出版しているゴミ屑としか言いようがない「哲学書」や「思想書」とやら(そしてそれを喜んで出版し読みふけっている無垢で愚かな若者や俗物ども)が明白に自己証明している。

本に、そして本を読むことに何らかの意義はある。それは事実だが、それは〈それだけのこと〉でしかない。それを超えるような価値など最初から、つまり本質的にはないのだ。僕は読書とか、読書を通じて考えたり他人と意見を照らし合わせることに十分な価値を認めているが、それは〈それだけのこと〉でしかないとも思う。それを超える根拠のない願望とか期待は、全て妄想であり、コミュニケーションとか言語とか知識、要するにヒトという生物の認知能力についての錯覚である。 とはいえ、多くの人々は錯覚に敢えてコミットして錯乱したまま死んでゆく権利や自由がある。TMT (terror management theory) がどこまで妥当なのかはわからないが、そうでもしないと死すべき運命に耐えられないからだ。

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