Scribble at 2021-08-04 11:57:42 Last modified: 2021-08-04 12:01:04

言動不一致だから書かれたものを信用できないとか破棄すべきだと言ってしまうと、実は殆どの人の書いた大多数の文書は、厳格あるいは正確に言って信用できるかどうか疑わしいものばかりだ。

2021年05月26日に初出の投稿

少し前に「モヒカン族」のスタンスという話題を取り上げた。確かに、或る発言の当事者について知りうる人格なり実績の評価「によって」発言の内容が正しいかどうかが論理的に出てくるものではない。大量殺人で服役している人物が「殺人は良くない」と言った場合に、当人が殺人者であるがゆえに「殺人は良くない」という発言が〈客観的に〉間違いであるなどと結論できるわけではない。発言したりものを書いた人物の実績や人格と、発言や論説の内容とを分けて評価する必要があるのは、それらに単純な関係を見て取ることはできないからである。自分の言動と矛盾したことを人は幾らでも文章に書けるし、昨今の cancel culture によって掘り起こされる事例を見ても分かるように、人は過去に発言したことと全く矛盾した行動を後になって取ってしまう可能性もある。

しかし、発言や記述の内容を評価するに及んで当人の人格や経歴といった事実を〈無視する〉という方針には、やはり重大な問題がある。

恐らく最も致命的な問題は、リスク・マネジメントや外交交渉という観点から言って、相手の嘘に簡単に騙されてしまったり、あるいは相手が意図したり自覚していなくても自己欺瞞から生じた錯覚に同調してしまうというリスクがあるという事実だ。現実には、もちろん手にしうる情報は全て参照した上で、当該の発言や論説を評価するに当たって〈関係のない事実を無視する〉というのが適切だろう。或る哲学の論文を評価するにあたって、著者が男性なのか女性なのか LGBTQ なのか、それとも性別がない宇宙人なのかはどうでもよいことだ。しかし、人の生死にかかわる生命倫理学や刑法各論の論文を評価するにあたって、著者が過去に生命にかかわる罪を犯したかどうかは、そのテーマを論じるにあたっての重大な「欠格事項」である。もちろん、人殺しに命を論じる資格が〈無条件に〉ないと言っているわけではない。しかし、実際に人を殺した経験があるかどうかが議論の中でどう影響を与えているのか、実は生命倫理学や刑法の研究者であろうと誰にも分からないのが事実というものであって、どういう事情があるにしても人を殺すと判断して実行もしたという事実が過小評価されるリスクがあると想定できる以上、〈そういう人物〉の議論は切り捨てる他にないのである。

そして、これもまた学術研究のリアリティだと思うが、〈そういう人物〉の議論を切り捨てたところで、われわれの学術研究や知識の進展にとって重大な欠落が生じるというリスクもまた、これまでなかったのだ。これが現実の学問の〈権威〉というものである。これをポストモダン的な口先だけの相対主義で否定することは簡単だし、日本の社会学者が三度の飯よりも大好きなディテールに拘るインタビューやフィールドワークによって異議申し立てのポーズをとることも、或る意味では簡単である。しかし、そこに学術の成果としての強い説得力、すなわちパワーがない限りは、リスク対策あるいは社会防衛としての〈権威〉を本当に相対化することはできない。どれほどヤクザやチンピラや不良少年を取材した些末でセンチメンタルな本を続々と出版してみても、知恵や知識という力がなくては小説にも劣る読み物でしかない。

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