2021年08月03日に初出の投稿

Last modified: 2021-08-04

(まともなレベルの)ジャーナリズムや外交や社会心理学の常識として昔から言われている割に、教科書や通俗書では積極的に取り上げられないためか何十年が経過しても一向に〈大人としての常識〉にまで普及しない明白な事実がある。それは、世の中の大半の人は、あなたに何の関心もないし、世界の 99.99999999% の人は、日本なんて国に何の関心もないということだ。したがって、僕がここでも PHILSCI.INFO でも繰り返しているように、いわゆる〈自意識〉なんてものは自分だけの問題でしかなく、結局は自意識にもとづく学説や思想を論理式や分析哲学風の定式化なり定義といったフォーマットを使って表現し、あたかも客観的で本質的なテーマであるかのように飾り立てたところで、そこには自己欺瞞しかない。

通常、学部レベルのレッスンで指導教官が行うアドバイスとして、たとえば卒論のテーマを決めさせるときに学生へ向ける質問の典型は、「それ、いま君が考えなきゃいけないこと?」というものだ。これは、学生に限った話ではなく、実のところ哲学プロパーの多くにも当てはまる。なぜなら、ビジネスにおける経営書の効用と同じ話になるが、現実には大半の実務家が有名な経営書や教科書に書かれているような、基本的どころか簡単ですらあるようなことを意外と実行し続けていないからだ。翻って哲学のプロパーに話を戻しても、論文の冒頭や著書の序文には、さも当たり前であるかのように、著者が当該の課題を取り上げて考えるべき理由が書かれているわけだが、丁寧に読めばその大半は〈必然〉と言うべき logical steps と言うよりも、〈自然〉と言うべき time sequence が書かれてあったりするものだ。

もちろんだが、必然性がなければ考えるべきではないと言いたいわけではないし、どのみち日本のプロパーの多くは伝手でもなければ本を書くチャンスなどないのだから、何らかの経緯でしかものを書く理由を説明できないという現実はあろう。それゆえにか、本の序文にあからさまな経緯を書く人もいるのだが、愚かなことに、本としてまとめて出版する経緯と、自分がそのテーマについて取り組むようになった経緯とを混同している場合もある。前者の経緯を人間関係のやりとりとして書くのは何の問題もないが、後者を単なる人間関係のやりとりとして説明するのは、僕に言わせれば〈無能による自己紹介〉としか思えない。いやしくも大学等で他人様にものを講じる責務を追う者が、他人に言われたり人間関係のやりとりによってものごとを研究するというのでは、大学教員としての素質も問われて当たり前だろう。

どのような研究であれ、それを人が手掛けることに自明の価値はない。これを理解しないで気軽に「学問の自由」などと嘯いている人間しか育ってこなかったからか、日本では自分の研究内容やアプローチについて、その価値や有効性を説得したり正当化するという姿勢に欠ける人が非常に多い。いわば、日本だけが、現代になっても学問を貴族趣味的に手掛けているのだ。

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