2021年08月04日に初出の投稿

Last modified: 2021-08-04

しばしば、過去に起きた家庭での諍いや地域内でのトラブルから国家どうしの紛争に至るまで、人類は数多くの衝突を繰り返しては・・・「忘却してきた」と言われる。つまり、何らかの「けじめ」だとか「禊ぎ」だとか報復や契約や条約や約束、あるいは一方から他方への賠償や謝罪が済めば、「水に流す」というわけである。

しかしながら、これまでの歴史を振り返ると、それゆえにこそ人類は幾度となく紛争や戦争を繰り返してきたとも言えるのではないか。よって、特に第二次世界大戦後は多くの国で「戦争遺跡」を保存したり、あるいは色々な場所で石碑や鎮魂碑や塔を立てたり、あるいは過去の歴史に関する博物館や資料館を作って維持するようになっている。

もちろん、そこで記録されたり展示される内容が不正であったり歪曲されている可能性はあるため、派手な博物館を造成したり、観光客に向けてパフォーマンスを繰り広げることが無条件に有意義であるとは限らず、そのような〈アーカイブ行為〉そのものが新しい紛争の火種になることは、これまでの日本と周辺各国とのあいだで起きている数々の事例でも明らかだ。

忘却も一つのリスクであるが、記録もまた一つのリスクである。このような場合に、もちろん当時において〈双方がどう思っていたか〉はともかく、何があったのかを正確かつ遺漏なく調べ上げることが基本的であり、最も価値の高い作業であることは言うまでもない。しかし、これが非常に難しいのも確かだ。特に物的な資料が乏しい場合に、残された文書類が正確な記録であるとは限らないのは歴史学の常識だし、残された当事者の証言が(都合のいい印象操作だけでなく無自覚な思い違いも含めて)当てにならないのも事実である。それゆえ、後世の我々にとっては限られた(そして信用できるとは限らない)情報源を有効に活用する様々な技巧や解釈のアプローチが必要となる。

以前も書いたことだが、僕が考古学で教えを受けた森浩一先生が多くの古墳の名称を「(伝)~天皇陵」と呼ぶことを批判してきたのも、そういう呼称そのものが一種のアンカリングという認知バイアスの原因になるからだ。多くの場合、クリティカル・シンキングや認知心理学で紹介される「アンカリング」は数値についてのバイアスとして説明されるが、特定の古墳を確たる根拠もなく「(伝)~天皇陵」と最初に呼んで話を始めることで、色々な議論が「天皇」という概念を中心にして(これが特定の数値から議論を出発させる「アンカリング」と同じ効果だ)展開せざるをえなくなる。

他にも、過去に中国で発生した出来事を「南京大虐殺」と呼ぶことで、既にその出来事が大規模な、そして虐殺であるという印象の是非を吟味することに議論が集中しやすくなる。この出来事が、いまのところ日本軍による中国民間人の無差別な殺害行為として「虐殺」と見做されていることに強力な反論はないと思うが(一部の右翼による自費出版同然のマイナーな反論の本はあるし、僕も何冊か持っているが)、しかしそれを規模として「大虐殺」と呼称するのが正しいかどうかについては、僕は疑問がある。歴史を正確に記述するという目標に沿って考えるなら、そのような基準の欠けた数量表現は断固として削除するべきだ(僕ら個人にとっては、たとえば自分の住んでいる街で住民が10人だけ殺害されたとしても、恐らく心情としては「大規模な殺人行為」と感じるかもしれない。逆に、数百万人が殺害されたユダヤ人の虐殺に比べて南京の死亡者数は「大虐殺」などと言えないと感じる人がいてもおかしくはない)。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook