Scribble at 2022-10-12 09:08:24 Last modified: 2022-10-12 12:05:41

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本稿は、英語の勉強について色々なテーマを取り上げる。そして、取り上げているテーマの多くは中学から大学まで英語を勉強した人なら誰でも口を挟めるような話題ではあるものの、その多くが本人の僅かな経験に頼る偏った議論にすぎないので、ここでの議論も僕自身の経験が限られていることを理解したうえで、誰にでも当てはまるとは限らないという前提を置く。そして、本稿の目的は、僕が英語を勉強してきた方法をつまびらかに列挙したり勧めることでもなく、その是非を決めることでもない。僕は、英語のユーザとしては全くの平凡な人間なので、自分の経験が誰かの役に立つかもしれないとは思うが、僕のやってきたことに賛同したり従ってもらいたいなどとは思っていない。

英語の勉強について

Dana という人物が YouTube で公開している動画について、Notes で書き足した論評を上記の記事に転載しておいた。いちいち Notes の記事を探すのも(僕自身が)面倒だし、いつ頃に書いた落書きなのか見当をつけることすらできないビジターにとっては「そんなん、しらんがな」というものだろうから、一つのページににまとめておいた方がよいだろう。

さて、僕は Dana の話している内容について疑問を覚えることもあるが、正しいと思うことも多々あるのでご紹介している。ただ、一つだけ注意しておきたいことがある。僕が Dana のアドバイスで正しいと感じるポイントの多くは、ごく当たり前の真っ正直でスタンダードな手法だ。たとえば、単語の勉強においては、実際にネイティブの発音を聞きながら自分自身で口に出して言う練習をしないと身につかないとか、反復練習をしないと効果がないとか、これらは学校と名の付くあらゆる教育機関でまともなレベルの教員であれば生徒や学生に勧めている手法だろうと思うし、成果を上げている人々の大半はこれを実際にやってきている筈である。本を1度でも眺めるだけで記憶してしまう、サヴァン症候群の患者とか直観像記憶の能力をもつ人、あるいは覚えたことを即座に長く記憶できる多くの東大生のような人間は、或る意味では無視してかまわない。

僕は昔から「天才」などと呼ばれる人々についての、称賛だけでなく歪んだ嫉妬も含めた色々な論評を目にしているが、本人の努力とは関係のない talented や gifted と呼ばれる能力があるなら有効に活用することが望ましいけれど、それを実際に使おうと使うまいとしょせんは本人の自由だと思っている。よって、1日に単行本を100冊ていどは読んで記憶する能力がある人は、その能力を色々なことに使えるとは思うが、実際に東大やソルボンヌ大学に入って何かの研究に従事したり、どこかの企業へ入って分析や調査に従事しようと、そんなことは好きにすればいい。そして、そういう人々がどれほどいても、ハーヴァード大学の教授にサヴァン症候群の人が殆どいないとか、東大教授の大半がせいぜい5つていどの外国語しか扱えないという状況は、そんな記憶力があろうと学問の才能とはしょせん関係がないということを示唆している。僕ら哲学者は、もともとそんなの当たり前だと思っているのだが、しょせん編集工学おじさんのような蘊蓄屋とか記憶力しか取り柄がない人物に、まともなレベルの学術研究はできないのである。もし、記憶されたデータからの適当な組み合わせだけで学術研究のまともな成果が出てくるなら、それこそ学問なんて機械に任せたらいい話でしかない。ニクラス・ルーマンのように膨大な研究カードを組み合わせて論文を書いていたという伝説が残っているような人物なら、現代のクラウド・コンピューティングを利用して更に多くの論文を残せたであろう。実際、40年くらい前に『現代思想』という雑誌の連載で紹介されていたことだが、Thoughtline というアウトライン・プロセッサの人工知能との対話を利用して論文のアウトラインを自動出力するというアイデアが既に語られていたのだが、フェイク論文はいくつか投稿されたり、プレデター・ジャーナルに人工知能を使って吐き出した文字列を「論文」と称して掲載し業績だと言い張る中国人やインド人なんて山ほどいるわけだが(そうそう、日本の東京大学とかいうところにもそういう偽論文を大量に書いた奴がいて話題になったよな)、まともな学術研究の成果として自動出力された事例は、まだ残念ながら(おそらくシンギュラリティの信奉者なら「残念ながら」と言いたいであろう)知られていない。

真っ当でスタンダードな「勉強法」というものは、それこそ戦前から色々と教育者や好事家が議論しアドバイスを公表しているし、それぞれの学校にも自分なりの方法を生徒や学生に勧めている人がいよう。しかし、これも大切なポイントだと思うのだが、そういうスタンダードで「正しい」勉強法は、そういうものが単にあるというだけでは、生徒や学生が実際に勉強する動機付けや理由として有効だとは限らないという致命的な問題がある。だれでも分かっている筈だと思うのだが、人は勉強しないものである。放っておけば、たいていの子供はスマートフォンで友達と LINE で延々と会話したり、TikTok の撮影機能を使って、小遣い稼ぎと言っては踊ったり歌ったり、あるいは親御さんには見せられないようなことをする。あるいは朝から晩までゲームに没頭したり、外へ出ても延々とスケボーの練習をしたり、「勉強しなくてもいい」とか「学校へ通わなくてもいい」状況に置かれたら、たいていの子供や生徒や学生は、自ら図書館へ入って参考書や問題集を開こうとはしない。どうして世の中に学校という施設があり、そこでは宿題と称する責務を課されるのか。それを考えるだけでも分かろうというものだ。要するに、正しくて効果的な勉強法があるとしても、それが単にあるというだけで人が勉強するとは限らないのである。それゆえ、たとえ100年前から言われ続けているようなスタンダードな勉強法であろうと、いまだに YouTube で新発見のように言う人がいるのだ。

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