Scribble at 2021-11-14 16:09:11 Last modified: 2021-11-17 07:55:34

Twitter で小学生が 14x14 を解いた図式について、誰かに教えてもらったのではないかと疑う人が続々といるらしい。もちろんそんなことはどうでもいい。僕らも小学生の頃にこういう工夫はやった。こんなのは、〈遊び〉の一つとして算数や社会の話を応用する習慣があるなら珍しいことでもない。教えてもらったのであれ、自分で考えついたのであれ、Twitter のようなところで親が自分の子供を天才呼ばわりしていようと、それ自体はありふれた話でしかない。

そして重要なのは、これが件の小学生によって世界で始めて考案された工夫ではないとしても、これを自分で思いついたという意味での〈独創〉にこそ意味があるということだ。もう既にソフトウェア・エンジニアリング等の分野でも山のように議論された話だが、いわゆる「車輪の再発明」なるものは産業や業務プロセスでは無駄として切り捨てられても、教育的な観点では寧ろ積極的に推し進められたほうがいいのだ。なぜなら、大半の凡人には車輪を再発明する知性も技能も経験もないからである。1980年代後半と全く同じ状況を仮定して諸条件を用意すればラリー・ウォールと同じように Perl を考案して処理系を実装できたと言えるだけの人間が、たとえば今の Google や Microsoft の「エンジニア」と呼ばれる年収2,000万円くらいはもらってる人々の中で、どれくらいいるだろうか。恐らく 0.1 % もいないだろう。

つまりは、14x14 を計算する考え方として既に誰かが思いついていたようなことを再び言っていたとしても、それを小学生が自力で考えついたことにこそ価値がある。そしてもし、先に考えてついていた人物が、それを大学生の頃に考案したのであれば、この小学生は独創性において先に考えついた人物よりも優秀だと言っていい筈だ。結果として車輪を再発明したにすぎないとしても、それをどういう条件で再発明したかによって、その人物の能力を評価できる。そして更に言えば、条件が同じでもなければ再発明したのが随分と後からだったとしても、そもそも自分だけの力で再発明できたこと自体を喜んで何がいけないのかとも思う。

日本って、どうも評価の基準がおかしい気がするんだよね。かと思えば、単に量子論を祖述してノートのような本を出版しただけの小学生を「天才」だの何のと〈出版業界の神輿担ぎ〉を始めてみたり。それで、久米宏が帯まで書いた本を出した小学生って、いまはプリンストンあたりの博士課程の学生くらいにはなってるの?

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