Scribble at 2021-11-14 15:37:47 Last modified: 2021-11-17 22:23:32

久しぶりに大阪市中央図書館へ行って、3冊の本を改めて借り直すと共に、新しく生物関連の本を3冊だけ借りてきた。他に、電気とか、哲学とか、アメリカ史の本を借りようかとも思って物色したのだが、あまり長居はしたくないので、1時間ほど滞在して図書館を後にした。

それはそうと、この図書館は階を移動するときに螺旋階段を使うのだが、必ずと言っていいほど高校生らしき年代の〈子供〉が階段を塞ぐように並んで降りたり登ってくる。そして、また必ずと言っていいほど、迷惑をかけているのが、まるで進路を塞がれているこちらであるかのような反抗的な視線を送ってくる。わざわざ図書館に来ている連中ですら、この程度なのかと呆れてしまう。もちろん、そうは言っても、かような話は小僧だけに限ったものではない。観光客の外国人でも似たようなものだし、僕らが行き来している堂島界隈の上場企業のサラリーマンでも、その半分くらいはスーツを来ているだけのチンピラみたいなものだ。「民主化」とは、要するに通俗化のことでもあるから、これはこれで受忍限度の範囲では仕方のない、まさに〈文明論的な必要悪〉と言うべき現象だろう。

このような、どこにでもある価値観ないしは身の回りから順番に優先するという判断は、恐らく大昔から多くの人達にとって変わらないのだろう。自分がまず大事で、次に肉親、親戚、同席者、友達、同僚などと、近親の度合いがなくなるに従って気遣いの必要も感じなくなる。もちろん面識がなくても見ず知らずの〈大人〉なり〈年長者〉に対する態度も、多くの国では一定の価値観が教えられているとは思う。しかし、昨今は判断の基準が複雑で、一概に〈大人〉というだけで尊重していいかどうかは俄にはっきりしない。たとえば十代の女性にとって〈大人〉とは言っても男性は慎重に対応するべき相手だと教え込まれるかもしれないし、多くの小学生は〈大人〉とは敬う相手ではなく、おかしなビデオを撮影されて Facebook にアップロードしかねない連中だと教え込まれているかもしれない。よって、まず往来で出会うだけで見ず知らずの大人に敵愾心を抱いているような子供がいてもおかしくはない。

しかし、そういう態度に大人として腹を立てるのも自然な話であり、これはこれでお互いの事情が食い違っていることに原因がある。一方的に子供が生意気だからでもなければ、一方的に大人が慢心しているからでもない。しかし、互いに狭い通路で向かい合った状況で大人が子供を一方的に無条件で国の皇太子に接するかのように道を譲るのは、どう考えても社会通念を教える機会を失うことでもある。そのうち、ああした子供は僕よりも更に気が短い大人に殴り倒されるか、あるいは人間関係を積極的に避けられる相手と見做されることになる。そうして、そうした人間関係からは弾き出されてしまうのだから、子供らにしてみれば、結局は最初に教え込まれたとおり、大人とは子供にむやみに腹を立てて掴みかかってきたり、子供の事情とはお構いなしに接するものだという思い込みに陥るほかはなくなってしまう。すると、どこかの時点で、彼ら自身の偏りを修正したり、物の見方を広げるチャンスが必要となるだろう。教師や親にチャンスを活かす動機も能力もなく、また我々のような見ず知らずの大人が言っても無駄であるとなると、これはこれで一つの大きな社会的スケールのリスクだと言える。

なんで最後の最後に評論家ぶった言い方で終えているのかというと、本当のところは些事だからだ。

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