Scribble at 2023-09-12 19:33:49 Last modified: 2023-09-13 12:39:04

添付画像

数々のテロ事件を受け、フランスはいま政治と宗教、共生と分断のはざまで揺れている。国内第二の宗教であるイスラームとの関係をめぐり大統領選挙の主要争点ともなったライシテとは何か。憲法1条が謳う「ライックな(教育などが宗教から独立した、非宗教的な、世俗の)共和国」は何を擁護しうるのか。現代の難題を考える。

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス――政治と宗教のいま』(岩波新書、2018)

勉強にもなったが、それ以外にも面白い本だった。政治が妥協の技術(原因)と産物(結果)であることは古来からの真理と言ってもいいくらいだが、何かと言えば政治家ですら「理性」という言葉を恥ずかしげもなく口にするフランスでも、結局は同じような妥協の繰り返しだということがよく分かる。これまで書いてきたように、人は自分に欠けているものを理想として掲げる。ひたすら内戦を続けてきた野蛮人の国は「和を以て尊しとなす」と言ったり「大東亜共栄圏」などと妄言を吐くし、女のケツを追いかけてるような連中の国に限って「理性」と喚き続け、ならず者の国には「ジェントルマンシップ」があるし、差別主義者の巣窟でしかない国は「文化的多元主義」を掲げ、がさつなゲルマン人は厳格さと技術が取り柄だと言い続ける。結局、それらが欠落していたからこそ、いつまでも政治家ですら喚き続けるのである。

本書が総体として際立っているのは、簡単に言えば、皮肉にも(なぜなら、著者はこの概念を或る程度は信じているらしいからだ)「ライシテ」という概念が根本的に破綻していることを歴史上の多くの事例で実証しているところにある。もし政治と宗教を人の生き方の原則として分離するというのであれば、それを政治が保障することは自己矛盾である。政治なしに自律している原則だからこそ宗教は政治から分離できるはずだからだ。さりとて「ライシテ」のバリエーションである、内部に抱えて信教や宗教行為の自由を認めるという、つまりは宗教や思想を政治が保障するというアプローチは、裏を返せば政治が保障しているものだけが宗教や思想であると言っているに等しい。そんなことは、宗教の一つの形態である原理主義の信奉者に言わせれば「大きなお世話」でしかないし、僕らのような哲学者にとっても「大きなお世話」だ(もちろん、僕ら哲学者は哲学を理由にテロなど起こさないが、結果的にテロに匹敵するような知的インパクトを与える可能性はある)。

他にも興味深い事例が数多く紹介されている。たとえば、イスラムの風刺を続けていてテロに遭った新聞社の『シャルリ・エブド』の一件について、その後にフランスでなんとヴォルテールの『寛容論』が大いに売れたという。このところ日本では、「フランスでは高校生が哲学をやっている」みたいなバカ話でインチキな哲学書を売ろうとするキャンペーンを張っている出版社があって、それこそフランスでは大半の人々に哲学の素養なり「哲学的」な風土があると言わんばかりのデタラメを喚きまくっている連中もいる。しかし、大半の欧米の国は実質的には階級社会であり、そもそも「哲学」(それが何を意味していようと)を学ぶ高校生なんてフランス人の一部でしかない。そして、自分の国の古典である『寛容論』を読んだこともないフランス人がたくさんいるということが、かような事件をきっかけに分かるのである。(そして、「わたしはシャルリ」と言いながらイスラムを攻撃しがちなフランス人が『寛容論』を手に取るのは全くの的外れである、とイマニュエル・トッドなどは指摘している。)

ちなみに僕自身の宗教観を書いておくと、母親が亡くなった2018年から数年ほど実家の宗旨・宗派に関わる著作をあれこれと読んだりしたのだけれど、結局はどういう通俗本やエッセイや解説書や原典の翻訳であろうと、僕自身の宗教観を覆す説得力はなかった。要するに、宗教とは本質的に「死ぬのが怖い!」という叫びに尽きている。これをどうにかして誤魔化すための、しょせんは手の込んだ自己催眠装置にすぎないというのが僕の見立てだ。したがって、行政的な扱いとしては、宗教というものはサバゲーと同じである。勝手にやりたい者はやればいいが、それでもって他人に危害を加えたら罪に問われる。宗教は自分自身のためにあるのであって、他人に何かをするための理屈は徹底的に排除するべきだ。よって、或る自分自身の信仰について他人に語ることは自由にできても、それで他人が何をするかは各人の判断である。だから、世帯を単位に入信するような某日蓮宗系の宗教というのは子供の選択権を奪っていると言えるし、子供が文化的に生活する権利や養育権を放棄するような統一教会は「邪教」であって国家的に排斥するべきである。簡単に言えば、子供の福祉といった権利の方が信教の自由という権利よりも「強い権利」なのであり、これまであまり議論されていないが、異なる種類の権利どうしには優劣があるのだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook