Scribble at 2022-02-14 11:01:46 Last modified: 2022-02-14 17:12:54

その昔、ビートたけしが出演するアートの番組があって、そこで腕自慢のアーティストたちが作品を引っ提げてコンテストに参加してくるコーナーがあった。そして、なるほどなと思ったのだが、ビートたけしは大きなキャンバスに緻密で写実的な風景を描くという作品が大嫌いだったようで、その理由は単純に「時間さえかけたら誰でもできるから」というものだった。Twitter や YouTube では、こうした作品を描く過程が動画になっていたりして、多くの人々が upvoting しているわけだが、実はこういう緻密で写実的な作品というのは、専門学校や大学で技術さえ習えば、たいていの人(もちろん美大には入れるていどの素養があるという前提付きだが)にはできることなのだ。大半のアーティストが「本物そっくりの猫」を Twitter で描いたりしないのは、はっきり言うと教わったら誰でもできることなので、センスや才能と関係がなく、売名なり金儲けという事情でもない限りは時間をかけるだけ無駄だからである。そんなものを何千枚と描いてみたところで、アニメ制作会社の社員やイラストレーターとしてのテクニックであれば向上するかもしれないが、芸術家としての才能や技巧は 1mm も向上しない。

同じく、社会的・学術的にどうでもいいことを細かく調べて infographics とか統計の表とかダイアグラムなどに仕上げて Twitter やインスタに公表している人々を見かけるのだが、それが何らかの社会的・学術的な価値をもった試しや実例など一つもないという冷酷な事実は知っておくべきだろうと思う。何かのゲームのデータを統計として集めてグラフにしたところで、イスラム圏で虐げられている女性の教育が向上するとは思えないし、それどころか将来のオンライン・ゲームの設計や開発において参考になるとも思えないのである。

そうした成果物の表面的な美しさとか詳細なだけの描写といった点にだけ拘っていても、それはそれだけのことでしかない。もちろん、その根拠や背景にもっと重要で切実な脈絡とか根拠があるという可能性は個々の人々が抱いていてもかまわないが、そういう可能性があるという理由でそうした成果物の表面的な美しさを正当化したいなら、やはりその可能性にコミットして一定の業績を挙げなくては他人を説得することができない。

同じことだが、哲学の安っぽく、安易で「わかりやすい」通俗本を編集したり書いたり手に取って読む人々にも重ねて強調しておきたいことだが、そうした咀嚼に適したあつらえ料理というものは、たいていにおいて古典的な仕事や誰かの業績にタダ乗りして生み出されただけの〈結果〉でしかなかったりするものだ。大学で教わったり、時間とお金をかけて手当たり次第に本を読みさえすれば、そんなメモ書きみたいな「哲学本」なんて、少なくとも僕らのように国公立大学の博士課程で哲学を専攻した者であれば誰でも書けるのである。つまり、他人の業績にフリーライドしているだけの者に〈哲学する〉ことなどできはしないのであって、表面的に東大の哲学教授をしているとか、あるいは数万部を販売する哲学本の著者であるとか、あるいは哲学や思想の本を何千冊も田舎の自宅に書庫まで作って所持したり読んでいるというだけでは、やはり〈哲学している〉と評価できる説得力にはならないのである。もちろん、必要(条件)でもなければ十分(条件)でもないからだ。

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