Scribble at 2021-10-19 14:34:12 Last modified: 2021-10-19 14:36:48

数学のテキストというものは、どれほど評価の高い本であろうと、基本的に〈処理〉していくものであるか〈踏み越えていく〉ものだという気がする。つまり、それを読んだら次の段階へ進むべきであり、いつまでも同じレベルで同じような本をあれやこれやと集めて読んでいるような人々は、数学ファンではあっても、数学者ではないし、ましてや数学で仕事をする人間ではありえないというわけだ。なるほど、松坂和夫氏の集合論や代数系のテキストは何度か読み直すべき価値のあるものかもしれないが、いつまでもそのレベルで数学を勉強しているようでは、著者が読者に希望する〈歩み〉とは違っていよう。

同じく、科学哲学でも似たような位置づけの本というものがあって、サモンやアーマンらの編著とか、ロセーの著作とか、そういった定番のテキストやアンソロジーを後生大事に読み込んでいても仕方がない。素晴らしいテキストはあるし、そういった著作を編纂したり書いた人物は称賛されてしかるべきだとは思うが、それでもテキストには違いない。僕がつくろうと思っているテキストにしても、それを読んで「科学哲学がわかった」などと言ってしまうような人材を相手にしたくはない。それゆえ、タイトルや表紙あるいは提供するにあたってのリード文などには、可能な限り不適切な読み手を寄せ付けない文章を仕込んでおきたい。そして、これは大切なことだと思うのだが、そうする理由は相手が馬鹿や無能だからではなく、いま読むには適していないからなのである。そうしたリード文に別の反応をするようになれば、適した時期に読んでいただくのは構わない。そして、そういうものとして著作物を制作するのが正しい。誰でもいつでも同じようにアプローチできる著作物なんて、もともとありえないのだ。

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