Scribble at 2021-10-19 11:34:57 Last modified: 2021-11-17 22:41:33

だが、人を眺めることだってそんなに面白くない。たとえばみんな同じような髪型をした男の若者や同じような化粧をしている女の若者を眺めていたところで「こういう格好が流行っているんだな」という以上の感想は抱けないし、どいつもこいつも同じような見た目をしていてアホみたいだなという感想が湧いてくる始末だ。また、同じ見た目をしている人々を眺めていると、そもそも「流行」というものが必ずしも価値があるものでなければ追いかける必要のあるものでもないことを思い出してしまう。

三流国家の首都に暮らすことについて

この著者が運営している「道徳的動物日記」という Hatena ブログの方は RSS を subscribe している。ちなみに、この "subscribe" や "subscription" を延々と「購読」などと翻訳している非常識さに気づかない自称翻訳家(いやプロですらこんな馬鹿げた訳語を選択している人も多い)の〈日本語〉運用能力には、いつも呆れるばかりだ。そもそも英語としての意味を考えたら、「購読」という意味にもなるが、こういう場合は「配信先として登録してもらうよう署名したり届け出る」という意味に決まっているだろう。「購読」という言葉が、〈金銭を払って〉定期的に何かを手に入れることだと正確かつ真面目に日本語として理解し運用する力があれば、翻訳を生業としている人間がこんな訳語を選ぶわけがないのだ。

さて、この著者が note でエッセイを公表していることに気付いたので、幾つかの文章を読ませてもらった。日本で生まれ育った「白人」(嫌な言葉だ)であるとは知らなかったが、ややおかしな表現があるにしても、これだけ日本の文章を丁寧に違和感も殆どなく書けるのだから、其辺にいる8割方の大学生や社会人を遥かに超える日本語運用能力だ。というか、昨日も MD の CHEEPER で書いたように、昨今は政治家の大半が中学生よりも下手な字しか書けない堕落した連中なのだから、どちらかと言えば自称日本人や生粋の日本人とかいう連中が、ほぼ日本の伝統や格式や様式美を受け継ぐ能力や資格を欠いているのだろう。よく言われるように、自分自身に欠けているものをこそ、人は声高に叫ぶものだ。

イギリス人が「騎士道」や「ジェントルマンシップ」を叫ぶのは、彼らが本質的に近世まではヨーロッパの僻地でイモを作るだけの野蛮な田舎者だったからである。中国が「中華」と叫びつづけていたのも、逆にユーラシア大陸というスケール感を知っていて東の辺境地帯にいるという自覚があったからこそだろう。また、「日本」などという当時の中国の皇帝を怒らせた尊称にしても、単なる政治的な駆け引きの道具として考えついた身の程を知らぬ表現だ。現代でも、ありとあらゆる差別が横行する国だからこそ、アメリカでは「自由」だの「平等」だの「民主主義」だのという理屈だけは盛んに研究されているし、それを実現しようと色々な活動が実行されている。フランス人がやたらと高級な文化を喧伝するのも、その裏でさんざん下衆で不潔な風俗やライフ・スタイルを謳歌しているからに他ならない。昔から香水を多用したのはフランス人だが、その理由は風呂に入ると病気になるという迷信があって殆ど風呂に入らない民族だったからだ。

さて、それはそうと上記は著者が東京に移り住んできた経験を綴っている記事である。僕も、生まれは目黒区だし、高校を卒業してから1年半くらいは東京で働いていたことがあるため、もちろんこの国の首都とされる土地とは無関係でもないし、生活していた経験もある。でも、僕は著者よりも更に狭い経験しか持っていないと思う。そして、もういまでは東京で再び生活したいとは全く思わない。それなりの待遇で招かれたら行ってやらなくもないが、「それなりの待遇」だからといって、本当に行くかと言えば分からない。年収5,000万円で社外の〈哲学担当取締役〉になってくれと言われたらともかく(どこかのエロ・アニメおたくよりは仕事をして成果を出す自信くらいはある)、たかだか年収1,000万円ていどで東京へ行くかと言われたら、それはもはや論外だ。年収1,000万円と引き換えに、膨大な数のクソ田舎者と、品性も素養もない単なる東京生まれと、日本しか来るところがなかった無能な外国人が集まる巣窟へ行くかと言われても、それは嫌だ。

しかしそうは言え、個々の土地や個々の人々は他の国や場所と大して変わりない(つまり同じ程度に善良で凡庸だということでもあるが)。ニューヨークに住む方がクリエーティブで知的刺激が多いかと言えば、そんなことは分かったものではないし、実際にニューヨークというキーワードと共に語られる数々のアーティストの逸話なんて、それこそ典型的な生存バイアスでしかない。同じ土地で、いきなり路上で発砲されて野垂れ死んだ社会学者や聖職者や芸術家くらいは公式の記録で数を確かめることはできても、途中で挫折して出ていった者の数など、誰にも分からないほど「多い」というくらいのフェルミ推計はできよう。

そういうわけで、ニューヨークを語ろうと東京を語ろうと、そして僕がいま住んでいる大阪を語ろうと、結局は同じことである。やるべきことをする者は、それに応じた結果を得るかもしれない。しかし、必ず何がしかの成果を得るとは限らず、多くの者は失望したり、あるいは誰かに被害を負わされたりして、その土地を去っていったり死んだりするだろうし、その後は特に大志と呼べるほどのチャレンジは何もせずに平凡な人生を何となく送ったりする。

僕が東京で働いていたときも、そもそも何をやりに東京へ行ったのかも正確には思い出せない。何か確固とした目的がない限り大学へ当たり前のように行くのは嫌だと、親に言ったような記憶はある。しかし、そんなセリフは記憶の捏造なのかもしれない。単に受験勉強が面倒臭いと思ったのかもしれない。いずれにしても、親は特に反対したわけでもなく、実際に東京で部屋を探すときには保証人として母親が(久しぶりの見物がてら)一緒に着いてきて、確か池袋あたりのビジネス・ホテルに泊まった記憶がある。そして、どうやってか不動産屋なり部屋を探して、殆ど部屋の良し悪しを選んだ記憶もないのだが、数日もかからずに板橋区は西台という駅の前にあるマンションでワンルームの部屋を借りたわけである。そして、荷物が届くまで部屋で待っていろと生活費だけ渡されて数日は空っぽの部屋で生活していたのだ。いま思えば、それはつまり実家で両親が荷造りしてくれて、大量の本だとか業務用の富士通 OASYS を発送してもらったということだ。

上記の記事の著者は、生活の他に文化的な催しだとかクラブや酒場の話をしているが、当時の僕にとって東京はデカい古本屋街に他ならなかった。したがって、その当時に勤めていた「デジタルネットワーク株式会社」という雑誌出版社があった神保町(もう当時の会社が入居していたビルすらなくなっている)の周辺が、仕事だけではなく、自分の趣味だとか東京で暮らしている理由にもなっていたわけである。実際、初めて給料を給料袋の手渡しでもらった日には、さっそく当時の岩波ブックセンター(当時は岩波書店のアンテナ・ショップだと思っていた)で何冊も本を買い込んだ記憶がある。思えば、給料の大半を書籍代に使っていて、家賃が足りなくなると親に無心していたことすらあった。しかし、その当時に購入した古本の多くは実家にも殆ど残っていない。いま手元にあるのは、大阪に戻って哲学の勉強を始めてから学部以降に買った本が大半を占めている。社会学を始めとして社会科学の本を買い漁っていたとき、東京ではどんな本を買ったのだったか、わずかな例外を除いては覚えていない。東大の書籍部で買ったルーマンの『法社会学』と、神保町の古本屋で購入したエールリッヒの『法社会学の基礎理論』は、自宅と新河岸川のあいだにある「前谷津川緑道」のベンチで休日に読んでいた記憶はある。しかし、他に読了した本はぜんぜん記憶がない。かといって、その代わりに遊びに行っていたかと言えば、それは全くないのである。当時はスマートフォンどころかインターネットもない。かといって、コンシューマー・ゲームをしていたわけでもない。なぜなら、僕が初めてスーパー・ファミコンやプレイステーションを買ったのは、大阪へ戻ってからのことだからだ。

もちろん、雑誌の編集者であるから、仕事はめちゃくちゃやっていた。最初の数ヶ月はアルバイトだったが、そのうち時給計算だと給料がかかりすぎるためか契約社員の扱いになって、正式にクラシック部門の主任編集者という肩書になった。すると手取りが目減りするわけで、それを補うために CD の短い紹介記事を自分で自分に発注して原稿料を稼いでいたわけである。当時の実勢、要するにバブル時代の予算感だと200字詰の原稿用紙でライターさんに発注すると3,200円という金額だったから、自分で自分に割安の2,500円で発注すれば、原稿の品質さえ担保できている限り、ひとまず会社にとっても悪くないというわけである。実際、会社からも黙認されていた。銀行などの出資者や税務署が〈誰に発注していたか〉を調べる管理会計上の必要がない限り、そういう財務会計的な内容なんて数字の辻褄が合えばそれでいいのだ。なので、本を読んだり遊んでいるどころか、恐らくは自宅でもかなり仕事をしていたのではないかと思う。そういえば、大阪から父親が原稿を送ってきて、ワープロの入力の仕事をやっていたという記憶もあるからだ。父親は、当時は大阪市西淀川区の印刷会社で製版部長をやっていたから、父親からワープロでの入力作業を請け負っていたのである。

音楽系の雑誌社で働いていたため、もちろんレコード会社(もう、こういう言い方も古いな)を回っていた経験もある。版下に使うジャケット写真のネガを借りたり、原稿を書くために参照する新譜の資料をもらうためだ。当時の名称で、東芝EMI、ポニーキャニオン、コロムビア、ポリドールなどなど。同僚が使う資料などを代わりに預かってくることもあったから、もちろんクラシックの CD を発売していないレコード会社にも足を運んだことはある。そして、これは業界人ならよくあることだが、1年半くらい音楽雑誌の仕事をしていて、レコード会社でアーティストに会ったことは、ただの一度もない。こちらから葉山まで行ってインタビューした、当時は新進気鋭の指揮者だった飯森範親氏は例外だ。わざわざ約束して会いに行ったのだから当たり前である。それ以外だと、レコード会社で芸能人に出くわすなんてことは、全く無い。もちろん、彼らの実務を考えたら当たり前のことであり、彼らは別の場所にあるレコーディング・スタジオには頻繁に足を運ぶかもしれないが、レコード会社の本社ビルへ行く機会など殆どあるまい。彼らはレコード会社から給料をもらっているわけでもないし、彼らが印税の交渉をするわけでもないのであり、発売するレコードのジャケットについてデザインを打ち合わせるのも別の場所が多いからだ。なので、こういう業界の人間はいまでも勘違いされると思うのだが、音楽雑誌の編集者でアーティストと付き合いのある人間なんて、そのアーティストを取材して本でも書くという事情がない限り、殆どいないと思う。ましてや結婚した事例なんて、恐らくないだろう(レコード会社の従業員とであれば、どうなのかは知らないが)。

ということで、恐らくは雑誌編集者としての仕事と、実家から委託されたワープロ入力の仕事に明け暮れていたような気がする。たまに休みは読書をして過ごしたものの、それ以外は殆ど仕事をしていて、要するに文化もイベントもヘチマもなかったのだ。そして、どういうわけか当時はワープロにしか興味がなくて、中学時代に使い始めた8ビットのコンピュータは押し入れへしまい込んでしまい、プログラミングに全く興味がなくなってしまったため、会社からは近かったと思うが、秋葉原へ一度も行くことはなかった。

そうして、勤めていた雑誌社が倒産(正確には資金繰りがつかなくなったので、債務超過となる破産手続きよりも先に精算となった。これは、会社の畳み方としては債権者にきちんと返済してから事業を止めているので、善良な身の引き方であろう)したため、当時の社長から次の行き先を紹介しようと言ってもらった。確か、僕がコンピュータに詳しいことを社長はご存知だったので、音響機材や電子楽器の雑誌社だった筈だ。でも、それは丁重にお断りした。正直、僕はやはり聴く側の人間であり、電子的であれなかれ音楽を制作する側の話とか楽器には殆ど関心がなかったからである。そうして、他の出版社を探してみたのだが、『本の雑誌』を発行しているところは面接で落とされ、他にも幾つか当たってみたのだが、そのあいだに考えが変わった。わずか1年半ほどの経験しかないにも関わらず、もう編集者の仕事は十分にやったと思えてしまったのである。もちろん、身の程を知らないにも程があるわけだが、逆に言えば編集の仕事に魅力を感じなくなったとも言える。このとき、コンピュータやプログラミングに再び興味をもつようになって、例えばアスキーの編集部とかに入っていたら、いまごろはどうしていたのだろう。あるいは、親を説得するなり自分で暫く何かの仕事をしてお金を貯めてから、東京で大学に入っていたという可能性もある(それを考えなかったわけでもない。会社の近くにある法政大とか日大ていどの大学なら1年ほど復習すれば合格できると思っていた)。あるいは自宅の近くにあった大東文化大なら、復習せずに受験しても合格するだろうとは思った。でも、その頃には東京で生活すること自体に何の魅力も期待も感じなくなっていたのだ。最後の選択肢が大学への進学であることには違いがなかった。でも、学術研究に携わるということだけなら、どこの大学でも大して差はないので、実家に戻って関西の大学へ進学しても同じことだと思ったわけである。恩師である竹尾治一郎先生、いやそれどころか分析哲学や科学哲学を知ったのも、大阪に戻ってから大学へ進学するまでの間の話だった。なので、どこの大学へ行っても同じであるという理由は、いまから思えば傲慢も甚だしいが、有能な人間は誰に教わろうと同じだというのが本音だった。これはもちろん、たいていにおいて嘘である。史実を丁寧に調べれば、大きな成果を上げた人材は必ず彼らを認めて登用したり指導したり資金を援助した人物がいる。実際、僕にしてもドクター時代のボスであった森匡史先生に認めてもらえなければ、神戸大学の博士課程へ進むなどという(或る意味では)幸運を得ることなどなかったはずだ。代わりに中才先生に大阪市大へ呼んでもらえたかと言うと、いくらヒュームの研究をしたことがあったとは言っても、当時は大阪市大で科学哲学の指導ができる教員は(いまでもそうだが)いないため、僕自身が躊躇した可能性がある。

そんなこんなで、あとは即座に荷物を畳んで大阪へ戻ってきた。それ以外の東京で暮らしていた頃の思い出なんて、ほとんどない。住んでいた近辺でも、マンションの管理人くらいしか人間関係はなかった。実際のところ、西台という街は日中でも休日でも殆ど人通りがないし、食事場所でもコンビニエンス・ストアでも、他に客が大勢いた記憶がない。本当に人が住んでいる街なのかと疑うほど、賑わいというか人の気配がないところだった。確かに、雑誌の編集者なんて生活時間帯が滅茶苦茶だから大半の住人と外出する時刻がズレているという可能性はあるが、それでも休日くらいは人が外に出ていてもよさそうなものだ。荒川あたりまで歩いていっても、なんだかアニメに出てくるような〈破滅的な厄災後の原風景〉といった印象が強い。人が生活している気配のない、まったくアニメに描かれたような気色悪い街だったと言っていい。なので、いま暮らしている人々には失礼な話だと思うが、1年と少しで離れたのは良かった気もする。恐らく、そのままいたら病んでいた可能性だってあろう。

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