Scribble at 2024-09-26 18:11:34 Last modified: 2024-09-26 20:54:27
教科書や参考書を手がかりにしてノートを作るという作業は、だいたい進学校に通っていれば小学生の頃からやるものだが、こういうことは教師も親もきちんと教えないか、教えるべきだという自覚すらないか、あるいは教えるような知見や見識を持ち合わせていないために、かなり自己流が横行している。そのため、ノートの作成について一目置かれていた僕から見ると、友人のノートの取り方については色々と言えることがあった。
一つだけご紹介すると、ノートというものは、そもそも自分自身が勉強する(した)内容を記憶だけではなく理解においても正確あるいは明確にするための道具であって、書いたままで保存すればいいだけの日記や帳票のようなものではない。活用しなければ、そんなもの何時間かけて書いても意味がないのだ。ノートを作って書き表すという行為や、その間に必要となる認知プロセスにも学習へ寄与する効果があるのは確かだが、僕が思うに教育心理学者は「文字を単に書く」とか「自分の言葉で説明する」という作業にまつわる学習効果を過大評価しすぎる傾向があると思う。特に後者は、自分の言葉で言い換えるという認知プロセスに過大な効果があるというなら、そんなこと授業中に教師の話を聞きながらでも心の中でやれるはずだ。そんなことにそれほど効果があるというなら、ノートを取る必要などあるまい。
そして、道具としてのノートであるから、自分が何事かを理解するために役立てることが第一の目的であって、自分が既に理解していることを不必要なほど細かく丁寧に記述する必要はないし、それは道具としてノートを活用するにあたって邪魔な記述になる。その典型が、参考書や教科書などに登場する具体例や喩え話をノートに記入するという愚行である。その具体例や喩え話で、本当にその項目を理解できたのであれば、もうそれ以上に分かりやすくノートを取る必要はないのであって、自分にとって不要な筈の具体例や喩え話を改めてノートへ記述するのは無駄でしかない。しかし、丁寧に美しく良くできたノートという表面的なことにばかりこだわると、タイポグラフィでもその手の無能なデザイナーが多いわけだが、本質を見誤ってしまい、本来のノートの役割を低下させてしまう。そして、表面的には勉強したつもりになっていても、効率の悪い無駄なことをやっていることに気づかないという自己欺瞞へ陥る。親や教師は、子供をそういう錯覚から救い出す役割を負っている。寧ろ、そのために自らが勉強するべきだとすら言える。