Scribble at 2022-08-30 20:12:12 Last modified: 2022-08-30 20:34:35

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当日になって、団体客から草津駅で2人を乗車させたいと依頼を受けたという。しかし草津駅に到着後、乗車予定者は姿を現さなかった。電車は連絡や確認のため約4分間停車。その間、付近の踏切が遮断されたまま、乗客の鉄道愛好家が車両から降りて駅や列車を撮影した。

貸切電車でトラブル、踏切を長時間遮断 鉄道愛好家が降車して撮影…広島電鉄が謝罪

僕は小学校の4年生くらいで短い間だけだが鉄道少年だった時期がある。写真も撮ったし、近鉄奈良線の沿線にある駅の時刻表を集めたり、記念切符も買っていたし、線路の敷設にかかわる土木工学の本とかも買って、分からないながらも面白がって眺めていた記憶がある。高額な資料本も買ったし、『鉄道ファン』を始めとする雑誌も購読していた。そういう経験があって思い返してみると、ファンとか愛好家というものは、確かに傲慢なところはあるし、視野狭窄に陥る恐れもある。まるで鉄道ファンのために鉄道という産業や鉄道会社があるかのような妄想にとらわれる。

しかし、それはもちろん妄想にすぎない。原則として鉄道という事業は鉄道ファンなど宇宙に存在しなくても事業を継続できて当たり前だし、そういう経営をするべきである。これはあらゆることに言える。哲学は、思想おたくや哲学のファン(意味は分からないが、たぶん哲学者の写真集を買ったり、京都のどうでもいい通路を面白がって歩くような連中だろう)など完全に無視して遂行するべき営みであるし、その手の「客層」を相手にすることが前提の売文出版社と付き合うのは、学者としてくるくるパーになる主原因である。

よって、かような事業をやるしかなくなる鉄道会社なんて、地元の交通機関としての役割が著しく低下するか無くなったのであろうから、即座に自治体や周辺の住民と協議して第三セクターの事業へ転換したほうがよい。車窓からの眺めがどうのこうのとか、走ってる車両を眺めるのがどうのこうのなんていうのは、しょせん安物のノスタルジーにすぎない。そんなことで経営がなりたつほど事業というものは甘くないし、そういう牧歌的なコメントを弄して鉄道を守るなどと言っている人々に限って、殆ど列車に乗ってなかったりするのだ。だいたい撮り鉄なんて、撮影スポットまでは数多くの機材を載せた自分の車で行ってたりするんだよね。

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