Scribble at 2023-11-10 11:58:14 Last modified: 2023-11-10 12:05:29

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ここでは僕が読了して、お勧めできる本にはリンクを付けてある(Amazon ID は削除してあるから、アフィリエイトの意図はない)。しかし、読了しなかった本だとか、明らかにこれは読むべきではないと思える本にはリンクを付けていない。本書も、読了しなかった一冊だ。先日、心斎橋の BOOK OFF で見つけて読んでみたのだけれど、さきほど読み始めてみると、20ページくらいで降参した。とても文学作品とは思えない、まるで安物のテレビドラマの脚本みたいに思えたからだ。こんなのがアメリカで何かの賞を受けたというのだが、よほど英語への翻訳が巧妙だったのだろうか。

まず、敢えてこんな表現を使った何らかの意図はあるのかもしれないが、「その悔いは、十年後のあの日に、矢となって心を射抜き、今も突き刺さったまま、抜けることはない ――。」という、いかにも気取った文学少女が書きそうな、あたしの言葉って洗練されてるでしょ的な表現に強い違和感を覚えた。青学とかで学んだ、かっぺの文芸評論家とかが書く文章の典型だ。(だからこそ福島出身の主人公にそう語らせたのだというのは、好意的な解釈に過ぎるであろう。)

次に違和感を覚えたのは、「右の、白いカーディガンを羽織った老女が、『一応写真持ってきたわよ、見る?』と黄色い布バッグの中から、小さなアルバムを取り出した。広げて見せたのは、三十人ばかりの老齢の男女が三列に並んで写っている集合写真だった。」という一節だ。この主人公は、ここまで詳細で具体的な描写ができるほど、その写真をどこからどう眺めていたのか。彼女らと距離を置いた正面や斜め横から見ているなら、当たり前だが逆向きに広げられたアルバムなんて何が貼り付けてあるのか分かるわけがない。会話は聞き取れているくらいの距離だとしても、アルバムだとか、同窓会らしき様子が写っていることは想像できても、三十人ばかりの老齢の男女が写っている集合写真であるとまでは描写できないだろう。では、彼女らが眺めている写真を自分も眺められる背後から見ていたのだろうか。しかしそれはありえない。なぜなら、その前の箇所に書かれているように、二人は「桜木亭の前の木のベンチ」に座っているからだ。桜木亭の中にでもいない限り、二人を背後から眺めることはできない。

そして、写真というキーワードから続く、主人公の不自然な自分語りが決定的だった。なんでそんな話を、誰かに聞かせる状況でもないのに、詳細に語り出すのか。しかも、その語り方が何かを思い返しているというよりも、演劇のト書きみたいな調子なのだ。よく、漫画やアニメで「駄作」と言われるような、ストーリーの冒頭で現在の状況を文章で解説してしまうような体裁である。他にも、随所に出てくる稚拙な三点リーダ(…)やダッシュ(―)の使い方も、はっきり言って読んでいて失笑してしまうほどだった。もう耐えられない。

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