Scribble at 2024-04-02 19:45:07 Last modified: 2024-04-02 19:56:28

アマチュアが運営する考古学や古代史のサイトとして、なにかしらの特徴を考えている。その一つとして、史跡や博物館のサイトでは殆ど皆無と思われる、歴史の哲学に関する解説だとか、既存の複数の学説を比較して批判するといったコンテンツが望ましいだろうと思う。

哲学とまでいかなくても、ごく基本的なところですら議論したり解説できること(そして、なぜか一般向けには「難しすぎる」とか「興味をもたれない」などと思い込まれて敬遠される話題)はたくさんある。たとえば、ご承知のように歴史学上の説明というものは、英米系の哲学ではバーリンやダントーの著作で展開されている議論でも分かるように、古い著作物の議論が必ずしも新しい著作物の議論と比べて劣っているとか間違っているとは限らない。その理由は、やはり大半の歴史の説明というものは多かれ少なかれ著者の想像や予備知識や推論(ときとして妄想や個人的な憤り、正義感)などによって、何を考察や議論のリソースとして許容するかという与件の選別に始まって、それらの解釈と、解釈の成果から導かれる結論に至る経路に色々な要素が影響を与えているからである。そして、それらの影響は、実際の著作物で不足も重複もなく列挙されているとは限らないのであって、場合によっては著者が見聞きした経験だとか、たまたま廊下で同僚や学生らと話した経験が影響を与えている可能性だってある。そして、そういう情報とかアイデアとか考え方というものが、まさしく時代あるいは時と場所という制約のない「哲学的」と言ってもよいものであれば、それが次世代あるいは後世の研究者に数多く保有されているとは限らないし、後世の研究者がそういうものに遭遇したり思い当たるチャンスを数多く持っている保証などない。

逆に、時代を下るほど過去の成果を軽視する傾向にあり、もしかすると古い著作に含まれている優れた推論とか着想、つまりは子供を湯水と一緒に洗い流してしまっている可能性があるのは、どの分野でも同じであろう。科学哲学においてすら、たとえば Carl Gustav Hempel の説明理論を Aspects まで手に入れて読もうなんて人は非常に少ないし、それどころか過去の古典的な哲学者の著書を無視することが「現代的に洗練された、過去にとらわれないスタンス」として学生のあいだでトレンドになることすらある。もちろん、それは必ずしも「悪い」ことだとは限らない。要はどういうトレンドにあろうと学者は業績が全てなのだから、ウィトゲンシュタインを1行も読んでいなかろうと優れた業績を上げることはできるわけだし(もしそんなことが必要条件であれば、ウィトゲンシュタインが『論考』を書く前の哲学者は、プラトンであれデカルトであれ、どう評価されることになるのか)、誰か、あるいは何かを読んでいるとか読んでいないということに、何か特別な意味があるといった、僕に言わせれば「学術的センチメンタリズム」と言ってもいいようなものは、いくら学問が分業であり、他人の業績や著作物に多くを負っているという事実があるとしても、やはり哲学に携わっている者であれば慎まなければいけない。

著作物一つで、あなたのセカイは変わるのかもしれないが、世界にとってそんなことは無関係である。僕は、このていどには実在論者である。

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