Scribble at 2022-01-19 22:23:44 Last modified: 2022-01-19 22:28:00

デジタル・アイデンティティについて調べていた数年前には、いわゆる "daily me" とかパーソナライゼーションやフィルター・バブルの弊害とか、そういった話題にも関心を持っていた。もちろん、いまでも一般論としては無視するべきでもないのだけれど、しかしだからといって、こういう話題を取り上げて情報収集における「視野狭窄」とか「多様性の欠如」を過剰に叫ぶのは、やはり健全ではないと思う。それは、逆の方向に舵を切りすぎた偏執的な態度だと思う。

誰だって、自分が生きるうえで関係のない余計な情報なんてほしくない。そして、それが本当に自分が生きるうえで関係があるのかないのかなんて、実際のところ誰にも分らない。それゆえ、視野狭窄によって色々なものの考え方とか脈絡があることを無視しては公平で正しく考えたり理解できなくなるというわけで、可能な限り多くのリソースに接する〈べきだ〉として、パーソナライゼーションやフィルター・バブルを避けよと提言してきた人々がいたわけである。

しかし、ものごとには限度というものがあり、その最も明白な限度は、物事の是非を取捨選択するだけの知識や関連情報や知能における限界だ。そしてさらに重大なことだが、人には誰しも時間という限界がある。多くの人が生きていて、多くの判断基準とかものの見方があるというのはわかるにしても、それを公平に知ったりフォロー・アップし続けるために、いったい平均的に言って人はどれだけの時間や労力を使えるというのだろうか。これは、安楽椅子で物事の是非を(或る意味では哲学者よりも)気楽に論じる社会学者や IT ジャーナリストたちの享楽的な暇潰しの思弁やルーチン・ワークとは違って、誰にとっても切実な話でありうる。

たとえば Facebook や Twitter には、夥しい数の広告とか、フォローさせたいアカウントの紹介とかが表示される。表示されるたびに、次々と他人をフォローしてゆく人なんていないだろう。また、表示されるたびに、成金が金をばらまくのであれ、あるいは一獲千金の情報商材詐欺とかサイバー内職の詐欺だと分かっていても、「多様性」とかいう利いた風な価値のために、広告をクリックしたり、FXで10億円を稼いだと称する(しかし納税証明を公表した者など一人もいない)小僧のアカウントをフォローしたりするべきだと思う人もいまい。そして、実は大半の人にとって「パーソナライゼーション」とか「フィルタリング」というのは、せいぜいそういうクズどもをオンラインのプレゼンスとして消去することでしかないのだ。これのどこか「不健全」だというのか、僕にはさっぱり理解できない。馬鹿や犯罪者の発言や広告を善良な市民としての個人が無視したところで、いったい社会にとって何のリスクがあるというのか。ただ単に「価値観の(いわば無条件の)多様性」とかいう、正当なのかどうかの論証すら存在しない記号列に、ハーレムの取り巻きみたいに付き従って侍っている社会科学者のプライドの問題にすぎまい。

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