Scribble at 2020-04-01 18:07:45 Last modified: 2022-10-03 08:56:23

平日は6時45分に起床してから、朝食を用意してもらうまでのあいだ、2月1日からずっと高校数学 I, A の復習をしていた。もちろん日曜や祝日は、もっと遅い時刻に勉強するのだが、なんにせよ例外なく日課としてノートを取り続けて完了したのが、今日の朝であった。そして、明日からは数学 II, B に加えて、この I, A のノートに別の参考書を読んで補充しながら、復習の再復習を並行してやっていく予定だ。

実際、こういう短期間ごとに反復する勉強が最も効果的であることは、随分と昔から知られている筈なのだが、これを体系的にやる学校が少ないのは、やはり学校教育の基準を作る文科省が、ロクに復習などしなくても良かった受験秀才ばかりだからだろう。もちろん、学校教育の手法は「天才」と呼ばれる人に任せてはいけないのだが、かような受験秀才も適任ではないと言っていい。なぜなら、何の苦労もなくわかった人間には、わからない人間にとって《何がわからないか》ということが理解できないからである。

しかし、わからない人間が自分にとって何がわからないかを正しくわかっているとは限らないというのが、この問題の難しいところだ。しばしば、高校時代に劣等生だったことを売り物にして勉強の本を書いたりする人がいるのだが、実際には殆ど汎用性がない、ただの個人的な経験談にすぎないものも多い。

思うに、《わからない》ということの理由は、その人の理解力がないとか、あるいはいまだに僕には意味不明なのだが、その人の「頭が悪い」せいだとは言えない場合が多くある。寧ろ、その人が正しく論理的な推論に拘るがゆえに、その根拠や推論が適切に示されていないということが原因になっていることがあるのだ。意外に不良少年が口達者だったりするのは、実のところ彼らの方が多くの大人よりも合理的で知性があるからだという皮肉な理由があったりするのである。

そして何度か紹介したように、人を合理的な思考から遠ざける一つの元凶は、「論理的な思考」が生徒に求められると称して販売されている、数学の参考書や演習書なのである。こう言ってよければ、数学の教科書や参考書の多くは、論理的な思考をする生徒にとっては、夥しい数の飛躍した推論や、仮定が欠落した証明や、未定義の用語を振り回す、紙クズである。

(たぶん数学が得意という人々は、チェバの定理やメラネウスの定理を証明すらしないだろうし、証明とされている多くの参考書でも、辺や三角形の比を分数にして表すところまでは書いているものの、その「分数の分子と分母を打ち消したら答えが1になる」という演算を説明するところまでは書かないものである。)

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