Scribble at 2021-07-14 17:10:22 Last modified: 2021-07-15 17:25:28

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本日は、直木賞と芥川賞の選考会議があるという。以前に、まぁ失礼な話だとは思うが、半年ごとに直木賞作家や芥川賞作家が生まれているというのに、世の中には彼らの(受賞作はともかく)後の作品が殆ど知られていないような気がすると書いたことがあって、要するにこうした文学賞のバブルみたいなもので下駄を履かせてもらった一発屋たちの出現は、これ自体が「読書離れ」や「書籍離れ」に比例して続々と実行されている業界のドーピングではないのかと言ったことがある。

しかし、もちろん丁寧に調べたら実情は〈少しは違う〉と思う。有能な作家と優れた作品揃いだった、などとはぜんぜん思っていないし、その逆にドーピングを目的に受賞を名目として宣伝されているだけの駄作揃いだとまで言うつもりはない。実際、僕が見ている限りでは、ブッカー賞を受けた作品の翻訳でも、その多くが絶版になっているし、確かにブッカー賞の受賞作でもつまらないものはあるが、読む価値のある作品が埋もれてしまっているという事実も理解できた。そして、芥川賞や直木賞の受賞作品や受賞後の作品にも興味深いものが色々とあることは、少しは分かった。

したがって、チャンスがあれば多くの作品を読んでみたいとは思う。高校時代に『ザ・龍之介』とか『ザ・漱石』とかを友人らと読み回していた経験はあったが、学部時代から博士課程を出て就職するまで、ほぼ文学作品というものを意図的に無視していたのは、もちろん露ほども後悔してはいないが、やはり露ていどの後悔はある。それゆえ、いまでは機会があれば露ていどの割合で読んでいる。ただ、僕は文学作品を読むために会社で働いているわけではないし、直木賞作品を読まずに直木賞について語るのは正しくないと誰かに批判されるような人物として死にたくないがために作品を読むわけでもない(恐らく、文学作品を読む人の大半も同様だろう)。よって、寿命が5億年くらいあって資産が1兆円ほどあるなら全ての作品を単行本で買って読み漁ってもいいが、上場企業の平均年収にも届かない中小企業の部長職で、しかも学術研究の成果という本懐があるというのに、たかが東アジアの僻地で実施されている賞について〈正当な批評〉をするためだけにお金や時間を費やす必要があるとは断じて思えない。僕らは、凡人であればなおのこと、ものごとを断定するしかない制約に置かれているのみならず、消費者として断定する〈資格〉があるのだ。よって、文庫本なり古本で読める方がいいし、別に直木賞や芥川賞の受賞作品を全て読む必要があるとも思えない(もちろん最初から興味のない作品を読むつもりもない)。

なお、僕が冒頭で書いたような「マーケティングのためのドーピング」といった批評については、予想通り業界人が上記の画像で示したような感想を書くわけである。もちろんこれはこれで正しいが、何事も経験しなければ判断してはいけないなどと言っていては効率的な生活や仕事なんて全くできなくなる。効率こそが唯一で最高の尺度だと言っているわけではないが、かといって「読んでから言え」という理屈は、読ませることで金を儲けている側の人間が言う場合、もっと慎重になる必要がある。そして、一般大衆にはその凡人としての習性から言って、物事を見かけや印象や先入観で断定してしまう傾向があるのは仕方のないことであり、直木賞作品を全て読んでから直木賞について語れと言わんばかりの〈論理的に正しい恫喝〉を利害関係者が言ったところで、正しすぎるがゆえに誰も説得できない。正しいからといって、他人を説得できるとは限らないというていどのことは、ごほんをよむのがだいすききなきみたちなら、おとなになるまでにりかいしておこうね。

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