Scribble at 2023-01-02 09:46:15 Last modified: 2023-01-02 23:30:02

「時代」と呼ばれている歴史上の区分は人為的だし、或る意味では不自然でもあり、一部の区分は不合理とすら言える。しかし、他にやりようがないという事情で採用されている区分がある。僕から見て「古墳時代」と呼ばれている区分は、不合理とまでは言えないにしても、相当に疑わしい区分である。もちろん、大半の考古学のプロパーはそれを最低でも学部時代には教えられたり、まともなレベルの学生は自分で思い知るか考え出すことと思う。プロパーでない僕ですら中学時代には強い違和感を覚えていたくらいだ。

もちろん、プロパーなら常識だと思うし、義務教育を終えた人の多くも知っていると思うが、古墳時代とは古墳を造営していた時代であり、これがどれほどバカげた同語反復に見えても、実は学術的に言ってすらこれ以外の定義はない。僕が所持している『日本考古学小辞典』(ニューサイエンス社、1983)には「古墳により特徴付けられる時代をいう」とある。しかし、更に調べると「古墳」が何であるかも実は明解な定義がないし、弥生時代にあたる大型の墓だとか、丘陵の斜面につくられた横穴墓を含めるかどうかで意見の相違があるため、仮に上記の定義を許容したとしても正確にいつからいつまでとは言えない。もっとも、元号で区分される時代を除いては、もともと正確な区分などできようもないし必要すらないだろう。

何事かをいつからいつまでと区分したりひとまとまりの出来事として把握するときでも、それが正確に言って何年何月何日の何時何分何秒から始まって、何年何月何日の何時何分何秒に終わるのかは、たいてい分からないし、年が正確に言えるとしても人為的な決め事に拠っていたりする。その典型が元号による区分だ。現在は「令和時代」となっているが、もちろん元号を使う法令と関係があっても、そう呼称しなくてはいけないという決まりはない。また、研究の進展なり学界のコンセンサスが変わることによって、従来の区分が変わることもあるし、別の年に改定されるというよりも、寧ろ「~年頃には」などと幅のある表現になることだってあろう。僕らが子供の頃は、「鎌倉幕府の成立」と言われれば「いいくに(1192年により)つくろう、かまくらばくふ」などと学校で暗唱させられたものである。しかし、現代の小学生は1185年として教わっている筈である。よって、年がはっきりしていようといまいと、どのみち時代区分は人為的なものである。

これは、年の移り変わり、なかんずく時代などというものが人々の暮らしを決定しているわけではないという明白な事実から分かる。2023年の1月2日にあって、二日前の大晦日から僕らは何か生活を変えただろうか。もちろん年を変えて社会的な身分が変わる辞令を受けている人もいるだろうし、1月から新しい職場で仕事を始める人もいるとは思うが、大半の人は何も変わらない筈である。また、今年の5月になると平成から令和に替わって4年が経過したことになるけれど、「令和時代」と言われて何か特筆するべき出来事が・・・まぁ新型コロナウイルス感染症の流行は大きな出来事だが(ロシアの軍事侵攻は実質的にクリミア半島を奪取する前から始まっていたので、歴史を知っている人にとっては急な出来事ではない)、元号で区分された時代と重なっていることは単なる偶然である。要するに、僕らの生活を見ても言えるように、スメラミコトの代替わりは基本的に彼らの事情であって、僕らの生活や国政とは関係がない。元号が変わる前と後で、僕らの生活や考え方が劇的に何か変わるというものではないのだ。

同じく、弥生時代から古墳時代への移り変わりも暫時的な推移であって、いきなり「古墳」が作られたわけでもなかろう。また、最初の古墳が何であったかも特定できるとは限らない。もしかすると中国あたりからやってきた人々の知恵も採用して、同時期に複数の個所で作ろうというプロジェクトが進行したかもしれない。なんで最初の一つを必ず作ってから他に似たものを作らないといけないのか。流行のビジネス本でも言われる "first penguin" のような第一または最初の人物や計画が必須であるという強い理由は、僕には思いつかない。"first penguins" がいたっていいではないか。必ずたった一人が新しく奇抜なことをやらないと後が続かないなんて、ヒーロー漫画の読み過ぎだろう。

また、教科書でお馴染みの「弥生式土器」も、実際には改変と改良を重ねて土師器というスタイルに移り変わっていったわけである。いきなり全国または特定の地域で人々が一斉に同じことを始めて、過去の習慣やスタイルを放棄してしまうなんてことは起きないだろう。チーズ蒸しパンに衝撃を受けたからと言って、餡パンやシナモンロールやトーストを食べなくなるなんて人はいまい。もちろん、全国で一定の時間をかけて弥生式土器がすっかり作られなくなるには、それなりの重大な欠陥なり短所という理由があったのだろう。それはそうだとしても、いまだにファクシミリを使い続ける会社や役所があるのと同じで、いかに新しい技術が優れた特徴なり性能を示そうと、それまでやってきたことを簡単に止める(止めて新しい技術を習得できる)人は一部である。

よって、古墳時代と言われる頃であっても、弥生時代の風習や考えや技術を保ったり、あるいはアップデートできなかった人々もいたはずだ。いまでも受け付けの女性社員に軽くセクハラ発言してから出勤するような「昭和オヤジ」がいるのと似たような話である。

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